帝都・オーディンは、都市を東西に貫流するエルベ川によって、大きく北と南の2つの地域に区分される。川の北側では皇宮をはじめ各官庁、貴族の邸宅などの壮麗な建築物が妍を競い、南側には平民の粗朴な住居が軒を連ねている。
エルベ川に沿って皇宮南苑の前を抜け官庁街を横断し、軍務省の北門・オルテリンデ門前を通って西の郊外へと向かう幹線道路を、栄光街という。道路の中央の緑地帯を白と黄色で塗装された3連結の路面電車が走り、下級官吏・下級軍人の通勤の足となっている。そのヘルリヒカイト街は、オルテリンデ門から3.5キロほど西へ行ったところで、もう一つの幹線道路であるウルメン街と交差し、そこにブルーメン広場という停留所が置かれている。ブルーメン広場とは、この東西・南北の2つの幹線が交わるに場所ある公園の名だ。
オーベルシュタイン家の屋敷は、ヘルリヒカイト街からブルーメン広場を越え、通りを2本北側に入ったファイルヒェン街24番地にあった。周辺は貴族の上屋敷ばかりであるが、住人は留守居の使用人のみという屋敷がほとんどである。多くが郊外の下屋敷を主な住居としているためだ。都心部にあるにしては至って静かな住宅街であった。
その屋敷の主、パウル・フォン・オーベルシュタインは、現在、新しい生活を構築するのに忙しい。
彼は成人を契機として独立した生計を営むことになり、帝都にあるオーベルシュタイン家の土地家屋、いくばくかの預貯金、有価証券、貴金属といったものを相続した。顧問弁護士が権利証の類を持ってきて、続いて顧問会計士が財務諸表の説明に訪れた。今後は毎月初に前月分の会計報告が届くことになっている。当然ながら軍の俸給のみでは、使用人を置き、屋敷を維持していくことはできぬから、生活費の大部分は相続した資産の運用収益からまかなうことになるだろう。金に汲々とする心配は皆無とはいえ、一家の主として収支に目配りするというのは、なかなか骨の折れそうな仕事だった。
家計の概要を把握すると同時に、彼は妻の化粧料の手配をした。
オーベルシュタインの書斎に呼ばれたフランツィスカは、すすめられたソファに姿勢よく座り、興味深げに書棚を眺めていたが、化粧料だと言ってカードを渡されると、途端に当惑したようだった。
「少ないかな」
カード用の別口座には毎月1500帝国マルクが振り替えられる。これは少尉の俸給月額の約半分である。オーベルシュタインは自分の金銭感覚にあまり自信がないのだが、彼は金のかかる趣味があるわけでもないし、交友関係も地味であるから、これだけの小遣いがあれば十分なように感じている。
「いえ…そうではないのです。わたくし、自分でお金を使ったことがないものですから」
これはまたずいぶんな箱入りだな、とオーベルシュタインは思った。深窓の令嬢というのは、皆このようなものなのだろうか。金の使い方も知らぬとは難儀なことである。いや、浪費が生活の一部になっていないだけまし、と考えるべきなのかもしれない。
「ある程度は自由になる金がなければ不都合もあろう。私のほうも、チョコレート1つ買うのまで許可を求められては、かなわないのだ。カードの使い方はヘルガにお聞きになるとよい」
これまでのところ、オーベルシュタインは妻に対し基本的に無干渉であったが、無関心であったわけではない。邪険にすることはないが、かと言って、友好的ということもない。黙って様子を見ている。
フランツィスカは、実家から連れてきた犬をとてもかわいがった。外見はとぼけたふうな犬であるが、よく躾けられている。餌やりや散歩はもちろん、排泄物の始末も彼女自身がやっているようだ。長い時間をかけて犬の毛にブラシをかけてやるのを見かけることもあった。犬の世話をしない時間は、1階の図書室で本を読んで過ごすことが多い。読書が好きなのかもしれない。お茶の時間に交わす数少ない会話からは、明晰な思考を持つ人のような印象を受けた。
その一方で、こちらが戸惑うほど無知なところがあって、ヘルガと市場へ行ってきたという日の夕食時、
「お金に描かれているおじいさんはどなたですか?」
と尋ね、オーベルシュタインはスープを口に運ぼうとしていた右手を中空で停止させることとなった。
言わずと知れた、「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下」である。
オーベルシュタインはスプーンを皿に戻し、口を開けて夫人を凝視する執事を一睨みすると、大仰な修飾語の大部分を省き、簡潔に答えた。
「今上陛下だ」
幼年学校、士官学校と忠君報国の精神を叩き込まれた新米士官であるところのオーベルシュタインだが、多くの学友と違って、皇帝に対し信仰めいた忠誠心を抱いたことがない。2週間前の士官学校の卒業式には皇帝も臨御あそばしたが、初めて至尊の座にある方の尊顔を拝してもやはり何の感銘も受けず、自身でも不思議なほど醒めていた。
「見かけほどおじいさんではない」
まだ五十にも届かぬ年齢のはずである。
妻の非礼を咎めたものか、ともに不敬な言辞を弄したのか、判断しがたい口調であった。
