Die Mörder sind unter uns (1)

帝国暦472年12月26日

雪の降り積もった早暁、明るい窓の外からは鳥の声だけがやけに大きく響いていた。

静かに書斎の扉を開けた執事夫妻は、部屋に満ちる血の臭いに思わず息を止めた。床に横たわる夫人と犬のそばで、主人が座り込んでいる。乾いた血がその顔や手に褐色の模様を描いていた。

「旦那様…」

返事がない。常に感情を宿さぬ目が、やはり感情を宿さぬまま、死せるものたちを見つめている。

「旦那様。カプセルを手配いたしましょうか」

三度目の呼びかけに、オーベルシュタインはようやく顔をあげて、執事夫妻の存在を認識した。二人ともひどく泣き腫らし、夫のほうは頭に包帯を巻いている。今さらのように、自分は人と違うのだとオーベルシュタインは感じた。このような苦痛の中にあっても、彼は涙ひとつこぼすことができない。

「旦那様?」

「ああ。そうしてくれ」

かすれた声でそう答え、オーベルシュタインは自室へ引き取った。執事が妻に目配せして後を追わせる。自害でもしたりはせぬかと恐れたのだ。だが部屋の扉は、彼女の鼻先で重い音を立てて閉められた。廊下には血の臭いと絵画の焦げた臭いが残った。

数時間後、50年ぶりという帝都の大雪に足を取られながら、葬儀屋がやってきた。器材一式をそろえた遺体処理士エンバーマーをともなっている。20年以上使われていない舞踏室バルザールが開かれ、夫人と犬の遺体は1階に降ろされた。葬儀屋たちは、若い娘と犬の死因が銃創だとみて、すぐに何か外聞をはばかる事態が起きたことを察した。貴族の屋敷には数多くの秘密があるものだ。その秘密を下手に漏らしては命にかかわることも、沈黙の対価として十分すぎるほどの報酬が支払われることも、彼らはよく知っていた。

 

すっかり身なりを整えたオーベルシュタインは、居間に運ばれたライ麦パンとスープを機械的に口に運んだ。しばらくぼんやりとしていたが、やがて何かを思い出したように立ち上がった。

書斎は血を吸った絨毯や家具が片づけられていたが、空気にはまだ血の匂いが混じっているようだった。オーベルシュタインはその殺風景な有様を無言で一瞥して机につき、3番目の抽斗から指輪を取り出して指にはめた。そして、たまった請求書を確認しては小切手を切りはじめた。まるで儀式のように、休日の彼の日課を繰り返したのであった。

舞踏室へ足を踏み入れたのは、日が傾く頃である。そこはひんやりとした空気に満たされていた。天井に豪華なシャンデリアがきらめき、美しい寄木細工が床を彩るその部屋は、今や華麗な霊安室に様変わりしていた。かつて無数の紳士淑女が軽やかなステップを踏んだであろう冷たい床を進み、オーベルシュタインは物言わぬ家族らに近づいた。

彼らはそれぞれ、透明なカプセルの中に納められていた。オーベルシュタインはカプセルのそばに置かれた椅子に座り、中をのぞき込んだ。妻は、襟と袖口に美しいレースをあしらったベルベット地のドレスに身を包んで横たわっていた。髪を整え、薄く化粧も施してある。犬のほうも、白い毛を染めていた血の跡はなく、もとの毛並を取り戻していた。遺体処理士の腕をほめるべきだろう。妻の表情からは死の苦しみが消え、ただ深い眠りについているだけのように見える。これがおとぎ話であれば、口付けで目を覚ますに違いないと思えるほどに安らかな姿で、唇は微笑みをかたち取り、頬にはえくぼさえあった。

だが厳然たる現実が生者と死者とを分けている。もう二度とあの美しい青碧の瞳が彼を見つめることはないのだ。オーベルシュタインは冷たいカプセルに頬をあて、現実感のない現実をかみしめるよりほかなかった。

 

その翌日、凍った雪を踏みながら、オーベルシュタイン家とクラヴィウス家の顧問弁護士がそろって屋敷を訪ねてきた。彼らがオーベルシュタイン子爵家の若様と面会するのは、6月の婚礼以来である。弁護士たちは、応接室にあらわれたオーベルシュタインの顔を見て、恐怖映画のただなかにいるような心地がした。わずか半年前には少年の面影を残していたが彼が、まるで墓場からよみがえった亡霊のような面持ちに代わっている。頬の肉が削げ落ち、青白い顔の中で目の下の濃いくまがいやに目立っていた。

