II Herr, Frau, Hund

主人、夫人、犬

Herr, Frau, Hund (1)

帝都・オーディンは、都市を東西に貫流するエルベ川によって、大きく北と南の2つの地域に区分される。川の北側では皇宮をはじめ各官庁、貴族の邸宅などの壮麗な建築物がけんを競い、南側には平民の粗朴そぼくな住居が軒を連ねている。

エルベ川に沿って皇宮南苑の前を抜け官庁街を横断し、軍務省の北門・オルテリンデ門前を通って西の郊外へと向かう幹線道路を、栄光ヘルリヒカイト街という。道路の中央の緑地帯を白と黄色で塗装された3連結の路面電車が走り、下級官吏・下級軍人の通勤の足となっている。そのヘルリヒカイト街は、オルテリンデ門から3.5キロほど西へ行ったところで、もう一つの幹線道路であるウルメン街と交差し、そこにブルーメン広場という停留所が置かれている。ブルーメン広場とは、この東西・南北の2つの幹線が交わるに場所ある公園の名だ。

オーベルシュタイン家の屋敷は、ヘルリヒカイト街からブルーメン広場を越え、通りを2本北側に入ったファイルヒェン街24番地にあった。周辺は貴族の上屋敷ばかりであるが、住人は留守居の使用人のみという屋敷がほとんどである。多くが郊外の下屋敷を主な住居としているためだ。都心部にあるにしては至って静かな住宅街であった。

 

その屋敷の主、パウル・フォン・オーベルシュタインは、現在、新しい生活を構築するのに忙しい。

彼は成人を契機として独立した生計を営むことになり、帝都にあるオーベルシュタイン家の土地家屋、いくばくかの預貯金、有価証券、貴金属といったものを相続した。顧問弁護士が権利証の類を持ってきて、続いて顧問会計士が財務諸表の説明に訪れた。今後は毎月初に前月分の会計報告が届くことになっている。当然ながら軍の俸給のみでは、使用人を置き、屋敷を維持していくことはできぬから、生活費の大部分は相続した資産の運用収益からまかなうことになるだろう。金に汲々きゅうきゅうとする心配は皆無とはいえ、一家の主として収支に目配りするというのは、なかなか骨の折れそうな仕事だった。

家計の概要を把握すると同時に、彼は妻の化粧料の手配をした。

オーベルシュタインの書斎に呼ばれたフランツィスカは、すすめられたソファに姿勢よく座り、興味深げに書棚を眺めていたが、化粧料だと言ってカードを渡されると、途端に当惑したようだった。

「少ないかな」

カード用の別口座には毎月1500帝国マルクが振り替えられる。これは少尉の俸給月額の約半分である。オーベルシュタインは自分の金銭感覚にあまり自信がないのだが、彼は金のかかる趣味があるわけでもないし、交友関係も地味であるから、これだけの小遣いがあれば十分なように感じている。

「いえ…そうではないのです。わたくし、自分でお金を使ったことがないものですから」

これはまたずいぶんな箱入りだな、とオーベルシュタインは思った。深窓の令嬢というのは、皆このようなものなのだろうか。金の使い方も知らぬとは難儀なことである。いや、浪費が生活の一部になっていないだけまし、と考えるべきなのかもしれない。

「ある程度は自由になる金がなければ不都合もあろう。私のほうも、チョコレート1つ買うのまで許可を求められては、かなわないのだ。カードの使い方はヘルガにお聞きになるとよい」

これまでのところ、オーベルシュタインは妻に対し基本的に無干渉であったが、無関心であったわけではない。邪険にすることはないが、かと言って、友好的ということもない。黙って様子を見ている。

フランツィスカは、実家から連れてきた犬をとてもかわいがった。外見はとぼけたふうな犬であるが、よく躾けられている。餌やりや散歩はもちろん、排泄物の始末も彼女自身がやっているようだ。長い時間をかけて犬の毛にブラシをかけてやるのを見かけることもあった。犬の世話をしない時間は、1階の図書室で本を読んで過ごすことが多い。読書が好きなのかもしれない。お茶の時間に交わす数少ない会話からは、明晰な思考を持つ人のような印象を受けた。

