Die Kluge (1)

フェザーンにおいて軍務省の仮庁舎となる建物は、ちょうど大本営と宇宙港との間に位置している。選定にあたっては、尚書官房の営繕えいぜん課がフェザーンに先乗りして、折衝を行った。新帝国の官庁街は、宮殿・獅子の泉の建設と歩調を合わせて整備される予定であるが、完成は8年後と予定されている。それまでのつなぎとしての、執務場所である。

営繕課がえらんだのは、フェザーン屈指の不動産企業であるフョードロフ不動産プロパティーズの所有する、地上55階、地下5階の巨大なビルであった。もともとは複数の企業が入居するオフィスビルであつたが、昨年ローエングラム公に率いられた帝国軍がフェザーンを占拠して以来、同盟系の企業が一斉に撤退したため、急激に空室率が上昇した。同時に、帝国系、フェザーン本土系の企業からは賃料引下げの圧力が働いた。このビルに限らず、フェザーンの不動産業界全体が不景気のどんぞこに陥ったのだった。

そこへ降ってわいたような大本営の移転である。しかも、「一時的なものにあらず」という皇帝の勅令からみて、やがて全宇宙の中心がフェザーンへ移ることは明らかであった。当然ながら、フェザーンの不動産業界は文字どおりV字回復の基調にある。

軍務尚書のフェザーン到着から3日目、フョードロフ不動産の本社ビルで、軍務省仮庁舎の賃貸借契約が締結されることとなった。

軍務省は今般の仮庁舎借上げにあたり、特にセキュリティの面に関して、かなりの改築・改造を家主であるフョードロフ不動産に要求した。この契約に対するフョードロフ不動産の情熱は相当のもので、軍務省側の要求をすべて承知し、残っていたテナントに補償を与えて退去させつつある。おかげで、軍務省は当初想定していたよりも、かなり有利な条件で借り上げることが可能となった。昨年のフェザーン占領以来、軍務省が接収を続けているホテルからは、年内に移転を完了する見込みである。

夕刻、フョードロフ不動産本社ビル最上階の応接室は、フェザーンの赤い太陽に照らされていた。応接室で彼らを出迎えたユーリー・フョードロフは、まだ少年というべき年齢であった。育ちの良さそうな面立ちである。明るい色の髪に黒に近い青い目を持っている。にこにこと愛想がよく、どこか「かわいい」という形容詞が似合うような幼さが残っていた。

官房からオーベルシュタインに提出された資料によれば、 フョードロフ不動産は3年前、この少年の父である先代のオーナーが病死して以来、彼が形式上の代表者となり、事実上は母親のもとで父の代からの強固な経営陣が支えている、という状況にあるようだ。実際、この日の調印式にも、お目付け役らしい重役が2人出席していた。軍務省からは軍務尚書、官房長、営繕課長が席に着き、秘書官と護衛官が後ろに控えた。

ユーリー・フョードロフを一目見て、オーベルシュタインは無意識に記憶巣の検索を開始していた。どこかで会ったことがあるように感じたのだ。ユーリーは軍務尚書の噂をいろいろ聞いているのだろう。少年らしい興味を隠そうともせずに、オーベルシュタインを見た。笑うと頬に小さなえくぼができる。

双方が無事、契約書に署名した直後のことである。一人の夫人が応接室に現れた。秘書官の位置からは、オーベルシュタインのあごの付け根あたりが、わずかに動いたのが見てとれた。

冷たい義眼が、夫人を見つめる。小柄な、美しい人である。灰色がかった黒い巻き毛。そして何より、彼の故郷の湖と同じ青碧の瞳。

「尚書閣下、ご紹介します。母の、フランツィースカ・ヒョードロワです」

 

――フランツィースカ…。

 

『わたくしの名前は、母と同じですの。両親からは小さなフランツィスカと呼ばれていましたわ』

かつて妻が語った言葉が耳元で響いた。

「ごきげんよう、閣下」

いつも完璧に制御されているオーベルシュタインの感情が小さく波打った。声は、尚更似ている。彼女が年齢を重ねれば、きっとこんなふうであったに違いない。そう思えた。

「ごきげんよう」

オーベルシュタインはゆっくりと近づいて夫人の手をとり、その甲に口づけた。営繕課長と秘書官、護衛官がそろって口をあけて凝視する一方、官房長は無感動を装ったが、その目と口元に隠しようもない笑みがあった。ベーズマンの挨拶は、リップシュタット戦役後、貴族の没落とともに急速に消えつつある儀礼である。尚書は貴族の出身であるし、貴婦人に対する当然のマナーとして振る舞ったのだろうが、却って世慣れない感があるのが可笑しかった。

「お目にかかれて光栄ですわ、閣下。楽しみにしておりましたの」

「ずいぶんと、こちらの要望を容れていただいたようだ」

「貴省だけに一方的に有利というわけではございませんのよ。わたくしどもも、息子が一人前になるまでは確実で安定した経営を、と望んでおります。これだけの規模のビルを一括で借り上げてくださるところは、なかなかございませんから。双方にとっての利益でございますね」

