Der Wille zum Glück (3)

帝国暦472年11月12日

夕食の席上、オーベルシュタイは出張の予定を告げた。出発は4日後とのことである。

「どちらへいらっしゃいますの?」

「軍機に属することは一切話せない」

「…何をしに行かれるのですか?」

「それも軍機だ」

「……お帰りは」

「フランツィスカ」

オーベルシュタインは低く妻の名を呼び、それ以上の質問を受け付けぬという意思を示した。

 

オーベルシュタインの今回の出張は憲兵隊本部の要請によるものだ。規定上は軍機であるものの、作戦行動には無関係であるから、実際はそれほどの情報秘匿を必要とするものではない。8月の終わりに人事課へ訴えがあり、オーベルシュタイン自身が聞き取りをした、被矯正者の消失にかかわる事件の現地調査が目的である。彼の提出した報告が憲兵隊の調査部に回され、さらに詳しい調査を経て、複数の矯正施設から数百名単位で人が消えていることが判明したのであった。

憲兵隊調査局の担当官は、人事課からも人を出せ、それも叛徒共の言語に堪能なのを、と言ってきた。 かくして、オーベルシュタインが本案の発端であったこともあり、 彼に出張命令が下されたわけである。人事課の先輩の見立てでは、会計年度末を来月にひかえて憲兵隊の出張旅費科目予算が不足しているのだろう、ということだ。逆に人事課では余っており、彼の出張はちょうどよい予算消化の理由となるわけである。

 

翌日、屋敷の裏のサンルームで、フランツィスカはアインシュタインにブラッシングをしてやっていた。全身を覆うスモッグドレスは、犬の毛が付きにくい生地でヘルガが作ってくれたものだ。犬は台の上に横になって気持ちよさそうに目を閉じている。

フランツィスカは今日何度目かの溜息をついた。隣で洗濯物を干す家政婦長がまた音を外したためではない。ヘルガが家事をしながら音程の不確かな歌をうたうのはいつものことで、フランツィスカはすっかり慣れている。

彼女が浮かない顔をしているのはオーベルシュタインの出張が原因だ。日曜日の朝から出発だというのも、大切な楽しみを奪われたようで残念でならない。

「奥様。旦那様はお仕事なのですから、そんなお顔をなさるものじゃありませんわ」

ヘルガは手際よく靴下を吊るしながら優しく言った。

「だって…」

「軍人というのは家を空けることが多い職業でございますよ」

「でも、いつお帰りになるかも分からないなんて」

フランツィスカの手が止まると、アインシュタインが立ち上がって全身をぶるぶると震わせた。台から飛び降りるのを躊躇する様子を見て、フランツィスカが手を貸して降ろしてやる。犬はまた少し歳をとったようで、そのこともフランツィスカの表情を曇らせた。

「あらまあ、子供のようなことをおっしゃって。笑顔で送り出して差し上げませ。武人の妻とはそうしたものでございますよ」

「…そう、なの?」

フランツィスカはこの頃、自分がどうやら「世間の常識」にうといことに気が付いて、気にしている。

「女学校で習った『銃後婦女心得じゅうごふじょこころえ』にはそう書いてありましたけどねぇ。お読みになったこと、ございませんか?」

フランツィスカは、犬の毛を始末しながら「ない」と答え、その本をまだ持っているかとヘルガに問うた。

 

出発の前夜、オーベルシュタインは厳粛な面持ちで妻をソファの横に座らせた。

「フランツィスカ、今回の出張はそう危険なこともないと思うが、いつ何時なにが起こるとも限らない。軍人の妻として覚悟はしておいてほしい」

青碧の瞳が膨らんで、何か言いかけた唇がきつく結ばれる。

「弁護士のラインスドルフを知っているな? 私に何かあったときは、諸事、彼と相談するように。君が困らぬようにはしてあるから、安心してよい」

フランツィスカはヘルガが引っ張り出してきた「銃後婦女心得」の一説を思い出した。

『銃後の婦女の心得は、出征将兵をして後顧の憂いを断たしめ、ひたすらに皇帝陛下のご聖恩に報い奉らしめることこそ肝要なり。涕泣ていきゅうをもって将兵を見送るがごときは、男子の本懐を遂ぐるを妨げ、その壮志を挫くものなり。厳に慎むべし』