目を泳がせる執事に気づきもせず、フランツィスカは感心したようにうなずいて、実に洗練された作法で食事を続けた。
帝国暦472年6月16日
この日、オーベルシュタインは、軍装等の貸与物を受領するため、軍務省に出頭した。士官学校または幼年学校の新規卒業者は、毎年7月1日に一斉に任官する。卒業式が6月初めであるから、辺境への赴任が決まった者は卒業後すぐに出立せねばならないし、軍務省やオーディン近隣が職場となる者は任官日まで待命扱いとなる。
屋敷から軍務省までは、ブルーメン広場からオルテリンデ門 まで路面電車に乗る。将官にでもならなければ、地上車での登省など認められるものではない。
路面電車は数百メートルごとに頻繁に停まるので、わずか3.5キロ、13駅の道のりに20分ほどかかった。歩くよりは速いというだけである。
オーベルシュタインが軍務省に足を踏み入れるのは、幼年学校在学時に従卒を経験して以来、6年ぶりであった。6年前、彼は規定どおり統帥本部と宇宙艦隊総司令部で2か月ずつ従卒を務め、最後に軍務省の軍史編纂室にやってきた。
当時、14歳の子供に過ぎなかったオーベルシュタインの見たところでも、軍史編纂室は無能な軍人の吹き溜まりであり、どこの部署でもお荷物になったろう人材がそろっていた。室長はかなり耄碌したふうの中将で、本来オーベルシュタインはこのお年寄りの従卒を担当するはずなのだが、なぜか 翻訳を命じられた。フェザーン経由で流れてきた、叛徒の軍事関係資料である。後で分かったことだが、軍務編纂室は派遣されてくる従卒に対し、「敵性言語の成績優秀者」という条件をつけるらしい。はなから作業用員として当てにしているのだ。
――叛徒の資料は意外に面白かったな。
誰にも語らぬ、オーベルシュタインの感想である。叛徒の軍隊は、虚飾をおさえ実利に徹するの観があった。我が軍も少し見習えばもう少し有利に戦えるのではないか、とさえ思う。
貸与品の受領はごく事務的に終わった。膨大な物量となるため、受領といっても実際は目録を受け取るだけであり、現物は自宅へ配送される。夏服、冬服、艦内服、礼装、略装、正帽、略帽、シャツ、肌着、靴下、手袋、雨具…。靴だけでも、長靴、半長靴、短靴と3種類もあった。
帝国軍の服飾規定は煩雑を極めている。これも虚飾の一つだ、とオーベルシュタインは思う。だが、廃絶しようにも、軍の御用商人を抑えることが困難なのであろう。いまやこの国においては、戦費こそが経済の根幹なのである。戦争はいわば公共投資であった。
同じ道を路面電車に揺られて戻り、屋敷の入り口でラーベナルトの出迎えを受けたオーベルシュタインは、どこからか妻の声が聞こえたような気がして、怪訝な顔をした。
「奥様が裏の水場で犬を洗っていらっしゃいまして」
執事が説明をし終わらぬうちに、ザッサカザッサカと土を蹴る音が聞こえ、建物の角を回って、見知ったような見知らぬような犬が、勢いよくオーベルシュタインの足元に走り込んできた。犬は一度彼のそばを駆け抜けて急停止し、身をひるがえして戻ってくると、ぽたぽたと水を滴らせながら、笑顔と形容するべき顔でオーベルシュタインを見上げた。主人の帰宅を歓迎しようと、水場から逃走したらしい。分厚い毛が水を含み、体積が普段の半分くらいになっている。
――貧相だ。
主人と執事がそれぞれの胸の内で同じ感想を抱いた瞬間、犬は無遠慮に体を震わせて全身の水滴を四方に飛ばした。
「アインシュタイン!」
大判のタオルを片手に犬を追ってきたフランツィスカは、悲鳴に似た声で犬の名を呼ぶと、オーベルシュタインの前まで駆けてきて緊張に身を固くした。夫と執事が顔や衣服を水で濡らして茫然としている。
「あ、あの…、申し訳ありません」
フランツィスカのほうもよい恰好とはいえなかった。エプロンをつけて肘まで袖を捲り上げた様は洗濯婦のようであったし、ドレスの裾は水を含んで濃い色になっている。オーベルシュタインはハンカチで顔を拭きながら、うつむいた妻と能天気に笑う犬を眺めやった。そして、節の目立つ長い指を伸ばしてフランツィスカの腕からタオルを抜きとり、犬にかぶせてごしごしとぬぐいはじめた。
驚く妻と執事が注視する中、あらかたの水分をぬぐい取って 、最後にタオルの端を小さくつまんで目の周りをぬぐってやった。
「きれいにしてもらってよかったな」
犬はもう一度全身を震わせて、返事に代えた。残った水がまた粒となって飛び散る。
オーベルシュタインは苦笑しながら犬の頭をなで、フランツィスカにタオルを返しながら、
「あなたも早く着替えられたほうがよいな」
と言って、執事を伴い屋内に消えて行った。扉が閉まる直前、風呂の用意をするよう命じる声が聞こえた。
それからしばらくの間、フランツィスカは夫の消えた扉を青碧の瞳で見つめ続けた。この家に来てからの緊張がすべて溶けていくようだった。
「アインシュタイン。お優しい方で、よかったわね」
言葉を持たぬ犬は、また一つ身震いをした。
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