Die Toteninsel (4)

フランツィスカが「劣悪遺伝子」という正体不明の言葉を初めて聞いたのは、つい半年ほど前である。

クラヴィウス家の屋敷のある高原でも寒さがわずかにゆるんだ3月のはじめ、継母が突然侍女も連れずに彼女の部屋を訪れて、憔悴しきった顔で彼女の婚約が調ったと告げたときのことだ。

――婚約……。

やはりお父様はもうこの世にはいないのだ、とフランツィスカは思った。彼女は遺体と対面することも、葬儀に参列することも、埋葬に立ち会うことも許されなかった。父の死に対して実感がない。もともと家を空けることの多い父であったから、逝去など何かの間違いで、また急に帰ってくるのではないか。フランツィスカはどこかでそう思わずにはいられなかった。エルベ川に転落したという日の朝、父は3か月半遅れの誕生日プレゼントを持ってきて、「明日帰るよ」と言い残し、帝都に出かけて行ったのだ。

「勘違いしないでちょうだいね。あなたの結婚をお決めになったのはお父君ですよ」

フランツィスカは指先が冷たくなっていくのを感じた。一瞬、父もとうとう自分が邪魔になったのではないか、という思いが頭をよぎった。

「お相手が劣悪遺伝子の保有者だからといって、恨んではなりません。あなたの生母の出自を考えれば、ちょうどよい釣り合いとも言えるのですからね」

継母は、クラヴィウス家にとっては恥辱だが、と続けたが、フランツィスカの耳には入っていなかった。

彼女はただ、いつも痛ましそうに、それでいて懐かしそうに自分を見ていた父の目を思い出して、

「わかりました」

と、細い声で答えた。

 

それから数日、フランツィスカは張り出し窓の窓座に腰掛け、雪の残る外の景色を眺めてばかりいる。父を喪った悲しみが胸に迫って、何をしても涙があふれた。抱きしめた犬の白い毛が黒い喪服にいくすじも貼りついていた。

廊下の先の作業部屋から、教育係グヴェルナンテと小間使いの話し声が響いてくる。二人とも少し耳が遠くなっていて、いつも大きな声で話すのだ。

「やれやれ、私のこの十年はいったい何だったのかと思うわね。いっぱしの貴婦人にお育てしようと骨身を削ってきたというのに、よりにもよって劣悪遺伝子だなんて。女の価値というのはね、結局のところ、どんな殿方に嫁ぐかで決まるものですよ。それが、こんな情けない思いをするとは思わなかった」

「あんたはお嬢様を嫌ってたじゃないか。旦那様を誑かした女の娘だってさ」

「それとこれとは別ですよ」

教育係は若い時分、逝去したフランツィスカの父の世話係であった。大事な若様が家を出る原因となったフランツィスカの母をとことん憎んでいる。彼女にとってフランツィスカは、終始、フェザーンの性悪女の娘であった。

「どうせ結納金をたんまり受け取ったんだろうよ。奥様は金遣いが荒いって話だからね。お嬢様は売られたのさ。それで、嫁ぎ先はどこの家だって?」

「それは…、知らないままにしておきなさいな。劣悪遺伝子の家系と縁戚だなんて、クラヴィウス家の名誉にかかわりますよ」

「そもそも、そんなのが嫁を取ろうってのがずうずうしいんだよ」

「平民とは違いますからね、お家の事情というのがあるのよ。やれやれ、寝所のこともご指南しないとねえ」

「劣悪遺伝子ってったって、男は男だろうに。目をつぶって横になってりゃすぐに終わるさ」

「そんなわけにはいかないでしょう。ちょっと、お嬢様の前でそんなはしたない言い方をしないでちょうだいよ」

「はいはい。でもさ、考えてみりゃかわいそうだよね。どんな子供が生まれるか分からないしさ」

「そうねえ…」

最後のほうは二人が何を話しているのか、フランツィスカにはあまり理解ができなかった。ただ、繰り返される「劣悪遺伝子」という言葉が耳に残った。

 