軍人の妻女がみなそうして夫を送り出すならば、自分もそうあるべきだと思った。

「…はい、あなたマイン・リーバー」

妻が落ち着いた表情で微笑むのを見て、オーベルシュタインは少々拍子抜けし、同時に安堵した。きっと泣かれるに違いないと、覚悟していたのである。

「それから、もし私の…」

しかし、握った手の指先がひどく冷たいことに驚き、オーベルシュタインは言いかけた言葉を呑み込んだ。彼女が無理をしているのだと察したのだ。

――もし私の死後に、君を心から愛してくれる人が現れて、君もその人を大切に思うなら、幸せになることを躊躇してはならない。

彼はそう言うつもりだった。この数日ずっと考えてきた台詞である。

フランツィスカは少し首をかしげて、彼の言葉を待っている。

「いや、よいのだ」

フランツィスカのえくぼに親指をあてて、オーベルシュタインも彼にしては精一杯の笑顔を作った。

もし本当にその日が来たら、彼女はこの青碧の瞳でその男を愛しげに見つめ、その男との間にできた子を腕に抱いて幸福そうに微笑むことだろう。

苦い想像であった。

いつかは言わねばならぬだろうが、今はまだ、言わずにおきたかった。

フランツィスカは頬を包む夫の大きな手に指を絡めた。

「戦争は、いつ終わるのでしょうね…」

それは今この銀河に生きる誰もが一度は持つ疑問であろう。戦争は巨大な消費だ。膨大な人命と財貨を無限に損なう。黒字になることなどない。であるのに、人はなぜそれをやめることができないのか。

「同盟の人たちの国では…」

「叛徒の根拠地」

「叛徒の根拠地では、民衆から選ばれた人が政治をするのでしょう?」

「そのようだな」

「叛徒たちは戦争が好きなのでしょうか」

「どうであろう。陛下の臣民たるを喜ばぬことは確かだが」

共和主義者は人がみな平等だと考えるらしい。彼らにとって、それはどうやら命を賭すほどの価値があるもののようだ。

「この国のことは、皇帝の資質で…」

「陛下のご器量」

「陛下のご器量で決まるのでございましょう? では、陛下は戦争がお好きなのでしょうか」

「むやみにご叡慮えいりょ忖度そんたくしてはならぬ」

「はい」

「陛下といえどすべてのことを思いどおりに動かすのは難しかろう」

皇帝がいかに絶対的な権力を持つとしても、やはり思い通りにならぬことはあるはずだ。過去には臣下の傀儡と化した皇帝さえいる。今このとき皇帝が停戦を宣言したとして、それで戦争が完全に終わるとは、オーベルシュタインには到底思えなかった。

オーベルシュタインも同時代を生きるすべての人々と同じく、戦争のない時代というものを知らない。この国はすでに戦争が続くことを前提として再構築されている。戦争が終結してそこから何が始まるのか。この宇宙に、その青写真を描いている者が果たしているだろうか。

「わたくし、ずっと考えているのですけれど、叛徒を攻撃…」

「膺懲ようちょう」

「膺懲する目的は何なのでしょう?」

銀河帝国が戦争を遂行する目的は、全人類を一つの政体に統一することである。統一がなれば、強固で安定した政治のもとで国力、民力が増進する。社会の発展が促される。戦争で死ぬ者もいなくなる。より多くの者が幸せを得られる。

