Die Toteninsel (5)

湖から城へ戻る小道である。冬に向かって力を失いつつある北国の太陽が白樺の紅葉を照らしている。

前をいくアインシュタインが急に静止し、片方の前足を上げて真剣な表情をした。小道をリスが横切ったのだ。犬は本能に従って獲物を追いかけようとしたものの、機敏な小動物はとっくに木の上である。フランツィスカが樹上を指差して教えてやったが、犬の目ではとらえることができず、アインシュタインは漠然と一声吠えて、地面の臭いを嗅ぎながら先へと進んだ。自慢の鼻で探索を続けることにしたようだ。

オーベルシュタインの心はかつてなく平穏であった。つい先ほど、悲壮な覚悟とともにこの道を下ったのが信じられぬくらいだ。彼は初めて、心を委ね、感情を共有したいと思う人を得たのである。

「フランツィスカ」

振り返ったフランツィスカがにこりと笑いかける。オーベルシュタインは道の脇に自生するベリーの木からよく熟れた実を取ると、きれいなのをいくつかを選んで彼女の手に乗せてやった。フランツィスカが礼を言って口に運ぶのを見て、自分も一つ口に入れる。悪くはないが、旬の時期に比べてやや水っぽいようだった。

「私たちは、二人称を改めるべきかな」

フランツィスカは数瞬のあいだ戸惑いの表情を浮かべ、その言葉の意味を理解するや、青碧の瞳に喜びをきらめかせた。敬称ではなく親称で呼び合おう、というのだ。フランツィスカにとってそれは、家族になることと同義である。彼女を親称で呼ぶ人は両親だけであったし、父を亡くしてからは誰一人いなくなった。

「ええ、パウルさま」

手の中の青い実をつまんで、フランツィスカは夫の口元に差し出した。オーベルシュタインは右手を首の後ろにやってしばしその実を凝視し、やがて観念したように口を開けた。季節はずれのベリーはやはり水っぽかったが、心をくすぐるような甘みがあった。

――この方は、本当はとても表情の豊かな方なのだわ。

フランツィスカはそう思う。

「目は口ほどにものをいう」というが、夫の目は決してその心のうちを映すことはない。常に平静を保ち、この世のあらゆる事物を超然と見据えている。心の内を察することが難しい人であるけれど、彼にもちゃんと感情があって、それがほんの小さな仕草に現れる。フランツィスカは、そうした瞬間がとても好きであった。

西塔の下まで戻ったとき、遠くを走る地上車の走行音が聞こえた。子爵を空港まで送って行った車が戻ってきたのだ。父がもう城にいないというだけで、オーベルシュタインはずいぶんと気が楽になった。

彼はその身に纏わり付く責任の一つを放擲することを決めてしまった。貴族の家系にとって後嗣の不在がどれほどの重大事かは、オーベルシュタインとて承知している。いつかはあの父と、真正面から向き合わねばならぬのだろう。

オーベルシュタインは父のことをよく知らない。知りたいとも思わない。ただ、父が貴族らしかず、労働を苦にしない人であるのは確かなようだ。もともとオッフェンバッハ男爵家の三男で、幼年学校、士官学校と進んで軍人となり、母と出会ってオーベルシュタイン子爵家の婿となった。子爵家の経済は当主自らが働かずとも何ら困るようなことはないはずだが、父は何が面白いのか軍務に精励している。もっとも、この戦時下で四十を過ぎても中佐あたりにとどまっているところからみて、決して優秀な軍人とは言えぬ。そろそろ予備役編入の話が出てくるはずだ。いわゆる無能な働き者という類いで、周囲に面倒事の種を撒き散らしているのに違いない。

子爵家の領地経営に父は一切関与しない。先代の当主であるオーベルシュタインの祖父が、それを許さなかったのだという。理由は定かでないが、あるいは父の人柄や能力を見切っていたのかもしれない。

やはり養子であった祖父は、オーベルシュタインが3歳の頃に他界している。小雪の舞う中、白い布をかけた棺を積んだ小舟が湖を渡って行ったのを、オーベルシュタインはよく覚えている。帝都の屋敷で生まれた彼が、繰り返し義眼の手術を受けて、この城に移ってからすぐのことだった。そのとき初めて、彼は死というものの存在を知った。