「この停留値はどうやって求めますかな?」

家庭教師の老人は白板に汎関数を1つ書くと、沈んだ表情を見せる教え子に問いかけた。

「オイラー=ラグランジュ方程式で」

「よろしい。では始めてください」

老教師はいつものごとく安楽椅子に身を沈め、居眠りをはじめた。フランツィスカは計算を数行すすめたところで手を止めた。

「ケラー先生」

「ん? できましたかな?」

「いえ…あの…」

ケラーは白いふさふさとした眉の下から、フランツィスカの喪服にちらりと視線を走らせた。この老人は誰とも目を合わせようとしない。

「先生、劣悪遺伝子とは何ですか?」

老教師は白いあごひげに手を触れて首をかしげた。

「わたくし、オーベルシュタイン子爵の御子息のところへ嫁ぐことになったようですの。それで、その夫となる方は、劣悪遺伝子の保有者、というのだそうです」

「オーベルシュタイン子爵?」

「ええ。ご存じですか?」

ケラーは知らぬと言って、計算の進捗を尋ねた。

「先生、計算はまだ…。あの、劣悪遺伝子のことなのですけれど…」

「ん? ああ、劣悪遺伝子ですな」

ぎしりぎしりと安楽椅子が軋んだ。

「ふむ…。簡単に言えば、『塩基配列の違い』ということでしょうな」

「塩基配列?」

ゴールデンバウム王朝の開祖ルドルフは、弱者を憎んだ。身体障碍者や貧困者、劣等者を劣悪な遺伝子の保有者と断じ、社会を衰弱させ、疲弊させる危険な因子とみなした。その強烈な信念を具現化して制定されたのが「劣悪遺伝子排除法」である。

皇帝や皇族、貴族などは自ずから優良な遺伝子の保有者であるから、国家を統治する正当な権利を有する。他方、劣悪遺伝子の保有者に対しては、帝国に害悪を及ぼさぬよう断種を強制する。そのような時代が三百年以上続き、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の時代になってようやく、「劣悪遺伝子排除法」は有名無実化された。

しかしながら、劣悪遺伝子を忌避する風土は帝国臣民に深く根付いたままだ。

ケラーはゴールデンバウム王朝と劣悪遺伝子の歴史を語って聞かせた。フランツィスカには初めて聞く話ばかりである。

「しかしお嬢様。遺伝子に優劣などないと、わしは思いますな。この世には一人として同じ人間はいないのですから」

「塩基が少し違うだけ…」

「さよう。ほれ、その犬…」

フランツィスカは「アインシュタイン」だと口を挟んだ。急に名前を呼ばれた犬は、何事かと期待のこもった目でフランツィスカを見上げた。

「ああ、アインシュタイン。例えば、お嬢様とアインシュタインの遺伝子は95パーセントほどが一致しておる。人と犬とでさえ、その程度の違いなのです。まして人間同士の違いなど、ほんの些細なものにすぎぬでしょう」

フランツィスカはケラーの言葉にうなずき、犬の頭をそっとなでて、手元の計算に戻ろうとした。

「しかしお嬢様、そのオーベルシュタイン家との縁組はどこから出た話なのです?」

「存じません。お父様が帝都に行かれた日にお決めになったようですけれど…」

「帝都…。さては樫之木館アイヒェンバウム・ハオスか…」

ケラーはそうつぶやいたきり両目を閉ざして、ゆっくりと安楽椅子を揺らしていた。

 

オーベルシュタイン子爵の居城の西側には、水滴の形をした広い湖がある。城から湖へは白樺の森を抜ける細い道が切り通してあるが、行き来する者はまれである。

オーベルシュタインは小道の入り口で拾った落ち枝を体の前で上下に振り、クモの巣を払いながら湖へと向かった。後ろをフランツィスカがついて行く。

夜来の風で、季節がまた少し進んだようだった。口を丸くして息を吐くと瞬時に凝固し、白く漂っては霧散する。散ったばかりの落ち葉が色とりどりに石畳を覆い、朝露に濡れて色鮮やかさを増していた。

リードをはずしてもらった犬はいつになくはしゃいだ。初めての道だというのに先導をかってでて、時折振り返っては、のろまな人類二名が脱落せずについてきているかを確認している。

湖畔に出ると視界が大きく開けた。薄青の空に黄灰色の雲が薄くたなびき、寄せては返す波が音を立てる。二羽の鶺鴒せきれいが鋭い声をあげながら、朝日に輝く湖上を波打つように飛んでいった。

フランツィスカは湖に突き出た桟橋の先のガゼボに立って、湖と同じ色の瞳で水を覗き込んだ。緑がかった青い湖水はどこまでも透明である。泳ぐ魚の影が湖底に沈む倒木に映るのがはっきりと見えた。

