Der Wille zum Glück (1)

帝国暦472年10月14日

音もなく振り子を揺らすホール時計の足元で眠っていた犬が、扉のほうへ耳をそばだたせ、がばりと起き上った。空気の匂いを嗅ぐような仕草をし、サーキュラー階段の上に向かって1回大きく吠えて、よく磨かれた床を爪音でカチカチ鳴らしながら玄関へ向かった。時計の文字盤は、19時の近いことを告げている。

フランツィスカは数式処理システムの内容を保存し、椅子の背によりかかってぐっと伸びをした。鏡で少し髪をなおし、書斎を出てファサードの2階からファイルヒェン街のほうをのぞくと、門灯の明かりの中に夫の長身が姿を現したところだった。

犬の声を合図に、ラーベナル卜は食卓のカトラリーの配置をもう一度確認して玄関へ向かい、ヘルガはスープ鍋をコンロに乗せる。

主人の帰宅を告げる犬の行動は、いつも正確だった。ラーベナルトによれば、アインシュタインは旦那様がブルーメン広場を通り抜けるのが聞こえているようだ、ということで、確かに犬が吠えてからちょうどそれくらいの時間が経った頃に、玄関のベルが鳴るのだった。

 

二階の居室に食後のお茶を運んで退室した執事は、小さく溜息をついた。

クライデベルクの城へ行って以来、主人夫妻の関係には大きな変化があったようだ。主人は何かふっきれたような落ち着いた表情を見せ、夫人はその年頃にふさわしい明るい笑顔で笑う。親しい間柄でのみ用いられる二人称を使うようになり、ともに過ごす時間も、会話の量も増えた。この間などは、幼年学校に入ってからは決して他人に触れさせなかった義眼の交換を、夫人に手伝わせていたようだ。何があったのかは聞かされていないが、二人の間に心の絆というべきものができたのであろう。愛情と言ってもよい。身辺に仕えていれば当然分かるものであるが、房事のことも増えたようだ。仲睦まじいことは、歓迎すべきことである。

だが、執事の溜息には理由があった。城から戻った主人は、何と彼に避妊薬を用意するよう命じたのだ。狼狽して諌めようとした執事に、主人は「フランツィスカとも話したのだ。好きにさせてくれ」と迷いのない調子で語り、彼がそれでも食い下がると、「ならば自分で買い求める」と、きっぱりと言い切った。

ラーベナルトは代々オーベルシュタイン子爵家に仕えてきた家系の出である。主家の繁栄を願う気持ちは当然強い。その一方で、幼い頃から養育してきた主人が子供を持つことへの深い葛藤を抱えながら妻を迎えたことも、うすうす感じていた。主人の心情を思うと、執事は引き下がるよりなかった。常に義務と責任を優先する主人が、自身の感情に従って決めたものだと分かったからだ。

「お二人ともまだお若いのだし、いずれお気持ちが変わるかもしれませんよ」

ヘルガはそう言ったが、ラーベナルトは気が焦る。軍に身を置く以上、そんな悠長なことは言っていられまい。だがその一方で、主人の心を受け止めてくれたフランツィスカには、心からありがたいとも思うのだった。

 

オーベルシュタインは口を付けかけたカップを皿ごとテーブルに戻し、向かいのソファに座る妻を正視した。

「すまないが、もう一度言ってくれ」

「上官の奥様にご挨拶に伺ったほうがよろしいでしょうか、と」

「挨拶」

「ええ。ヘルガに聞いたのですけれど、よその家の奥様方は互いのお屋敷を訪問したり、一緒にお出かけになったりして交流を深められるそうですわ。上官の夫人と懇意にすることが、夫君の出世の一助となるのだとか」

「出世」

妻の唐突な発言に驚いたオーベルシュタインは、芸もなくその言葉の一部を切り取って返事を返した。いつも浮世離れした高等数学の世界で楽しげにしているフランツィスカが、えらく俗なことを言う。

