Herr, Frau, Hund (2)

帝国暦472年6月30日

オーベルシュタインは書斎で数式処理システムと向き合っていた。興味深い数学論文があったので、システムを使って確認をしているところである。

翌7月1日からは正式に軍務省に出仕する。生き残れば長く、死ねばあっという間の軍歴が始まるのだ。モラトリアムを喪失する前の、最後の午後であった。

「アインシュタインー!」

扉越しに、フランツィスカが犬を呼ぶ声が小さく聞こえた。玄関ホールのあたりだろう。名を呼ばれた犬は、今、オーベルシュタインの足元で腹を出して寝そべっている。書斎は北向きに作ってあるので、他の場所より涼しいのかもしれない。フランツィスカに従ってやってきたこの犬は、初めのうちこそ彼女にべったりとくっついていたが、1か月と経たぬ間にすっかり新しい環境に慣れて、気ままに過ごすようになった。

「呼んでいるぞ」

オーベルシュタインはモニターから視線を移し、犬に声をかけた。犬は耳をぴくりと動かして、フンと鼻を鳴らしたのみである。優雅な午睡を邪魔されたくない様子だ。

また犬を名を呼ぶ声が聞こえた。

「アインシュタインー? 散歩に行きますよー」

怠惰の見本のようであった犬は、散歩シュパツィーレンという言葉を聞くや、機敏に身を起こした。すばやく扉の前に駆けつけ、忙しなく足踏みをしながら、扉のノブとオーベルシュタインの顔をかわるがわる見やる。

――開けてほしいのだな。

この頃少し、犬の身体言語を理解するようになったオーベルシュタインである。犬にいいように使われて腹も立たないのが、自分でもおかしい。

オーベルシュタインは扉を開けてやって、自らも犬の後について廊下に出た。犬は一目散に階段を下っていく。

「おや、2階にいたのですな」

ラーベナルトの声が聞こえた。

手すりにもたれて吹き抜けの玄関ホールをのぞくと、帽子をかぶり、出かける支度をしたフランツィスカが犬にリードを付けてやっているのが見えた。最近はヘルガの付き添いもなく、一人で出かけているという。オーベルシュタインが眉をひそめると、ヘルガは「犬も一緒ですから大丈夫ですよ」などと言ったが、あの呑気そうな犬が本当に頼りになるのか、彼は少々疑っている。

オーベルシュタインの疑心が聴覚を刺激したのでもなかろうが、犬がふいに階上を見上げて一声鳴いた。犬の視線の先を追って、フランツィスカとラーベナルトも階上を見上げる。

「旦那様も一緒に、お出かけになってはいかがですか」

何を思ったか、執事が突然外出をすすめ、オーベルシュタインが返事に詰まっている間にフランツィスカの承諾もとってしまった。

「あぁ…。少し、待ってくれ」

オーベルシュタインはいったん居室に戻って帽子と上着を手にすると、ホールへ降りた。

彼はこの1か月近く、まったく運動らしいものをしていない。もともと、体を動かすのを好むわけではないし、どれほど食べても太ることとは無縁であったが、それでもあまりに動いていなかった。士官学校では毎日校庭を走らされていたのだから、少しは運動が必要だろうと思った。それだけである。

「ワン!」

犬がそわそわと催促した。

「はいはい、行きましょうね」

 

外は、夏至を過ぎたばかりの太陽がまだ高いところにあった。日差しはそれなりに強いが、適温適湿の気持ちのよい午後である。犬の散歩はいつもエルベ川の河畔まで行くことにしていて、今日は途中で市場に寄って買い物をするのだという。

旧市場アルトマルクトは、惑星オーディンに入植がはじまった頃まで歴史を遡ることのできる、古い市場である。立派なレンガ造りの屋内市場で、かなりの数の店舗が入っている。市場自体の歴史が古いことから老舗が多く、近隣の高級住宅街の厨房にも顧客を持つ。オーベルシュタイン家の家政婦、ヘルガ・ラーベナルトも、ここで食材を買い入れていた。

オーベルシュタインの屋敷から市場までは、ブルーメン広場を通り抜け、ヘルリヒカイト街を越えてすぐである。徒歩10分ほどだが、彼自身、市場に来るのは初めてだ。貴族の若様が行くようなところではない。

市場は意外に清潔であった。生鮮食料品を扱う店が多いようだ。まだ夕方という時間でもないためか、さほど混んではいなかった。

フランツィスカは犬のリードを短く持って通路をすいすいと進んでいき、肉屋の前で足をとめた。間口いっぱいに大きな冷蔵ケースが置かれ、中に様々な種類の精肉や肉加工品が並べられている。赤みが強く見えるのは、ネオジウムランプのせいだろう。

