Die Toteninsel (3)

彫像のように居並ぶ使用人たちの様々に感情のこもった視線に送られ、オーベルシュタインとフランツィスカは食堂を後にした。

4階の居室では、ただ一つ灯された卓上ランプがブランデー色の淡い光を放ち、暗い部屋に丸いかさをかけていた。寝室に続く扉の向こう側で犬が悲痛な声で鳴き、爪でかりかりと扉を掻いた。オーベルシュタインは犬を出してやるようにと無言のまま扉を指差すと、自身はその場に立ち止まって何度か瞬きをし、小さく舌を打った。義眼の暗順応に時間がかかりすぎている。

開かれた扉から飛び出してきた犬は、かわるがわる二人にすり寄り、鼻先を押し付けた。犬というのは、率直に感情を表すことを躊躇しない生き物だ。今のオーベルシュタインには、それが煩わしくてならない。

「あの…、申し訳ありませんでした」

「あなたが謝るようなことは何もない。…私が、間違っていたのだ」

その唐突な言いように、フランツィスカは犬をなでる手を止めて彼を見上げた。視線がからまろうとする直前に、感情のこもらぬ目がすっと彼女からそらされる。

「お疲れだろう。早く休まれるとよい」

オーベルシュタインは、片手で扉のハンドルを握り、もう一方の手をフランツィスカの背に当てて寝室に入るよう促した。犬が何度か彼のほうを振り仰ぎながら、後をついて行った。

ばたりと扉を閉ざして彼らを視界から消すと、オーベルシュタインはジュストコールとクラバットを椅子の背に投げ、水差しの水をタンブラーグラスに移して一気に飲み下した。胸にたまった空気を吐き出しても、重苦しいわだかまりは存在感を増すばかりであった。

 

婚礼の夜と同じように、オーベルシュタインは窓辺のカウチに寝そべって湖を眺めている。星明りの下、湖面は深い群青色を呈していた。湖を渡ってくる強い西風を受けて、ガラス窓がかたかたと音を立てる。近くの梢から時折、梟の鳴く声が聞こえた。

――180万帝国ライヒスマルク…。

どうかしている。尋常な額ではない。

劣悪遺伝子の保有者など所詮生きるに値しない命だ。それが無理をして世間との釣り合いを取ろうとした。180万帝国マルクという大金は、その対価として支払われたのだ。

彼女は、すべて承知で嫁いできたのだろう。聞くに堪えぬ父の嘲罵を受容するふうであった。そうまでして守らなければならないほど、この家や血が尊いか。

――父は、私に妻を買い与えたのだ。

オーベルシュタインは両の手のひらを目に強く押しあてた。義眼とコネクターとががっちりと噛み合うのが感じられ、それ以上は奥へ進むことのできない人工物が手のほうへ無機質な抵抗を返してきた。

分かっていたことではないか。劣悪遺伝子保有者のもとに望んで嫁ぐ者などいるはずもない。まして、その子を産めと言われて苦痛を覚えぬことがあろうか。

彼女は拒まなかった。いや違う、拒めなかっただけだ。私は、金の力で彼女を組み敷いてきたのだ。

自己嫌悪、彼女への哀み、そして、騙されたのだという腹立ちが、オーベルシュタインの中で複雑なモザイク模様を描いた。

女優の娘、か。父が案ずるまでもない。実に見事な演技だった。愚かにも、私はその気にさせられたのだ。

父が余計なことを言わなければ、虚構の中でそれなりに暮らせたかもしれぬのに。

――もう、終わりだな。

典礼省が未だ婚姻届を受理していないのは幸いである。ここへ来るための航空券も、フォン・クラヴィウスの名で手配したのだ。彼女はただの同居人に過ぎない。

帝都へ戻ったらどこか身を落ち着けることのできる場所を探してやって、彼女を解放しよう。生活に困らぬだけのことはしてやらねばなるまい。

いずれ相応しい男が現れて、彼女を幸福にしてくれるはずだ。それがせめてもの償いになればよいが。

オーベルシュタインは自身の心を満たした感情の名を探し、やがて「失望」という言葉を見い出して、自嘲に唇をゆがめた。

 

高緯度地帯にあるクライデベルクは、冬の訪れが早い。9月の下旬ともなると、すでに夜間は暖房が必要なほどで、部屋の隅に置かれた背の高い陶器ストーブにも火が入れられている。輻射熱がじんわりと部屋を暖めるにつれ、外気との温度差で窓ガラスが曇っていった。

柱時計が鐘を一つ打った。果たして正時であったか、半時であったか、定かでない。時差の影響も手伝って、オーベルシュタインは眠ることができず、風が窓を打つ音を聞きながら左手の指輪をぐるりぐるりと回していた。

