Der Wille zum Glück (2)

帝国暦472年10月26日

「森林公園。大人2人、犬1匹」

「7マルク半です」

オーベルシュタインはポケットから小銭を取り出して車賃を払った。隣に座るフランツィスカが夫と車掌とのやりとりを興味深げに眺めている。

帝都の西郊へ向かう路面電車である。運転は無人だが、車掌が乗務して乗客への案内と運賃徴収を行っている。

この編成の車掌は中年に差し掛かった婦人であった。幼い頃に比して、職業婦人をよく見かけるようになったとオーベルシュタインは感じる。戦争で減った男手の代わりとして外に働きに出る婦人が増えているのだ。それらの多くは、遺族年金だけでは生活できぬ戦争寡婦や、男女比の不均衡を原因とする未婚女性である。

路面電車はちりんとベルを鳴らして動き出した。

「犬は大人の半分ですの?」

「子供運賃と同じだ」

オーベルシュタインは膝の上に大きなバスケットを乗せている。気候がよいうちにどこかへ出かけようか、という話になって、ならば一度路面電車に乗ってみたいと、フランツィスカが望んだのだ。行き先は終点の森林公園である。

フランツィスカはまた両手を目の前にかざして、小さな微笑みを浮かべた。手には新しい手袋がはまっている。焦げ茶色にベージュの糸でステッチが入った革製である。先週の彼女の誕生日に夫が贈ってくれたものだ。犬の散歩にちょうどよかろう、と彼は言った。オーベルシュタインはその様子を横目で見て、犬の背をなでた。執事から問われるまで、彼はフランツィスカの誕生日の贈り物ことなどまるで考えていなかった。初めは両親へ贈る場合と同じく執事に用意させようとしたが、やはり自分で見に行くべきだろうと思い直して、仕事帰りに百貨店に寄ったのだった。慣れぬ買い物を親切過剰な店員に助けてもらい、ひどく消耗してようやく購入した手袋だ。

フランツィスカはこの23日で17歳になった。

これほど幸せな誕生日は何年ぶりだろう、と、彼女は思った。大切な人が祝ってくれて、素敵な贈り物をもらった。夕食にはヘルガが腕を振るった料理が並び、未成年にもかかわらず、ワインをグラスに半分だけ飲ませてくれた。特別な1本を出してきてくれたようだった。

夫はワインを嗜む。屋敷の地下の貯蔵庫にはたくさんのワインボトルが並んでいるし、執事にワインの銘柄を指示しているところをみると、とても詳しいようだ。そう聞いてみると、

「統帥本部で従卒をしていたときの上官が酒飲みで、必死で覚えたのだ」

と返された。

従卒は十四、五才の少年が勤めるものである。未成年だ。

「銘柄と味を?」

と、問うと、

「誘導尋問か?」

と嫌な顔をするのがおかしかった。

路面電車は走っては停まり、停まっては走るを繰り返しながら、ゆっくりと進んだ。日曜の午前だ。道行く人はまばらである。空は雲一つない快晴で、秋色に染まり始めた街路樹が陽に明るく照らされている。

白と黄色の車体を川面に反射させながら、路面電車はエルベ川を渡った。川の向こうは庶民の暮らす街だ。家々の間口がとたんに狭くなり、混み合ったような印象を呈する。

ずっと外を見ていたフランツィスカは、車窓を遠ざかった景色にくぎ付けになった。

「どうかしたか?」

「何か懐かしい気がして…。わたくしは幼い頃、あのあたりに住んでいたのかもしれません」

かどのパン屋。川へ向かって傾いた長屋造りの家。白い漆喰の壁、オレンジ色の切妻屋根。路地の石畳はでこぼこで、いつも悪臭のする水がたまっている。

フランツィスカが幼少期を過ごしたのは、そんな場所だった。

 

フランツィスカの父、シュテファン・フォン・クラヴィウス子爵は鳥類の分類学者だった。しかし、彼女が家族三人で暮らしていた頃の父は、まだ子爵でも学者でもなく、学業を半ばで放棄して駆け落ちし、貧しい下町に身の置き所を得た若者に過ぎなかった。