国はそう説明してきた。民はそう信じさせられている。

「つまり、将来の多数の幸福のために、現在の少数の不幸は致し方ないということなのですね」

「どちらにせよ犠牲を出さねばならぬなら、一番犠牲の少ない方法を選ぶべきであろう」

オーベルシュタインはそう言いながら、今の帝国は少数の幸福を守るために多数の犠牲を強いる体制ではないか、という思いを禁じ得ない。そして自分も、貴族の一員としてその体制に加担している自覚が彼にはある。

「でもわたくしは、パウル様にその少数の犠牲に加わっていただきたくないと思いますわ」

その声は、高ぶる感情を必至に抑え込もうとしたもののように響いた。

「フランツィスカ。我ら士官は、戦術戦略上の目的を達成するため兵に命令を下す立場にあるのだ。命令一下、何万という兵を死地に送らねばならぬ。その士官の妻がそんなことを言っては、兵に対して示しがつかない」

オーベルシュタインは、口ではそう叱責しながら、静かに妻を抱き寄せた。彼女の目からいよいよ涙がこぼれそうで、それを見たくなかったのだ。

「どうか、長生きしてください」

胸に落ちてきた言葉が、オーベルシュタインにはひどく重い。「きっと武勲をお立てください」などという浅薄な言葉ならば、冗談の中に消し去ってしまうこともできようが、これには返す言葉がない。できぬ約束をしてはなるまいと思う。彼は妻の薄い肩をなでてしばし沈黙し、まったく別のことを言った。

「フランツィスカ」

「はい」

「こうした話は、決して私以外の者としてはならぬ。ラーベナルトたちともだ。よいな?」

夫の真剣な顔を見て、フランツィスカはまた自分が世間の常識の範疇からはずれてしまったのだと知った。皇帝の意思が奈辺にあるのか、叛徒は何を思って生きているのか、なぜ戦争をやめることができぬのか、という疑問、そして愛する人だけには生き残ってほしいと願うこと。それらはすべて、胸のうちにとどめおくべきことなのだろう。

「申し訳ありません」

「謝ることはないのだ。…ああ、私は君に小言ばかり言っているような気がするな」

「あら、わたくしは好きですわ、パウル様のお小言」

「は?」

「あなたがわたくしを心配して下さっているのが、分かりますもの」

夫の求めに応じて、フランツィスカは歌をうたった。クライデベルクの城で歌ったあの歌だ。「私も覚えようと思う」と言って、オーベルシュタインも合わせて歌ったが、何度も音程をはずすものだから、フランツィスカはついに笑い出してしまった。

「なんだ」

「ふふふ、だってパウル様、ふふ」

オーベルシュタインの眉間に皺がよって、口がへの字に結ばれる。

「お小さい頃、ヘルガがよく歌をうたってくれたでしょう?」

「ヘルガ? さあ、あまり覚えていないが…」

「ふふ、きっとそうです」

フランツィスカは笑いが収まらぬまま、夫の額に口づけた。夫の体に中に蓄積された愛情の一端を見たようで、それが嬉しかった。

 

出張調査の目的地・アルタイル方面へは、5日の航程である。この調査チームを率いる憲兵隊の担当官はハウプト大佐という人で、士官は彼とオーベルシュタインの2名のみであった。やる気があるのかないのか判然としない雰囲気を持つ人だが、何かというと同行者に話し掛け、コミュニケーションを取ろういう意思だけは明瞭に示した。

「卿は卒業席次が三席だそうだな。文武両道、結構だ。白兵戦もいけるのだろう? 頼もしいことだ」

「どうでしょうか。スポーツとしてはともかく、実践では役に立つまいと存じます」

士官学校で行う白兵戦の訓練は、所詮、命のやり取りをするわけではない。相手の作戦と心理を読み、最善の受けと返しを選んでポイントを挙げればよいのだ。生きるか死ぬかの戦場で、そんな悠長なことはやっていられまい。