また梟の声が低く響いたとき、こつこつと扉を叩く音が聞こえた。ついで上履きがぺたりぺたりと床を踏んで近づいてきて、衣擦れがカウチの足元でとまった。

オーベルシュタインは窓を見たまま振り返ろうとはしなかった。とても顔を合わせられなかった。

ほどなくして、フランツィスカの喉から嗚咽が漏れはじめた。彼女が息を吸い込むたび、曇った窓ガラスに映った白いきぬがゆらゆらと揺れた。俯いたあごの先から落ちる水滴が、胸の下で握りしめた手にあたっては、ぽたぽたと音を立てる。

オーベルシュタインは大きく息をはいた。身を起こしてカウチに腰掛けると、膝に肘をつき、両手を組んで額を預けた。ひどく頭が重い。

「どうして欲しいのだ」

かすれた、刺のある声だった。

「涙で何かを要求するのはやめてもらいたい」

彼にとって、涙とは不可解なものだ。悲しみや喜びといった感情の高ぶりに応じて人が涙を流すのだということは、もちろん知っている。ただ、彼には実感がないのだ。義眼は、じっくりと観察しなければ、それが人口眼球であると分からない程度には精巧にできている。しかし、感情に連動して涙を流す機能は持たない。目の表面を潤すための水分を保持することができるだけだ。それゆえ彼は、人の流す涙に当惑もすれば、苛立ちもした。

フランツィスカは両手を重ねてナイトガウンの胸を押さえ、整わぬ息の合間に切なく訴えた。

「わたくしを、ちゃんと、見て、ください」

オーベルシュタインの体をざっと怒りが駆け廻った。なお自分を傷つけたらぬ女に対する加虐心が胸中に渦巻いた。

細い手首を乱暴に引っ張ってカウチに座らせ、その襟元をつかんで彼女の目をきっと見据える。こうすることで他人が脅えることを、彼は経験として知っていた。

「これで満足か? この作り物の目を、それほど見たいか」

だが、脅えることになったのは、オーベルシュタインのほうであった。彼を苦しめる女は、オーベルシュタインの目を見つめて、こくりとうなずいたのだ。涙にぬれた青碧の瞳に、冷たく無機質な義眼が映り込んでいる。

フランツィスカは震える手を伸ばして彼の両頬を包み、小さなえくぼを浮かべて、安堵したように微笑んだ。婚礼の夜の床で見せたのと同じ微笑みだった。

「わたくしは、旦那様の目がとても好きですのに」

頬にあてたフランツィスカの手に、オーベルシュタインがぐっと奥歯をかみしめたのが感じられた。

「旦那様の目は、数理の法則と同じですもの。何に対しても等距離で、公平な目」

冷たい指先で義眼にかかった髪の毛をそっとかきあげる。

「この視線の先になら、わたくしにもちゃんと居場所があると、そう思えるのです」

嫌悪も、侮蔑も、憐憫もない。フランツィスカにとってオーベルシュタインの目は、ただありのままに自分を見てくれる優しい目だった。

「ですからどうか、目をそらさないでください」

青碧の瞳から、また涙がこぼれ落ちた。

「わたくしは、あなたを失うのが怖い」

オーベルシュタインは呼吸を停めてフランツィスカを見つめ、細く息をはいてその手に頬を預けた。 眉間に深いしわが寄った。

思えばこの3か月半の間、彼女は一度としてオーベルシュタインの義眼に恐怖の色を見せたことはない。いつもあの美しい瞳でまっすぐに彼の目を見て、微笑みかけた。

――もしこの目が義眼ではなかったら、このような婚姻でなかったら、私は何の屈託もなくこの人を愛し、子を持ちたいと願ったのだろうか。

我ながら、栓の無い仮定であった。

己もまた、彼女を失うことを恐怖しているのだと、彼は気がついたのだった。

オーベルシュタインはフランツィスカの体を引き寄せ、髪を梳くように指をからめて、その首筋に顔をうずめた。何かは知らぬ花の、さわやかな甘い香りがした。

――この目は、見る者の感情を映す鏡に過ぎない。あなたは自分の見たいものを見ているだけだ。私は、あなたに値しないというのに。

彼はその言葉を飲み込んで、かわりに細い身体を抱く腕に力を込めた。もしかすると、虚構から醒めて、また新たな虚構に落ち込んだだけかもしれない。だが、それでもよい、と思った。

 

オーベルシュタインのシャツの背中を固く握りしめていた手が、赤子をあやすように優しくリズムを刻んだ。その手の動きに合わせて、少し低めの心地よい声が彼の耳元で歌う。

 

緑の森の小さな雛は 高い梢の暖かいおうち

楽しい夢を見てすやすや眠る

優しいお母様の羽の下

風も雷も怖くない 狐も狼も怖くない

 

初めて聞く歌だった。

とても懐かしく、切ない歌だった。

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