Einsame Menschen (3)

帝国暦472年5月17日

帝都におけるオーベルシュタイン家の屋敷は、皇宮の西苑から6キロほど離れた高級住宅街に位置する。オーベルシュタインは故郷を出て帝都の幼年学校に入学した際、この屋敷に居を移した。帝都へ移るにあたっては、養育係であったラーベナルト夫妻がそれぞれ執事と家政婦として年少の主人に従い、以来夫妻は、主人が外出許可を得て寮から戻る週末のため、この屋敷の居住性と快適性の維持に努めている。

 

この日、オーベルシュタインは、2階の書斎でラーベナルト夫人・ヘルガの報告を聞いていた。ヘルガは昨日までの5日の間、クラヴィウス子爵邸に赴き、子爵令嬢の嫁入り支度を調えてきたのである。クラヴィウス子爵夫人の求めに応じてのことであった。ヘルガは、「なぜお母君がお支度なさらないんでしょうね」、と首をかしげて出かけて行ったが、得心がいった様子で帰って来た。クラヴィウス子爵夫人は令嬢の継母であって、今般の婚儀には一切の干渉を拒絶しているのだという。ヘルガは子爵夫人への挨拶もかなわなかった。いくら継母とはいえ、娘の嫁ぎ先の使用人を呼びつけておいて面会もしないとは、いささか礼を失している。

オーベルシュタインはヘルガから受け取ったクラヴィウス子爵令嬢の写真帖と身上書を開きもせずに、机の端に置いた。そばに控える執事が、中を見ないのか、というような顔をしたが、主人はそれを無視した。

「ご令嬢はとても可愛らしい方でしたわ」

婚約者に対する家政婦の感想にも、主人は無表情にうなずいたのみである。家政婦のほうは、もし問われたなら話したいことが山のようにあったので残念でならなかったが、使用人の分を守って口をつぐんだ。

 

クラヴィウス家の屋敷は、帝都から約250キロ離れた高原地帯にある。中央棟に東西の翼が配された広大な邸宅であるが、あまり手入れが行き届いた様子ではなかった。

ヘルガが通されたのは日当たりの悪い薄暗い部屋で、主人の婚約者はそこにひっそりと佇んでいた。令嬢の足元に寄り添う大型犬がヘルガのほうに首を伸ばし、くんくんと鼻を鳴らした。

「ごきげんよう、ラーベナルト夫人フラウ・ラーベナルト」

美しい少女であった。

手足が長く、ほっそりとした長身の持ち主である。若様と並べばきっとよい釣り合いだ、とヘルガは思った。灰色がかった黒髪が小さな顔を縁取り、明度の高い青碧の瞳からは内省的な人柄が感じられる。存在感が希薄な、日陰で小さな花をつける植物のような印象の人であった。

令嬢の周囲には時が沈殿していた。ここでは数十年前に流行したドレスの型がいまだ現役のようで、令嬢の恰好もやたらと古臭い。ヘルガはドレスをすべて新調していただこうと心に決めた。 最近、急に痩せた体型がもてはやされるようになって、仕立て屋のショーウインドーも、商店に並ぶ既製服も細身のものばかりになった。婦人雑誌はダイエットの記事であふれかえっている。 流行の装いをなさったら、きっと映えるに違いない。

令嬢に仕える者たちも、また年寄りばかりであった。いつも半分寝ているかのような家庭教師、口うるさい教育係の婦人グヴェルナンテ、それに膝を悪くして座ってばかりいる小間使い。3人ともそろって七十を過ぎていると思われた。

未来のオーベルシュタイン家の若奥様を、ヘルガは興味深く観察した。令嬢は身のこなしも、言葉使いも、帝国公用語の発音も、完璧なまでに貴族的でありながら、あまり貴族らしくない人であった。使用人に対し何かを命じるということがないのである。身の回りのことも、犬の世話も、ほとんど自分でやってしまうようだ。教育係からがみがみと小言を言われても、小間使いがぶつぶつと不平を鳴らしても、黙って言わせてやっている。時折静かな微笑みを口元に浮かべる以外は、感情を発露するということがなかった。

婚礼を控えた娘ならばもっと浮き立っていてもよいだろうに、自身の嫁入り支度についても、

「万事、ラーベナルト夫人のよろしいように」

と言って、ヘルガに全権を委任してしまった。おかげで支度は滞りなく進んだ。すべて、ヘルガの一存で決めたようなものである。

――やっぱり、うちの若様との結婚がお気に召さないのかしら。

ヘルガの胸中は複雑である。オーベルシュタインの目のことを考えれば、ヘルガの若様が世間で決して理想の結婚相手ではないことは承知している。だが、オーベルシュタインは子爵家の法定推定相続人である。学業優秀で、将来有望な士官候補生である。明朗な性格とは言いがたいが、思慮深く、自制心もある。細面の貴族的な顔立ちであるし、物腰も貴公子然としている。背だって高い。

もちろんヘルガには、長年仕えてきた若様に対してかなりの欲目があるのだが、実体とそれほど離れているわけでもないはずだ。彼女は、せめて若様の為人をお尋ねくださればよいのに、と思わずにはいられなかった。

