Neue Reich im Jahre Null (5)

ナイトハルト・ミュラー上級大将は、早朝の旧市場アルトマルクトにいた。エルベ川南岸の歓楽街で、僚友のビッテンフェルト上級大将に明け方まで付き合わされ、ブルーメン広場の独身将校宿舎に戻る途中である。市場で何か、朝食兼昼食になるようなものを買い求めるつもりであった。

ショーウィンドー越しにミュラーの相手をしていた肉屋の老店主は、前の通路を馴染み客が通り過ぎるのを認め、軽く会釈を送った。つられるように振り返ったミュラーは、視線の先の人物に顔をこわばらせた。

――軍務尚書…! あの犬!!

オーベルシュタインはのそのそと歩く犬の歩調に合わせるように、ゆっくりと歩いている。喪服姿だ。青白い顔に黒い装いが気味悪いほど似合っている。死神もかくやという姿であった。オーベルシュタインはミュラーの敬礼に対し、黒い帽子の影から目礼を返して通り過ぎて行った。

「親爺さんは、長い付き合いなのかい?」

オーベルシュタインの姿勢の良い後ろ姿を見送りながらな、ミュラーは肉屋に問うた。

「ええ。お屋敷の家政婦さんがね、いつもうちで買って下さるんで。15年…いやもう20年になるかな、犬好きの奥様がいらして、ご贔屓にしてもらったものですよ」

「へえ」

――軍務尚書の母上なんて想像できないな。

ミュラーは肉屋のいう「奥様」が何者かを勝手に勘違いしたまま市場を出た。何気なくヘルリヒカイト街のほうを見やると、路面電車の停留所にたたずむ軍務尚書の姿があった。朝の明るい日差しの中で、軍務尚書の周囲だけ気温が低いように感じられる。まだ暑い日が続いているというのに、礼服をすきなく着込み、老犬を連れた彼は、帝国軍務省内で恐れられる冷厳な軍人というより、リップシュタット戦役で没落した貴族に見えた。先ほどは気が付かなかったが、手に花束を持っている。市場の花屋で求めたのであろう。

白と黄色で塗装された路面電車が停車し、また発車すると、オーベルシュタインの姿はもうそこになかった。現役の閣僚が護衛も連れずに路面電車に乗るとは、いかにも不用心である。ミュラーは携帯ヴィジフォンを取り出して、憲兵隊本部に連絡しようとしたが、路面電車の後方ランプを目で追って、ヴィジフォンをまた制服のポケットにしまった。きっと森林公園墓地に向かうのだろうと思ったのだ。誰にとて人に踏み込まれたくない領域というのはある。私服で外出する以上は公務ではないのだし、部外者が不用意に立ち入るべきではない。ただ、貴族出身のオーベルシュタインに森林公園に眠る縁者があるのを、ミュラーは意外に感じた。

あの肉屋からオーベルシュタインの犬の話を聞き、僚友に噂話として広めたのはミュラーである。彼はこの肉屋のハムが気に入って、たびたび出入りしていたのだが、その中でミュラーとオーベルシュタインが同じローエングラム元帥府に属すると知った店主が、犬のことを話して聞かせたのであった。

肉屋にとって、オーベルシュタインの来店はとても印象深いものだったという。

 

まだ春の浅い日の夜のことだ。

「こりゃあ、どうも…」

オーベルシュタインは、その日最後の客であった。ショーケースの奥の椅子でうとうととしていた老店主は、店先に立った背の高い軍人を不明瞭な挨拶で迎えた。軍人は無言でうなずいたのみである。

――誰だったかな。確かにうちのお客さんなんだが。

店主はこの頃すっかり働きのにぶくなった脳細胞を懸命に活性化させようと試みたが、にわかに思い出すことはかなわなかった。その軍人は、階級章から将官であることが知れた。異様な雰囲気を持っている。軍帽のひさしの影になった青白い顔に無機質な目が光り、春だというのに口から白い息でも吐きそうであった。