「あ、アインシュタインだ!」

4、5歳くらいの男の子がケースの向こうから飛び出してきた。

「ごきげんよう」

すでに顔なじみのようである。

「こら、ちゃんとご挨拶しねぇか!」

肉屋の主人が子供を叱りつけ、瞬時に顔と態度をあらためてフランツィスカに向き直った。血圧の高そうな赤い顔をした、小柄な男である。はすにかぶった帽子から、癖の強い白髪まじりの髪がのぞいている。白いエプロンは突き出た腹のてっぺんあたりが少し黄ばんでいて、なんとも見苦しい。六十を過ぎたくらいであろうか。あの子供は孫かもしれない。

「いらっしゃいまし、フラウ。羊肉でよろしいんで?」

「ええ、300グラム」

羊肉は1キロが3マルク40ペニヒとあった。この国の農業は主として農奴に支えられているから、食料品は総じて安い。貴族が平民を搾取し、平民がさらに農奴を搾取するという構造の上で、経済が循環しているのだ。

肉屋の主人のヴルストのような指が器用に動いて羊肉を包むのを観察していると、ふいにこちらに顔が向けられた。主人はオーベルシュタインの左手にはめられた指輪にすばやく視線を走らせ、

「さて、旦那さんには何を差し上げましょう?」

と、さも当然のように言って、何か買わなければならないような気にさせてしまった。「うちのケーゼシンケンは赤ワインによく合いますぜ」

「…では、それを」

親指と人差し指で7センチほどの長さを示すと、肉屋は勝手に10センチばかり切って秤に載せた。長年の商売人の勘で、金に細かいことを言わない種類の人間だと見て取ったのだ。

オーベルシュタインは上着の内ポケットに手を入れ、わずかに眉をしかめた。財布を持って来ていない。しかし肉屋のほうは最初からフランツィスカに払わせるつもりだったようで、全部でいくら、などと言っていた。こういう店では女性に財布を出させてよいものなのか、彼にはいまひとつ勝手が分からない。とはいえ、持ち合わせがないのであるから、どうしようもなかった。

「旦那さんは軍人さんだね?」

釣銭をよこしながら不必要に声をひそめて尋ねた肉屋に、フランツィスカは首をかしげてみせた。

「肉を見るときでも、背筋がピンと伸びてっからね」

フランツィスカはオーベルシュタインに微笑みかけただけで、肉屋に対してはヤーともナインとも答えず、礼だけを言って釣りを受け取った。

オーベルシュタインは自分が軍人らしいなどと思ったことは一度もないのだが、まだ正式に任官したわけではないのに、人にはもう軍人らしく見えるらしい。もっとも、市場の近くには独身将校官舎があるから、この肉屋が単に軍人を見慣れているというだけのことかもしれない。

アインシュタインは子供に「お手」と「おかわり」を繰り返し命じられ、不承不承のていで前足を出してやっていた。フランツィスカが「行きましょうか」と声をかけると、犬は解放された喜びを全身で、かつ、遠慮なく示した。子供は名残惜しそうに「また来てね」と頭をなでたが、アインシュタインの関心は、オーベルシュタインが手にした肉屋の紙袋に向けられていた。

市場の出口に向かって通路を戻っていると、後ろのほうから、

「こら、犬をさわった手で品物しなもんにさわったら承知しねぇぞ!」

と、怒鳴る声が聞こえた。

案外ちゃんとした肉屋なのだ。

 

エルベ河畔の遊歩道は緑陰に覆われていた。川下からの強い風が吹き抜けて、二人は同時に帽子を抑えた。街路樹のポプラがざわざわと鳴り、川面に立った波が陽光を跳ね返す。川沿いに並ぶ屋台インビスからは、肉の焼けるよい匂いが漂った。

「食べたいものがあるなら、ヘルガにおっしゃればよいのだ」

「いえ、これはアインシュタインに。羊の肉が好きですから」

「……牧羊犬シェーファーフントが羊肉を好むのか」

フランツィスカは一瞬、何のことか分からぬというようにオーベルシュタインの顔を見たが、すぐにその青碧の瞳に楽しげな光がはじけた。

「それでは、仕事になりませんわね」

そう言って笑い、アインシュタインは羊を見たことがないのだ、と付け加えた。

笑うと頬に小さなえくぼができる。

オーベルシュタインは紙袋を持つのと反対の手を、所在なく首の後ろにやった。冗談のつもりで言ったのではなかったが、冗談にしておこうと思った。

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