I Einsame Menschen

孤独な人々

Einsame Menschen (1)

帝国暦472年6月6日

この日は、この年の聖霊降誕祭にあたっていた。

窓辺に置かれたカウチに寝そべり、パウル・フォン・オーベルシュタインは白樺の森の向こうの湖を眺めている。城の西塔、最上階の4階である。

午後10時を回ったところだが、外はまだ十分に明るい。惑星オーディン北半球の高緯度地帯に位置するこの場所は、夏の日没が遅い。太陽がいつまでも西の空にとどまり続け、黄昏色の夕暮が何時間も続くのである。湖は本来の青い色を失って、浅い角度で射し込む黄金色の光を反射していた。

「若様、そろそろ」

ラーベナルトの声に小さなため息で返事をして、オーベルシュタインは立ち上がった。続き部屋の寝室では、先ほど結婚の誓いをした人が待っている。

初夜なのだ。

Vorherige Nächste

Einsame Menschen (2)

パウル・フォン・オーベルシュタインは、オーベルシュタイン子爵家の嫡子であり、ただ一人の推定相続人である。彼が父から結婚を命じられたのは、この3月に帰郷した折りのことであった。19歳の彼は、士官学校の卒業を間近にひかえていた。

父は常のとおり学業・訓練の状況について報告を求めた後、卒業後の配属先の希望を息子に質した。

「宇宙艦隊の参謀職を考えています」

「ならん、死にたいのか。軍務省の内局にせよ」

オーベルシュタインは意外感を持って父の言葉を聞いた。彼とて進んで死にたいわけではないが、「劣悪遺伝子の保有者であればこそ軍人となって国家に奉仕せよ」と、自分を幼年学校に入学させたのは、他ならぬ父である。本来ならば生きるに値しない命を生かされたのだから、一命を持って報いるべし。父はそう言ったはずだ。さればこそオーベルシュタインは、前線勤務を希望することが父の意向に沿うものと考えていた。

帝国軍の士官学校では毎年6500名程度の士官が育成される。配属先の希望は席次が上位であるほうがとおりやすく、成績優秀者は当然のように艦隊勤務を希望した。戦時が140年も続くなか、武勲を立てる機会がそこらじゅうに転がっている前線は、自らの能力を恃む若者にとって魅力的な場所である。

オーベルシュタインは席次を5位より下げたことがない。歴とした成績優秀者であることは、父も承知しているはずだ。それを「内局にせよ」とは。武人の美学などというものを臆面もなく信奉する父の言葉とは思えなかった。

「内局を希望して、命を惜しむのかと侮られるのは不本意です」

オーベルシュタインは父の真意をはかりかね、敢えて父の好みそうなことを言って反撃を試みた。が、返って来たのは、想像の域を遥かに超えた逆撃であった。

「パウル、お前は子爵家の跡継ぎとしての自覚が足りぬな。前線へ出るのは、妻を娶り、子をした後でなければならん」

「…は?」

「お前の結婚を決めた」

相手はクラヴィウス子爵家の令嬢だという。結婚とは、自分とあまりに無縁な言葉だとオーベルシュタインは思った。劣悪遺伝子の保有者に対し妻子を持てとは、笑止の至りである。先天性の障害を持つ者が子孫を残すなど、許されることではあるまい。それがこの国の有り様であったはずだ。そもそも父は、跡継ぎを失ってもよいと思えばこそ、自分を幼年学校へ入学させ、軍人となることを命じたのであろうに。

帝国貴族の当主は、その多くが軍の高級位階を有しているが、それは儀礼上与えられる地位であって、軍歴を伴った内実のあるものではない。貴族の法定推定相続人は徴兵の対象外とされており、典礼の一つとして軍籍を得ると同時に、予備役に入るのが慣例だ。社会の基礎単位が家父長制のもとに置かれるこの国において、継嗣の喪失は重大事である。それは平民であっても同様で、過去には平民家庭の長男、独子独孫に対しても徴兵が免除されていた。長引く戦争のため、もはやその余裕がなくなって久しいが。

