Das Spiel vom Ende der Zeiten (2)

新帝国暦3年7月20日

フェザーンの高級住宅街にある高層マンションの一室である。

「こちらにご署名いただけますかな」

オーベルシュタインは、フランツィースカ・ヒョードロワ夫人を訪ねていた。差し出した書面には、VERTRAULICH機密の印が押され、ルビンスキーの逮捕にかかわる情報提供の経緯が記されている。

それは、軍の公式文書であった。国事犯を捕えるために情報提供者と接触をした。そういう形式を整えておかなければ、軍人としてのオーベルシュタインの一分が立たぬ、ということである。一部例外を除き、機密文書は30年の間、非公開とされる。

「夫人が気にかけておられた、エルフリーデ・フォン・コールラウシュの件ですが、私自らドミニク・サンピエールに尋問をしました。コールラウシュの行方については、知らぬと供述しております」

「知らない、と」

「おそらく虚偽でしょう」

オーベルシュタインの見たところ、ルビンスキーの情婦は消えた女の行方を知っているし、それを保護し続ける意思を有している。

「ドミニク・サンピエールの身柄は、現在も軍が確保しています。フェザーンに連行することもできますが、我々としては、もはや彼女の証言を必要としません。釈放したほうがコールラウシュのためにもなるでしょう。これ以上の追及は不要ではありませんかな」

夫人は一度瞳を伏せ、何か思案するふうであったが、やがて安堵の微笑みを浮かべて書面に名を書き入れた。

そして、書類をおさめて立ち上がりかけたオーベルシュタインを制し、「お見せしたいものがありますの」と言って姿を消すと、一通の封筒を手にして戻ってきた。義眼の焦点がテーブル上の白い封筒にピタリと合ったまま、固定された。その宛名書きの特徴のあるFの書き方に、切ないほどの見覚えがあった。

妻フランツィスカの筆跡に間違いない。夫人は「どうぞお読みください」と、その娘にそっくりな声で促し、席をはずした。

封筒へと伸ばされたオーベルシュタインの手が、無様に震えた。

 

“愛するお母様へ

突然お便りすることをお許し下さい。貴女の娘、フランツィスカです。先日偶然、フェザーンの広報雑誌でお母様のお写真を見かけ、ペンを取りました。お元気にお暮らしのご様子で、安心いたしました。

このような手紙を差し上げては、ご迷惑だったでしょうか。ですがお母様、わたくしに下さった最後の言葉を覚えていらっしゃいますか。「いつもあなたの幸せを祈っているわ」と、お母様は、そうおっしゃいました。ですから、今、わたくしが幸せに暮らしていると、どうしてもお知らせしたかったのです。

わたくしはこの6月、ある方のもとへ嫁ぎました。子爵家の嫡子で、今年、士官学校を卒業された軍人です。今は帝都で、旦那様と、執事夫妻と、犬のアインシュタインと共に暮らしております。子犬だったアインシュタインも、もうすっかりおじいさんですわ。

お母様と離れ離れになってから、わたくしの心には悲しみばかりが積もっていくようでした。今年の初めに、お父様が逝去されたときは、本当に何もかも失ってしまったと思いました。ですが、今は、旦那様がそばにいてくださいます。旦那様はお優しく、責任感の強い方です。大変頭がよくていらして、常に条理にかなったことをおっしゃるの。あの方がいらっしゃれば、わたしくは道に迷わずにいることができます。

ただ、旦那様の心の裡にはいつも深い悲しみがあって、わたくしには、まだ、それを癒す方法がみつかりません。きっと「正しい答えを導くには正しい方程式が必要」なのですね。これは旦那様の口癖ですわ。

お母様、もしこれからもわたくしの幸せを祈って下さるなら、どうかわたくしが正しい方程式を見つけることができるよう祈ってください。

これが最初で最後の便りです。お母様とヒョードロフ様の幸せをお祈りします。どうか、ご健勝で。

482.11.05, オーディンにて

小さなフランツィスカ”

 

コーヒーを入れ替えて戻ってきた夫人は、膝の上の便箋をぼんやりと見つめる軍務尚書を見ることになった。氷河を削ったような印象の顔立ちが、ひどく和らいでいる。

「その手紙がわたくしの手元に届いたのは、帝国暦482年の暮れのことです」

オーディンからフェザーンへの郵便は、通常、1か月程度で届く。だが、差出人として「小さなフランツィスカ」とだけ書いてヒョードロフ不動産宛てに届けられたその手紙は、緊急性がなく、夫人の交友関係のある相手でもないと判断されて、彼女の手元に届けられる優先度が下がったのだった。