「オーベルシュタイン子爵からご連絡がございました。若奥様は…」

「今となっては、若奥様という呼称はいかがでしょうな、ラインスドルフさん」

オーベルシュタインは二人の弁護士のやりとりに絶対零度の視線を向けた。

「実は若様。ご逝去にともなう手続きしようとしたところ、令嬢には戸籍がなかったことが発覚いたしました」

「…何を言うか。フラ…」

名を呼ぶのが苦しい。

「彼女は、典礼省の発行した身分証明書を持っていた」

「はい。典礼省の電子データには確かに戸籍情報があり、データから生成される謄本にもその記録が反映されております。ただ、紙の原本である帝国貴族系譜簿には記載がないのでございます。貴族戸籍法により、両者に相違のある場合は原本が電子データに優先する旨が定められております。したがって法的には、令嬢が亡きクラヴィウス子爵の嫡出子であったことは認められません」

クラヴィウス家の弁護士が後を受けた。

「10年ほど前、クラヴィウス家にお移りになるにあたっての入籍手続きは私が行ったのですが、その際に典礼省において何らかの手違いがあったものと存じます。ご存知かどうか、令嬢は父君の出奔中にご誕生になられましたので、平民戸籍もございません。ご生母のフェザーンの戸籍にも入っていないようです」

銀河帝国は戸籍制度がよく整備されてた国家である。広大な版図であまねく徴兵、徴税を行うため、戸籍は絶対不可欠のものであるし、監視社会を維持するのにも役立つ。にもかかわらず、法的に彼女が存在したことを示す証拠がどこにもないというのであった。

「これがお二人の婚姻届が受理されなかった原因と思われます。我々に貴族系譜簿の原簿を閲覧する権限はありませんので、写しに原簿と相違なしとの記載があれば、それを信ずるよりほかございません。典礼省の役人は陰に陽に袖の下を要求しておりました。おそらくはこのあたりの事情を餌に、金を引き出す魂胆であったかと」

オーベルシュタインは肘掛についた手に額を乗せてよりかかった。ずきずきと頭痛がした。彼はずっと、不受理の理由が彼の障害のためだと考えていたのだ。

「若様。司法省に就籍申請を出してはいかがでしょう。つまり、二親の知れぬ子と同様、新たに戸籍を作成し、その上で死亡届を出す、という手続を取るのです」

「どうかそのようにご処理いただきたい。オーベルシュタイン子爵の主張なさるところでは、令嬢はその言辞より共和主義者であることが明らかであり、犬をけしかけて子爵に危害を加えようとしたので已む無く射殺した、ということです。ことが共和主義者となりますと、クラヴィウス家といたしましても、いかんともしがたく」

壁際に侍立するラーベナルトは、怒りをこめて二人の弁護士を睨んだ。愛する人を失ったばかりの人間にこうも冷淡に今後の処理を提案する弁護士という人種に対し、反感を覚えずにはいられなかった。そもそも共和主義者であったなど虚言である。子爵はただ激昂して若奥様を手をかけたにすぎない。

「どうなさいますか、若様」

「就籍は不要だ」

「しかし、一人の人間が生きたことを示す公的証拠が何も残らぬのは、あまりに…」

オーベルシュタインは無言で外を眺めた。いつの間にか日が暮れた暗い窓に彼の義眼が反射して、また異様な光を放った。彼女はこの目が好きだと言った。この視線の先には自分の居場所があるとも言った。まさか戸籍すら持たぬとは。本当にこの世のどこにも居場所のない人だったのだ。

「よい」

――私が知っている。それでいい。

 

突然の離別から三日目の夜半、一人の老人がオーベルシュタインの屋敷を訪れた。フランツィスカの家庭教師であったケラーである。彼はフランツィスカ付きであった他の使用人と同様、すでにクラヴィウス家から暇を出された身であった。

「父君と…あまり似ておられませんな」

応接室に通されたケラーは、オーベルシュタインの顔をちらと見て意外な感想を述べた。

「父をご存じなのですか?」

「さよう、もう30年ほど前になりますかな、軍務省で一度。父君が共和主義者を誅殺なさった直後だった」

共和主義者を誅殺、という言葉に、オーベルシュタインの心臓が大きな音を立てて跳ねた。胸にわいた数々の疑問を抑えつけて、最も答えが得やすいであろう質問を投げかけた。

「先生は、軍に?」

「防諜研究所ですな」

老人は自らの膝を何度かなでた。痛むのかもしれない。

「お嬢様は、共和主義者として処断されたのだとか」

クラヴィウス家の顧問弁護士は、令嬢のそば近くに仕えていた3人には彼女の死を知らせたのであったが、その死の理由に彼らは恐怖した。共和主義者とかかわりがあったなどと知れれば、どのような不利益をこうむるか分かったものではない。

