Unter dem Siegel der Verschwiegenheit (1)

新帝国暦2年8月29日

戦没者墓地の完工式より執務室に戻ったオーベルシュタインは、万年筆のペン先が紙に引っかかる感触に眉をひそめた。インクが切れかかっている。補充するよう従卒に言いつけておいたのであるが、忘れてしまったらしい。すでに従卒は帰している時間だ。オーベルシュタインは仕方なく、自らインク壺を取りだして吸入をはじめた。これは彼の私物で、オーディンの老舗文具メーカーの没食子インクである。昔から、軍が支給するインクは色も香りも気に入らなかった。「閣下は意外に貴族趣味ですね」と、官房長のフェルナーは揶揄とも嫌味ともつかぬ無礼な感想を述べたものである。

フェルナーはもともと、ブラウンシュヴァイク公の下にいた男だ。平民の出身であるが、貴族がどういうものか、よく知っている。彼らは特権意識の強い、そのくせ個人の器量では何もなしえない愚か者どもではある。だが、その暮らしぶりは実に洗練されていた。そのフェルナーから見て、オーベルシュタインには消しようもない貴族らしさが身に沁みついている。何よりその言葉の発音が、いかにも貴族らしい。発音は一朝一夕に身に着くものではない。聞くものが聞けば、あの皇帝でさえも訓練のうえに身につけた発音と知れるだろう。所謂、お里が知れる、というやつだ。美しい発音をすると誰もが認めるロイエンタール元帥が、良い声で、自身も意識して芝居がかったふうに話すのとは違い、オーベルシュタインには生まれながらの貴族であると人に思わせるところがある。そのことがまた、他の平民出身の諸提督に嫌われる一因かもしれない、と、フェルナーは思っていた。

万年筆にインクを入れるオーベルシュタインは、思わず奥歯に力を入れた。このような雑事を自ら行うなど、久しぶりだ。そのせいか、手元が狂い、指先を汚した。皮膚が青く染まっていく。

『つまり、将来の多数の幸福のために、現在の少数の不幸は致し方ないということなのですね』

『どちらにせよ犠牲を出さねばならぬなら、一番犠牲の少ない方法を選ぶべきであろう』

『でもわたくしは、パウル様にその少数の犠牲に加わっていただきたくないと思いますわ』

――分かっている、フランツィスカ。誰もがそう思うものなのだ。

戦没者墓地で皇帝に罵声を浴びせかけた男もそうだ。もし私があの者と同じ立場にあれば、やはり為政者に憎しみを抱いたであろう。

 

しかし一部の犠牲が全体の福祉に資するとき、上に立つ者には、その一部の犠牲を選択せねばならぬときがある。最大多数の幸福の追及こそが、オーベルシュタインの寄って立つ正義である。

ただ、皇帝は後悔している。全宇宙を手中に収めた若き統治者は、苛烈な性格の持ち主であるが、一面、子供のような純真さが抜けない人でもある。ヴェスターラントのことを糾弾され、あれほど激しく動揺するとは。オーベルシュタインにはそれが、覇者に有り得べからざる弱さに思えた。

皇帝の動揺は、あの出来事が親友の死に直結しているからであるに違いない。大切なものを理不尽に奪われる気持ちを、オーベルシュタインはよく知っている。彼はかつて、その死を願うほどに、父を憎まずにはいられなかった。キルヒアイス提督が命を落としたとき、皇帝はオーベルシュタインに対し、同じような思いを抱かなかったのだろうか。皇帝は一度として、そのことをオーベルシュタインに対し言及したことはない。もしそうならば、その度量の差こそが、皇帝と自分との違いなのかもしれない。

数分後、決裁書類を携えて執務室に入ってきた秘書官は、指先とハンカチを真っ青に染めて沈思する尚書を発見することとなった。

 

翌日、早朝の尚書執務室を訪れたフェルナーは、皇帝を糾弾した男が留置所内で自害した旨を報告した。そして、端正な顔の口の端を少し持ち上げると、「昨夜、幕僚総監が陛下の部屋にお泊りになり、今朝早く、陛下が薔薇の花束を持ってマリーンドルフ伯爵邸を訪問なさったようです」と告げた。

いくら親衛隊長や側近の口が堅くとも、情報は洩れるものである。ホテルのメイド、ランドリー係、交通管制モニター、市街の監視カメラ、果ては軍事衛星まで、情報源はいくらでもある。帝国のインテリジェンスの拠点が軍務省にある以上、皇帝の私生活は軍務省情報部に筒抜けであるといってよい。

オーベルシュタインは数瞬の間、フェルナーの顔を見やっていたが、視線を卓上に転じてコーヒーに手を伸ばした。

「けじめの付かぬことだ」

コーヒーを一口飲んだオーベルシュタインの発した言葉に、フェルナーは吹き出しそうになった。道義を無視した謀略を平然と実行するこの上官が、貞操観念を云々するようなことを言うことが可笑しかったのだ。続いて「噂が立たぬよう気をつけよ」と命じられ、ますます意外に思った。

「この際、逆に噂を拡散して外堀を埋めてはいかがですか」

起こったことは最大限に利用するのがオーベルシュタインのモットーであったはずである。マリーンドルフ伯爵令嬢を皇妃に冊立することに、軍務尚書が一貫して反対してきたことは、フェルナーとて知らぬわけではない。だが、いずれ皇妃が必要なことは確かだ。この際、国務尚書の令嬢という政治的問題に目をつむっても、自身の結婚問題に消極的な皇帝を追いつめてはどうか。一夜を過ごした翌日に求婚に訪れたところをみても、あの皇帝は女性関係に潔白であるようだ。これは降って湧いたような機会ではないか、というのがフェルナーの考えであった。