士官学校を出て任官する者の半数が10年のうちに戦死する時代である。家門の断絶を何より恐れる貴族が嫡子を職業軍人にするとは、稀なことである。

オーベルシュタインは無言のまま父を見た。父はもともと男爵家の三男で、このオーベルシュタイン家には養子として入った人だ。藁色の髪と青みをおびた灰色の目という外見は、自分とあまり似ていないと思う。若い頃は社交界で人気の洒落者だったとも聞くが、四十をいくつか過ぎた現在は眉間に深い皺が刻まれ、髪にはかなり白いものが混じっている。

強権的な男である。自身の信念に固執し、異論を認めることができない。その支配にある者が楯突いたりしようものなら、たちまち激昂し、辛辣な言葉を浴びせて徹底的に攻撃する。彼もまた軍人であり、今は中佐として後方輸送基地の長官職にあるはずだが、よくあれでやっていけるものだ、とオーベルシュタインは思っている。周囲からはきっと、堪え性のない貴族士官に見えることだろう。

母のほうをうかがえば、果たして身じろぎもせず端然と座していた。

現在、オーベルシュタイン子爵家の血統を受け継ぐ者は、母と息子であるオーベルシュタインの二人だけだ。黒っぽい髪と薄い唇は、居城のあちこちに掛けられた先祖たちの肖像画と共通するもので、一族の遺伝形質がよく現れていた。

オーベルシュタインは母に抱かれた記憶を持たない。それどころか、まともに視線を交わしたこともない。自分が劣悪遺伝子を持って生まれたことが母の精神的負担となっていることを、彼はよく知っている。極端に口数の少ない人である。だが10年前、父がオーベルシュタインに幼年学校への入学を命じたときは、「わざわざ軍人になって命を縮めることはない」と反対し、「戦死などしたらオーベルシュタイン家と領民はどうなるのだ」と声を荒らげた。父はそんな母を罵倒し、ついには打擲ちょうちゃくに及んだのだった。

以来、オーベルシュタインは、母の声を一度も聞いていない。今も嫡子の結婚という大事を前にして、相変わらず黙したままだ。反対せぬ以上は賛成なのかもしれない。

父も母も劣悪遺伝子の保有者を我が子に持ったことを恥じている。それにもかかわらず、その恥ずべき子に結婚して子孫を残すよう求めるとは、血統に対する執着心の何と醜悪なことか。

「何だその目は」

どのような目をしているというのだ、とオーベルシュタインは胸中でつぶやいた。義眼に感情など出ようはずもない。

「よもや異存はあるまいな」

「…ございません」

異存はもちろん、ある。逆らわないだけだ。どうせ頭ごなしに怒鳴られて、結局は父の命令に従うことになるのは分かりきっている。

両親の前を辞して廊下に出たところで、壁に張られた大きな鏡がギラリと光った。義眼が反射したのだ。

オーベルシュタインの心は不快感で満たされているというのに、鏡の中の冷たい目は、やはり何の感情も宿してはいなかった。

Vorherige Nächste

Einsame Menschen (3)

帝国暦472年5月17日

帝都におけるオーベルシュタイン家の屋敷は、皇宮の西苑から6キロほど離れた高級住宅街に位置する。オーベルシュタインは故郷を出て帝都の幼年学校に入学した際、この屋敷に居を移した。帝都へ移るにあたっては、養育係であったラーベナルト夫妻がそれぞれ執事と家政婦として年少の主人に従い、以来夫妻は、主人が外出許可を得て寮から戻る週末のため、この屋敷の居住性と快適性の維持に努めている。

 

この日、オーベルシュタインは、2階の書斎でラーベナルト夫人・ヘルガの報告を聞いていた。ヘルガは昨日までの5日の間、クラヴィウス子爵邸に赴き、子爵令嬢の嫁入り支度を調えてきたのである。クラヴィウス子爵夫人の求めに応じてのことであった。ヘルガは、「なぜお母君がお支度なさらないんでしょうね」、と首をかしげて出かけて行ったが、得心がいった様子で帰って来た。クラヴィウス子爵夫人は令嬢の継母であって、今般の婚儀には一切の干渉を拒絶しているのだという。ヘルガは子爵夫人への挨拶もかなわなかった。いくら継母とはいえ、娘の嫁ぎ先の使用人を呼びつけておいて面会もしないとは、いささか礼を失している。