夫人はいかにもフェザーン人が言いそうなことを言って、にこりと笑った。人を引き付けてやまない華やかさがある。彼のフランツィスカが日陰の植物を思わせる人であったのとは対照的だ。

「オーディンからお移りになる方が増えれば、一般住居も必要になりましょうね?」

「そちらは内務省が主管することになりましょう」

「閣下もいずれ、ご家族をお呼びになりますの?」

「家族はありません。使用人と犬だけです」

「それはお寂しゅうございますわね。いかがでしょう、閣下。落ち着かれたら、一度食事にご招待したく思いますけれども」

オーベルシュタインの心臓がぎゅうと握り込まれた。フランツィスカと同じ青碧の瞳が、案ずるようにこちらを見ている。

「…残念ですが、利害関係者の饗応を受けるわけにはいきません」

そう答えるのがやっとだった。

 

数日後、フェルナーがフョードロワ夫人の調査結果を携えて尚書執務室にやってきた。

「フランツィースカ・フョードロワ。旧姓フォンヴィージナ。姓名から考えると、おそらく帝国からの亡命貴族の末裔でしょう。ですが、フォン・ヴィーゼンという姓を持つ家は旧典礼省の系譜簿に存在しません。抹消されたものと思われます。帝国歴435年生まれ、現在53歳。いや、二十くらいさばを読んでも通用しますな」

オーベルシュタインの義眼から絶対零度の冷気が発せられた。

「失礼しました。出身はフェザーン。若い頃は古典劇の女優だったようです。それが帝国本土・オーディンへ公演に行った際、クラヴィウス子爵家の御曹司と知り合い、駆け落ち。娘がいたようですが、その娘は子爵の死後、行方不明になっています」

「クラヴィウス?」

オーベルシュタインは顔をあげて官房長の目を見据えた。もちろん、その情報が彼にとって新鮮であったからではない。この喰えぬ男が、そ知らぬふりを決め込んでいるのではないかと疑ったのだ。

「はい、あのクラヴィウス子爵です。リップシュタット戦役の直後、ちょっと変わった若様が閣下を訪ねて来たでしょう? あの人の父上ですな。つまりその行方不明の娘とあの若様とは、異母姉弟ということになります。閣下のほうがよくご存じなのでは?」

フェルナーの直接的な探りに、オーベルシュタインはそっけなく「知らぬ」と答えた。彼はフランツィスカの父に会ったことはない。娘はそれでも父を愛していたようだが、彼の知りうる限り、亡きクラヴィウス子爵というのは、責任感の欠如した、臆病な男である。一度は愛した女性を捨て、娘を引き取りながらなかば養育を放棄し、脅しに屈して嫁がせた。少なくとも、オーベルシュタインの主観においてはそうである。

「フョードロワ夫人は、子爵が正妻を迎えるにあたり、あっけなく捨てられた。よくある話です。フェザーンに戻った後は下町で歌や踊りを教えていたようですが、その一帯の再開発事業が持ち上がり、事業主であった亡きフョードロフ氏に出会って玉の輿に乗った、と。これが18年前ですな」

「フョードロフというのはどのような男か」

「フョードロフ氏は、一代で業界2位の不動産会社を築き上げた、まあ、傑物と言ってよいのでしょう。8年前の自治領主選挙の際は、ルビンスキーの対立候補として推されています。三年前に心臓発作により死亡。持病があったようで、不審な点はありません。あのかわいらしい坊やは実の息子です。四十を過ぎてからの子供で、ずいぶんと可愛がっていたとか」

「帝国に近づく目的は?」

「自治領主選に敗れ、ルビンスキーが権力を握ったフェザーンでは、やりにくいことが多かったのでしょう。そこへ帝国軍が来てルビンスキーを駆逐した。あるいはそれが、帝国へ近づく動機の一つかもしれません。もう一つは先日夫人が言ったように、跡取息子がまだ16歳ですから、一人前になるまで手堅い会社経営をしたい、ということかと思われます。軍務省に貸しておけば、あと十年程度は着実に賃料報酬が見込めますからな。それ以上のことはないと、小官は考えますが、何かお気にかかることがございますか、閣下」

「いや、そうだな。あまりに我らに有利な条件を出すゆえ慎重を期したまでだ。卿がそう判断するならそれでよい」

フェルナーが手元の資料を一枚めくる。

「ああ、あの行方不明の娘についてですが、当てにならない情報が一つあがってきています。お聞きになりますか」

「…うむ」

「教育係だったという老婆によれば、父子爵の死後、継母の手で身障者に売られたとか、嫁ぎ先で殺されたとかいう話だそうです。嫁ぎ先はアインシュタイン家だと証言したようですが、それらしい家は見つかっていません。なにせ今年九十三になる老婆ですから、記憶がずいぶん混乱しているようで」

老婆は事実を述べている。アインシュタインが彼女の犬の名であることをのぞけば、記憶は確かだ。

「夫人に監視を付けますか?」

「いや、よい。娘のことも捨て置け」

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