遡ること数年、クラヴィウスはある夜、帝国劇場の舞台で見たフランツィースカ・フォンヴィージナなる女優に恋をした。求愛を繰り返し、ようやくその美しい人の心を得て、彼女を妻に迎えることを願った。しかしながら、そのような貴賤結婚が周囲に認められるはずもない。当時帝国の貴族社会は、緊張のただなかにあった。オトフリート五世の二人の皇子、リヒャルト皇太子殿下とクレメンツ大公殿下とが帝位をめぐって激しく争っていたのだ。どちらの派閥に属するか、どの家と婚姻関係を結ぶか。それは貴族たちにとって家門の凋落に直結する重大問題であった。クラヴィウス子爵家の法定推定相続人であったフランツィスカの父は、そのような混乱に背を向けて家を捨てたのである。

とはいえ、苦労知らずの貴族の若様に世間は甘くない。当初は装身具を売ったりなどして急場をしのいだが、それも長くは続かなかった。クラヴィウスは職を探し歩き、生まれて初めて平民に頭をさげて、ようやくある出版社から鳥類図鑑の解説を書く仕事を得ることができた。その仕事は、実はクラヴィウスの母が密かに援助したものであったのだが、当人は母の死の直前までその事実を知ることはなかった。

やがて娘が生まれた。母親と同じ美しい色の瞳を持ったその子は、母にちなんで同じ名を与えられた。二人はその娘を「小さなフランツィスカ」と呼び、慈しんだ。

三人が暮らしたのは長屋造りの建物の3階であった。傾いた狭い階段を3回折れて上った先の、二間ふたまだけの小さな空間だ。切妻の屋根裏にあたるその部屋は、天井の梁がむき出しになっており、採光といえば、西向きの小さなドーマー窓が一つあるだけであった。

その頃の暮らしを、フランツィスカはいつも愛おしく思い出す。

貧しくて、食事といえば、いつも固くて酸っぱい黒パンと、野菜くずの中に肉のかけらがわずかに浮いたスープだった。服だって誰かのお古で大きさが合っていなかった。だが、優しい両親がいつもそばにいてくれて、寂しいと思ったことなど一度もなかった。

父はよく、美しい鳥の絵の入った本を見せてくれた。軒下に巣を掛けた渡り鳥を一緒に観察した。母は歌が上手で、いろいろな歌を教えてくれた。滅多に怒ったりはしなかったが、言葉づかいにだけは厳しく、近所の子供たちのまねをして話すと、きつく叱られたものだった。

そんなある日、立派な身なりをした見知らぬ人が、祖父と叔父の訃報を持ってやってきた。祖父が彼の支持していた皇太子廃嫡の中で失意のうちに逝去し、その直後に父の弟が戦死して、クラヴィウス子爵家の相続人が父1人になったというのだった。そのショックで祖母は危篤状態にあるという。

「すぐに帰ってくるからね」

父は母の頬に口づけ、フランツィスカの頭を大きな手でなでて出かけて行った。そしてそのまま半年たっても帰ってこなかった。生活は途端に困窮し、母は近所の洗濯屋に働きに出るようになった。絶対に部屋から出てはいけない、と、きつく言いつけられて、フランツィスカは毎日一人歌をうたいながら、ドーマー窓から外を眺めて日が西に傾くのを待った。

父の使いだという弁護士がやってきたのは、フランツィスカの6歳の誕生日のことだ。その人は小花柄のテーブルクロスがかかった食卓の上に大小様々な形の箱を並べ、リボンをほどいてみせた。箱の中には新しい服や靴、帽子などが入っていた。フランツィスカが初めて見る、滑らかな肌触りの生地だった。

だが何より彼女を夢中にさせたのは、バスケットから顔をのぞかせた子犬である。ふわふわした真っ白な毛に覆われ、背中と耳の先だけが黒い。子犬は少し眠そうな目でフランツィスカを見て、彼女の口をぺろりと舐めた。

いつもより早い時間に帰って来た母は、後から思えば蒼白であったように思う。しかし、目の前の夢のような出来事に心奪われたフランツィスカが、それに気づくことはなかった。