オーベルシュタインはヘルガから受け取ったクラヴィウス子爵令嬢の写真帖と身上書を開きもせずに、机の端に置いた。そばに控える執事が、中を見ないのか、というような顔をしたが、主人はそれを無視した。

「ご令嬢はとても可愛らしい方でしたわ」

婚約者に対する家政婦の感想にも、主人は無表情にうなずいたのみである。家政婦のほうは、もし問われたなら話したいことが山のようにあったので残念でならなかったが、使用人の分を守って口をつぐんだ。

 

クラヴィウス家の屋敷は、帝都から約250キロ離れた高原地帯にある。中央棟に東西の翼が配された広大な邸宅であるが、あまり手入れが行き届いた様子ではなかった。

ヘルガが通されたのは日当たりの悪い薄暗い部屋で、主人の婚約者はそこにひっそりと佇んでいた。令嬢の足元に寄り添う大型犬がヘルガのほうに首を伸ばし、くんくんと鼻を鳴らした。

「ごきげんよう、ラーベナルト夫人フラウ・ラーベナルト」

美しい少女であった。

手足が長く、ほっそりとした長身の持ち主である。若様と並べばきっとよい釣り合いだ、とヘルガは思った。灰色がかった黒髪が小さな顔を縁取り、明度の高い青碧の瞳からは内省的な人柄が感じられる。存在感が希薄な、日陰で小さな花をつける植物のような印象の人であった。

令嬢の周囲には時が沈殿していた。ここでは数十年前に流行したドレスの型がいまだ現役のようで、令嬢の恰好もやたらと古臭い。ヘルガはドレスをすべて新調していただこうと心に決めた。 最近、急に痩せた体型がもてはやされるようになって、仕立て屋のショーウインドーも、商店に並ぶ既製服も細身のものばかりになった。婦人雑誌はダイエットの記事であふれかえっている。 流行の装いをなさったら、きっと映えるに違いない。

令嬢に仕える者たちも、また年寄りばかりであった。いつも半分寝ているかのような家庭教師、口うるさい教育係の婦人グヴェルナンテ、それに膝を悪くして座ってばかりいる小間使い。3人ともそろって七十を過ぎていると思われた。

未来のオーベルシュタイン家の若奥様を、ヘルガは興味深く観察した。令嬢は身のこなしも、言葉使いも、帝国公用語の発音も、完璧なまでに貴族的でありながら、あまり貴族らしくない人であった。使用人に対し何かを命じるということがないのである。身の回りのことも、犬の世話も、ほとんど自分でやってしまうようだ。教育係からがみがみと小言を言われても、小間使いがぶつぶつと不平を鳴らしても、黙って言わせてやっている。時折静かな微笑みを口元に浮かべる以外は、感情を発露するということがなかった。

婚礼を控えた娘ならばもっと浮き立っていてもよいだろうに、自身の嫁入り支度についても、

「万事、ラーベナルト夫人のよろしいように」

と言って、ヘルガに全権を委任してしまった。おかげで支度は滞りなく進んだ。すべて、ヘルガの一存で決めたようなものである。

――やっぱり、うちの若様との結婚がお気に召さないのかしら。

ヘルガの胸中は複雑である。オーベルシュタインの目のことを考えれば、ヘルガの若様が世間で決して理想の結婚相手ではないことは承知している。だが、オーベルシュタインは子爵家の法定推定相続人である。学業優秀で、将来有望な士官候補生である。明朗な性格とは言いがたいが、思慮深く、自制心もある。細面の貴族的な顔立ちであるし、物腰も貴公子然としている。背だって高い。

