Der Weg zum Friedhof (5)

帝国暦472年12月25日

夕方から降り始めた雪はどんどん激しさを増し、見る間に帝都を白く塗りつぶした。比較的温暖な帝都でこのような雪が降るなど滅多にないことだ。初めは珍しさに喜んだ人々も、やがてその尋常ならざる様子に不安を覚えた。雪が帝都の交通に重大な影響を来たしはじめたからである。

軍務省に刻々と入ってくる情報によれば、各所で事故が発生しているとのことであった。地上交通管制局は無人運転の地上車をすべて最寄の車庫に強制誘導した。タクシーの空車は全くない。民用空港も軍港もすべて閉鎖された。最後まで動いていた路面電車も、先ほど運行を停止したとの連絡が入ったところである。

仕事納めのこの日、 官庁街のかなりの官僚が仮眠室やタンクベッドで夜を明かすことになりそうであった。

軍務省でも帰宅を諦めた者が多い。

「オーベルシュタイン、卿はどうする?」

課室から見える外の景色は、一面白くけぶっている。

「私は歩いて帰ろうと思います」

「家が近いのは結構だな」

オーベルシュタインの自宅までは3.5キロほどの道だ。雪があっても1時間ほどかければ帰り着けるはずである。今朝方フランツィスカの具合が悪そうであったのが気にかかっていた。クライデベルクに連絡を入れると約束もしたことだ。きっと帰りを待っているだろう。

 

その頃、ファイルヒェン街24号のオーベルシュタイン家は、思いがけぬ客を迎えていた。オーベルシュタイン家の当主である子爵その人である。慌てふためく執事夫妻は、少々酒が入った子爵に大声で叱責を受け、息子の不在を理不尽にとがめられた。

子爵はこの日の午後、任地から戻ったその足でクライデベルク行きの便に搭乗するはずであったのが、雪で運航中止になったため空港から引き返してきたというのであった。

「今夜はこちらにお泊りになりますか?」

「いや、ブルーメン広場ホテルに部屋を空けさせた。先ほど城の執事に聞いたが、パウルは正月に戻らんそうだな」

「はい。年末年始と当番出勤に当たられたそうで、日程が…」

オーベルシュタイン子爵は応接室に案内しようとした執事を無視して、二階の書斎に上がった。彼がこの家で暮らしていた当時、帰宅後はまず書斎で些事を片付けたものである。

書斎に入った子爵は見慣れぬライティングビューローに視線をやって、その机上に置かれた息子夫婦の写真をぎろりと睨んだ。

「フランツィスカ殿はどうした。出迎えもせんとは無礼な」

「本日はお体の具合が宜しくないご様子でございまして…」

「呼んで来い」

「は、はい」

ヘルガは、気だるげに寝台に横たわっていたフランツィスカを起こし、身支度を手伝った。

「大事ございませんか、奥様」

「ええ、大丈夫」

フランツィスカは鏡台に向かって一度、にっこりと微笑みかけた。口では大事ないと言うが無理をしているのは明らかだ。頬と唇に紅を差してもなお顔色がよくない。ヘルガはフランツィスカを支えるようにして書斎へ向かった。犬が後ろをついてくる。

「ようこそお越し下さいました、お義父様」

書斎机の向こうに座る軍服姿の義父は、そばへ寄ろうとした犬を邪険に追い払った。組んだ手に顎を乗せて上から下までなでまわすように嫁を見る。襟と肩の階級章が中佐を示すものだと、フランツィスカは最近覚えたばかりである。

「体が弱いとは聞いていないが?」

「いつもはお健やかでいらっしゃいます、旦那様」

「黙らんか! 使用人が聞かれもせぬことを答えるな」

「申し訳ございません」

ヘルガは、フランツィスカが自分に向かって小さくうなずくのを見て、数歩下がって控えた。

子爵は書斎机の上に置かれたものをばらばらとめくり、鼻を鳴らした。およそ軍人らしからぬ机である。数学の学会誌が積まれ、数式処理システムから打ち出した計算式の紙がまとめられている。

「これは何だ」

乱暴に投げ出されたのは、大学の募集要項であった。

「パウルは軍を辞めて大学にでも行くつもりなのか?」

「いえ、それは…。それはパウル様がわたくしのために取り寄せてくださったのです」

子爵は冷笑した。

「何を言っておられるのか理解できぬな。あなたは大学に行くつもりなのか」

「はい。パウル様がそうおすすめくださいましたので」

「女が大学とは笑わせる。しかも婚家の金を使って大学に行かせろか。図々しさはクラヴィウスの血だな。いまいましい」

女は大学になど行かぬものだと、フランツィスカは初めて知った。夫は微塵もそんな様子をみせなかった。

「それで、子はできたのか」

フランツィスカは小さく首を振る。

子爵は掌を机に叩きつけた。突然発せられた大きな音に、3人の人間と1匹の犬がびくりと身体を硬直させた。

「跡継ぎを産めと、しかと申しつけたはずだな。忘れたか!」

大声をあげる子爵に向かって、アインシュタインが地を這うような声で低くうなり、歯をむき出して威嚇する。フランツィスカは小さく犬の名前を呼び、手振りで伏せるよう命じた。