「お母様! おかえりなさいませ」

フランツィスカは母の首にとりすがって頬に口づけると、おぼつかない足取りで後ろをついてきた子犬を抱き上げた。

「お母様、お父様がお誕生日のプレゼントを届けてくださったの。新しいおうちで一緒に暮らしましょうって! ねえ、この子、飼ってもよろしいでしょう?」

母は食卓の上の贈り物に視線をやって、訪問者に会釈した。

「…フランツィスカ、あちらのお部屋で少し遊んでいて」

そこで何が話し合われたのか、フランツィスカは知らない。

弁護士が帰った後、母は斜めに軋んだ床にひざまずき、荒れた手を娘の頬にあてた。窓から入ってきた西日が母娘の間に明暗の境界を作っていた。

「お母様、この子の名前はアインシュタインにしようと思うの。昔の偉い科学者の名前よ。前にお父様が教えてくださったわ」

「アインシュタイン。いい名前ね」

「お母様、お父様のところへはいつ行くの?」

「小さなフランツィスカ。あなたは、お父様と一緒に暮らしたい?」

「はい!」

子犬を抱いたフランツィスカはにっこりと笑った。

「そう。そうね、きっとそのほうがいいわね…」

母はフランツィスカを犬ごと抱きしめて、髪や頬に口づけた。

父のところへ行く日の朝、母はフランツィスカの髪を丁寧に梳き、青いリボンを結んでくれた。フランツィスカは父がくれた新しい服を着て、母に言われたとおり、窓辺に立ってくるりと回ってみせた。

「よく似合うわ、フランツィスカ。もうすっかりレディね」

フランツィスカが狭い部屋でスキップをすると、光沢のあるスカートがリズムを合わせてひらひらと舞った。子犬がたどたどしい足取りで後ろを追いかけ、一緒に跳ねる。いつもは階下を気にして足音を立てぬように言う母が、この朝は何も言わなかった。

「お母様、新しいおうちはどんなところかしら? お父様にお目にかかったらお歌を聞いていただくわ。それから、前歯が生え変わったことをお話しするの」

迎えの地上車は路地まで入ってくることができず、坂の上の広い通りで待っていた。川から朝霧が湧き上り、狭い路地を白くをけぶらせる。母と手をつないで路地を上るとき、辻の角にある店の窓ガラスにフランツィスカは自分の姿を見つけた。白いケープのついた紺色のワンピースにエナメルの靴、大きなリボンの帽子をかぶった姿はどこかのお姫様のようで、彼女は嬉しくてならなかった。

路面電車の通る大通りでは、パン屋から焼き立てのパンのいい匂いがしていた。ミルク缶をいくつも載せた台車が音を立てながら通りを横切り、客のまばらな路面電車が通り抜ける合間に、軌道に積もった落ち葉を掃き清める老人が見えた。

「フランツィスカ、よく聞いて」

母は腰を落として娘と視線を合わせた。

「お母様は、一緒には行けないの」

「…どうして?」

突然のことに理解が追いつかぬフランツィスカは、母の顔を見つめ返す。自分と同じ青碧の目に、涙がたまっていた。母は何も答えずにフランツィスカを抱きしめた。

「どうして一緒に行けないの? お父様はきっと待っていらっしゃるわ」

母の腕に力がこめられる。

「小さなフランツィスカ、どうか幸せになって。お母様はいつもあなたの幸せを祈っているわ。そしていつか、あなたの愛する人を幸せにしてあげて」

母はそう言うと、フランツィスカを抱き上げて地上車の後部座席に座らせ、ガシャリとドアを閉めた。

「お母様!」

外に出ようとしたフランツィスカを弁護士が押しとどめ、地上車は静かに発進した。リアウィンドウ越しに見える母の姿は朝もやの中でどんどん小さくなっていった。煉瓦色のショールが肩から半分落ちて、ほつれた髪が風に揺れる。秋の朝の黄みを帯びた太陽が母の涙を照らしていた。

それが母を見た最後である。

 

「わたくしは母を捨てて、父のところへ行ったのです」

路面電車に揺られながら、フランツィスカはぽつりとつぶやいた。

「義母上ははうえは、今、どちらに?」

「分かりません」

「人を使って、探させてもよいが」

フランツィスカはオーベルシュタインの顔を見て何か言いかけたが、うつむいて小さく首を振った。

母には、会うべきではない。母はフェザーンの女優で、自分はもうオーベルシュタイン子爵家の人間だ。幼い自分が気づかなかっただけで、実際の母はクラヴィウス家の人たちが言うように、貴族の子息を騙した悪い女だったのかもしれない。もしそうだったら、きっとオーベルシュタイン家にも迷惑がかかる。

 

父に引き取られて間もなく、フランツィスカはアインシュタインと一緒に屋敷を抜け出した。

クラヴィウス家には知らない女の人がいて、その人を母と呼ぶようにと言われた。父もどこか以前とは違っていた。

本当の母のいる家に帰ろうと思ったのだ。きっと自分を抱きしめて、また歌をうたってくれるはずだから。

だが、ほどなく、フランツィスカは雪の降る森に迷いこんだ。森番の老人が見つけてくれなければ命を落とすところだった。老人の飼う犬が、アインシュタインの鳴き声を聞きつけたのであった。

