Neue Reich im Jahre Null (3)

決裁書類を軍務尚書の執務室に運ぼうとしたシュルツは、立ち上がった途端「あれ」と声を出して動きを止めた。壁には軍務尚書の在室を示す緑ランプと来客中を示す赤ランプが同時に点灯している。たった今、赤ランプが消えたばかりだというのに、入れ違いで誰かが入っていったらしい。秘書官である自分を通さずにいきなり尚書の予定に割り込むとは、腹立たしいことである。尚書決裁が必要な書類がたまりつつあるのも、気がかりであった。

ノックとともに秘書官室に入ってきたフェルナー准将は、表情のコントロールに失敗したような顔で、コーヒーメーカーに向かった。

「准将」

壁のランプを指差したシュルツに、フェルナーは、

「ラング」

と一言答え、窓から軍務省の中庭を見下ろしながらコーヒーを飲み始めた。

ラングが軍務尚書の片腕のような顔をして執務室に出入りすることが、フェルナーには面白くない。内国安全保障局はそもそも内務省の管轄であって、その長官が軍務尚書のもとを足しげく訪れること自体が筋違いの話なのだ。軍務尚書とてあの男を信頼して使っているわけではないだろう。いや、そもそも軍務尚書が誰かを信頼するなどということがあるのだろうか。

「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物に対して捧げられるもの」。そう言って、自らの忠誠心を宝石に例えてみせたフェルナーである。オーベルシュタインの下で働く時間が長くなるにつれ、この宝石を彼にくれてやるのもそう悪くないような気もしているのだ。別にラングとオーベルシュタインの寵を争うつもりなどないが、やはり気にさわる。

 

「ただいま、ロイエンタールめの周辺を特に念入りに探らせているところでございます」

人の悪そうな顔つきで得意げに告げたラングに対し、オーベルシュタインはさして興味もなさげに軽くうなずいただけであった。

ロイエンタールの女性関係が派手であるのは周知のことだ。そのあたりから探れば必ず尻尾を掴むことができる。ラングはそう確認している。彼とその部下がどれほど有能な存在であるかを熱弁しつつ、ラングは顔の汗をハンカチで拭くまねをしながらオーベルシュタインの表情を伺った。軍務尚書は何の感銘を受けた様子もない。ラングは内心舌打ちをし、彼の価値を分からぬ相手には早めにカードを切っておくがよいと判断した。

「ところで閣下。閣下はかつて、共和主義者の女と婚姻関係にあったとか」

オーベルシュタインの仮面じみた不健康そうな顔が、ゆっくりとラングを見返した。ラングの顔には自らの情報収集能力を誇りたいという過剰な欲望がはっきりあらわれている。

「そのような事実はない」

それは「共和主義者の女」と「婚姻関係」と、どちらを否定したのか定かでなかった。

「いえ、ご心配なく。奴はもうしゃべることはできません」

オーベルシュタインはその言から、かつてクライデベルクの城で働いていた使用人あたりが情報源だと察した。ラングは恩を売ったつもりであろう。

「いらぬ気を回すな。その女はただの同居人だ。当家の籍には入ってはおらぬ。共和主義者と気づいたからこそ、我が父が処断したのだ。いわば国家の厄災を取り除いたのであって、何ら恥じるところはない」

「ならばもっと誇ってもよろしゅうございましょうに」

「徒に自らの功を喧伝するは醜悪なことだとは思わぬか、ラング」

その言葉は明らかにラング自身に向けられたものであった。

「も、もちろんでございます」

ラングの殊勝な返答を、オーベルシュタインはいささかも喜ばなかった。そして唐突に、とある貧困扶助団体の動きはどうか、と尋ねた。それはラングの妻が参加している団体であり、ラングは昨夜、その団体とは縁を切るよう言って、妻と小さないさかいをしたのだ。団体がこの頃急激に共和主義へ傾倒しつつあるとの報告があったからだ。 ラングは背に冷たい汗が流れるのを感じながら、作り笑いのまま退出した。このぶんでは、仲の良かった門閥貴族の子弟に会いたいと子供たちが泣いたことも、当然知っているだろう。下手につつけば藪蛇になる。

いずれは帝国宰相の地位を、と、野心を肥え太らせているラングにとって、オーベルシュタインは早いうちに首根っこを押さえておきたい相手である。だがこの短い会話から、現段階でオーベルシュタインに掣肘を加えることは不可能だと彼は悟った。あの男には失って困るものが何もない。逆にラングは、家族を愛してやまないのである。

 

秘書官室の壁に設置されたランプが緑に変わった。シュルツは今度こそ決裁書類を渡そうと立ち上がったが、またすぐに赤に戻ってしまったのを見て顔をしかめた。今度は軍務尚書自身がランプを操作したらしかった。シュルツは溜息を呑み込み、両腕に抱えた書類を机に戻した。

署名決裁を要する書類はファイルに挟んで回覧される。各ファイルにチップが埋め込まれており、部署を移動するたびにスキャンして、書類が現在、誰の手元にあるかを確認できる仕組みである。軍務尚書のもとに書類がたまりはじめると、尚書決裁へ優先して回してくれと、各部署から秘書官室に言ってくるのだ。そのうえ、定時の18時まであと1時間あまりしかない。勤務時間外の書類は一切受け付けない慣例であるから、18時前になると駆け込みで届けられるファイルが増える。軍務尚書はそれら全部を決裁した後に退省するため、帰宅が遅くなることも多い。

 

隣室のシュルツの気も知らず、オーベルシュタインは執務室内の洗面室にいた。尚書執務室内の洗面室には一番奥に隠し扉があって、壁内に設けられた通路を使って建物の外に出ることができるようになっている。テロ対策である。だが尚書の執務室にまで攻め込まれるようでは、たとえ脱出できたとしても生き延びられる可能性は低い、というのが大勢の見方だ。現に前王朝最後の軍務尚書であったエーレンベルクは、ビッテンフェルトを前に、すんなりと抵抗をあきらめている。

ラングはよき家庭人であるという。定時を過ぎて呼び出そうとすると、すでに帰宅していることが多いそうだ。「あの仁は子供たちの顔が見たいから残業はしない、と言って憚らぬそうですよ」とは、フェルナーの言である。

家庭。オーベルシュタインにとってそれは、亜空間と似た存在だ。実空間と重なり合うようにあるのに、決して触れることができない。

――共和主義者の女…。ただの同居人…。

鏡の中の義眼が異様な光を放って反射した。血色の悪い陰気な男がこちらを見ている。胸の空洞を冷たい風が音をたてて吹き抜けていった。

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