Herr, Frau, Hund (4)

士官学校卒業後、軍務省人事局人事課に配属されたオーベルシュタインが最初に命じられたのは、9月1日に発刊される現役将官録の原稿校正という極めて散文的な仕事であった。と言っても、彼に別段の不満があったわけではない。後方勤務というのは本来そうしたもので、血沸き肉躍るような仕事がそうそうあろうはずもない。前線と後方とでは求められる適性が著しく異なり、それゆえ対立が発生しやすいのは、軍務省の特徴であろう。オーベルシュタインにとっては、主だった将官の経歴、配属先を確認できると思えば、それなりに意味のある作業のようでもあった。

 

帝国暦472年7月17日

配属から半月ほどが過ぎたこの日、人事課では7月1日付発令の異動者と新入省員の歓迎会が開かれた。オーベルシュタインはもとより宴席を得手とするほうではない。「すまじきものは宮仕え」とは、よく言ったものだ。散々に飲まされ、上官に絡まれ、酒場の女にからかわれて、顔にこそ出さなかったが不機嫌の絶頂であった。

酒精をまとわりつかせたまま最終の路面電車を降り、人気ひとけのないブルーメン広場を通って屋敷へと歩く。時刻はすでに深夜1時を回っているはずだ。髪や制服に染み付いた酒と煙草の臭いが、噴水の水音と混ざって夜の闇に消えていく。

ファイルヒェン街24号のオーベルシュタイン家の屋敷は築250年ほどの古い建物で、地上3階地下1階にかなりの間数を有している。1、2階部分には縦長の半円窓が整然と並び、切妻の屋根裏にあたる3階部分には大きなドーマー窓をいくつも配して明かり取りとしてある。調和の取れた対象美を呈する外観である。

植物の蔓をモチーフにした曲線的なデザインの門扉を抜け、広い前庭を通って玄関へと至る。オーベルシュタイン家の紋章が刻みこまれた重い扉を開けて静まり返った邸内に入ると、足元灯の小さな明かりの中で、思いがけなく犬の歓迎を受けた。夜の間、この犬は2階のフランツィスカの自室で囲いに入れられているはずだ。寝転がって腹を見せる犬を適当になで、オーベルシュタインは軍帽と手袋を取りながら、スタッコの彫刻が施されたホールを進んだ。

犬が彼の横を通り過ぎ、一度振り返ってホールを左に折れて行った。階上へ向かおうとしていた足を停め、オーベルシュタインが犬を追って視線をやった先に、暗い廊下へ淡く細長い光を伸ばす部屋があった。図書室だ。

犬は暗がりに白い毛をぼんやりと浮かべて廊下の奥へ入っていき、わずかに開いた扉の隙間に体をねじ込むようにして、明かりの漏れる部屋に消えていった。

オーベルシュタインは腰に手をやってブラスターのありかを確かめた。部屋にはおそらく、フランツィスカがいるのだろう。だが、あれは気のいい犬であるから、強盗にも愛嬌を振りまきかねない。

廊下の絨毯を踏みしめて、音も立てず図書室に前に立ち、ゆっくりと扉を開く。

図書室は壁面のすべてが書棚で覆われている。天井まで作り付けられた書棚は、ところどころに梯子が掛けられ、大小、厚薄さまざまな書籍が圧倒的な物量感を持って四方を黒く埋めている。部屋の中央には古い樫材の対面机があって、書物で形作られた水槽の底に沈められたかのように、静かに鎮座している。

卓上ランプの発する色温度の低い光の中、フランツィスカは机に上体を預けて眠っていた。ベッドから抜け出してきたような姿だ。丈の長い白い寝室着の肩に、空色のショールと灰色がかった黒い巻き毛がかかっている。

犬は眠れる人の膝に前足を乗せて鼻先でつついていた。オーベルシュタインは小さく溜息を吐いて机に近づき、床に鞄を置いてそれに軍帽を乗せると、腰の後ろで手を組んで犬と妻を眺めた。こめかみがずきりと痛み、眉間に深い皺が寄った。

「ん…」

フランツィスカは薄く目を開けてぼんやりと犬の肩をなでた。彼女の待ち人を無事ここまで案内してきた犬は、得意顔で誉められるのを待っている。オーベルシュタインに気づいたフランツィスカは、喜びと羞恥とをないまぜにして夫を見上げた。

「おかえりあそばせ。こちらにいれば、玄関の音が聞こえると思ったのですけれど…」

立ち上がると同時に肩のショールが身体の線に沿って落ちるのを、冷たい義眼が追った。

 