もちろんヘルガには、長年仕えてきた若様に対してかなりの欲目があるのだが、実体とそれほど離れているわけでもないはずだ。彼女は、せめて若様の為人をお尋ねくださればよいのに、と思わずにはいられなかった。

 

クラヴィウス家に滞在して4日目、朝から雨か降り続いた日のことであった。ヘルガは、居間兼応接室というべき一室に入ろうとして思わず足をとめた。そこには、一幅の静物画のような光景が広がっていた。

雨音の響く薄暗い部屋の中、大きな張り出し窓の窓座に腰かけて、クラヴィウス子爵令嬢がじっと手元を見つめている。手の中にはヘルガが持参したオーベルシュタインの写真があった。その青碧の目に、救いを求めるような切実な光があって、ヘルガは胸の詰まる思いがした。いつも令嬢のそばを離れない犬が手元をのぞき込むようにすると、令嬢は犬に何かささやきかけて、写真を見せてやっていた。

「フラウ・ラーベナルト、このだけはどうしても連れて行きたいんですの。若君はお許し下さるでしょうか」

それが、子爵令嬢が示した唯一の意思だった。

 

「犬?」

ヘルガはメモに目をやりつつ、Altenglischer Schäferhundアルトエングリシャー・シェーファーフントという種類だと説明したが、オーベルシュタインには何の理解の助けにもならなかった。彼は実家の城で飼われている猟犬の種類もよく知らない。

「そちらのお写真に、ご令嬢と一緒に写っていますわ」

ヘルガは脇によけられた写真帖を指した。執事がまた、写真を見ないのか、というような顔をし、主人は再度それを無視した。

彼自身、特に異存はない。犬は好きでも嫌いでもなかった。ただ、令嬢は侍女も伴わなければ、オーベルシュタイン家で人を増やす必要もないと言っているのだという。そこへ犬を連れてくるとなれば、執事夫妻、とくに家政婦の負担が増すのは自明である。だが、そのヘルガが、ぜひ承知なさるべきだと熱心にすすめたので、オーベルシュタインは同意することにした。

 

ヘルガが食事の準備のため退室すると、オーベルシュタインは解放された気分で肩の力を抜いた。帝国数学会発行の最新号の学会誌を書斎机に広げ、数式処理システムを立ち上げる。数学は彼の数少ない趣味である。学友には変人扱いされるが、数学の厳然として公平な世界が、彼は好きであった。

執事はコーヒーを入れつつ、遠慮がちに主人に声をかけた。

「若様」

「ん?」

「ご経験はございますか? その…、女性と」

オーベルシュタインは執事の顔を一瞥し、学会誌を脇へよけた。顔をそむけ、組んだ手にあごを乗せる。

システムの起動完了を告げる軽やかな音楽が無神経に響いた。

「…ない」

青年らしい葛藤を伴って発せられた言葉を、年長の執事はある程度予想していたようで、何の感想も表情に出さずに主人の前にカップを置いた。

「手ほどきを、受けられますか?」

コーヒーの湯気が立ち上る先を、冷たい義眼が追った。

「……令嬢は誰かと練習をするかな」

本気なのか冗談なのか測りかねる口調であったので、執事は一瞬言葉に窮し、気を取り直したように常識的な推測を述べた。

「それは、ございませんでしょう」

「…そうだろうな」

娼婦相手に経験を済ませるのは、階級の別なくよくある話である。そう堅苦しく考えることはないのだ。だが執事は、主人の潔癖で融通のきかぬ性格をよく承知していたから、それ以上は何も言わず、一冊の本を置いて下がった。

閨房に関する本であった。これで勉強せよということらしい。ぱらぱらとめくってみれば、微に入り細に入り、いかにも生々しい。

前書きは語る。

『男女の交わりとは、互いの愛情を深め、絆を確認し、信頼を高める行為です。円満な家庭を営み、遺伝子を後世に伝えていくために不可欠なものでもあります。…』

――愛情、絆、信頼…。遺伝子…。

オーベルシュタインは重力に引かれるように机に突っ伏し、閉じた本の表紙を人差し指で何度もはじいた。肺の底から息を吐いて目を開けると、ヘルガが置いて行った写真帖が視界に入った。

