Die Kluge (2)

新帝国暦元年12月25日

伸ばした左手が冷たいシーツの上で幾度か空を切り、オーベルシュタインは目を覚ました。上半身を起こして肺から空気を押し出し、左手を見る。軍務省が借り上げたホテルの一室である。静かな部屋に、窓の外で鳴く鳥の声がいやに大きく響いている。夢を見ていたようだ。夢の内容は目覚めた瞬間に消え去ったしまったが、冷たく悲しい風に吹かれていた気がした。

この日、オーベルシュタインは皇帝が同盟領に向けて進発して以来、初めての休暇をとった。前線の状況が緊迫している。ひとたび戦端が開かれれば、軍務省も不眠不休となろう。オーベルシュタインは朝の遅い時間までベッドヘッドに身体を預け、対面の壁に掛かる絵を見ていた。

今日は、彼女を永遠に失った日である。

 

リップシュタイン戦役が終結した直後のことだ。若い貴族がローエングラム元帥府にオーベルシュタインを訪ねてきた。この時期に軍高官に面会を乞う貴族の用向きなど知れている。懇請だ。一度は追い返したが、その青年、ジークベルト・フォン・クラヴィウス子爵は、守衛室の老兵に気に入られたものか、オーベルシュタインの退勤まで門のそばで彼を待っていた。それで仕方なく、面談の時間を取ってやったのだ。

ジークベルトは貴族的な顔立ちをした、背の高い若者であったが、オーベルシュタインは、子爵という肩書とはちぐはぐな印象を受けた。ずいぶんと日に焼けている。

「ええと、その、母に言われてお訪ねしたのです。母が申しますには、当家とオーベルシュタイン家とは、かつていささかご縁があったそうで、それで、当家の苦境をお話し、ご助力を請うように、と」

「さて、縁とは?」

「さぁ…。すみません、詳しくは聞いてないのです。ただ、当家はその、正義派貴族軍、あ、いや、賊軍ですか、それには参加しておりませんし、ローエングラム公に敵対したわけでもありません。今般の戦役の間も、私はただ辺境星域の無人惑星で発掘をしていただけですから。それが帝都に戻ってきたらこんな状況になっていて、それで、とても困っているんです」

「発掘?」

「あ、はい。私は帝国大学の大学院に在籍しているのですが、ええと、専門は古代海洋生物です。それで教授のお供で化石の発掘に行っていました」

なるほど、いかにも学生じみた話し方をする。もしオーベルシュタインの部下であったら「簡明に話さぬか」と容赦なく叱責されたであろう。

「ならば今後は、学究をかてとし、俸給の許す範囲で生活なさることだ」

「私には無理ですよ、研究者なんて 。単に化石が好きだというだけで、才能がないことくらい自分でも分かります」

「表だってローエングラム公に対立されなかったのであれば、家財の一部保留が認められ、一時金が支払われる。平民であれば一生を暮らすに十分な額だ」

「でも母がなんというか…」

「母君を説得されよ。そうですな、オーベルシュタインが、ご子息のために良い縁組をお世話してもよいと言っていた、とでもお伝えになってはいかがか」

「え? なぜそれで母を説得できるんです? いや、それ以前に、縁談は困ります。本当に、困るんです。僕、あ、いえ、私には心に決めた人がいますから」

オーベルシュタインは小さく溜息をついてみせた。かつてこの若者の母親は、継娘を追い出すようオーベルシュタインに嫁がせ、大金をせしめた。オーベルシュタインの取り持つ縁談など、恐ろしくて受けられぬだろう。彼とて本当に世話をするつもりはない。

「ならば家財を処分されよ」

「売れますかね…」

売れはすまい。戦役後、没落していく貴族の屋敷があちらこちらで売りに出され、値崩れが著しい。一方で、贅を極めた屋敷を丸ごと買い上げることのできる資産家も少ない。文化的価値があると認められれば、国の保護を受けられるかもしれないが、そうでない場合は家財を切り売りするほかにないだろう。

だが、ジークベルトの心配はその点ではないようだった。

「実は、うちの屋敷は出るんですよ」

「出る、とは?」

「幽霊です。父が逝去し、襲爵したばかりの頃に見たんです。屋敷の一角に薄暗い、誰も近づかない場所があるんですが、喪服姿の若い女が白っぽい大きな犬と一緒に、その廊下の先をすっと横切ったんですよ」

「……今も、出ますかな?」

「いえ、それきり見たことはありません」

「それは残念だ。今も出るなら私が買ってもよかったのだが」

「え? お好きなんですか? 幽霊が?」

ジークベルトは、幽霊の同族のような顔をした軍人をまじまじと見つめた。だが、オーベルシュタインは過不足のない挨拶をして席を立つと、振り返りもせず出て行ってしまった。

後にはあっけにとられた青年貴族が、一人残された。

しばらく後、やはりクラヴィウス家の家財は売りに出された。オーベルシュタインは身元を隠し、人を介して1枚の絵を購入した。かつてフランツィスカが彼に話して聞かせたことのある、死の島の絵だ。小舟に棺を乗せて、フードの男が島へと渡っていく。この絵を見るたび、彼は遠い故郷の湖と、湖水と同じ色をした彼女の瞳を思い出した。