その一方で、こちらが戸惑うほど無知なところがあって、ヘルガと市場へ行ってきたという日の夕食時、

「お金に描かれているおじいさんはどなたですか?」

と尋ね、オーベルシュタインはスープを口に運ぼうとしていた右手を中空で停止させることとなった。

言わずと知れた、「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の保護者、神聖にして不可侵なる銀河帝国フリードリヒ四世陛下」である。

オーベルシュタインはスプーンを皿に戻し、口を開けて夫人を凝視する執事を一睨みすると、大仰な修飾語の大部分を省き、簡潔に答えた。

「今上陛下だ」

幼年学校、士官学校と忠君報国の精神を叩き込まれた新米士官であるところのオーベルシュタインだが、多くの学友と違って、皇帝に対し信仰めいた忠誠心を抱いたことがない。2週間前の士官学校の卒業式には皇帝も臨御あそばしたが、初めて至尊の座にある方の尊顔を拝してもやはり何の感銘も受けず、自身でも不思議なほど醒めていた。

「見かけほどおじいさんではない」

まだ五十にも届かぬ年齢のはずである。

妻の非礼を咎めたものか、ともに不敬な言辞を弄したのか、判断しがたい口調であった。

目を泳がせる執事に気づきもせず、フランツィスカは感心したようにうなずいて、実に洗練された作法で食事を続けた。

 

帝国暦472年6月16日

この日、オーベルシュタインは、軍装等の貸与物を受領するため、軍務省に出頭した。士官学校または幼年学校の新規卒業者は、毎年7月1日に一斉に任官する。卒業式が6月初めであるから、辺境への赴任が決まった者は卒業後すぐに出立せねばならないし、軍務省やオーディン近隣が職場となる者は任官日まで待命扱いとなる。

屋敷から軍務省までは、ブルーメン広場からオルテリンデ門 まで路面電車に乗る。将官にでもならなければ、地上車での登省など認められるものではない。

路面電車は数百メートルごとに頻繁に停まるので、わずか3.5キロ、13駅の道のりに20分ほどかかった。歩くよりは速いというだけである。

オーベルシュタインが軍務省に足を踏み入れるのは、幼年学校在学時に従卒を経験して以来、6年ぶりであった。6年前、彼は規定どおり統帥本部と宇宙艦隊総司令部で2か月ずつ従卒を務め、最後に軍務省の軍史編纂室にやってきた。

当時、14歳の子供に過ぎなかったオーベルシュタインの見たところでも、軍史編纂室は無能な軍人の吹き溜まりであり、どこの部署でもお荷物になったろう人材がそろっていた。室長はかなり耄碌したふうの中将で、本来オーベルシュタインはこのお年寄りの従卒を担当するはずなのだが、なぜか 翻訳を命じられた。フェザーン経由で流れてきた、叛徒の軍事関係資料である。後で分かったことだが、軍務編纂室は派遣されてくる従卒に対し、「敵性言語の成績優秀者」という条件をつけるらしい。はなから作業用員として当てにしているのだ。

――叛徒あちらの資料は意外に面白かったな。

誰にも語らぬ、オーベルシュタインの感想である。叛徒の軍隊は、虚飾をおさえ実利に徹するの観があった。我が軍も少し見習えばもう少し有利に戦えるのではないか、とさえ思う。

貸与品の受領はごく事務的に終わった。膨大な物量となるため、受領といっても実際は目録を受け取るだけであり、現物は自宅へ配送される。夏服、冬服、艦内服、礼装、略装、正帽、略帽、シャツ、肌着、靴下、手袋、雨具…。靴だけでも、長靴ちょうか半長靴はんちょうか短靴たんかと3種類もあった。

