Herr, Frau, Hund(5)

帝国暦472年8月23日

ヒョウヒョウと悲壮な叫びをあげる風が、窓をガタガタと鳴らしている。彼岸へと続く、あの青碧の湖を渡る風が――。

腕に感じていた温もりを突然に失って、オーベルシュタインは目を覚ました。薄暗闇の中、衣擦れに目を凝らすと、ベッドを降りようとするフランツィスカの白いガウンが目に入った。ナイトテーブルの時計は午前5時を過ぎたばかりである。

「暗い…」

低くかすれた声がいまいましげにつぶやいた。すでに日が昇っているはずの時間だ。義眼の光量調整が狂っているのかもしれないと思った。

「ああ、申し訳ありません、起こしてしまって」

彼の不快を癒やそうとするかのように、柔らかな手が額をなでる。

「いや。どうかされたか?」

「雷が…」

フランツィスカの声に重なって、地を這うような遠雷が響く。彼女はいたわしげに自室につながる扉を見やった。

「アインシュタインは雷が苦手なのです」

耳を澄ますと、犬が悲しげに鼻を鳴らず音が聞こえてきた。先ほど夢うつつで風の哭く声だと思ったのは、これだったのかもしれない。

「こちらに入れてやるとよい」

「はい」

フランツィスカの背中を見送りながら、オーベルシュタインは寝台の端に腰掛けて伸びをした。

雷がまた低く唸った。徐々にこちらに近づきつつある。

早足で駆け込んできた犬は、落ち着かぬ様子で寝室中を歩き回った。舌を出して細かな荒い息をし、時折大きなあくびをする。フランツィスカがかけてやる声も耳に入らぬらしく、そわそわと安心できる場所を探し求めた。

雨音がバチバチと窓を打ち始め、カーテンの隙間から一瞬の閃光が射すや、これまでにない大きな雷鳴がずんと空気を切り裂いた。犬はくぅと鳴いて硬直した。

 

約1時間後、主人の起床時間どおり寝室にやってきたラーベナルトは、「ひどい嵐でございますね」という一言を喉元で急停止させた。

寝台に腰掛けた主人の膝の上に毛むくじゃらの塊が乗っている。犬は大きな体を丸め、主人の肩に両腕を預けてぶるぶると震えていた。夫人が隣に座って犬の頭をなでてやっている。

「お、おはようございます。どうかなさったのですか?」

オーベルシュタインは無言で苦笑を返した。

「おはよう、ラーベナルト。雷が恐いのよ」

犬の矜持を気遣ってか、フランツィスカはささやくような声で事態を説明した。

ラーベナルトがカーテンを開けると、雨音が音量を増して部屋に流れ込み、犬はまた鼻を鳴らした。オーベルシュタインの大きな手が犬の背を上下にすべる。

「アインシュタイン、旦那様はお支度があるの。もう降りなさい」

落ち着いた色の壁紙が一瞬白く照らされ、しばらくして雷鳴が後を追った。

「ほら、もう3キロくらい離れていったわ」

フランツィスカが人差し指で窓を指し示す。犬は両耳を動かして、確認するようなしぐさをみせたが、膝から降りるそぶりはなかった。

「そうだ、アインシュタイン、下に降りてミルクをもらいましょうか?」

「アインシュタイン、ミルクだそうだ」

「ミルクよ。ね?」

説得を受け入れたものか、自身の空腹を思い出したか、犬はのそのそと膝から降り、扉の前で物言いだけにフランツィスカを振り返った。なぜついて来ないのか、というのである。ついさっきまで醜態を晒していたというのに、もう態度が大きい。

二人はどちらともなく顔を見合わせた。一人は可笑しさを抑えきれぬという目で、もう一人は口角をわずかにあげて。

しびれを切らした犬が催促の声をあげる。フランツィスカは、はいはいと返事をし、薄く髭が伸びた夫の頬に口づけて寝室を出て行った。

遠ざかる雷鳴を追うように、ラーベナルトは窓の外を眺めた。分厚い雲に覆われた空とは逆に、執事の心は明るい。彼は近い未来を幻視した。幼いオーベルシュタイン家の後継者があの膝に乗って泣くのを、若い両親がなだめる姿だ。このお屋敷もにぎやかになるだろう、と、その日が楽しみでならなかった。

 

雷が通り過ぎた後も、雨は降り続けた。 オーベルシュタインは軍帽に雨覆いをし、雨外套のフードをかぶせて屋敷を出ていった。軍の服飾規定で傘をさすことは認められていない。鞄と傘とで両手がふさがっていると、もしもの時に対応できないから、というのが理由である。