祖父は幼い孫を膝に乗せ、いろいろな話を聞かせてくれたようだ。だが、オーベルシュタインの記憶に残るのは一つだけである。

彼が目に深刻な障害を負って生まれたことが分かったときのことだ。いまだ産褥の床にあった母の枕元で、父と祖父による話し合いが持たれた。劣悪遺伝子保有者である赤子をいかに扱うか、についてだ。父は旧来の国法に則り処分するべきだと主張した。それが家の名誉を守り、国家に報いる正しき道であると。他方、祖父は、オーベルシュタイン家に久々に誕生した男子を貴重に思った。いずれ次の子も生まれようから、それまでは保険のつもりで嫡子として育てるがよかろう。そう申し渡した。

生後数日のオーベルシュタインもその場で大人たちの話を聞いていたというが、もちろん彼にその日の記憶はない。しかしながら、彼はその様子をありありと想像することができる。母が、二人の会話をどのように聞いていたかを除いては。

そうして、オーベルシュタインは言わば祖父によって命を救われたわけであるが、そのことを祖父に感謝しているのかどうかは、彼にもよく分からない。

「いずれは、お前を廃嫡することになる」

幼い彼に、祖父は繰り返し言い聞かせたものだ。その日が来るのを心待ちにして、祖父は死んでいったようであった。だが願いむなしく、オーベルシュタインは独子として育った。

 

午後、オーベルシュタインとフランツィスカは城の図書室にいた。面白そうな本があれば帝都の屋敷に持ち帰るつもりである。時差のせいもあって、二人とも眠くてしかたがない。オーベルシュタインが「だから、クライデベルクに戻るのは嫌なのだ」とこぼしながら、本に積もった埃を吹いたとき、子爵夫人の侍女があらわれた。

「奥様がご一緒にお茶を、との仰せです」

オーベルシュタイン子爵夫人は、日当たりのよいサロンに端座して二人を待っていた。明るい場所で見てもなお、顔色が悪い。「犬もどうぞ」との言葉にしたがって、アインシュタインも一緒である。フランツィスカが膝を曲げて挨拶をする横を犬はすいすい歩いて夫人に近づき、そのドレスの裾のあたりで一回りして腰を下ろした。夫人は嫌そうな顔もせず犬を見て、手振りで息子夫婦を招き入れた。

誰も何も話さない。

オーベルシュタインは母が使い終わったミルクポットを取って、フランツィスカの手の届くところへ置いてやった。

オーベルシュタインにとって、母とこうして茶を飲むなど初めてのことである。母と空間を共有することは、父の前に出るのとはまた違った緊張を強いられた。父のことは教官か上官だと思って対応すればよい。だが母に対しては、息子として振る舞わなければならない。どうすれば息子という役割を上手く演ずることができるのか、オーベルシュタインにはそれよく分からない。

彼は幼年学校に入るまで、世の一般的なムッターがどのようなものか、まるで知らなかった。入学式の後、同級生の母親たちは、寮生活を始める息子に微笑みかけ、口づけを落とし、しっかりと抱きしめ、涙さえ浮かべながら名残惜しそうに去って行った。

彼がその両目の障害のために母を失ったのだと気付くまで、そう長い時はかからなかった。彼と級友たちとの違いは、それだけであったから。

サロンでは間の持たない沈黙が続いている。

フランツィスカは自分が何か話したほうがよいのではないかと思ったが、昨晩、不用意なことを言って義父を激怒させたばかりであるので、口を開く勇気を持てなかった。義母は気難しそうな印象の人である。けれども、先ほど彼女が夫に礼を言ってミルクポットに手を伸ばしたとき、優しい目でこちらを見たようにも思った。

茶請けに出されたキルシェトルテがなくなった頃、侍女が来客を告げた。鳥打帽を脇に挟んでサロンに入ってきたのは、背中が少し丸くなった小柄な男であった。オーベルシュタインは何度か会ったことがある。彼はオーベルシュタイン家の保有する石灰岩鉱山の責任者で、名をハンケという。

