Unter dem Siegel der Verschwiegenheit (4)

新帝国暦3年1月29日

オーベルシュタイン家の執事ラーベナルトは、このフェザーンのオーベルシュタイン邸が気に入らない。

平屋である。天井は低く圧迫感がある。ドアはすべて引き戸である。敷居もない。つまるところ病院や高齢者介護施設といったものを連想させる造作なのだ。

備え付けの調度が、またなんとも軽薄である。ラーベナルトにとって家具とは、重厚な天然材で、磨けば磨くほど輝きが増すものだ。それがこの家には、不用意にこすれば塗料が剥げでもしそうな量産品しかない。合板のダイニングテーブルを見たときなど、情けなくて涙が出そうだった。

この趣も何もあったものではない家は、無障碍建築という様式で建てられているらしい。

「犬が過ごしやすかろう」

と、主人は言った。しかし、執事はその言葉を信じない。主人がこの家を選んだのは、最近足腰が弱ってきて自分たち夫婦のために違いないと、彼は思っている。かつてオーベルシュタイン子爵家の領地では、城の長い階段を自在に上り下りしたものだが、ここ数年は旧都の屋敷で2階に上がるにも膝が痛むようになった。潮時なのである。 主人の世話どころではない。もはや自分たちが人の世話を受ける年齢になってきたのだ。

ラーベナルトは、昨年の夏、主人がオーディンを離れるにあたり、新しい使用人を入れて屋敷を下がりたいと申し出た。その申し出は、「考えておく」という返事を得たまま棚上げになり、結局、主人に呼ばれてフェザーンへ来てしまった。主人が本当に考えているのかどうか、ラーベナルトには分からない。

執事は、主人らが命がけで打倒した旧貴族社会に一抹の郷愁を感じずにはいられない。彼は人の手を掛けることが豊かさの象徴であった旧王朝を生きてきた人間である。そのせいであろう。家事の大部分がロボット任せで、何もかも合理性が優先されるようなフェザーンの暮らしに馴染めないでいる。

主人はどうなのだろう。オーディンの屋敷をそのままにしている以上は、いずれ旧都に帰るつもりなのかもしれない。ラーベナルトにとっても、あの屋敷はオーベルシュタインが幼年学校に入学した年から30年住み続けた場所だ。懐かしかった。

 

皇帝の婚礼が行われたこの日、フェザーンは慶祝の空気に包まれていた。それは夜になっても止むことなく、いやむしろ、酒精を帯びて色濃くなっていった。そんな中にあって、なおひっそりとした佇まいを保ち続けるオーベルシュタイン邸を、訪ねる者があった。

「お、奥様…」

執事は細い覗き窓から、外を凝視した。門灯の薄明かりの中に女が立っている。昼から降り続いた雪で、狭い庭はすでに白く覆われていた。

「フランツィースカ・ヒョードロワと申します。軍務尚書にお目にかかりたいのですが」

同じ顔、同じ声、同じ色の瞳。それらは悲哀と後悔とに彩られた執事の記憶を呼び起こした。あの雪の日に亡くなられた奥様が、お帰りになったというのか。いや、そんなはずはない。そんな非常識なことがあるわけがない。彼は息をするのも忘れていた。

「あの、閣下にお取次ぎくださいますでしょうか?」

「は? 閣下? は、はい、ただいま」

違う、奥様ではない。違う。開いたドアから吹き込む風に、冷たい粒が入り混じる。ラーベナルトは女を応接間に通し、主人を呼びに行った。平素、彼の主人が来客を一切受け付けぬことなど、すっかり失念していた。

 

私服姿のオーベルシュタインには、いつもの謹厳さがなく、物静かな貴族にしか見えない。フランツィースカ・ヒョードロワは、オーベルシュタインのあとをよろよろと付いてきた犬に瞳で微笑みかけて、口を開いた。

「突然お訪ねして申し訳ございません。実は閣下に、お願いがあって参りました」

「夫人、私と貴女とは利害関係者だ。そうした懇請は一切お受けできない」

「承知しております。ただ、代わりに、アドリアン・ルビンスキーの消息に関する情報をご提供しますわ」

オーベルシュタインを包む空気がかすかに揺らいだ。

「…伺おう。ご依頼の如何によっては、やはりお受けできないが、それでも宜しければ」

暖炉を模した電気ヒーターの前に伏せた犬が、大きくあくびをして、腕の間に頭を沈めた。犬は最近、ほとんどの時間を寝て過ごしている。耳も遠く、かなり大きな声で話しかけても聞こえているのかどうか定かでない。視力はほぼ失ったようで、頭を打ってもよいように邸内の角ばった部分には緩衝材を巻いてある。

 

フランツィースカ・ヒョードロワからもたらされた情報の価値を、オーベルシュタインはとっさには判断しかねた。彼女はルビンスキーの情婦と懇意であるという。その情婦ドミニク・サンピエールが寄越したビジフォンの内容からして、ルビンスキーはすでにフェザーンを離れたはずだ、というのである。