 

クラヴィウス家に滞在して4日目、朝から雨か降り続いた日のことであった。ヘルガは、居間兼応接室というべき一室に入ろうとして思わず足をとめた。そこには、一幅の静物画のような光景が広がっていた。

雨音の響く薄暗い部屋の中、大きな張り出し窓の窓座に腰かけて、クラヴィウス子爵令嬢がじっと手元を見つめている。手の中にはヘルガが持参したオーベルシュタインの写真があった。その青碧の目に、救いを求めるような切実な光があって、ヘルガは胸の詰まる思いがした。いつも令嬢のそばを離れない犬が手元をのぞき込むようにすると、令嬢は犬に何かささやきかけて、写真を見せてやっていた。

「フラウ・ラーベナルト、このだけはどうしても連れて行きたいんですの。若君はお許し下さるでしょうか」

それが、子爵令嬢が示した唯一の意思だった。

 

「犬?」

ヘルガはメモに目をやりつつ、Altenglischer Schäferhundアルトエングリシャー・シェーファーフントという種類だと説明したが、オーベルシュタインには何の理解の助けにもならなかった。彼は実家の城で飼われている猟犬の種類もよく知らない。

「そちらのお写真に、ご令嬢と一緒に写っていますわ」

ヘルガは脇によけられた写真帖を指した。執事がまた、写真を見ないのか、というような顔をし、主人は再度それを無視した。

彼自身、特に異存はない。犬は好きでも嫌いでもなかった。ただ、令嬢は侍女も伴わなければ、オーベルシュタイン家で人を増やす必要もないと言っているのだという。そこへ犬を連れてくるとなれば、執事夫妻、とくに家政婦の負担が増すのは自明である。だが、そのヘルガが、ぜひ承知なさるべきだと熱心にすすめたので、オーベルシュタインは同意することにした。

 

ヘルガが食事の準備のため退室すると、オーベルシュタインは解放された気分で肩の力を抜いた。帝国数学会発行の最新号の学会誌を書斎机に広げ、数式処理システムを立ち上げる。数学は彼の数少ない趣味である。学友には変人扱いされるが、数学の厳然として公平な世界が、彼は好きであった。

執事はコーヒーを入れつつ、遠慮がちに主人に声をかけた。

「若様」

「ん?」

「ご経験はございますか? その…、女性と」

オーベルシュタインは執事の顔を一瞥し、学会誌を脇へよけた。顔をそむけ、組んだ手にあごを乗せる。

システムの起動完了を告げる軽やかな音楽が無神経に響いた。

「…ない」

青年らしい葛藤を伴って発せられた言葉を、年長の執事はある程度予想していたようで、何の感想も表情に出さずに主人の前にカップを置いた。

「手ほどきを、受けられますか?」

コーヒーの湯気が立ち上る先を、冷たい義眼が追った。

「……令嬢は誰かと練習をするかな」

本気なのか冗談なのか測りかねる口調であったので、執事は一瞬言葉に窮し、気を取り直したように常識的な推測を述べた。

「それは、ございませんでしょう」

「…そうだろうな」

娼婦相手に経験を済ませるのは、階級の別なくよくある話である。そう堅苦しく考えることはないのだ。だが執事は、主人の潔癖で融通のきかぬ性格をよく承知していたから、それ以上は何も言わず、一冊の本を置いて下がった。

閨房に関する本であった。これで勉強せよということらしい。ぱらぱらとめくってみれば、微に入り細に入り、いかにも生々しい。

前書きは語る。

『男女の交わりとは、互いの愛情を深め、絆を確認し、信頼を高める行為です。円満な家庭を営み、遺伝子を後世に伝えていくために不可欠なものでもあります。…』

――愛情、絆、信頼…。遺伝子…。

オーベルシュタインは重力に引かれるように机に突っ伏し、閉じた本の表紙を人差し指で何度もはじいた。肺の底から息を吐いて目を開けると、ヘルガが置いて行った写真帖が視界に入った。

平面写真である。婚約者だという人は、大きな張り出し窓のある部屋で、不安げな表情を浮かべて立っていた。足元に伏せた犬は想像以上に大きく、全身が長い毛で被われている。

 

フランツィスカ・フォン・クラヴィウス

帝国暦455年10月23日生まれ 満16歳

父 ステファン・フォン・クラヴィウス(帝国子爵)

 

父親のクラヴィウス子爵はこの2月に逝去している。酩酊して真冬のエルベ川に転落したのだという。

この縁談を仲立ちしたのは樫之木館アイヒェンバウム・ハオスに住まう退役大将だと聞いていたが、あるいは父親を亡くした令嬢の弱みに付けこんだものかもしれなかった。

オーベルシュタインはこの時はじめて、父に命じられるままにこの結婚を承諾したことを後悔した。これまで彼は、これをどこか他人事のように感じていて、自身が一番の当事者であるという意識が甚だ薄かったのだ。

――私の目のことを知っているのだろうか。

自分のような者のところに嫁ぐことになったこの人を、ひどく気の毒に思った。

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