サロンに入ってきたハンケは、子爵夫人と同席する若い男女を見て驚いたようだった。記憶を探るような表情で二人を眺め、オーベルシュタインの顔で視線を固定すると、

「あぁ、若様でいらっしゃいますな。これは、ご立派になられて」

と、懐かしそうな声をあげた。若い娘のほうは誰も紹介しようとしなかったので、ハンケは小さく会釈した。娘は「ごきげんよう」と応じ、ハンケが突然足元に現れた巨大な犬に驚いて飛びのいたのを見て、「ナイン、アインシュタイン」と、犬を叱った。犬は来訪者の詮議を終えて、また夫人のそばに寝そべった。

子爵夫人はハンケの差し出した帳簿に目をとおし、それを手を伸ばしかけたハンケには返さずに、息子に渡した。オーベルシュタインはここへきてようやく、茶会に呼ばれた理由を理解することができた。すでに成人したのであるから、領地経営を学べというのだろう。母の目的が親子としての時間を過ごすためではなかったと分かって、彼は肩から力が抜けるように感じた。それならば、まだ対応のしようがある。

とはいえ、急に帳簿を渡されても見方など皆目分からぬから、素直に目の前の専門家に教えを請うた。ハンケは、まずは原価、産量、卸値に目を配ることだと答えた。

「それから奥様。現在の採掘場所は岩盤が薄くなっておりまして、然るべき対策を取らねば崩落をおこしかねません。本年の採掘は今月で終了し、坑道の補強工事をしたいと存じます。今年の生産目標は達成できなくなりますが…」

クライデベルクには露天掘りをするほどの平地がないため、また、地表の自然環境への影響を考慮して、地下深くに採掘坑を設けている。もろい石灰岩は崩落の危険と常に隣り合わせだ。

子爵夫人が息子のほうへわずかに顔を傾けた。彼に答えよというのであろう。

崩落という言葉が、辺境の矯正施設で地中に埋まったという叛徒の囚人のことを思い起こさせたのかもしれない。オーベルシュタインはハンケの提案を是とした。

「このまま採掘を続けるのと、補強工事をするのと、どちらが最終的に利益を生むのかを考えれば自明のことだ」

経済的なこともあるが、これはオーベルシュタイン子爵家の領民がすべて平民であることを考慮したものでもある。平民とは銀河帝国臣民としての戸籍を有する者のことだ。彼らは平民としての権利を持つと同時に、帝国の徴税、徴兵の対象である。これをむやみに損なえば、皇帝の権益を冒すことにつながる。もしもオーベルシュタイン家を讒訴するものがあれば、格好の攻撃材料になるだろう。

戦争が長期化するにつれ、兵役を逃れんとした平民がすすんで農奴となる例が増えている。兵役忌避は死罪を最高刑とする重罪であるが、貴族の荘園に逃げ込めば農奴、つまりは貴族の私有財産として公的な保護を受けることが可能だ。

逃亡して農奴となった者は、兵役忌避の過去を貴族に握られる。彼らの手に生殺与奪を委ねることになり、その子孫も農奴の身分を引き継ぐことになる。だが、それでも戦争で無意味に殺されるよりもましだと考えるのであろう。力を持たぬ者の切羽詰まった抵抗である。その結果、昨今帝国では正規兵の徴兵に支障をきたし、逆に貴族の私兵が増加しつつある。早晩社会の分裂を深める大問題となりそうな情勢であった。

平民と農奴と間の反目もまた著しい。平民は戸籍も持たぬ農奴を一人前の人間とは認めず、家畜も同然にみなしている。農奴のほうは、経済的には貴族と平民の両方から搾取を受ける存在であるものの、主人の権勢を笠にきて平民に対するというようなところがある。

平民と農奴の不満と憎悪は国中に満ち満ちているのだ。それが支配階級である貴族に直接向かうことがないのは、彼ら同士で激しく憎み合っているからであった。

オーベルシュタインの祖父は、家督を継承するや、領地内の農奴をすべて放逐したのだという。彼は農奴を資産ではなく負債だと考えていたようだ。領地経営に及ぼす不安定要素が利益を上回るとみたのだろう。その点、オーベルシュタインも同感であった。