軍人は「鳥肉」と言ったあと、「やわらかい部位をくれ」と付け加えた。

「どんな料理になさいますんで? お切りしましょうか?」

「犬にやる」

フントという単語が、肉屋の脳の神経回路をようやく反応した。ああ、ファイルヒェン街のお屋敷の旦那だ。昔、きれいな奥様が大きな犬を連れて、よく羊肉を買いにきてくれた。昨年戦死した彼の孫息子は、あの犬に会うのを楽しみにしていたものだ。どういうわけか、夫人と犬は急にぱったりと姿を見せなくなったのだ。お屋敷の使用人は口の固い女性で、「奥様はどうされたかね」という問いに、無言のまま曖昧に笑っただけだった。

その軍人・オーベルシュタインは、それからもときどきやってきては鳥肉を求めたが、店主はいまだ、夫人の消息を聞けずにいる。とてもそんな個人的なことを聞く雰囲気ではないのだ。ただ、水を向ければ、犬のことだけはぽつりぽつりと話した。

 

帝都西郊へ向う早朝の路面電車は、人もまばらであった。新王朝成立に伴う閣僚名簿発表の際、軍務尚書オーベルシュタイン元帥の名は、写真付きで全宇宙に向けて発信されているのだから、誰か気がつきそうなものなのに、振り返る者もない。オーベルシュタインの膝の上には、市場で求めた季節外れのスズランがある。

犬は退屈そうに電車の床に伏せている。今朝、出かけようとするオーベルシュタインの後ろを、いつも玄関ホールの時計の下で寝ている犬がよろめきながらついてきた。軍服ではないから、どこかに連れて行ってもらえると思ったのかもしれない。犬は屋敷に引き取った当初こそ邸外に散歩に連れ出していたが、この頃は足腰が弱り、庭を一回りするだけで満足するようになっている。珍しいことであった。

オーベルシュタインにとって、3度目の森林公園だ。執事夫妻は時折来ていたようだが、彼が訪れるのは埋葬の日以来初めてのことである。森は何も変わっていないように見えた。いや、樹木が少し大きくなったろうか。初めて来たのは、紅葉の美しい秋だった。次は雪に覆われた冬。今は緑の濃い夏である。小川のせせらぎと鳥のさえずる声とが、共鳴するように響いている。小川の側の、人が踏み固めただけの道をたどって、10分ほど歩く。Kカー区6号。老犬はわずかな距離にも歩き疲れたようで、墓区の端に伏せて頭を前脚に乗せた。

2つの墓石は、一部が薄く苔むしていた。

 

フランツィスカ・フォン・オーベルシュタイン

R.C.455.10.23-R.C.472.12.25

 

アインシュタイン

 

オーベルシュタインは妻と犬の墓石から視線をすべらせて、いずれ自分の柩が納められる地面を見つめた。そこは何とも言い難い魅力をもって彼に迫った。この土の下ならば、常に彼の胸を通り過ぎる冷たい風の音を聞かずともすむに違いない。

人は忘れていくものだという。確かにそうだ。オーベルシュタインも、最初の半年ほどは刻々と彼女のことを思い出した。そのうち一度も思い出さなかったと気付く日が出てきて、そしてそんな日が3日続き、1週間続き、半月、1か月と徐々に伸びた。だが、思い出すたび、彼の心には悲しみと憎しみが積もるようであった。

オーベルシュタインは長い間、墓石の前に立っていた。こういうとき、世の人は何を話すのだろう。地下に納められているのは、ただのむくろだ。彼は魂の存在を信じない。骸にかける言葉など持たなかった。

だが彼女は、魂の存在を願った。そうであれば、死した後も大切な人のそばに留まり続けることができる、と、そう言った。

――今もそばに、いるのだろうか。

「行って来る、フランツィスカ」

結局、彼は、かつて屋敷の玄関で、活ける彼女にかけたのと同じ言葉を口にした。足元の犬が首を上げて、主人の顔を見やった。

 

オーベルシュタインが生まれ育った惑星オーディンを永遠に後にしたのは、新帝国暦元年8月19日のことである。

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