「それで、わたくしも、そのようにするべきかと思って」

「そうしたいのか?」

フランツィスカは首をかしげて宙を見て、よく分からないと答えた。

「ならば無用だ。そこまでして出世する必要もない」

「そう、ですか…」

「ああ。それに、私は上官の奥方に愛嬌を振りまくのはごめんだな」

青碧の瞳にわずかな失望がみえた。意気地のない男と思ったか、と、多少気にかかったが、出世に寸毫すんごうの関心もないのは事実である。

「なぜ、急にそんなことを言いだすのだ」

「それは…」

フランツィスカは犬の頭をなでた。

「この家で、わたくしだけが働かずに暮らしていますでしょう?」

オーベルシュタインは彼女の言うことがよく理解できない。貴族の夫人など、みなそうしたものだろう。

「わたくしも、何かパウル様のお役に立つことがしたいと思って、他の家の奥様は何をなさっているのか、ヘルガに尋ねたのです」

「それで、奥方連中との交際か?」

「はい」

オーベルシュタインは心の中で、いらぬことを吹き込んだヘルガを毒づいた。彼は大いなる偏見をもって、上流階級の夫人の社交など砂糖をまぶした毒薬のようなものだと認識している。彼自身、たまに付き合いで酒席に出れば、人事の噂と同僚の悪口ばかりを聞かされて辟易しているのだ。下手に相槌も打てない。夫人同士の交遊も似たようなものであろう。いわれのない誹謗中傷を受けることもあろうし、フランツィスカの出自も、オーベルシュタインの目のことも恰好の噂のタネとなるに違いない。そのようなところに足を踏み入れて、彼女が傷つくことになってはかわいそうだと思う。

「夫人と使用人とは違う。働こうなどと思う必要はない」

「そう、なのでしょうか?」

第一、妻に労働をさせるなど、男の矜持にかかわることだ。

「それに、君には向かぬだろう」

「そう、ですね…」

犬の頭を行ったり来たりするフランツィスカの手を見つめながら、オーベルシュタインは胸をつかれる思いがした。自身が妻を愛玩物のように扱っているのではないかと思ったのだ。子も持たぬと決めてしまった以上、彼女はこの家での自分の存在意義に疑問を感じたのかもしれない。

確かに、少しは外に出たほうがよいと思う。だが、彼女には一般常識が怪しいところがあって、それが非常に不安であるのも事実だ。皇帝の顔を知らぬのにも驚いたが、先日は図書室から見つけてきた古い三文恋愛小説を読んで「貴族は4、5人の愛妾を持つのが当然というのは本当か」と尋ね、オーベルシュタインを唖然とさせたばかりだし、エルベ河畔のインビスでカリーブルストを買ってやると「こんなに美味しいものは初めて食べました」とヘルガが聞いたら嘆くようなことを言ったりもした。

オーベルシュタインとて彼女を閉じ込めておきたいわけではないのだ。友人が犬だけというのも、よいことだとは思わない。

先日もヘルガに、たまには観劇や舞踏会に連れて行ってはどうか 、と言われたばかりである。「フランツィスカが望んでいるのか」と問うと、家政婦長は呆れ果てたように主人を見返した。

「お若い方が日がな一日算数ばかりやって過ごすなんて、どうかしています。奥様は今月、17歳におなりですのよ? 十七といえば、世間のご令嬢は社交界デビューの準備で忙しくなさってますわ」

「算数ではない。数理だ」

ヘルガの小言にわざととぼけて彼女を怒らせておきながら、オーベルシュタインはヘルガの言うことももっともだと思っていた。観劇だの舞踏会だのには、彼自身が行きたくないだけなのだ。

オーベルシュタインは腕を組んで黙り込んだ。眉間にしわが寄っている。フランツィスカはテーブルを回ってオーベルシュタインの隣に座り、夫のこめかみに口づけ、髪に頬を寄せた。

「おかしなことを言って、すみません。困らせるつもりはなかったんです」

「いや…」

オーベルシュタインは腕をほどいて妻の背に回した。何と言えばよいのか、分からない。家に帰ってフランツィスカの顔を見るとほっとする。彼女がいてくれてよかったと、本当に思っているのだ。だが、それを口にするのは女々しいように思えたし、彼女の聞きたい言葉でもないような気がした。

 

土曜の午後、オーベルシュタインは書斎机の三番目の抽斗ひきだしを開け、ビロードの指輪ケースを取り出した。週末だけ指輪をつける習慣を、彼は律儀に守っている。自分自身に対するけじめのようなものである。

同じ抽斗から帝国銀行ライヒスバンクの小切手帳を机上に移し、この一週間の間に届いた請求書に手を伸ばす。彼の右前方では、フランツィスカが人差し指の背を唇にあてて数式処理システムをにらんでいる。集中して考えているときの彼女の癖だ。その足元では犬が野生など微塵も感じさせない仰向けの姿勢でだらりと眠っていた。

燃料費と通信費の請求書を片付けたところで、小切手帳の残りがなくなった。新しい小切手帳を探してまた三番目の抽斗を開けた時、下の方に懐かしいものがあるのに気がついた。婚礼の前に交換した、フランツィスカの写真帖と身上書だ。一度写真を見たきり、この抽斗にしまい込んだままになっていたのである。