子爵は机を回ってフランツィスカの前に立つと、細い顎に指をかけた。

「このようにギスギスに痩せておるから、パウルの食指が動かんのではないか? どうなのだ、ラーベナルト! やることはやっておるのか」

「は、あの、大変仲睦まじくお暮しでございます」

執事は眉をひそめ、フランツィスカを憚りつつ答えた。

「劣悪遺伝子は子もまともに作れんか。医者にかかれ。あなたに問題があるならパウルにめかけを持たせる。異存なかろうな?」

フランツィスカは義父を正視した。妾などパウル様が承知するはずがない。夫を誰かと共有するなど、考えただけでも身の毛がよだつ。義父はなぜ夫の心を分かろうとしないのか。

「何だその目は」

「お義父様。子供のことはどうか、パウル様のお気持ちをよくお聞きになってくだ…」

子爵はいきなり右腕を大きく降って手の甲でフランツィスカを打った。宝石のめ込まれた指輪の爪がフランツィスカの右頬を引っかき、赤い筋を作った。床に伏せていた犬が唸り声をあげて子爵の左手首に喰いつく。ヘルガが走り寄って床に倒れたフランツィスカを抱き起した。

「アインシュタイン、やめなさい!」

子爵は苦痛の叫び声を上げながら、右手を腰のホルスターに伸ばした。

「だ、旦那様、お静まりを」

近づくラーベナルトを銃把じゅうはの角で殴りつけ、子爵は犬に向かって引き金を引いた。

 

オーベルシュタインが軍務省から自宅へ戻る最中も、雪がやむことはなかった。一歩歩くたび、その足跡を消すように天から新たな雪が落ちてくる。黒いコートに白く雪を積もらせて、彼はようやく屋敷にたどり着いた。

屋敷は極めて静かであった。いつも玄関扉の外まで聞こえてける犬の声がしない。ベルを鳴らしても出てくる者がない。ベルは使用人の控室と台所へ届くようになっているはずだ。

自ら扉を押して中へ入り手袋を取っていると、ちょうどホール時計が8時を告げ終わる重々しい音に重なって、何か異音を聞いたように思った。直後、フランツィスカが悲鳴のように犬の名を叫ぶ声が、吹き抜けの天井から降ってきた。書斎であろう。階段の親柱にコートと軍帽を掛け、暗い階上を見上げる。

「遺伝子がすべてを決めるなんて誤りです!」

「何を言うか!」

――父上?!

ホールに妻と父の声が反響する。オーベルシュタインは段を飛ばして階段を駆け上がった。

「遺伝子で人の優劣が決まることはありません! パウル様は…」

「共和主義者か、貴様は!」

オーベルシュタインが階段を登りきり書斎のある廊下へ足を踏み出したとき、2メートルほど先の開いた扉から一条の閃光が伸びて、廊下を隔てた壁にかかる油絵を黒く焦がした。物が倒れる大きな音と、執事夫婦の叫び声がその扉から噴き出してきた。

フランツィスカは胸を焼く熱に一瞬気を失った。再び気がづいたとき、彼女は視線の先に11年にわたる忠実な友が横たわるのを見た。

――アインシュタイン…。

犬は豊かな毛を血に濡らして小さく痙攣している。彼はフランツィスカが伸ばした指の先をぺろりと舐めたが、彼女の腕の上を軍靴が跨いでいった後はもう動かなかった。

オーベルシュタインは書斎の入口に立ちつくした。義眼から送られてくる情報を脳がうまく処理できない。見たくないものを拒絶しようというのか、視界がばちばちと明滅した。彼は肩に手をかけようとした父から身をかわすようにして、よろよろと室内に入った。

妻と犬が転がっている。絨毯にじわじわとどす黒い染みが広がっていく。部屋の奥の方で、額から血を流した執事が立ち上がろうともがいている。家政婦長は床にべたりと座り込んて放心している。

生臭い血の臭いが満ちていく中、廊下を遠ざかる父の軍靴の音がした。

「フランツィスカ」

腕に抱きあげた身体は温もりを失いはじめていた。もはや彼女の魂は死神の手のうちにあるのだと、オーベルシュタインは瞬時に悟った。もう取り戻せない。

「フランツィスカ!」

頬からも唇からも色が抜け落ちて、紙のように白い。こめかみに汗が浮かび、髪がいく筋か張り付いている。浅く切迫した呼吸が繰り返され、弱い脈が細かく打つのが伝わってくる。気道から空気の漏れる音がヒューヒューと鳴った。

「フランツィスカ!!」

名を呼ばれている、とフランツィスカは思った。よく知った胸に抱きかかえられているのを感じる。彼女がこの世で一番安心できる場所である。重いまぶたをこじあけると、薄暗く霞んだ世界の中に夫の目があった。

――ああ。また、そんな悲しそうなお顔をなさって…。

言うことを聞かぬ手をやっと伸ばして、フランツィスカは愛おしい人の頬に触れた。こうすれば彼の心のうちの悲しみがわずかながら癒されることを、彼女は知っている。

「我が、最愛の方マイン・リーベスター……」

生ぬるい血に濡れた優しい手に、オーベルシュタインは自身の手を重ねた。

「…フランツィスカ」

冷たい義眼を見つめ続ける青碧の瞳から、ゆっくりと生気が抜けていった。

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