始業前の人事課の課室は、未明からの雷雨の話題でもちきりであった。帝都郊外では、被雷したり、火災が起こったりした場所があったらしい。

「あやうく遅刻するところでしたよ。娘が抱き着いたまま離れてくれなくて」

「俺もだ。うちの女房ときたら、雷が遠くにあるうちから大騒ぎでな。一向に朝飯ができないものだから、冷たいパンをかじって出てくるはめになった」

「ははは。ですが少佐、平然と雷を眺めるような女性も可愛げがないでしょう」

同意を示す複数の笑いがおこった。

服や鞄の水滴を拭いながら、聞くともなしに同僚の話を聞いていたオーベルシュタインは、一瞬、平然と雷を眺める女性を擁護したいような気になったが、結局何も言わずに端末のスイッチを入れた。彼はすでに無口で愛想のない新任士官として認識されはじめている。

端末の画面には面会申込みを示すランプがともっていた。

オーベルシュタインはこの時期、現役将官名簿の校正という無聊な仕事を片付けて、人事関連の相談を受け付ける窓口を担当するようになっていた。全軍からの実名・匿名の手紙や通報を処理する業務であるが、ありていに言えば密告を受け付けるのが仕事であった。彼のもとへは、不正、暴力、いじめ、昇進・降格への不満など様々な訴えが集まってきた。中には恨みつらみに根ざす捏造や事実誤認などがあり、訴えの真実性からして疑わしいことも多い。人事課が調整に乗り出すと、かえって問題を複雑化してしまうことがあるのが難儀であった。

面会を申し込んで来たのはヘルマンという准尉で、オーベルシュタインとは幼年学校時代の同期である。急なことであるが、この日人事課に辞令を受けに行くついでがあるので、話を聞いてもらいたいという。オーベルシュタインはヘルマンと特に親しかったわけではないが、その名は記憶に残っていた。彼は幼年学校を卒業後すぐに任官したので、会うのは4年ぶりとなる。

 

「お久しぶりです、少尉殿。本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」

軍隊において階級の上下は厳格に区別されなければならない。かつての同期であっても、ヘルマンはすでにオーベルシュタインの下位者であった。

ヘルマン准尉は先月末まで軍務局被矯正者管理部に所属し、矯正施設管理の任務についていた。被矯正者とは、通称で元叛徒と呼ばれ、非公式には同盟の俘虜と呼ばれる者たちである。帝国臣民としての再教育のためと称して、辺境惑星で強制労役を課されている。

ヘルマンの訴えは、彼が担当していた矯正施設から囚人が消えた、というものであった。

「囚人の総数は1万8千名です。巡回は半年に一度で、その際に地表に降りて点呼と指紋照合をするのですが、先月の点呼で前回点呼より600名近く減っていることが分かりました」

「原因は?」

「囚人たちの証言では、坑内作業中に大規模な落盤事故が起こり、地中に取り残されたということです。遺体は確認できませんでした」

「ふむ」

オーベルシュタインは指先を少し動かして続きを促した。

「小官がおかしいと思うのは、その600名の中に士官が多数含まれていることです。士官は坑外で作業を監督するものでしょう? 坑道奥深くの落盤事故に巻き込まれたりしますか?」

「死者が出た場合、通常はどう処理するのか?」

「規則では囚人側に報告義務があって、死体の確認後に焼却処分することになっています」

オーベルシュタインの眉がわずかによる。

「火葬」

「え? ああ、そう言うんですか?」

帝国では土葬が一般的であり、遺体を燃やすことは死者への冒涜と認識されている。矯正施設の囚人を「焼却処分」をするのは、礼節をもって葬る必要を認めないという意思表示であろう。

「同盟人、いや、囚人の中には、その、火葬ですか? それを喜ぶ者もいるようですが、やはりそのまま埋めてやりたいと思うのが人情でしょう。それで囚人たちは報告を怠って、勝手に埋葬してしまうことが多いのです。実は、管理部のほうでも黙認しています。後から掘り起こして焼くのも嫌ですから」

相談者は心底気味悪そうな表情を作った。

「上へ報告したか?」

「もちろんです。しかし、落盤事故でないなら病気だろう、と。去年は冬が厳しかったようですし。疫病となれば収容者全員が処分対象になるかもしれませんから、それを恐れて隠しているのではないか、と、こうおっしゃるのです」

