Herr, Frau, Hund (3)

快楽の余韻に浸りながら荒い息を静めていると、腕の中から伸びてきた手にそっと頬をなでられた。細い指が額に貼り付いた髪を優しくかきあげて、小さな明かりを反射した青碧の瞳が瞬きもせずオーベルシュタインを見つめた。その潤んだ瞳の中で冷たい義眼が彼の心を映して揺れたように見え、オーベルシュタインはたまらずまぶたを閉ざした。熱い肌を介して身体に響く心音が急に大きくなった。

やがて頬に触れる手から力が抜けて、オーベルシュタインは彼女が眠りに落ちたのを知った。熱が、急速に冷めていく。

 

士官学校で学んだ頃は、人の性的欲求がそれほど強いものだとは思っていなかった。

宇宙艦隊という男ばかりの閉鎖空間において、性欲は不可避のリスク要素である。表立っては語られないものの、性暴行、男色、痴情のもつれ、それらに端を発する傷害、さらには殺人といった不名誉な事件は枚挙に暇がないという。士官は艦隊の士気を保ち、秩序を維持せねばならず、兵の性を管理する役割が求められる。士官学校ではそのための授業が設けられている。

だがオーベルシュタインには、この講義の意義が今一つ理解できなかった。彼にもそれなりに性的欲求はあったが、理性がそれに振り回されることに実感が持てなかったのだ。

士官学校の寮は1年から4年まで各2名ずつの8人部屋である。成績順に部屋割りされる慣習であり、オーベルシュタインのいた部屋はいつも参謀型の秀才が多かった。義眼のことは忌避されたが、子爵家の跡取りという身分もあってか、無体に扱われたことはない。

上級生の身の回りの世話でこき使われていた、1年のときである。室長がその夜「敵性攻略研究会」なる呼称の会合を開催すると宣言し、オーベルシュタインにも参加を命じた。何かと思えば、実態は猥褻動画の鑑賞会だったのであるが、男女の交わりを具体的に知覚したのは、それが最初であったと思う。

他の部屋からわざわざやってきた学生らが引き取った後、同室の上級生たちは面白がって、オーベルシュタインに感想を尋ねた。

「なぜ、あんなに泣き叫ぶんですか」

「…気持ちいいからだろう。まあ、多少は演技もあると思うが」

「嫌だとかやめてくれとか、言っていたではないですか」

「……オーベルシュタイン。あれを真に受けては駄目だ」

オーベルシュタインは唇に少し力を入れて、同意できないと言いたいのをこらえた。

室長はディスクのパッケージをはじきながら苦笑した。

「これ、俺のおすすめだったんだがなぁ」

「実戦に勝るものはない、ということでしょう」

「確かにな。そうだ、近くに学生割引で安くなるところがあるが、行ってみるか? オーベルシュタイン」

「結構です」

「何事も経験だよ」

「……気持ち悪いです」

その一言は寮の部屋の中を波紋のように広がって、様々な反応を呼び起こした。

「え? 何が?」

「まさか君、処女でなければ嫌だなんていうのかい?」

「潔癖だなぁ」

「面倒なうえに、高いぞ」

オーベルシュタインはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。

「売り買いするようなものではないと思うだけです」

上級生たちは「しょうがないな」というように肩をすくめ、顔を見合わせた。

その後も敵性攻略研究会は「研究材料」を変えては開催されたのであるが、オーベルシュタインはついに、上級生の期待するような反応を示すことはなかった。

――私に欠けているのは、両目だけではないのかもしれない。

その思いは、彼を不安にも不快にもさせ、同時にどこか安堵させもしたのだった。

 

フランツィスカは安らかな寝息を立てている。オーベルシュタインはその身体の下から静かに腕を抜き、露わになった肩まで上掛けを引き上げてやった。彼女はこの夜初めて官能を刺激された高い声をあげ、彼の理性をからめとってしまった。彼は自分がこの行為そのものを嫌ってはいないことが、不思議でならない。

「実戦に勝るものはない」と言った上級生の言葉は正しい。実際に女を知ると、違う。すぐそばに女の匂いと体温を感じながら、身の内を駆け巡る衝動を抑えるのは難しかった。まして「妻」という間柄の女であれば、それが権利か義務かはともかく、肉体的な交渉を持つことは当然のことなのだろう。