その絵が今は、フェザーンのホテルの一室に掛けられているのだった。

 

午後になり、オーベルシュタインはフェザーンの街へ出た。書店で同盟領の数学者の手になる書籍を求め、外へ出ようとしたところで、「閣下」と呼び掛けられた。ユーリー・フョードロフ。軍務省仮庁舎ビルのオーナーで、亡き妻の弟である。ユーリーは少年の顔に母親譲りのえくぼを浮かべて立っていた。利害関係者であることを理由に、誘われたコーヒーを辞すと、では運河沿いを歩きましょう、と、ユーリーまた笑顔を見せた。乾燥の激しい惑星フェザーンの都市部では、運河が縦横にめぐらせてある。

困ったのはユーリーのほうだ。冷厳冷徹と評判の軍務尚書を寒風の中に誘っておいて、彼は何の話題も用意していなかった。軍服を着ていない軍人というのは、かえって緊張を強いられる。オーベルシュタインは色の入った丸眼鏡に、つば広のフェルト帽を頭に乗せていた。ユーリーは知る由もないが、これは義眼を保護するためのものだ。そもそも義眼の色には、太陽光をはじめとする外部環境の影響を受けにくい色が選ばれている。そうであっても、フェザーンの太陽の元素組成と長年住み慣れたヴァルハラのそれとが異なるため、白昼の外出はやはり義眼への負荷が大きいのである。カスタマイズされた新しい義眼が届くまでは、こうしてしのぐほかない。

「あの、もうすぐ戦端が開かれるという話ですね」

「軍機に属することはお話できない」

「あ、はい、もちろんです。すみません。ええと…、そうだ、この前アビトゥーアの審査が終わって、僕、オヒギンズ商科大学に入ることになりそうです」

ユーリーは結局、彼の個人的なことを話題に乗せた。

「お祝い申し上げる。優秀でいらっしゃるな」

「ありがとうございます」

少年の声音には、わずかな影のようなものがあった。

「不本意なのかね?」

「いえ…。でも何だか、流されているようで」

冷たい冬の運河を、鴛鴦おしどりのつがいが前後に連れ立って泳いでいる。上空から細かな雪がちらちらと落ちてきた。

「軍には、16歳から志願できるのでしょう?」

「まさか、志願したいのかね?」

「いえ、そういうわけではないのです。僕は戦争なんて恐いですし。ただ、僕と同年代の人達が、皇帝カイザーに従って歴史を作りつつあるのを目の当たりにすると、何だか自分が不甲斐なく思えるんです」

「卿は、いくつであられたか」

「十六です」

姉の死後に生まれたのか、とオーベルシュタインは思った。考えてみれば、彼自身にこれくらいの子供がいてもおかしくはないのである。時の過ぎるのの何と速いことか。

「閣下はなぜ軍人になられたのですか?」

「父の命だった」

「他になりたいものはなかったのですか?」

「ふむ…、どうであったかな」

オーベルシュタインは脇に挟んだ書籍の包みを抱え直した。

「ヘル・ヒョードロフは?」

「小さい頃は航宙士に憧れていました」

「あきらめたのかね?」

「というより、それほどの情熱がないのです。気概がないっていうんでしょうかね。母の期待にも応えたいし、会社を存続させて、従業員やその家族の生活を守りたいとも思います。必要としてくれる人を裏切りたくない、というか…」

「与えられた境遇の中で最善を尽くす生き方もある。何も卑下することはない」

「そうでしょうか?」

「ああ」

「もっとも僕は数学や物理が大の苦手で、航宙士なんて絶対無理なんですけど」

オーベルシュタインは、帽子の庇の影から少年を見つめた。

「…意外だな」

「え?」

「ん、いや、フェザーン人はみな数字に強いのかと」

我ながら下手な言い訳だと、オーベルシュタインは思った。

「はは、そんなことはないですよ」

困ったように笑う顔が姉によく似ている。あごから耳にかけての輪郭など、同じ型から射出成型したようだ。

オーベルシュタインは彼女の二人の弟のことを考えた。ジークベルト・フォン・クラヴィウスとユーリー・フョードロフ。フョードロフのほうにより関心が向くのは、この少年の中に垣間見えるフランツィスカの面影に、心を揺さぶられるからだろうか。遺伝子を憎んで生きてきたはずが、遺伝子の見せる事象に振り回されている。血のつながりとは、かくも人の心をとらえて離さぬものなのか。

 

「それで、どんなお話しをしたの?」

その日の夕食時、そう母に問われ、ユーリーは鶏肉のソテーにナイフを入れかけたまま、上目遣いに天井を見上げた。

「それは…、秘密です。でも、軍務尚書閣下は世間で言われているような冷酷な方ではないような気がしました。とても誠実な方だと思うんです」

「そう。あなたも、そう思うの…」

母は懐かしさと悲しさが入り混じったような表情をした。それは母が、亡き父のことを話すときにいつも見せるのと同じ顔であった。

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