「夫人、ドミニク・サンピエールは、ルビンスキーのことを『もう駄目だ』、『見届けたい』と、そう言ったのですな?」

「ええ」

オーベルシュタインは瞑目した。どういう意味だ。この頃、奴は足がつくことも恐れず工作を仕掛けてくる。今日報告のあったハイネセンの暴動にも、絡んでいる気配がある。

何を焦る。皇帝に跡継ぎができたことを知ったせいだろうか。いや――

――死期が近い、のか。

そうであれば、間違いなく重要な情報である。

「ご提供いただいた情報は、有効に活用させていただこう。それで夫人、私の助けを必要とすることとは?」

「エルフリーデ・フォン・コールラウシュを保護して欲しいのです。居場所はおそらく、ドミニクが知っていますわ」

「コールラウシュ?」

フョードロフ夫人の口から出たのは、あまりに意外な名であった。

「今日、陛下のご成婚の儀の様子を中継を見ました。ロイエンタール元帥のお子様も参列されておいででしたわね」

ロイエンタールの遺児はミッターマイヤー元帥夫妻の子として、参列を許されたのだ。それは、ロイエンタールに対する銀河帝国の政治的立場を、改めて内外に示すものでもあった。

「きっと彼女も見ていたことでしょう。それが我が子にとっての幸せだと分かってはいても、母親は後悔するものです」

 

――わたくしもそうだった。

と、ヒョードロフ夫人は思った。娘は子爵家で幸せに暮らしている。そう自分に言い聞かせても、やはり手放さなければよかったと悔やみ続けた。

クラヴィウス家の弁護士がオーディンの下町を訪ねて来た日のことを、夫人は忘れたことがない。

 

その日、彼女は重い心を引きずりながら、慣れない勤めから家に戻った。娘の父が去り、生活が困窮して、近所の洗濯屋で奉公を始めたのだった。古い借家の入り口の階段に大家の老婆が座り、金貨をもてあそんでいた。

「立派な紳士が訪ねてきたんでね、入ってもらったよ」

「紳士?」

ひどく嫌な予感がした。娘が一人で待つ家に、見知らぬ男を入れたことに腹もたった。

「箱をわんさか抱えてたね」

「…ありがとう」

焦燥の中、斜めに傾いた細く急な階段を昇る。途中、2階に住む中年の夫婦が罵りあう声が外まで響いていた。夫のほうは傷痍軍人だ。大工だったが、戦傷を受けて戦地から送還された後、仕事ができなくなってからは、いつも飲んだくれている。

部屋に入ると娘がかけよってきた。後ろを子犬がついくる。こんな弾けるような笑顔を見たのは、いつぶりだろうか。

「…フランツィスカ、あちらのお部屋で少し遊んでいて」

窓辺に立つ若い男は、クラヴィウス家の顧問弁護士だと名乗った。

「クラヴィウス子爵は、伯爵家から奥方を迎えられることとなりました。初めは渋っておられましたが、お嬢さまを嫡出子として子爵家の籍に入れることを条件に承知なさったのです」

彼女はうなだれたまま、弁護士の話を聞いていた。

「貴賎結婚は認められぬが道理。お嬢様に継承権が与えられるのですから、悪いお話しではないと思いますぞ。失礼ながら、このような暮らしではお嬢さまに最低限の教育を受けさせることもできぬでしょう。お屋敷にいらっしゃっれば家庭教師や専門のお世話係もつきます」

弁護士は何の反応も見せぬ女に、しびれを切らしたらしい。一方的に話を打ち切った。

「またご連絡します。何がご令嬢のためになるのか、よくよくお考えを」

彼女はつい先ほど、日銭を稼いでいた洗濯屋を辞めてきたばかりだ。店の主人に関係を迫られたのだ。金貨を握らされ、娘の面倒を見てやってもいいとささやかれた。どうにか拒んだ彼女であったが、一瞬、その金貨に目を奪われた。

もう無理だと思った。日々の暮らしに追われて、荒んでいく。

「小さなフランツィスカ。あなたは、お父様と一緒に暮らしたい?」

「はい!」

「そう。そうね、きっとそのほうがいいわね…」

 

追憶に沈む青碧の瞳を、オーベルシュタインは無理やり視界から追い出した。クラヴィウス家に引き取られた後のフランツィスカは決して幸せではなかったのだ、と、彼には言えなかった。彼の父が彼女の娘をブラスターで打ち殺したのだとも、言えなかった。

「夫人。エルフリーデ・フォン・コールラウシュのことは善処しましょう」

ヒョードロワ夫人は、目に涙をためたラーベナルト夫妻に見送られ、オーベルシュタイン邸を後にした。執事夫妻は使用人の分を守って何も聞かなかったが、夫人が亡くなった奥様の血縁者、おそらく実の母親であることを知っていた。

オーベルシュタインはカーテンの隙間から、門扉を出て地上車に乗り込む夫人の姿を見ていた。雪の上に新しい足跡ができていく。

雪は、好かない。

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