Die Kluge (3)

新帝国暦2年4月12日

工部尚書シルヴァーベルヒは、同じく新帝国の閣僚である軍務尚書に機嫌よく挨拶をした。オーベルシュタインは無言のまま目礼を返したのみであったが、シルヴァーベルヒはその冷淡な応対に挫けることなく、言葉を継いだ。

「今日、獅子の泉の模型が届きましてね。素晴らしい宮殿になりそうです。軍務省のほうも、もうすぐ初歩設計があがります。完成が楽しみですな。建築というのは、いわば自分の子供のようなものですよ。私が死んでも、私の一部が受け継がれていく…」

歓送迎会は、主賓の一人であるワーレン上級大将が到着せぬため、開始が遅れていた。オーベルシュタインは早々に席に着き、周囲の喧騒を遮断するかのように瞑目した。たった今、シルヴァーベルヒが言った言葉が気にかかった。自分も、新王朝や軍務省にオーベルシュタインの一部というべきものを残すことになるのだろうか、と。

そのとき、鼓膜の許容量を超えるような轟音とともに、爆風におそわれ、オーベルシュタインは椅子ごと吹き飛ばされた。薄れゆく意識の中、人々の怒号と悲鳴とが聞こえた。

 

それから3日。

報告のため病室を訪れたワーレンを見送った後、オーベルシュタインはまた浅い眠りに落ちていた。

彼は白いフードで全身を被い、湖畔に立っている。眼前に広がる青碧の波が、寄せては返し彼の足首を濡らす。もやいの先には小舟が繋いである。っているのは彼の棺だ。彼は対岸の墓所へ行かねばならない。

そう思ったとき、鈴蘭の香りに世界が満たされ、懐かしい感触が彼の手に触れた。

『どうか、長生きしてください』

オーベルシュタインは薄く瞳を開き、下唇を噛んでfrと発声しかけたが、一瞬苦痛に耐えるような表情を見せ、また視界を遮断した。

「閣下?」

再び開いた義眼に映し出されたのは、フランツィースカ・ヒョードロワであった。見舞いに訪れる予定だと、秘書官から聞かされていたのを、オーベルシュタインは思い出した。

今、彼は何と言うつもりであったのか。フランツィスカと言おうとしたのか、夫人フラウと言おうとしたのか、自身でも分からなかった。

「ごきげんよう、閣下。お加減はいかがですか?」

オーベルシュタインは小さく頷き、夫人の手をそっと払った。複数の人命が失われた爆発テロの中、彼は幸いにして死を免れた。ただ、擦傷のみとはいえ、いまだ鎮痛剤を滴下されており、完全な覚醒状態にあるとはいえない。多少、発熱もあるのかもしれなかった。

「よい香りですわね。鈴蘭」

「部下が持ってきたのです。物を知らぬ男だ」

夫人は、まあ、と言ってにこりと笑った。

鈴蘭の鉢植えは軍務省官房長のフェルナーが持ってきたものである。フェルナーは新緑の頃、オーディンにあるオーベルシュタインの屋敷を訪れたことがあった。その際、庭先の鈴蘭の群落がさわやかな甘い香りを漂わせていたことを記憶しており、勝手にオーベルシュタインの好きな花だと断じたようだ。しかしながら、鈴蘭は、毒を持つ、香りの強い植物だ。決して見舞いにふさわしい花ではない。だがあの如才ないフェルナーのことだ。それを承知で持ってきたのだろうから、オーベルシュタインも彼の非常識を指摘することなく黙って受け取った。

「亡くなられた方には申し訳ないのですけれども、閣下がご無事で、なによりでしたわ」

「夫人フラウ、職務でお聞きするわけではないが、今回の件、フェザーン人はどう見ているのだろうか。背後にルビンスキーの存在を疑うむきもあるようだが」

「確かにそういう噂はございますけれど、証拠はありませんし、わたくしの口からは何とも申し上げられません。ルビンスキーさんの悪口を言っていると思われても困りますもの」

「お知り合いなのですかな、前自治領主ランデス・ヘルと」

「面識があるというだけです。亡くなった夫がルビンスキーさんと自治領主の座を争ったものですから」

「ああ」

オーベルシュタインは納得したように一度目を閉ざした。

「わたくしの夫と元自治領主のワレンコフさんとは、仲の良いお友達でしたの。今、軍務省の仮庁舎が入っているビルも、もともとはワレンコフさんが所有されていたものですのよ。生前、よくうちにいらしては、ルビンスキーさんのことを『あの坊主どもめ』なんて、話しておいででしたわ」

「坊主?」

夫人は少し気まずそうな表情をつくった。

「ほらあの方、髪が…」

「…ああ」

ルビンスキーは禿頭である。世俗にまみれた生臭い男であるが、僧形に見えぬこともない。

「あら、これも悪口ですわね」

夫人は、 笑うと実年齢よりかなり若く見えた。頬に小さなえくぼが浮かぶ。オーベルシュタインはつられるように、唇の端をかすかに動かした。

「そういえば、先ほど、病院の入り口でワーレン閣下をお見かけしました。確か、地球教の討伐に行かれたそうですね」

オーベルシュタインがうなずくのを見て、彼女は「閣下は地球教の信徒に会ったことがあるか」と、問うた。何度か間接的な接点はあったが、オーベルシュタイン自身は、直接信徒と話したことはなかった。

「以前はフェザーンのあちこちで見かけたものですけれど、昨年、陛下がフェザーンに軍を進められてからは見かけなくなりましたわね」

「うむ…」

――地球教…、ルビンスキー…、坊主…、信徒…、地球教…、坊主ども…。

霞がかかった脳裏に複数の単語が浮かび上がっては消えた。夫人は黙り込んだオーベルシュタインに辞去の意を告げて立ち上がった。夫人が出て行ったドアを見ながら、どれほど似ていてもやはり彼のフランツィスカとは違うのだ、と、オーベルシュタイン思った。彼のフランツィスカは存在感の希薄な、日陰の植物のような人だった。

ふいに、フランツィスカの父のことが思い出された。面識を持つことのなかった彼の義父にあたる人は、娘の中にその母親の姿を見ただろうか。そして二度と会えぬ人を想い、寂寥を募らせたろうか。

義父は、エルベ川で溺死したのだという。遺体に金目のものがなかったことから、暴漢に襲われ殺されたのだろうと言われていたが、やはり自殺だったのではないか、とオーベルシュタインは思う。現に義父は、オーベルシュタインとフランツィスカとの婚約が決まった夜に命を落としたのだ。

夫人が「暇つぶしになりますかどうか」、と置いていった封筒には、同盟領の数学会誌が入っていた。どこで知ったのだろうか。オーベルシュタインは、彼が数学を趣味とすることを誰かに話したことなどない。数か月前、書店で偶然会った彼女の息子が、彼の買った本に気づいたのかもしれなかった。

夫人は何も言わなかったが、間違いなく知っている。今は亡き彼女の娘とオーベルシュタインとが、どのような関係にあったかを。それだけは確信できた。

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