平面写真である。婚約者だという人は、大きな張り出し窓のある部屋で、不安げな表情を浮かべて立っていた。足元に伏せた犬は想像以上に大きく、全身が長い毛で被われている。

 

フランツィスカ・フォン・クラヴィウス

帝国暦455年10月23日生まれ 満16歳

父 ステファン・フォン・クラヴィウス(帝国子爵)

 

父親のクラヴィウス子爵はこの2月に逝去している。酩酊して真冬のエルベ川に転落したのだという。

この縁談を仲立ちしたのは樫之木館アイヒェンバウム・ハオスに住まう退役大将だと聞いていたが、あるいは父親を亡くした令嬢の弱みに付けこんだものかもしれなかった。

オーベルシュタインはこの時はじめて、父に命じられるままにこの結婚を承諾したことを後悔した。これまで彼は、これをどこか他人事のように感じていて、自身が一番の当事者であるという意識が甚だ薄かったのだ。

――私の目のことを知っているのだろうか。

自分のような者のところに嫁ぐことになったこの人を、ひどく気の毒に思った。

Vorherige Nächste

Einsame Menschen (4)

帝国暦472年6月2日

この日、帝都オーディンの士官学校では、皇帝の臨席を仰いで壮麗な卒業式が行われた。

第470期の卒業生は6859名。若者たちはそれぞれの希望と野心を胸に、4年間を過ごした学舎を旅立っていく。今後は同期生だけでなく、より多くの僚友たちと武勲と出世を競い合っていくことになるだろう。彼らのうち、平均寿命まで生き残ることができる者は何割ほどであろうか。辺境の叛徒との戦いはすでに140年も続いている。もはや士官といえども、使い捨ての様相を呈しつつあった。

オーベルシュタインの卒業成績は三席であった。これは彼が指揮官として優秀であることを示しているというよりも、数学・物理学・天文学といった宇宙艦隊の各作戦を支える理系の学問に優れていたことによるところが大きい。士官学校の首席が必ずしも名指揮官とはなり得ぬ理由もここにある。実際のところ、指揮官の資質があるかどうかは、実戦に出してみないと分からないものである。

『軍人として天与の資性を持つとは言い難いが、どの分野においても水準以上の結果を出すことができる。特に後方参謀としての適性が顕著である』。士官学校の教官たちは、オーベルシュタインの人事档案とうあんにそのような評価を記した。

彼は来月から、軍務省人事局人事課に配属されることが決まっている。

オーベルシュタインは教官と学友たちに儀礼上は過不足のない挨拶をして、迎えに来た執事と地上車に乗り込んだ。彼は故郷のクライデベルクに帰省しなければならない。はなはだ気の重い、一生の大事が待っているからだ。

 

12時間の時差を移動して城に到着すると、彼は、オーベルシュタイン家の顧問弁護士ラインスドルフに面会を求められた。婚姻契約書の文案に目を通してほしい、というのである。明後日には花嫁が先方の弁護士に付き添われてやってくるというのに、まだ最終稿ができていないのだ、と弁護士は語った。