夫人はかつて愛した人が1年近く前に逝去していたことを初めて知った。娘が人の妻となっていることに驚き、その手紙を喜びもした。しかしそれは、すでにこの世にない娘が幸せだと伝えてきた手紙だったのである。

クラヴィウス家の弁護士が娘の死を知らせてきたのは、手紙を受け取った翌日のことであった。いや、弁護士はフランツィスカの戸籍状況を調べるために、その母親に接触しただけ、というほうが正しいだろう。若すぎる死の理由は、 ただ「婚家の騒動により」と繰り返すのみで、詳しくは聞かされなかった。何とか頼みこんで、ようやく嫁ぎ先の家を聞き出せただけだった。

「閣下。娘はなぜ、命を落としたのでしょう?」

「それは…。私が臆病者であるがためです。世間とも、父とも、自分自身とも、向き合うことができなかった。だから、守ってやれなかった」

オーベルシュタインの長い指が、手紙の上を伝う。

「責めているのではありませんの、閣下。短い間でもあの子が幸せであったなら、それでいいと、今は思っていますわ」

「幸せ、だったのだろうか」

「閣下はいかがでした?」

その問いに対し、オーベルシュタインはしばし無言であった。コーヒーの立てる湯気がずいぶんと細くなった頃、彼はつぶやくように答えた。

「彼女はよく、歌をうたってくれました」

 

緑の森の小さな雛は 高い梢の暖かいおうち

楽しい夢を見てすやすや眠る

優しいお母様の羽の下

風も雷も怖くない 狐も狼も怖くない

 

オーベルシュタインの薄い唇が歌詞を紡ぎだすと、夫人の目にみるみる涙があふれた。

「閣下、その歌…」

「ご存知ですかな? メロディも教えてもらったのだが、私はとうとう覚えられなかった。音程を間違えては、笑われたものです。何という歌ですか? 彼女はフェザーンの歌かもしれないと」

「題名なんてありませんわ。わたくしが、あの子のために作ってやった歌ですもの。シュテファンが、いえクラヴィウス子爵がお屋敷に行ったまま帰ってこなくなって、あの子があまり寂しがるから。あの子のためだけに歌ってやった歌ですもの」

美しい歌声が、ヒョードロフ邸に響いた。オーベルシュタインは瞳を閉ざし、じっとその歌を聞いていた。彼が悲しみの淵にあるとき、愛する人が歌ってくれた、あのメロディだった。

「ありがとうございます。………義母上ははうえ」

最後の一言は、長く逡巡した後に、ようやく小さく付け加えられた。

 

自宅に戻ったユーリー・ヒョードロフは、玄関で意外な人物を発見し、思わず大きな声を出した。母はその人物・銀河帝国の軍務尚書を見送りに出たきたところらしかった。ヒョードロフ家の若き当主は、丸い目をしたまま、人懐こい表情を浮かべて二人を眺めた。だが、オーベルシュタインは何の説明をすることもなく、妻の母と弟に過不足のない挨拶をして、影のように去って行った。

「驚きました。お母様と元帥閣下が一緒にお茶を楽しまれるような関係だとは、知りませんでしたよ」

「あら、どういう意味?」

「もし元帥がお父様になるのだったら、はやく教えてくださいね」

「まあ、あきれた子ね。あの方はあなたのお兄様ですよ」

「え? なんです、それ?」

ユーリーの疑問は軽やかな笑い声にかき消された。

 

外は、フェザーンの太陽がちょうど惑星の影に入ったばかりであった。自動運転の地上車の窓越しに見える新帝都の空は、ひどく暗い。フェザーン回廊の中間にあるこの惑星では、夜空を彩る星が極端に少ないのである。回廊の航行不能部分に分厚いガスが充満しているため、遠くの星の光が届かないのだ。

オーベルシュタインはふいに、フェザーンの夜空に煌めくことのない彼の故郷オーディンを渇望した。これほど過去に心引かれたことはなかった。オーディンに眠る妻のことだけではない。死の床にある皇帝の存在が、いっそう彼にそのような思いを抱かせたのかもしれない。このままフェザーンに留まっても、赤子でしかない皇帝を間に挟んで皇妃と対立する未来があるだけたろう。浅ましいことだ。

――フランツィスカがいてくれたら…。

懐かしさと愛おしさとが彼の胸を侵食した。人はきっと、こういうときに泣くのだろう。オーベルシュタインは初めて、その感情を知ったように思った。

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