Der Wille zum Glück (5)

帝国暦472年11月28日

夫が出かけてもう二週間が経とうとしている。ご無事でいらっしゃるか、いつお帰りになるか、と、フランツィスカは不安を胸に、数式を検討しては気を紛らわす毎日である。執事夫妻も心なしか元気がなく、ときおり心配そうに空を見上げたりしている。

だが、この家で主の不在を最も寂しく思っているのは、おそらく犬のアインシュタインであろう。犬には出張などと言っても通じぬから、彼は毎晩オーベルシュタインが帰ると信じて、ホール時計の下で待っている。フランツィスカはアインシュタインがあきらめて二階の寝床に上がるまで、長い時間をかけて説得してやらねばならなかった。

この日、フランツィスカは空模様と同じく重く垂れ込めた心を抱えて、アインシュタインの散歩に出かけた。市場へ寄っていつもの肉屋で羊肉を求め、いつものように屋敷に戻るはずであった。

それが今、彼女は追われるように家路を急いでいる。息がうまく吸い込めず、耳の奥で血管が脈打つ。大きく響く心臓の音が胸に抱いた雑誌に跳ね返された。

ブルーメン広場の噴水の前を早足で駆け抜けたところで、犬が急に足を止めた。犬に引っ張られてフランツィスカも立ち止まる。

「アインシュタイン?」

リードを引いても、犬はその場に座り込んで動こうとしなかった。彼女があまりに急かすものだから疲れてしまったらしい。もう若くはないのだ。

「ごめんなさい。一休みしましょうか?」

フランツィスカは今にも雨粒が落ちてきそうな空を見上げ、そばのベンチに腰掛けた。土曜のお昼にいつも、退省する夫を待つベンチである。

広場には数日前、ヴァイナハツマルクトが設営された。ヴァイナハテンは人類が地球という一惑星で暮らしていた頃からの風習だと言われている。華やかに装飾された間口2メートルほどの屋台が軒を連ね、軽食を出す店もあれば、菓子や小物を売る店もある。

平日の昼間であるから人出は多くない。フランツィスカの目には、母親に手を引かれて歩く女の子の姿が映るだけであった。女の子の首にはハート形の大きなレープクーヘンが、まるでペンダントのようにかかっている。女の子はそれに手を触れてはにこにこと笑い、しきりに母親に話しかけた。

あたりに漂うグリューワインの甘い匂いを吸い込むと、フランツィスカの脳裏に幼い頃のかすかな記憶がよみがえった。確か、父に肩車されて夜のヴァイナハツマルクトに出かけたように思う。電飾がきらきらと輝いて、とてもきれいだった。母は、そのとき母は隣にいたのだったか。

膝の上に置いた雑誌を見つめて、フランツィスカは深呼吸をした。フェザーン自治領の広報誌である。投資の勧誘や企業の誘致、金融商品の紹介など、フェザーンに資金を呼び込むことを目的に発行されているものらしい。

先ほど市場のキオスクで偶然目に入ったものだ。視界の端でとらえた思いがけない既視感に、フランツィスカは心臓をぎゅうと握り込まれたような感覚を得た。一瞬、自分自身の顔を見たのかと思ったのだ。その雑誌の表紙の「自分」は、見知らぬ男性のそばで静かに微笑んでいた。血の気が失せて、数瞬の間、目の前が暗くなった。

――お母様…!

そう直感した。

 

広場の噴水は寒々しい音を絶え間なく広場に響かせる。細かな水しぶきが周囲の気温を押し下げ、吐く息を白く見せている。

手袋をはずし、犬の頭をなでて、フランツィスカは雑誌のページをめくった。フェザーンの不動産開発に関する記事に表紙と同じ写真 があった。フョードロフ不動産プロパティという会社がスラム化した地域の再開発をして、低所得者にも入居可能な住宅を多く建設したのだという。写真の男女には「フョードロフ夫妻」というキャプションが付けられていた。「夫妻」という言葉に、フランツィスカの胸がざわつく。

間違いなく母であった。灰色がかった黒い髪と青碧の瞳を持つその女性は、鏡に映したようにフランツィスカとよく似ている。母の隣の男性は頬から顎にかけて柔らかそうな髭を蓄えた壮年の人で、 灰色の瞳には力強い意志が溢れているようだ。細面で気の優しい顔立ちであった父とは全く共通点がない。フランツィスカはそのことに、安心したような残念なような、複雑な感情を抱いた。

写真の母に憂いの影はない。それはフランツィスカの記憶に残る母とは違う、幸せそうな顔であった。写真の中だけでもその様子を見ることができたことを、フランツィスカは嬉しく思った。

同時に、母の消息を夫には話すまい、と心に決めた。夫はきっと会ってみればよいと言うだろう。だが母はもう生きる世界の違う人なのだ。フランツィスカは母の出自を恥じたことなどないが、もし母と交流を持ったと知れれば、義父はどれほど怒るだろうか。義父と夫との心理的断絶をフランツィスカは案じている。自身が争いのもとになることは避けたかった。