「先にやすまれるようにと、言ったはずだが」

フランツィスカは身を固くして俯き、か細い声で答えた。

「…はい。申し訳ありません」

胸の下で組んだ手がきゅうと握りこまれる。

「言いつけは、守っていただきたいものだ」

と、言い終わらぬうちから、オーベルシュタインは後悔していた。いらだちの成分で構成された声は、彼が酒席で蓄積した不愉快な感情を、言葉の矢に変えて放ったあかしである。

フランツィスカはますます俯いて、先ほどより更に細い声で謝罪を繰り返した。

オーベルシュタインは後悔の度合いを深めた。 頭ごなしに服従を迫る自身の姿が、あの父と重なった。

「いや…。何事か生じたか」

「いえ、その…、寝もうとしたのですけれど、やはり旦那様のお顔を見てからと思って。それにアインシュタインが…」

足元で伏せた犬が、顔をあげてフランツィスカを見つめる。

「アインシュタインが、旦那様を探しに行きたいと言うものですから、それなら一緒にお待ちしましょうよって…」

「……」

オーベルシュタインのたいして感度のよくない受信機は、それをユーモアに類するものとして認識したようだった。一人と一匹が顔を寄せて相談するさまを想像すると、なんともおかしい。人を陽気にさせる酒の効能が、いまさら現れたのかもしれない。彼は胸中の不快が霧散するのを自覚し、その理由にもならぬ理由で納得するつもりになった。

緩んだ口元を隠すように身をかがめ、ショールを拾って肩に掛けてやると、彼には珍しく自分から身を寄せて妻の頬に口づけた。おそらくは、配慮の足りなかった言葉への謝罪を込めて。

「おかえりあそばせ」

「うむ」

妻の髪と首筋から、ふわりとよい香りがした。ふいに体奥から湧き上った強烈な渇望感にあらがって体を引きはがしたとき、彼は今しがた口づけたばかりの妻の頬に、妙なものを見つけ、いぶかしげに目を細めた。

頬を親指で軽くこすると、それは黒いもやとなってすべらかな皮膚に広がった。鉛筆のだ。フランツィスカの肩越しに見える机には、糸綴じノートが広げたままになっている。顔を押し付けて寝ていたのだろう。義眼への負荷を感じながら、オーベルシュタインはノートに焦点を合わせた。

そこには、記号と数字とで組み上げられた世界が広がっていた。ノートを手に取って、卓上ランプの明かりにかざしつつ机の反対側の椅子に腰かける。技術的に多少拙いところも見られるが、美しい数式が丁寧に書き連ねてあった。

「亜空間の高次元方程式…」

「…はい」

フランツィスカは少し頬を染めてうなずいた。

それは現代数理の最先端分野である。亜空間の座標を得るための標準モデルを作ることは、数理学者の悲願だ。亜空間座標の発見によって、人類の生存範囲は、全銀河系はもちろん他の銀河へも拡大するだろうと言われている。むろん、理論構築に成功した者は、人類の発展史にその名を刻むはずである。

跳躍ワープ技術が実現されてからすでに1200年が経つが、その進歩はこの700年ばかり足踏みが続いている。跳躍とは、亜空間を媒介として通常空間どうしをつなぐものだ。だが、通常空間から影響を及ぼすことのできる亜空間領域には限界があることが知られており、その限界を突破することができないために、跳躍距離が伸びないのである。

この問題を根本的に解決すると考えられているのが、亜空間座標だ。亜空間の高次方程式の解法を確立し、その座標を求めることができるようになれば、亜空間から亜空間への跳躍が可能になる。そうすることで跳躍距離を伸ばそうというのである。

かつては独立した学問であった数学と物理とは、今やその境界が非常に曖昧なものとなり、両者をまとめて「数理」と呼ばれることも多い。亜空間は、まさにそうした数物連携の主戦場であった。

しかしながら、この分野を研究対象とする学者には一定の覚悟も必要である。一生涯をささげても、何一つ成果を生み出せない可能性が高いからだ。多少なりとも出世欲と名誉欲がある者であれば、敬して遠ざけたいのが本音かもしれない。