帝国軍の服飾規定は煩雑を極めている。これも虚飾の一つだ、とオーベルシュタインは思う。だが、廃絶しようにも、軍の御用商人を抑えることが困難なのであろう。いまやこの国においては、戦費こそが経済の根幹なのである。戦争はいわば公共投資であった。

 

同じ道を路面電車に揺られて戻り、屋敷の入り口でラーベナルトの出迎えを受けたオーベルシュタインは、どこからか妻の声が聞こえたような気がして、怪訝な顔をした。

「奥様が裏の水場で犬を洗っていらっしゃいまして」

執事が説明をし終わらぬうちに、ザッサカザッサカと土を蹴る音が聞こえ、建物の角を回って、見知ったような見知らぬような犬が、勢いよくオーベルシュタインの足元に走り込んできた。犬は一度彼のそばを駆け抜けて急停止し、身をひるがえして戻ってくると、ぽたぽたと水を滴らせながら、笑顔と形容するべき顔でオーベルシュタインを見上げた。主人の帰宅を歓迎しようと、水場から逃走したらしい。分厚い毛が水を含み、体積が普段の半分くらいになっている。

――貧相だ。

主人と執事がそれぞれの胸の内で同じ感想を抱いた瞬間、犬は無遠慮に体を震わせて全身の水滴を四方に飛ばした。

「アインシュタイン!」

大判のタオルを片手に犬を追ってきたフランツィスカは、悲鳴に似た声で犬の名を呼ぶと、オーベルシュタインの前まで駆けてきて緊張に身を固くした。夫と執事が顔や衣服を水で濡らして茫然としている。

「あ、あの…、申し訳ありません」

フランツィスカのほうもよい恰好とはいえなかった。エプロンをつけて肘まで袖を捲り上げた様は洗濯婦のようであったし、ドレスの裾は水を含んで濃い色になっている。オーベルシュタインはハンカチで顔を拭きながら、うつむいた妻と能天気に笑う犬を眺めやった。そして、節の目立つ長い指を伸ばしてフランツィスカの腕からタオルを抜きとり、犬にかぶせてごしごしとぬぐいはじめた。

驚く妻と執事が注視する中、あらかたの水分をぬぐい取って 、最後にタオルの端を小さくつまんで目の周りをぬぐってやった。

「きれいにしてもらってよかったな」

犬はもう一度全身を震わせて、返事に代えた。残った水がまた粒となって飛び散る。

オーベルシュタインは苦笑しながら犬の頭をなで、フランツィスカにタオルを返しながら、

「あなたも早く着替えられたほうがよいな」

と言って、執事を伴い屋内に消えて行った。扉が閉まる直前、風呂の用意をするよう命じる声が聞こえた。

それからしばらくの間、フランツィスカは夫の消えた扉を青碧の瞳で見つめ続けた。この家に来てからの緊張がすべて溶けていくようだった。

「アインシュタイン。お優しい方で、よかったわね」

言葉を持たぬ犬は、また一つ身震いをした。

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Herr, Frau, Hund (2)

帝国暦472年6月30日

オーベルシュタインは書斎で数式処理システムと向き合っていた。興味深い数学論文があったので、システムを使って確認をしているところである。

翌7月1日からは正式に軍務省に出仕する。生き残れば長く、死ねばあっという間の軍歴が始まるのだ。モラトリアムを喪失する前の、最後の午後であった。

「アインシュタインー!」

扉越しに、フランツィスカが犬を呼ぶ声が小さく聞こえた。玄関ホールのあたりだろう。名を呼ばれた犬は、今、オーベルシュタインの足元で腹を出して寝そべっている。書斎は北向きに作ってあるので、他の場所より涼しいのかもしれない。フランツィスカに従ってやってきたこの犬は、初めのうちこそ彼女にべったりとくっついていたが、1か月と経たぬ間にすっかり新しい環境に慣れて、気ままに過ごすようになった。