オーベルシュタインはベッドの暗い天蓋を眺めて小さく息を吐き、左手の結婚指輪を右の指でぐるりと回した。

オーベルシュタインとフランツィスカは、当人らと両家の意識はともかく、今のところ事実上の夫婦であるにすぎない。典礼省への届出が受理されていないからだ。貴族の家どうしの婚姻にはいろいろと調整が必要なものであるから、何かしら不都合が起こっているのに違いない。もっとも、こうした事柄の処理は家長たる父の仕事であって、オーベルシュタイン本人がどうこうするべきものでも、また、どうこうできるものでもなかった。中途半端な状態に置かれて気分が悪いというだけだ。

明日からは指輪を外さなければならない。軍人は軍に対して婚姻の報告をする義務があって、軍はそれを元に身辺調査を行い、人事記録として保管する。この報告と調査が遺族年金を支給する根拠となるのだ。婚姻報告がないままに指輪をして出仕するのは具合が悪いのである。

オーベルシュタインは隣で眠る人にわずかに目をやって、背を向けるように寝返りを打った。身体から熱が引くと、焦燥感に似た恐怖にかられてならない。

――この人の身体の中で、まさに我が子が形成されつつあるのかもしれない。

――その子もまた、盲目なのかもしれない。

――彼女はそれを恐れはしないのだろうか。

欲動の正体は幸福感の希求だ。それがオーベルシュタインの理性が導き出した答えである。精を放つその一瞬、彼は確かに満ち足りている。子孫を残すことは喜びであると、人の本能には書き込まれているのだろう。

――だが、私は違う。

と、オーベルシュタインは思う。

子孫を残すのは家門と領民に対する義務である。家門の継続は領地の安定をもたらし、領民の安寧を保障するはずである。父に命じられるままに妻を娶ったのも、それが貴族の家に生まれた者の責務であると信じるからだ。

跡継ぎは、産んでもらわねばならない。しかし子を生すために交わるのだという現実を意識の表層に乗せることが、彼には苦痛であった。自身の遺伝子を受け継ぐ子というのは、想像するだけで不気味で、得体のしれない存在である。まして自分はこの劣悪な遺伝子を伝えようというのだから。

もしフランツィスカが本当に自分の子を宿したら、彼女を憎んでしまうのではないか。そんな気さえした。

――この胸のうちを絶対に気取られはすまい。

オーベルシュタインは固く心に誓った。昼間、エルベ川のほとりで向けられた笑顔が思い出された。彼女はきっと夫婦として生きていこうと努力しているのだろう。その意に反して嫁がされてきたのであろうに、心のつながりのない男にこうして身を委ねているのだ。

罪滅ぼしになるはずもないが、せめて形だけでも大切にしてやりたい。そうしなければならないはずだ、と彼は思った。

 

帝国暦472年7月1日

真新しい黒と銀の軍服に身を包み、オーベルシュタインは玄関ホールに立った。サージ織の夏軍服はラーベナルトの手で丹念にブラシがかけられている。階級章は少尉である。犬が一緒に出かけられるものと勘違いをして喜びまわるものだから、執事は軍服に毛が付きはせぬかと気が気でなかった。ヘルガは犬の首輪をおさえて「旦那様はご出仕なさるのですよ」と言い聞かせている。

「行ってらっしゃいませ」

フランツィスカは夫の長身にすっと寄り添うと、その頬に口づけた。オーベルシュタインは「ああ」とだけ低く答え、軍帽をかぶりなおした。そして犬の頭をひとなですると、玄関に立つ3人と1匹を振り返ることもなく屋敷を後にした。

屋敷を背にどんどん歩いてブルーメン広場の噴水まで来たとき、オーベルシュタインはふいに立ち止まって、右手の甲を左頬に押し当て、何度か瞬きをした。誰かに口づけで送り出されるなど、初めてのことだ。

夏の朝の陽ざしを反射して、噴水の水しぶきが軽やかな音を立てている。

青い空に、木々の緑がまぶしかった。

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