特にケラーは冷静ではいられなかった。固く封印した過去があったからだ。

「…言いがかりだ」

確かにフランツィスカは共和主義的な思想に抵抗を持たぬ人ではあったが、オーベルシュタインは彼女が共和主義者であったとは思わない。

「さよう」

ケラーはそう答えたきり黙り込んだ。

オーベルシュタインは執事に命じ老人を舞踏室に案内させる一方で、自身は書斎へ上がり、フランツィスカの数式処理システムに残ったデータを紙に打ち出してきた。

「先生、これを」

「亜空間高次方程式…」

「大学で研究したいと言っていた」

数式を見つめる老教師の目からぽろぽろと涙が落ちて、しわの多い顔を流れ、白い髭を濡らした。半年前からは想像もできぬほど、高度な数式であった。ケラーも理解が及ばぬ内容が数多く含まれている。老人は、冷たい目をしたこの若者がどれほどフランツィスカの才能を愛していたかを知ったのであった。

「先生は素数を専門になさっていたと聞いている」

「さよう。軍には暗号の研究員として呼ばれたのですな。自分で言うのも何だが、私は実に巧みな暗号を作り上げた。だがそれが、共和主義者に利用されたのです」

老人は決してオーベルシュタインと目を合わせようとしない。

「私は一味と疑われ、身の潔白を証明するよう迫られた。それで共和主義者の首魁と目されていた人物に会いに行ったのです。大規模な人事異動の発表がある日で、省内はひどく混乱していた。いやあれは、私のために引き起こされた混乱であったのでしょうなあ」

ケラーはそれだけ言うと、カプセルの中のフランツィスカを見たまま、長い間沈黙していた。

彼は嘘をついている。事実彼は、ジークマイスターが作り上げた反帝国組織の一員であった。素数暗号を駆使して同盟に情報を流していた。だが保身のために、ミヒャールゼン提督を裏切る決意をした。死ぬのが怖かったのだ。ミヒャールゼンの死後は軍を退き、貴族の子弟の家庭教師としていくつかの家を転々とした。貴族の屋敷にいれば、監視もゆるくなる。共和主義からの転向者であると悟られるわけにはいかなかった。

フランツィスカは彼が教えた中で最も優秀な生徒であった。また、父母に棄てられた哀れな娘であった。下働きの者さえ露骨に彼女を見下した。ケラーは自分がフランツィスカに共和主義的な思想を教え込んだとは思わない。たが同時に、ルドルフ大帝とその王朝を称えるような書物も一切与えなかった。

彼には後悔してやまぬ言葉がある。広い屋敷の薄暗いの一角に閉じ込められ、犬の首を抱いて泣いていた少女に、ケラーは言ったのだ。

「人は誰しも生まれながらにして幸福になる権利を持っています。人の価値を決めるのは血筋や身分ではありませんぞ」

その言葉を聞いたフランツィスカの目には、真実を見出したかのような光があった。貴族の子というものは、幼児教育が終わる頃にはすでに貴族の悪徳を身に付けているものである。肥大化した自尊心を押さえることができない。しかし彼女は違った。下町で育った彼女は、強者を優遇し弱者を酷遇するこの帝国の現実を、身をもって知っていたのだろう。

あれは間違いなく、共和主義者として発した言葉であったと、ケラーは思う。フランツィスカが共和主義者として殺されたのならば、あの娘を死に至らしめたのは、きっと師である自分に違いない。その思いが老人の爪先をオーベルシュタイン家に向けさせたのである。

「あなた様は、樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの引力に捕らわれませぬように」

そう言い残し、老人はオーベルシュタイン邸を辞去した

 

同12月30日

フランツィスカとアインシュタインは遺体保存カプセルから棺に移され、ヴェスターヴァルト恩賜公園に葬られた。帝都西郊の森林墓地である。ここに墓地を買うよう指示を受けて、執事は心底驚いた。クライデベルクのオーベルシュタイン家の墓地に葬ることはできぬとしても、森林墓地は平民が埋葬される場所である。貴族が眠るにふさわしい場所ではない。しかも彼の主は、3人分の墓区を準備するよう命じた。いずれ、自らもここに眠るつもりなのだ。

森林公園の日陰には、まだ雪が残っていた。墓区の周囲からは針葉樹の木々が青い枝を伸ばしている。凍った地中に納められた棺に、土がかぶせられていった。

秋にここを訪れたときは、妻も犬も命があった。今は、彼一人が生きている。

ーーあの棺の方は、いずれ土に帰ってこの森の木を育てるのですね。

あの黄金色の秋の日、 広場の芝生から墓地へ入っていく葬列を見ながら、彼女は言った。そして、あの死の湖と同じ色の瞳でオーベルシュタインを見て、小さく笑った。

――また連れてくると約束したというのに。

このような形で再びここを訪れようとは、誰が想像しえたであろうか。風が吹くたび、樹上で氷結した雪がパラパラと降ってきた。

棺が完全に土におおわれても、オーベルシュタインは長い間、その場に立ち続けた。まだ掘り返されぬ隣の墓区を見るうち、少しだけ心が楽になるように感じた。いずれ自分もここでフランツィスカとともに眠るのである。血を受け継ぐ子を持たなかったためかもしれない。土の下でともに木の養分となることが、自分たちにふさわしい死のように感じられてならなかった。

Vorherige Nächste