「私が見る必要はなかろう。父上がよしとされたなら、それでかまわぬ」

「そうは申されましても、若様自身の名でご署名なさるのですから、ご覧になっておかれるべきでしょう」

弁護士はそう言って、オーベルシュタインの前に1枚の紙を差し出した。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
婚姻契約書 オーベルシュタイン子爵家長子パウル・フォン・オーベルシュタイン(以下「甲」という。)及びクラヴィウス子爵家長女フランツィスカ・フォン・クラヴィウス(以下「乙」という。)の婚姻にあたり、両家並びに甲乙双方及びその子孫の地位・身分、財産上の権利義務及び継承権等に関し、次のように定める。 一、甲の子のみを、オーベルシュタイン家の推定相続人とする。 一、甲及び乙並びにその直系・傍系を問わぬすべての卑属は、クラヴィウス家の家門を継承する権利を有しない。 一、乙は、甲の子を出産した場合に限り、オーベルシュタイン家の財産上の相続権を有し、将来においてオーベルシュタイン子爵夫人の称号を用いることができる。 一、クラヴィウス家は、乙に対し、同家の紋章の使用を認めない。 一、クラヴィウス家は、乙に対し、復籍を認めない。 一、この婚姻履行の証として、オーベルシュタイン家からクラヴィウス家に対し、すでに相応の婚資が支払われたことを確認する。 …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
弁護士はオーベルシュタインの無機質な視線にさらされた。 「令嬢はこれを承知したのか」 「ご令嬢は未成年で、法律上の行為能力が制限されますので、この書面には法定代理人たるクラヴィウス子爵夫人がご署名なさいます。いえ、実際には、子爵夫人の委任を受けた、先方の弁護士が署名することになります」 ――継母、だったか。なさぬ仲の子にはどんな仕打ちもできるか。 「クラヴィウス家は令嬢を放逐するつもりらしいが、もし子がないまま私が死ねば、令嬢は当家にもいられなくなるのだな」 「さようです」 オーベルシュタインの亡き祖父が顧問弁護士として雇ったこの男は、良識人と言ってよい。令嬢の境遇に同情したのだろう。 「それで卿は、私から父上に言上し、令嬢の権利擁護を求めよとでも言うのか」 確かにこれでは酷だ、とオーベルシュタインも思う。本人が望んで嫁いでくるわけでもあるまいに。だが、父と話すのはどうしても気が進まなかった。 「いいえ、父君にご翻意を促すのは困難でしょう。わたくしからも意見を申し述べましたが、お聞き入れくださいませんでした。婚礼の日も迫っておりますし、もはや時間的にも難しいものと思います」 「ふむ」 オーベルシュタインは実に不愉快そうにうなずくと、ラインスドルフに助言を求めることにした。   4日後、婚礼が挙行された。 城の北側にある大広間は、石造りの壁の高いところに穿たれた小さな窓から、外の薄明がわずかに差し込むだけである。枝付き燭台が立てまわされ、黄みを帯びた穏やかな色彩が空間を満たす中、花嫁の白い衣装がぼんやりと浮かんでいる。蝋の溶ける臭いが細く漂い、細かな煤が宙を舞って、オーベルシュタインの義眼に不快な刺激を与えた。彼の腕に回された花嫁の手からは、時折かすかな震えが伝わってきた。 婚礼の参列者は、オーベルシュタイン子爵夫妻と両家の弁護士のみであった。招待客はない。この婚姻に関しては、いまだ典礼省の認可が下りていないため、世間に披露するには憚られるところがあった。披露したところで、劣悪遺伝子保有者の結婚など、嫌悪と嘲笑の種を提供するだけであろう。 式は粛然として進行し、弁護士が婚姻証書を読み上げ、当事者が婚姻契約書に署名し、新郎新婦が指輪を交換して、滞りなく終了した。あっけないものである。 オーベルシュタイン子爵は、息子の妻になった娘を無遠慮な視線で値踏みするように見た。子爵夫人は常と変わらず端然と座すのみで、その心中を推し量ることはできなかった。後に、ラーベナルトが「大変お喜びのようだった」と語ったところをみると、あるいはそうだったのかもしれない。 食事が供され、やがて葬儀から哀惜の成分をそっくり差し引いたかのような、鬱々とした宴は何の感慨も残さずに散じた。
Vorherige Nächste

Einsame Menschen (5)

寝室はぼんやりと明るい。 遮光カーテンの隙間から漏れた光が、細い筋となって床をいくつかに分割している。幼少の頃より慣れ親しんだ部屋であるのに、部屋の主はどこか見知らぬ場所に迷い込んだような錯覚を覚えた。