父は血相を変えて番小屋までフランツィスカを迎えにきた。そして、彼女をおぶって屋敷に帰る道すがら、「本当はね、お父様もお母様に会いたいよ」と寂しそうに言った。

「だがね、フランツィスカ。もう会えないんだ。お父様には義務と責任がたくさんあって、みんながお父様にそれを果たしてほしいと思っている。お父様がお母様と一緒にいると、困る人がたくさんいるんだよ。分かるかな?」

彼女は黙って父の広い肩に頬を押し付けた。

「小さなフランツィスカ。お母様に会いたいときは、鏡を見てごらん。お前は本当にお母様によく似ているから、鏡を見ればお母様に会えるよ」

 

フランツィスカは夫の肩に頬を乗せた。この方もお父様と同じで、義務と責任がたくさんある。そして、ご自身の心との間で苦しんでいらっしゃる。それを思うとき、フランツィスカはいつも悲しくならない。その苦しみを癒やすためなら、何だってしてさしあげたいと思うのだ。

オーベルシュタインはフランツィスカの膝の上の手をにぎって小さく数度揺さぶった。手袋越しにも、暖かい手であった。

 

森林公園は正式名称をヴェスターヴァルト恩賜公園といい、もとは帝室の御用地である。さる皇族の御用邸が置かれていたが、130年ほど前、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の帝位継承のごたごたで継承権が宙に浮いた。都心部に近く広大な面積を持つこの土地を欲する者は多かった。その紛争を避けるために晴眼帝の勅令をもって平民に開放したのが、公園の成立由来である。

かつての御用地は今、庶民の憩いの場である。花壇には季節の花が植えられ、池には水鳥が遊び、美しい色の魚が回遊する。旧御用邸の建物ではコンサートや結婚式が開かれ、敷地の大部分を占める森は墓地として整備されている。

芝生はピクニックをする家族でにぎわっていた。子供たちの歓声が響き、ボールを追って走る犬も見える。

よその犬の様子を興奮気味に見つめるアインシュタインをなだめながら、オーベルシュタインとフランツィスカも芝生にシートを広げた。バスケットの中にはヘルガが作ってくれた昼食がぎっしりと詰まっている。クリームチーズと蜂蜜を塗ったライ麦パン、厚切りハムや酢漬けニシンを挟んだサンドイッチ、小ぶりのリンゴ、保温瓶に入ったスープ、お茶の水筒と一緒に白ワインの小瓶もあった。

のんびりとした午後を過ごした。二人の話題はやはり亜空間座標のことである。フランツィスカはオーベルシュタインが演習で体験したという跳躍ワープの様子を興味深く聞いた。そして、跳躍の際に精神だけが亜空間に取り残されるというのがただの怪談話であると知って、残念がった。

「君は極めて合理的な思考をするのに、そういう非科学的な話が好きなのか?」

「そうではありませんの。ただ、もし精神が肉体と分離しても存在し得るなら、亡くなった人の魂はきっと大切な人のそばに留まり続けるだろうと思って」

フランツィスカの視線の先には森へ入って行く葬列がある。棺の後を黒い喪服に身を包んだ人々が続いていく。時折白いハンカチを目にやる様子が、遠くからもよく見えた。

オーベルシュタインはフランツィスカの横顔から目をそらして手の中のりんごを弄んだ。彼は魂の存在など信じない。あるとすれば、それは生ける人の心の中にある死者の残像だ。

「わたくし、何かおかしなことを申しましたでしょうか?」

顔を上げると、フランツィスカが不安げにこちらを見ていた。帽子の影になった青碧の瞳がいっそう色濃い。

「いや、そんなことはない」

小さく笑ってりんごを渡してやる。オーベルシュタインは考えていたのだ。自分は死ぬとき、魂となってもこの人のそばにとどまりたいと願うだろうか、と。初めて、軍人という我が身を儚く思った。

 

ブルーメン広場まで戻ってきた頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。日が暮れると急に気温がさがる。少し肌寒い。

「パウル様」

「ん?」

「今日は本当に楽しゅうございました。また、連れて行ってくださいね」

フランツィスカが何かをねだるなど、とても珍しことだ。

「そうだな。また行こう」

「約束ですよ」

「ああ」

立ち止まった二人を見上げ、お腹を空かせた犬が早く帰ろうと急かした。

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