「ふむ」

「ですが600名ですよ? 収容所は鉱山地帯にあって土壌のある場所などわずかですし、わずかな土壌も囚人たちが勝手に作った墓でいっぱいで、埋葬地が欲しいと要望が出ていたくらいです」

囚人自治組織の代表であった技術士官も消えていた。ヘルマンに遠い故郷の夜空を彩る星座の話をしてくれたことがあったという。

これはリマ症候群というやつだな、とオーベルシュタインは断じた。収監者が被収監者に同情や共感を抱く現象である。ヘルマンはどうやら、囚人らの行方を案じているようだ。

「脱走の可能性は?」

「それはないと思います」

矯正所はいくつかの惑星に分散して設置されており、そのすべてを常時監視しているわけではない。だが、投下物資がなければ生活もおぼつかない未開発の惑星ばかりであるから、囚人は惑星外どころか収容所の外に出ることもできぬはずだ。外部からの手助けがなければ脱出など不可能なのである。

「それで卿は、彼らがどこに消えたと考えているのだ?」

ヘルマンは周囲をはばかるような仕草をして、どこかの貴族が連れ去ったのではないか、と答えた。

――ありえなくはないか…。

長引く戦争で若い男が次々と戦死するなか、貴族の経営する企業は常に人員不足に悩まされているという。高等教育を受けた優秀な人材がこぞって軍関係に就職するため、特に技術者が足りていない。士官を連行する動機にならぬともいえなかった。

オーベルシュタインはヘルマンから聴取した状況を報告書にまとめ、「情報部の処理を要する」という意見をつけて人事課長に提出した。課長はのろまな男ではないが、その鋭敏さは軍内部の人事異動や勢力バランスのみにおいて発揮され、組織運営の勘はにぶい。面倒な仕事はどんどん他の部局に回し、それをもって自らの仕事を完了したことにする傾向がある。おそらくこの報告もどこかに回されることだろう。

 

土曜日は半日勤務である。

どしゃぶりの雨にさらされた帝都は、昼前にすっかり乾いた地表を取り戻していた。雷雲が去った後の空に輝く太陽は、いつにも増して明るい。

午後1時頃、ブルーメン広場に差し掛かったオーベルシュタインは、聞き覚えのあるような犬の声を聞いた。視線を向けると、噴水の向こうのプラタナスの木陰に、つば広の帽子をかぶったフランツィスカが犬を連れて立っているのが見えた。ほっそりとした身体を包む夏らしい色のドレスの裾が、風に揺れている。オーベルシュタインは視線を固定したままその場で歩みを止めた。

それが目の障害に起因するものか、生来の資質によるものかは定かでないが、彼は視覚的に感知される美醜に極めて冷淡であった。世の人がこぞって讃えるような風景や絵画といったものに心を動かされたためしがない。だが彼はこのとき、緑陰の中に佇むフランツィスカを見て、美しいと、確かに感じたのだった。

犬がせわしなく足踏みをしてオーベルシュタインを呼ぶ。

「おかえりなさいませ」

「ああ。…お出かけか?」

フランツィスカは一瞬言葉に詰まって、ナインと答え、楽しそうに笑った。

犬は腹を見せてなでてくれとねだった。オーベルシュタインがすぐ横のベンチに掛けて相手をしてやると、犬は土のついた足をオーベルシュタインの膝にかけようとして、フランツィスカに叱られた。それでなくともラーベナルトは軍服に犬の毛が一筋も残らぬよう、日々心を砕いているのだ。足跡までつけては申し訳ない、と彼女は言った。

「アインシュタインは、いくつかな」

犬に向けて発せられたようにも聞こえる問いかけであったが、人語を操れぬ犬に代わって人が答えた。

「11歳です。人でいえば、もう70歳を超えたおじいさんだそうですわ」

「七十…」

「今朝のような様子を見ると子供のようでしょう? でもこの頃少し目が見えにくくなってきたようで、心配していますの」

「そうか」

隣に視線を走らせると、寂しげな横顔が目に入った。犬の寿命は15年もないと聞くから、近いうちにこの犬を看取ることになるのだろう。この人はきっとひどく悲しむな、とオーベルシュタインは思った。

プラタナスの葉の間からこぼれ落ちる光が、不規則な形の影を作って揺れている。オーベルシュタインは軍帽を取って髪をなでつけ、またかぶりなおして立ち上がった。

「空腹だ」

「お昼はマウルタッシェンだそうです」

夏の盛りを過ぎた午後の、短く穏やかな家路であった。

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