オーベルシュタインがそう答えると、ハウプトは、

「それは困った。叛徒の囚人どもが襲ってきたらどうする」

と、あまり深刻そうな様子もなく、困ったように見える表情をみせた。

出航3日目、ハウプトは財務尚書が法の網から逃げおおせた、という帝都の最新情報を披歴した。

「財務尚書…カストロプ公ですな?」

カストロプ公オイゲンは、ここ数年、帝国を襲った骨董バブルを影で操った張本人として弾劾されたのであった。

「骨董?」

「卿は貴族の出身だろう。お屋敷の秘蔵品を売ってくれ、と、骨董商が来たことはないか?」

「さて。そうしたことは執事が応対しているので…」

そう答えつつ、オーベルシュタインはクライデベルクの城から見慣れた品々が消えていたのを思い出した。城の執事は「模様替え」だと言ったが、主人の目が届かぬのをいいことに勝手に売り払ったのかもしれない。

ハウプトの説明によれば、ことの顛末はこうだ。

3年前、財務尚書に就任したカストロプ公は、自らを骨董愛好者として盛んに宣伝した。公は帝室と縁戚にある大貴族であるし、国家の財政を握る財務尚書である。彼のもとにはあらゆる名目で骨董品が届けられたようだ。実はそれらの品のほとんどは、裏でカストロプ公の庇護を受けた骨董商が相場以上の高値で売り付けたものであった。公爵の懐にはほどほどの価値の骨董と、骨董商から献納された巨額の売上金とが入る構図であったらしい。

しかしながら、その全容が明らかになっても、カストロプ公が罪を得ることはなかった。骨董商をトカゲの尻尾にすることに成功したからである。同時に、骨董バブルがはじけた。値上がりを見込んで骨董を買い込んでいた者には寒い冬が待ち受けている。

「内務尚書はさぞ悔しがっておられような」

「リヒテンラーデ侯がですか? なぜです?」

「これは政局だからさ」

宮廷だの貴族社会だのからはできるだけ離れていたいオーベルシュタインにも、ハウプトの話は興味深いものだった。

また目的地に到着する前日、士官室ウォードルームでハウプトの酒に付き合っていると、その口から思いがけぬ名が飛び出した。

「卿は樫之木館アイヒェンバウム・ハオス
のご老体と昵懇じっこんだそうではないか」

「私は別段…。父がお世話になっているというだけです」

オーベルシュタインは会ったこともないこの老人に対し、得体の知れない不気味さを感じている。どうやら彼の人生は、知らぬうちにこの老人の影響を強く受けているようなのだ。幼年学校への入学もフランツィスカとの婚姻も、この老人の口利きであった。こうしてハウプトが持ち出してきたからには、人事課への配属にも一枚かんでいるに違いない。

「どういうお方なのですか、そのご老体は。なぜ退役して十年以上も軍に影響力を持ち続けられるのか、私にはよく分かりませんが」

ハウプトは琥珀色の液体を嘗めて、天井を見上げた。

「あの御仁は、面倒見がよいのだな。頼めば何くれとなく力を貸してくれる。軍人としても優秀だった。前線で武勲を立てることもできるし、後方で軍官僚として事務を差配することもできる人だ」

オーベルシュタインはまだ、そんな軍人を見たことがない。

「退役後もたびたび口を出してこられるものだから、排除したがっている連中もいるようだが、これが難しいのだなあ」

「なぜ難しいのです?」

「弱点がないのだ」

「弱点」

「何が望みかよく分からん人なのだよ。もともと伯爵家の生まれであるから、生まれながらにして金も地位も持っている。もっとも爵位のほうは、早くに奥方を亡くされて子供もないからと、ポンと親族に譲ってしまわれたがな。軍人としても、能力はあるのに決してトップに立とうとはせん。常にナンバー2の位置にいる。上司に頼られ、部下に慕われるものだから、自然と権力が集中する。当然、弱みも握られる。そして、そうした部下が今は軍の中枢にいる、というわけだ」

「なるほど…」

「まあ、あまり深入りせんほうがいいぞ」

ハウプトは本心とも冗談ともつかぬ調子で忠告めいたことを言い、グラスの底に残った液体を喉に流し込んだ。

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