写真帖のフランツィスカは、日陰の植物のような風情で心細げに立っていた。この頃は見なくなった表情だ。執事が「奥様は笑顔が増えましたな」と言っていたが、そのとおりだと思う。

身上書は無愛想なほど簡潔だった。

 

フランツィスカ・フォン・クラヴィウス

帝国暦455年10月23日生まれ 満16歳

父 ステファン・フォン・クラヴィウス(帝国子爵)

 

母親の名はない。

略歴の代わりか、大学入学資格アビトゥーア試験の成績表が同封されていることに、オーベルシュタインはこのとき初めて気がついた。

彼はしばらくそれに無言で目を通し、机の向こうで思考中のフランツィスカに目をやって、卓上の端末を引き寄せた。

フランツィスカが冷めたお茶を一口飲んだところで、オーベルシュタインは妻に声をかけ、手招きでそばへ呼んた。フランツィスカは夫が手にした自身のアビトゥーアの成績表に驚いたようだった。

「それ、どうなさったのです?」

「君の写真と一緒にもらっていたらしい。いつ、受験したのだ?」

去年の暮れのことである。フランツィスカは家庭教師のケラーに言われて、わけの分からぬまま試験に臨んだのだった。帝都から遠く離れた屋敷まで、わざわざ試験監督官がやってきたのだが、試験を受けたことすらすっかり忘れていた。年明けから彼女の人生を左右するような出来事が重なって、それどころではなかったからだ。結果を見たのも初めてである。

「君は優秀だな」

数学と物理は抜群に秀でている。それに比して歴史と政治は何とか上位3%に入れるという程度だが、それでもかなりの成績と言ってよい。

「フランツィスカ。君は、大学へ行ってはどうだ? これなら帝国大学の理学部に十分入れるぞ」

オーベルシュタインが指し示した端末の画面には、各大学・学部のボーダーラインが表示されていた。

「大学、ですか?」

「君の家庭教師は、そのつもりでアビトゥーアを受験させたのではないのか?」

フランツィスカは机から離れ、ソファにすとんと腰を下ろした。

大学へやるというのは、我ながらよい考えだと、オーベルシュタインは思った。奥方連中との下らぬ社交に時間を費やすよりも、よほど有意義である。彼は、フランツィスカには数理の才能があると感じている。ともに数式を検討していると、彼女の発想と構想力に驚かされることがたびたびあった。

しかし、フランツィスカはぼんやりと座ったまま、さほど嬉しそうではない。

「気が進まぬか?」

「いえ、そうではなくて、よく分からないのです。考えたこともなかったので」

フランツィスカは一度も学校へ行ったことがない。同じ年頃の女学生たちが制服姿でブルーメン広場を歩くのを見かけると、学校というのはどんなところだろう、と思うこともある。夫が話してくれる士官学校や幼年学校の様子を聞くのも楽しい。だが、それだけである。自分が実際に学校へ行くことを想像すると、何かとても怖いことのように感じた。

「…パウル様が一緒に行って下さるなら、いいのですけれど」

オーベルシュタインは自嘲気味に笑った。大学進学は、彼が決して叶わぬことだと知りながら、心のどこかで望んでいたことだからだ。だからこそ、フランツィスカに大学に行ってほしいのかもしれなかった。

「私は、無理だ」

「なぜですの?」

士官学校を卒業した者には、軍で必ず奉職するべき服務期間が定められている。この期間においては、現役復帰が不能な戦傷または大病をせぬ限り、退役することはできない。新任士官の服務期間は年々伸びる傾向にあって、今では15年だ。大量の戦死者を出すものだから、損益分岐点がどんどん高くなり、最低これくらいは働かせないと財務上は赤字となるし、陣容の維持もできないのだ。

「15年も」

「そうだ。そして15年も軍にいると、もう軍の外では使い物にならない人間になるらしい」

「そんなこと」

軍がどんなところか、フランツィスカは具体的に知っているわけではない。しかし夫はきっと軍の外でも能力を発揮するはずだ。彼女がそう言えば、オーベルシュタインは買いかぶりだと静かに笑った。

「学資は私が出す。君が希望するなら、博士号まで面倒をみよう」

フランツィスカの顔に微笑みが浮かんだ。冗談だと思ったのだ。

「願書の受付は来年の春のようだ。まだ時間がある。少し考えてみてはどうだ」

「…はい。そういたします」

それだけ言って、オーベルシュタインはまた一家の主としての仕事に戻って行った。

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