「呼んでいるぞ」

オーベルシュタインはモニターから視線を移し、犬に声をかけた。犬は耳をぴくりと動かして、フンと鼻を鳴らしたのみである。優雅な午睡を邪魔されたくない様子だ。

また犬を名を呼ぶ声が聞こえた。

「アインシュタインー? 散歩に行きますよー」

怠惰の見本のようであった犬は、散歩シュパツィーレンという言葉を聞くや、機敏に身を起こした。すばやく扉の前に駆けつけ、忙しなく足踏みをしながら、扉のノブとオーベルシュタインの顔をかわるがわる見やる。

――開けてほしいのだな。

この頃少し、犬の身体言語を理解するようになったオーベルシュタインである。犬にいいように使われて腹も立たないのが、自分でもおかしい。

オーベルシュタインは扉を開けてやって、自らも犬の後について廊下に出た。犬は一目散に階段を下っていく。

「おや、2階にいたのですな」

ラーベナルトの声が聞こえた。

手すりにもたれて吹き抜けの玄関ホールをのぞくと、帽子をかぶり、出かける支度をしたフランツィスカが犬にリードを付けてやっているのが見えた。最近はヘルガの付き添いもなく、一人で出かけているという。オーベルシュタインが眉をひそめると、ヘルガは「犬も一緒ですから大丈夫ですよ」などと言ったが、あの呑気そうな犬が本当に頼りになるのか、彼は少々疑っている。

オーベルシュタインの疑心が聴覚を刺激したのでもなかろうが、犬がふいに階上を見上げて一声鳴いた。犬の視線の先を追って、フランツィスカとラーベナルトも階上を見上げる。

「旦那様も一緒に、お出かけになってはいかがですか」

何を思ったか、執事が突然外出をすすめ、オーベルシュタインが返事に詰まっている間にフランツィスカの承諾もとってしまった。

「あぁ…。少し、待ってくれ」

オーベルシュタインはいったん居室に戻って帽子と上着を手にすると、ホールへ降りた。

彼はこの1か月近く、まったく運動らしいものをしていない。もともと、体を動かすのを好むわけではないし、どれほど食べても太ることとは無縁であったが、それでもあまりに動いていなかった。士官学校では毎日校庭を走らされていたのだから、少しは運動が必要だろうと思った。それだけである。

「ワン!」

犬がそわそわと催促した。

「はいはい、行きましょうね」

 

外は、夏至を過ぎたばかりの太陽がまだ高いところにあった。日差しはそれなりに強いが、適温適湿の気持ちのよい午後である。犬の散歩はいつもエルベ川の河畔まで行くことにしていて、今日は途中で市場に寄って買い物をするのだという。

旧市場アルトマルクトは、惑星オーディンに入植がはじまった頃まで歴史を遡ることのできる、古い市場である。立派なレンガ造りの屋内市場で、かなりの数の店舗が入っている。市場自体の歴史が古いことから老舗が多く、近隣の高級住宅街の厨房にも顧客を持つ。オーベルシュタイン家の家政婦、ヘルガ・ラーベナルトも、ここで食材を買い入れていた。

オーベルシュタインの屋敷から市場までは、ブルーメン広場を通り抜け、ヘルリヒカイト街を越えてすぐである。徒歩10分ほどだが、彼自身、市場に来るのは初めてだ。貴族の若様が行くようなところではない。

市場は意外に清潔であった。生鮮食料品を扱う店が多いようだ。まだ夕方という時間でもないためか、さほど混んではいなかった。

フランツィスカは犬のリードを短く持って通路をすいすいと進んでいき、肉屋の前で足をとめた。間口いっぱいに大きな冷蔵ケースが置かれ、中に様々な種類の精肉や肉加工品が並べられている。赤みが強く見えるのは、ネオジウムランプのせいだろう。

「あ、アインシュタインだ!」

4、5歳くらいの男の子がケースの向こうから飛び出してきた。

「ごきげんよう」

すでに顔なじみのようである。

「こら、ちゃんとご挨拶しねぇか!」

肉屋の主人が子供を叱りつけ、瞬時に顔と態度をあらためてフランツィスカに向き直った。血圧の高そうな赤い顔をした、小柄な男である。はすにかぶった帽子から、癖の強い白髪まじりの髪がのぞいている。白いエプロンは突き出た腹のてっぺんあたりが少し黄ばんでいて、なんとも見苦しい。六十を過ぎたくらいであろうか。あの子供は孫かもしれない。