しかし、オーベルシュタインは、

「嫁入り傷となろう」

と更にフェルナーの予想だにしないことを言った。つまり、伯爵令嬢の名誉を守ってやれということだ。確かに、たとえ皇妃に迎えられることになっても、周囲の誰もが皇帝のお手付きであると知っていては肩身も狭かろう。まして他の男のもとに嫁ぐことになっては尚更である。

喰えない情報将校であるフェルナーは、宇宙艦隊の諸提督の周辺を探るついでに、この謹厳冷徹な上官についても調べている。他の軍幹部と異なり、この男には女の影がまるでない。現在過去を問わず、交際した女性もいないようであるし、娼館にも足を向けない。ならば男に興味が向いているのかといえば、そのような事実も出てこない。木石も同様である。

――まさか、いい歳をして女を知らぬわけではあるまいな。

フェルナーは半ば本気でそう思っている。ありえなくもない。いまどき、幼年学校の生徒でも口にせぬような倫理観を披露したばかりである。潔癖すぎて誰とも交渉を持たないこともあるだろう。

オーベルシュタインはすでにコーヒーを飲み終え、未決箱の書類に手を伸ばし始めている。これ以上、この話をする気がないという意思表示であった。フェルナーはこの興味深い上官に対する関心を強めざるを得なかった。

 

午後、大本営に報告に赴いたオーベルシュタインを待っていたのは、やや集中力を欠いた皇帝であった。

「軍務尚書」

報告を終え退出しようとしたオーベルシュタインを、皇帝が呼び止める。

「何でしょうか」

若き皇帝は執務机に頬杖をついて一度窓の外へ目を向けると、オーベルシュタインの長身を睨みつけるように見上げた。

「以前にも聞いたが…、卿はなぜ家庭を持たぬのだ」

即位後まもなく、皇帝に結婚をすすめた際にも、オーベルシュタインは同じことを問われた。貴族階級の生まれで、軍の士官という歴とした仕事を持ち、経済的にも恵まれている男が、なぜ結婚をせぬのか。その疑問は彼の目が義眼であることを知れば、たちまち納得を得て解消されるのが常である。劣悪遺伝子の保有者は子孫を残すべきではない。それはゴールデンバウム王朝に生を受けた者の固定観念といってよい。

しかしこの皇帝は、そうした既成概念とは無縁なのである。だからこそ、オーベルシュタインの目が義眼と知りながら、このような質問をすることを憚らぬのだろう。表情にこそ出さなかったが、オーベルシュタインは主君の英明さを喜び、その主君に賭けた自らの選択が誤りではなかったと確信した。そして、この卓越した個性の下で、公正で安定した王朝を築き、それを長く伝えていきたいとの思いを強くしたのだった。

「オーベルシュタイン、聞いておるか」

「はい」

――さて、これは求婚の返事を保留されたか。

オーベルシュタインは若者が情緒不安定な状態にあることを見てとったが、表情筋の一筋も動かさずに、

「陛下には、皇妃を迎えるご決心をなさいましたかな」

と、問い、唇をきゅっと結んだ皇帝が何か言おうとする前に口を開いた。

「よろこばしいことです。宮内省にて候補者をあげております。家柄、係累、容姿、教養、どれも問題ございません。何名かお会いになって、共にいて心の安らぐ方をお選びになればよろしいかと存じます」

「安らぐ、か。以前、上官だった男に言われた。将兵が娼館に赴くのは一時の安らぎを求めてのことだ、いちいち眉をひそめるな、とな。だが、予は女性に頼ろうとは思わぬし、皇妃にそのようなものを求めもせぬ」

では昨夜、女にすがったのは誰か。皇帝の目には、オーベルシュタインの目に嘲笑の色が浮かんだように見えた。むろんこれは皇帝の心にあるやましさがそう見せたのであって、オーベルシュタインの目は何の感情も宿してはいない。

「陛下。ご成婚が公的なものであることは確かですが、後宮は陛下ご自身の家庭という側面もあるのです。家庭とは互いを尊重し、互いを支えあって営まれるものです。一方的に依存し、甘える場所ではありません」

「もうよい」

皇帝は、まだ言い足りぬようなオーベルシュタインを黙らせると、「卿から修身の教師のような台詞を聞くとはな」と刺のある口調で言った。

「それで、卿はなぜ結婚せぬのだ。予の質問にまだ答えておらんではないか」

「以前も申し上げましたとおり、オーベルシュタイン家が滅びても世人は嘆きすまい」

皇帝の不満げな顔を見て、オーベルシュタインは「それに」と言葉を継ぐと、

「私はもはや、そうした存在を見出すことができぬのです」

と答えた。

退室するオーベルシュタインの足音を聞きながら、ラインハルトは後悔していた。どう考えても、語る相手を誤っている。別に相談したかったわけではない。これまでとて、オーベルシュタインと私的な会話をすることなど皆無であった。現に即位後まもなくオーベルシュタインが結婚をすすめたときは、にべもなく追い払った。昨日、オーベルシュタインが糾弾者の前に立ちふさがった姿を見たからとて、彼と友になろうなどという気はまるで生じない。

どう考えても、結婚の話題を出すにふさわしい相手ではなかった。あの男も言っていたではないか、AアーにはAアーに向いた話、BベーにはBベーに向いた任務がある、と。その理屈から言えば、ミッターマイヤー元帥などのほうが、よほど適切であるように思われる。

もしラインハルトにいつもの鋭敏さがあれば、あるいは冷厳な軍務尚書が彼に似合わぬ情緒的なことを口にしたことに気付いたかもしれない。しかし若い皇帝は、自身の感情に向き合うことで精いっぱいであった。

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