「うまくいきそうかな?」

そうした背景を知りつつ発せられたオーベルシュタインの声には、少しからかうような響きがあって、室内に溜まった気まずい空気が劇的に入れ替わった。

「いいえ、意味をなさない解ばかり出てきますの」

フランツィスカは努めて明るい声で答えた。

「ふむ…」

長い指が数式の一点を指す。

「ここ。繰り込んでみてはどうだ?」

そう言うと、オーベルシュタインは鉛筆を取って先の尖った角度を確かめ、数式を書き込んでいった。式が伸びるに合わせて、フランツィスカの青碧の瞳に次々と星が生まれる。

「これならば、次のセクションの問題をうまく回避できますわね。解も出るでしょうか?」

今度は、努力など要さず自然と声が弾んだ。

「おそらく駄目だろう。もう何百年もろくに前進がない分野だ。この程度のことはとっくに誰かが考えて、失敗もしているはずだ」

「そう、ですか…?」

彼女の表情は、それでも試してみたいと告げていた。

「明日になさってはどうか」

「…はい」

名残惜しそうにノートが閉じられた。

オーベルシュタインは口元にこぶしをあてて欠伸をこらえると、立ち上って軍帽を脇に挟み、鞄を手にした。

フランツィスカは卓上ランプの明かりを落とし、勢力を増した闇から逃れるように、夫の差し出した腕に手をからめた。犬が二人を先導して扉に向かう。

2階へと続くサーキュラー階段を昇りながら、オーベルシュタインが低い声で問うた。

「数学は、どなたに?」

「家庭教師の先生です。お若い頃、素数の研究をなさっていたとか」

「素数か…」

いまどき、珍しい専門である。すでにその全容が解明されて久しいと聞く。

「旦那様の書斎には、位相幾何学トポロジーのご本がたくさんございますわね」

「ん? ああ」

ひと月ほど前、書斎へ呼んだ彼女が興味深けに書棚を眺めていたのを、オーベルシュタインは思い出した。

「わたくしは、位相幾何学がどういうものか、よく知らないのですけれど」

「ならば少し学ばれるとよい。系統的な思索を深めるのにも有効な方法だ」

もともとは純粋数学であった位相幾何学は、今や世の中のあらゆる場面に広く応用されている分野である。基礎理論が構築されてからすでに1500年、いまだ発展の活力を失っていない。

ちなみに、オーベルシュタインの士官学校の卒業論文は、「位相幾何学的情報処理に基づく戦略分析手法の確立の試み」という題名であった。戦略論を専門とし軍籍を持つ主査の教官は途中で審査をあきらめてしまったが、他大学からの出向で教養科目の数学を担当する副査の教官からは大絶賛を受けた代物だった。その教官は、「軍人になどならずに、大学に編入するべきだ」と、到底実現不可能なことをたびたび言ったものである。

寝室の扉の前まで来て、オーベルシュタインは急に立ち止まり眉根に力を入れた。目の奥がきりきりと痛んだ。薄暗闇で無理に光を取り込もうとしすぎたためか、義眼が悲鳴を上げ始めたのだ。明滅する視界の中、フランツィスカが息を飲んでこちらを見つめ、その手が軍服の袖をぎゅうと握るのが分かった。

 

翌朝、主人を起こすため寝室に入ったラーベナルトは、ぎょっとして立ち止まった。この時間、いつもはすでに自室で身支度を始めている夫人が、一人、寝台の上で両膝を抱えていた。寝具を使った形跡がない。「婚礼からわずかひと月で外泊か」という思いが、執事の頭をよぎった。

「旦那様は…お帰りにならなかったのですか?」

おそるおそる尋ねる執事に、フランツィスカは青白い顔を小さく横にふった。頬に涙の跡がある。

「お部屋にいらっしゃると思うわ」

「…さようでしたか」

「待って、ラーベナルト」

自身の早とちりを恥じつつ主人の居室に向かおうとしたラーベナルトを呼び止めて、フランツィスカは昨夜のことを話した。

闇の中、彼女の夫の両目は異様な光を放った。夫は宙を掻くようにして照明のスイッチを探りあて、黙って背を向けて自室に入って行った。その横顔は苦痛にゆがんでいるように見えた。

「わたくし、驚いてしまって。とてもお辛そうだったのに、何もして差し上げられなかったの」

執事は、夫人の表情が気遣いだけで構成されているのを見てとって、ひそかに胸をなでおろした。主人が辛かったのだとしたら、それは目の痛みからではあるまいと思った。そして、義眼の発光は機器の調子が悪いときに起こる不具合であることや、精密機械であるから故障が多く、寿命も短いことなどを簡単に説明した。