この水は地下の石灰層からの涌き水で、常に一定の温度を保っている。外気が氷点下30度に達する真冬でも湖面に薄く氷が張るだけなのだ、と、オーベルシュタインは説明した。湖水は川となってクライデシュタットまで流れていく。

雲が日を覆い、ガゼボの周囲が薄暗くなった。

「あそこに、オーベルシュタイン家代々の墓所がある」

オーベルシュタインの長い指が対岸を指し示す。

湖の反対側は、石灰岩が白く迫る崖であった。一族の誰かが死ねば、この桟橋から棺を乗せた船を出して向こう岸まで運ぶのだという。墓所があるというあたりは、常緑樹の大木が林を形成しているようだ。

――この方も、わたくしも、いつかあそこへ葬られるのかしら。

寂しい景色だ、と、フランツィスカは思った。

クラヴィウス家の屋敷にあった絵によく似ている。確か「死の島トーテンインゼル」という表題だった。暗い水に棺を乗せた小舟を浮かべ、白いフードをかぶった長身の男が墓のある島へと向かう絵だ。絵の中の死の島は、日の光を斜めから浴びて不気味に輝いていた。

ちょうど目の前の、雲間の朝日を受ける対岸の岩壁と同じように。

オーベルシュタインの目は白壁を見つめ続けた。

「幼い頃からいつも、早く向こう岸に行きたいと思っていた」

恥ずべき遺伝子を持って生まれながら、こうして生かされてしまった。もしルドルフ大帝の御代のように生まれてすぐに処分されていれば、誰も不幸にはならなかったはずだ。物心ついたときには、オーベルシュタインはすでにそう考えていたように思う。

だが母が、彼の幼年学校入学に反対して言ったのだ。「軍人になって命を縮めることはない」と。

――母上は、私に死んでほしくないのか。

10歳のオーベルシュタインは、衝撃のあまり身動きすることができなかった。父に打たれる母を見ながら、母がそう言うのなら生きねばならないような気がした。今でこそ、あれは幼い自分が望んだ錯覚だったのだと確信しているが、それでもこの十年の間、彼はこの湖畔を訪れるたびに母の言葉を思い出した。

湖の美しい青碧は、彼と冥府とを隔てる色である。

フランツィスカは思わずオーベルシュタインの手を取った。体温の低い、大きな手だった。夫のこの表情を、彼女はよく知っている。彼が彼女を抱いて眠りにつく前に見せる、哀しい顔だ。

オーベルシュタインは一度妻を振り返り、湖と同じ色の瞳を確かめると、また対岸の墓所を見つめてフランツィスカの手を強く握り返した。

「私は…遺伝子が怖いのだ。この遺伝子が受け継がれていくなど、怖くてたまらない」

血の滴るような声だった。

「とても、子供など持てない…」

フランツィスカは夫の心にある深い悲しみの正体を初めて知った。この方も、この世のどこにも居場所がないのかもしれない。塩基配列のわずかな違いが、これほど深く人の心を傷つけるものなのだろうか。

オーベルシュタインは一度深くうつむき唇を噛んで、意を決したようにフランツィスカを見つめた。

「あなたはそれでも、私とともに生きてくれるだろうか」

今更のような求婚であった。人工の目は何の情熱も宿してはおらず、その声はむしろ赦しを乞うかのようであった。

オーベルシュタインは自身の身勝手さをよく承知している。だが、彼が心から誰かを愛するには、どうしても遺伝子の鎖から解き放たれなければならなかった。

「はい」

愛おしい冷たい目を見つめ、フランツィスカははっきりと答えた。フランツィスカにとっては、十分であったのだ。自分を必要としてくれる人がいるということが、彼女には何よりも貴重なことであったから。

幸せだと思った。そして、この方に幸せになってほしいという切実な思いが胸にあふれた。

朝の冷たい風が二人の髪をなぶっていく。いつのまにかそばに戻ってきた犬も、風に毛をなびかせて朝の空気の匂いをかいだ。

オーベルシュタインは妻の頬に手をあてて、もう一度その瞳を見た。心の命ずるままに口づけ、腕のうちにしっかりと抱きしめる。

青碧はもはや彼を彼岸へと誘う色ではない。彼が此岸しがんに留まる理由だった。

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