錯覚の要因は、先ほどフランツィスカ・フォン・オーベルシュタインという新たな名を与えられたばかりの人である。

妻という続柄の、見ず知らずのその人は、広いベッドの端に浅く腰掛けてうつむいていた。その心細げな姿が彼女をいくぶん幼く感じさせ、人知れず狼狽うろたえたオーベルシュタインは、奥歯を噛んでその場に踏みとどまらねばならなかった。

彼はよく承知している。自らの血に対する義務と責任を、彼は果たさねばならぬ。

フランツィスカが立ち上がろうとするのを片手で制すると、オーベルシュタインはそれと気づかれぬよう最大限の注意を払って深呼吸をし、その隣に腰を下ろした。彼女の膝の上で組まれた指がわずかに握りこまれたようだった。こわばった身体をぎくしゃくと腕に収めると、絹のナイトガウンに包まれた薄い肩が小さく震えた。重ねた唇から香り玉がかおって、甘ったるいような、爽やかなような芳香が彼の口にも移った。

オーベルシュタインの義眼が初めて彼女の瞳をとらえたのは、その細い身体を寝台に横たえ、ガウンの合わせを寛がせたときのことだ。

――湖の色だ。

美しい色の瞳が長く濃いまつ毛に縁取られている。オーベルシュタイン子爵家の居城の西に広がる石灰華の湖と同じ、透明で鮮やかな青碧であった。オーベルシュタインを惹きつけてやまぬ、彼と冥府とを隔てる色である。

引き込まれるままに真上からのぞきこむと、冷淡な義眼を映しこんだ青碧の瞳が、なぜか安堵の色に染まっていった。かすかな微笑みの浮かんだ唇から暖かな吐息がこぼれ、彼の首すじをしっとりと暖める。小さなぬくもりは急速に拡大して、オーベルシュタインの心に沈澱する陰鬱な冷気を駆逐した。代わって熱っぽい渇望が全身を満たし、彼はその熱に身を任せた。

 

それは、確かな満足感を与えてくれるものであった。幸福だと思った。

 

身体のどこかで一瞬、恐れとも悲しみともつかぬ何かがうずくのを感じたが、彼は敢えてその正体に気づかぬふりをして、吸いこまれるように眠りについた。

 

5時間の旅程を経て帝都に戻ったとき、銀河帝国の中心地はすでに夜の闇に沈んでいた。道中、忠実な執事は何度か、若い夫婦の会話の橋渡しをしようと試みたが、何ら成果を上げることができず、ついには冷たい視線で黙るよう命じられてしまった。

地上車が屋敷の車寄せに停まると、玄関扉の向こうから犬の悲しげな鳴き声が響いてきた。

「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」

オーベルシュタインは出迎えたヘルガにうなずき返し、フランツィスカは「ごきげんよう」と言いかけて、小さく「ただいま」と言いなおした。

犬は扉が開くのももどかしく短い石段を駆け下り、フランツィスカにすがりついた。他のものには目もくれない。耳を伏せ、切なそうに鼻を鳴らしながら、全身全霊で甘えている。知らない家に置き去りにした薄情な主人を責めているようでもあった。

「寂しかったの?」

背や頭をなでてやる手が、とても優しい。

――仲がよいのだな。

オーベルシュタインは妙な感心をし、令嬢と犬とを引き離すようなことをしないでよかったと思った。

犬は写真で見たよりも、さらに大きく見えた。骨格ががっしりとして重量感がある。両耳の先と背中の部分だけが黒っぽいのを除いて、全身が白く長い毛に被われている。目の上の毛は青いリボンで結んであって、犬のまん丸な目がのぞいていた。

犬が落ち着くと、フランツィスカは低く鋭い声で座るように命じ、犬の首に手をあててオーベルシュタインに向き直った。

「アインシュタインです、旦那様マイン・ヘル」

明度の高い青碧の瞳が、訴えかけるようにオーベルシュタインを見つめた。

犬は座ったまま首を突き出し、警戒心もあらわにオーベルシュタインの靴やズボンの臭いを確かめた。彼が鼻先に手を伸ばすと、おそるおそる近づいてぺろりとなめた。

どうやら仲間として認められたようであった。

Vorherige Nächste