「いらっしゃいまし、フラウ。羊肉でよろしいんで?」

「ええ、300グラム」

羊肉は1キロが3マルク40ペニヒとあった。この国の農業は主として農奴に支えられているから、食料品は総じて安い。貴族が平民を搾取し、平民がさらに農奴を搾取するという構造の上で、経済が循環しているのだ。

肉屋の主人のヴルストのような指が器用に動いて羊肉を包むのを観察していると、ふいにこちらに顔が向けられた。主人はオーベルシュタインの左手にはめられた指輪にすばやく視線を走らせ、

「さて、旦那さんには何を差し上げましょう?」

と、さも当然のように言って、何か買わなければならないような気にさせてしまった。「うちのケーゼシンケンは赤ワインによく合いますぜ」

「…では、それを」

親指と人差し指で7センチほどの長さを示すと、肉屋は勝手に10センチばかり切って秤に載せた。長年の商売人の勘で、金に細かいことを言わない種類の人間だと見て取ったのだ。

オーベルシュタインは上着の内ポケットに手を入れ、わずかに眉をしかめた。財布を持って来ていない。しかし肉屋のほうは最初からフランツィスカに払わせるつもりだったようで、全部でいくら、などと言っていた。こういう店では女性に財布を出させてよいものなのか、彼にはいまひとつ勝手が分からない。とはいえ、持ち合わせがないのであるから、どうしようもなかった。

「旦那さんは軍人さんだね?」

釣銭をよこしながら不必要に声をひそめて尋ねた肉屋に、フランツィスカは首をかしげてみせた。

「肉を見るときでも、背筋がピンと伸びてっからね」

フランツィスカはオーベルシュタインに微笑みかけただけで、肉屋に対してはヤーともナインとも答えず、礼だけを言って釣りを受け取った。

オーベルシュタインは自分が軍人らしいなどと思ったことは一度もないのだが、まだ正式に任官したわけではないのに、人にはもう軍人らしく見えるらしい。もっとも、市場の近くには独身将校官舎があるから、この肉屋が単に軍人を見慣れているというだけのことかもしれない。

アインシュタインは子供に「お手」と「おかわり」を繰り返し命じられ、不承不承のていで前足を出してやっていた。フランツィスカが「行きましょうか」と声をかけると、犬は解放された喜びを全身で、かつ、遠慮なく示した。子供は名残惜しそうに「また来てね」と頭をなでたが、アインシュタインの関心は、オーベルシュタインが手にした肉屋の紙袋に向けられていた。

市場の出口に向かって通路を戻っていると、後ろのほうから、

「こら、犬をさわった手で品物しなもんにさわったら承知しねぇぞ!」

と、怒鳴る声が聞こえた。

案外ちゃんとした肉屋なのだ。

 

エルベ河畔の遊歩道は緑陰に覆われていた。川下からの強い風が吹き抜けて、二人は同時に帽子を抑えた。街路樹のポプラがざわざわと鳴り、川面に立った波が陽光を跳ね返す。川沿いに並ぶ屋台インビスからは、肉の焼けるよい匂いが漂った。

「食べたいものがあるなら、ヘルガにおっしゃればよいのだ」

「いえ、これはアインシュタインに。羊の肉が好きですから」

「……牧羊犬シェーファーフントが羊肉を好むのか」

フランツィスカは一瞬、何のことか分からぬというようにオーベルシュタインの顔を見たが、すぐにその青碧の瞳に楽しげな光がはじけた。

「それでは、仕事になりませんわね」

そう言って笑い、アインシュタインは羊を見たことがないのだ、と付け加えた。

笑うと頬に小さなえくぼができる。

オーベルシュタインは紙袋を持つのと反対の手を、所在なく首の後ろにやった。冗談のつもりで言ったのではなかったが、冗談にしておこうと思った。

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Herr, Frau, Hund (3)