雑誌にぽつぽつと水滴が落ちはじめた。自重に耐えかねた雲がとうとう負荷を放出しはじめたのだ。

「アインシュタイン、歩けそう?」

犬は思いがけず機敏に立ち上がり、屋敷をさして歩き始めた。霞のように細かな雨が大気をけぶらせる。

門扉のところで、傘を手に敷地を出ようとするラーベナルトと出くわした。腕にもう一本傘を掛けている。

「降ってまいりましたね。お帰りが遅いのでお迎えにあがるところでした」

「ありがとう、ラーベナルト」

夫人に傘を差しかけて前庭を戻りながら、執事は気遣わしげな視線を夫人にやった。それほど濡れた様子もないのに、ずいぶんと顔色が悪い。

「奥様。どうぞ早くお着替えをなさいませ」

執事の声には、秘密を打ち明けるような響きがあった。何ごとがとフランツィスカが少し首をかしげて彼を見返すと、ラーベナルトは車寄せで傘の雨を振るいつつ、

「先ほど、旦那様のお手紙が届きましたよ」

と、笑った。フランツィスカの青白く沈んだ頬が、見る間にばら色に変わる。

「本当?」

「お部屋へお持ちいたしましょう。暖かい生姜茶イングヴァー・テーも一緒に」

「ありがとう!」

玄関で犬のリードをはずし、フランツィスカは軽やかに階段をのぼっていったが、億劫そうについてくる犬に気が付いて途中で立ち止まった。

「急がなくていいのよ、アインシュタイン」

そして、犬が追い付くのを待って歩調を合わせてともにのぼった。

 

執事が置いて行った銀盆には、生姜茶のカップとフラウ・フォン・オーベルシュタイン宛の分厚い封筒とが乗せられていた。辛味のあるお茶を一口すすると、身体がほわほわと温まる。

 

“Liebe Franziskaリーベ フランツィスカ

変わりなく過ごしているだろうか。

私は昨日、無事目的地に到着した。心配なきよう。ここは乾燥が激しく、塵埃もひどい。義眼の寿命に影響しそうだ。

さて、この航海の間、前に君が話していた変位虚数解について考えていたのだが、ゲッティンゲン理論を応用してはどうかと思う。計算式を同封するから見てみてほしい。

心を込めて。

Dein Paulダイン パウル”

 

手紙と呼べるのは1枚目の四分の一だけで、残り7枚はすべて数式だった。まるで口数の少ない夫そのものだ。無愛想な軍用便箋に没食子もっしょくしインクの藍黒色が美しく刻みこまれている。やや傾斜の強い生真面目な筆記体を指でたどりながら、フランツィスカはもう一度最初からゆっくりと読み返した。

―― Liebe Franziska愛するフランツィスカへDein君の…、Paulパウル…。

この文字を綴ったあの大きな手を想うと、切なさがじわりと身をいた。犬が手紙の匂いを確かめようと鼻先を突き出す。

「あなたも、会いたい?」

湿気の残る背中をなでると、犬は目を細めて寝転がった。

今回はただの出張だと前置きしつつも、彼女の夫は遺言めいた言葉を残して旅立った。こうして遠く離れてみると、フランツィスカは自身の幸せがどれほど儚いものかを身に染みて感じる。もし一人残されたらどうなるのか。いつかパウル様のことを思い切って、誰か他の人と共に生きるのだろうか。母のように。

――子供がいたら…。

一瞬心をよぎった思いに、フランツィスカは恐怖した。裏切りである。子供は望まない。二人でそう決めたというのに。もしそんな思いを抱いたと知ったら、夫はどれほど傷つくだろう。

ふいに、大学へいこうか、と思った。夫が大学に進むようすすめたのは、彼女に何かのこそうとしたからではないか。そんな気がしたのだ。

フランツィスカは鏡台に目をやった。心細そうな女が映っている。鏡台の上にはいつも、青いリボンを掛けた香水瓶と写真立てが置いてある。香水は父が最後にくれた誕生日の贈り物で、リボンは別離の朝に母が髪に結んでくれたものだ。婚約中にもらった写真には、士官学校の制服に身を包んだ夫が姿勢正しく、かつ、不機嫌そうに立っている。夫は写真嫌いで、積極的に被写体をつとめることはほとんどないと聞いた。義眼が妙な具合に反射することがあるからだろう、とラーベナルトは言う。

写真立ての前には、フェザーンの広報誌を下敷きにしてオーベルシュタインから贈られた手袋が無造作を装って置いてある。執事が目をとめぬようにと思ってのことだ。

「君は何も欲しがらないから、とても困った」

夫はそう言ってあの手袋を贈ってくれた。だが、自分は本当に何も欲しくなさそうに見えるのだろうか、とフランツィスカは思う。この幸せだけは失いたくないと、これほど強く願っているというのに。

不安で息が詰まった。夫の腕に抱きしめてほしかった。今の暮らしのすぐそばにも奈落が口を開けているのかもしれない。母と別れた朝、彼女はあの瞬間まで幸福な未来を信じていたのだ。

「早くお帰りになるといいわね…」

小さなつぶやきは、受けとめるものもなくくうに拡散していった。犬はすっかり寝入っているようだ。

フランツィスカは手紙を胸にあてて窓の外を眺めた。半円窓の形に切り取られた薄暗い空から、深秋の冷たい雨が音もなく降り続いている。

『お母様はいつもあなたの幸せを祈っているわ』

母の声が耳にこだました。

――お母様は今も祈って下さっているのだろうか。

あなたの娘は大切な方に巡り合って幸せに暮らしているのだと、母に知ってもらいたいと思った。

Vorherige Nächste