「義眼のことはすべてご自身でなさいますから、奥様の手助けはご無用かと存じます」

「そう…。ラーベナルト、旦那様は怒っていらっしゃるかしら?」

「そのような心配はございますまい。昨夜のことには触れず、いつもどおりになさっていればよろしゅうございますよ」

ラーベナルトは礼儀正しく、そそくさと退室した。寝室着の夫人と二人きりでいるのは使用人の分を越えているように思え、何とも居心地が悪かった。

彼の主人は、ソファから長い足をはみ出させて眠っていた。

吊り下げられた制服にきっちりとブラシが掛けられているところは、さすがに軍人らしい。軍隊とは服装容儀にうるさいところだ。貴族の子弟であっても、ブラシ掛けから、アイロン掛け、靴磨きと、徹底的に叩き込まれるものである。

ラーベナルトがカーテンを開けると、オーベルシュタインはのそりと起き上って首のあたりをさすった。ソファの脇で寝ていた犬が、大きなあくびをしながら前足と後ろ足でそれぞれ伸びをして、ラーベナルトの入ってきた扉から出て行った。

「けんかでもなさいましたか?」

「うん?」

「たとえけんかをなさっても、寝室を別になさるのは感心しませんな」

執事は陶器のたらいに湯を注ぎ入れ、どうぞ、と声をかけた。

「…けんかなどしていない」

「今日は何か、甘いものでも求めてお帰りなってはいかがですか? ご自分が悪くないと思っても謝るのが、男の度量というものでございますよ」

「けんかなど、していない」

オーベルシュタインは伸ばした手に掛けられたタオルで顔を拭きながら、不機嫌に繰り返した。

そして、シャツの袖にのろのろと手をとおし、カフスをいじりながら独り言のようにぼそりとつぶやいた。

「何か、言っていたか」

「ご心配でいらっしゃいました」

執事の返答は枝葉末節をバッサリと切り落としたものであった。

「…そうか」

オーベルシュタインは、もはや、その目のことを誰に何と言われようが矜持を傷つけられることなど皆無であったが、フランツィスカに対してのみは、心の奥底でさざ波が立つことを認めざるを得ない。

後ろめたいのだ。

「仲直りは早いに越したことはございませんよ。先延ばしにすればするほど、こじれるものです」

結婚23年の執事が、主人の軍服の釦を留めつつ先輩風を吹かす。

オーベルシュタインはすねた子供のように口を結び、

「だから、けんかなど、していない」

と、一語ずつはっきりとした口調で繰り返した。

 

フランツィスカは執事の言葉に従っていつもどおり夫を送り出したものの、鬱々とした一日を過ごした。昨夜、夫が書いてくれた数式を検討する気にもならなかった。アインシュタインは彼女の気を引こうとあれこれ努力したが、ついに甲斐のないことを悟って、ぷいとどこかへ行ってしまった。邸内では、ラーベナルトが人夫を入れて家具の配置換えをさせており、犬は執事とともにそれを監督したようだった。

その夜、常より2時間も遅く帰宅したオーベルシュタインが提げていたのは、ケーキでもチョコレートでもなく、コンピュータ端末を収めた箱だった。フランツィスカが先に食事を始めていると知ると、終わったら書斎に来るようにと告げて、自身はさっさと2階へ上がって行った。

フランツィスカは細い首の上に蒼白な顔を乗せて、書斎に現れた。目の下にくまができている。入り口から見て左手に見慣れぬライティング・ビューローが置かれていた。屋敷内のどこかから移動させてきたのだろう。木目の美しい古風な机である。軍服の上衣をソファの背に投げ、ズボン吊り姿の夫がその机上の端末と向き合っている。

「旦那様?」

「ああ、こちらへ」

椅子を引いてフランツィスカを座らせ、オーベルシュタインは横から手を伸ばして端末を操作した。青っぽい画面にカーソルが点滅し、複雑な数式がばらばらと出現した。

「あ…!」

昨夜、フランツィスカがノートに書き連ねていた、あの数式である。

「数式処理システムだ。機械が新しいアイデアを出してくれることはないが、すでに知れたところを手計算でやっていては埒があくまい。自由に使われるとよい」

オーベルシュタインは腕組みをして、ライティング・ビューローによりかかった。

「よろしいのですか?」

「そう言った」

「ありがとうございます」

フランツィスカの頬にふわりと赤みが差す。

たどたどしく端末を操作するフランツィスカを助けてやりながら、オーベルシュタインはいつになく饒舌であった。昨夜来、それぞれの胸にあった重い鉛が溶けていった。

「旦那様は、本当に数学がお好きですのね」

「数理の法則はこの世を支配する真理だ。貴賤貧富、有機無機を問わず、万物に平等に作用する」

フランツィスカは顔をあげて夫の目をじっと見つめた。

「何か…?」

「おっしゃるとおりだと、そう、思ったのです」

そう言って、小さなえくぼを浮かべ、幸福そうに微笑んだ。

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