石灰岩鉱山の責任者は、若い後継者の回答に感銘を受けたようで、破顔して何度もうなずいた。

「それから奥様、来月の第三日曜日にクライデシュタットで秋祭りが行われます。今年はお出ましになりますか?」

子爵夫人は黙って首を振った。ハンケはその答えを予想していたようであるが、それでもがっかりし様子をみせた。

母は幼い頃、祖父に連れられて領民の暮らすクライデシュタットに行くことも多く、領民たちとも交流があったと聞く。領主と領民との間に心理的紐帯というべきものがあったのだ。一方、次期当主であるオーベルシュタインは、領民との交渉が皆無である。城の使用人にも土地の者は一人もいない。素朴な平民ほど何の疑いもなく劣悪遺伝子を忌むものだ。正当な統治権を具備しないとみなす者があっても不思議ではない。オーベルシュタインの父が跡継ぎの誕生にあれほどこだわるのも、息子を飛ばして孫に子爵家を継承させようとしているからかもしれなかった。

ハンケは領民の冠婚葬祭をいくつか報告したのち、陽気にいとまを乞うた。

「それでは皆様、グリュック・アオフ、ご無事で」

オーベルシュタインは口の端を少しあげて、グリュック・アオフと返した。聞き慣れぬ言葉にフランツィスカが不思議そうな顔をして夫を見る。

「鉱夫の挨拶だ。無事に地上に上がって来られるように」

ハンケは可愛らしいお嬢さんが、「グリュック・アオフ。ごきげんよう」と挨拶を返してくれたことを単純に喜んで退出していった。もし彼に少しばかりの観察力があったなら、オーベルシュタインとフランツィスカの左手にはめられた指輪に気づいたであろうが、ハンケはとうとう二人の関係を察し得なかった。

 

真夜中、オーベルシュタインとフランツィスカが空港に向かうため城を出たところで、突然アインシュタインが空に向かって激しく吠え立てた。何事かと二人と運転手が首をあげると、雲のない天の一点から瞬時に巨大な紗幕が広がった。

オーロラ爆発だ。

オーロラは、視界に入りきらぬほどの規模と、影ができるほどの明るさで、緑から赤へと連続的に色を変えながら空を覆い尽くしている。典雅な音曲が聞こえてきそうなほどの、神秘的な光景であった。

フランツィスカは目を見開いて、じっと空を見上げた。オーロラを見たのは初めてだ。

「あれは、ワルキューレの鎧冑がいちゅうが発する光だと言われている」

珍しく詩的なことを言う夫の義眼が、オーロラの冷たい光を取り込んで不思議な煌めきをみせていた。

勇者の魂を天上ヴァルハラへと導く女神・ワルキューレ。銀河帝国の軍人には、ワルキューレを信奉する者が多いと聞く。

フランツィスカは寒さと恐れに身を震わせた。 ワルキューレに連れられてヴァルハラの門をくぐる夫を幻想したのだ。

「何だか、恐いようですわね」

「だたの…電磁気だ」

――慰めてくださったのかしら?

手のひらを返したように現実的なことを言うのが少しおかしい。フランツィスカは夫の腕に手を回し、その肩に首を預けた。二人の吐く息が交互に白い靄を作る。

「それなら、少しも恐くありませんわ」

オーロラは地上車がクライデシュタットの空港に着くまで輝き続けた。フランツィスカが城の方角を振り返ったとき、湖に覆いかぶさるようなオーロラの光を湖水が反射し、その向こうに二つの円塔を持つ城の影がぼんやりと浮かんでいた。

――パウル様の故郷ふるさと。

いずれ自分にとっても、故郷と呼べる場所になるのだろう。ここは彼女の新しい人生が始まった土地でもある。

フランツィスカはふいに、あの城の窓の一つからオーベルシュタイン子爵夫人がこちらを見送っているのではないかと感じた。この美しい空の下を遠ざかる地上車のライトをどんな思いでご覧になっているかと気にかかった。そして、ずっと昔、母と分かれた日の朝のことを哀しく思い出した。

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