快楽の余韻に浸りながら荒い息を静めていると、腕の中から伸びてきた手にそっと頬をなでられた。細い指が額に貼り付いた髪を優しくかきあげて、小さな明かりを反射した青碧の瞳が瞬きもせずオーベルシュタインを見つめた。その潤んだ瞳の中で冷たい義眼が彼の心を映して揺れたように見え、オーベルシュタインはたまらずまぶたを閉ざした。熱い肌を介して身体に響く心音が急に大きくなった。

やがて頬に触れる手から力が抜けて、オーベルシュタインは彼女が眠りに落ちたのを知った。熱が、急速に冷めていく。

 

士官学校で学んだ頃は、人の性的欲求がそれほど強いものだとは思っていなかった。

宇宙艦隊という男ばかりの閉鎖空間において、性欲は不可避のリスク要素である。表立っては語られないものの、性暴行、男色、痴情のもつれ、それらに端を発する傷害、さらには殺人といった不名誉な事件は枚挙に暇がないという。士官は艦隊の士気を保ち、秩序を維持せねばならず、兵の性を管理する役割が求められる。士官学校ではそのための授業が設けられている。

だがオーベルシュタインには、この講義の意義が今一つ理解できなかった。彼にもそれなりに性的欲求はあったが、理性がそれに振り回されることに実感が持てなかったのだ。

士官学校の寮は1年から4年まで各2名ずつの8人部屋である。成績順に部屋割りされる慣習であり、オーベルシュタインのいた部屋はいつも参謀型の秀才が多かった。義眼のことは忌避されたが、子爵家の跡取りという身分もあってか、無体に扱われたことはない。

上級生の身の回りの世話でこき使われていた、1年のときである。室長がその夜「敵性攻略研究会」なる呼称の会合を開催すると宣言し、オーベルシュタインにも参加を命じた。何かと思えば、実態は猥褻動画の鑑賞会だったのであるが、男女の交わりを具体的に知覚したのは、それが最初であったと思う。

他の部屋からわざわざやってきた学生らが引き取った後、同室の上級生たちは面白がって、オーベルシュタインに感想を尋ねた。

「なぜ、あんなに泣き叫ぶんですか」

「…気持ちいいからだろう。まあ、多少は演技もあると思うが」

「嫌だとかやめてくれとか、言っていたではないですか」

「……オーベルシュタイン。あれを真に受けては駄目だ」

オーベルシュタインは唇に少し力を入れて、同意できないと言いたいのをこらえた。

室長はディスクのパッケージをはじきながら苦笑した。

「これ、俺のおすすめだったんだがなぁ」

「実戦に勝るものはない、ということでしょう」

「確かにな。そうだ、近くに学生割引で安くなるところがあるが、行ってみるか? オーベルシュタイン」

「結構です」

「何事も経験だよ」

「……気持ち悪いです」

その一言は寮の部屋の中を波紋のように広がって、様々な反応を呼び起こした。

「え? 何が?」

「まさか君、処女でなければ嫌だなんていうのかい?」

「潔癖だなぁ」

「面倒なうえに、高いぞ」

オーベルシュタインはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。

「売り買いするようなものではないと思うだけです」

上級生たちは「しょうがないな」というように肩をすくめ、顔を見合わせた。

その後も敵性攻略研究会は「研究材料」を変えては開催されたのであるが、オーベルシュタインはついに、上級生の期待するような反応を示すことはなかった。

――私に欠けているのは、両目だけではないのかもしれない。

その思いは、彼を不安にも不快にもさせ、同時にどこか安堵させもしたのだった。

 

フランツィスカは安らかな寝息を立てている。オーベルシュタインはその身体の下から静かに腕を抜き、露わになった肩まで上掛けを引き上げてやった。彼女はこの夜初めて官能を刺激された高い声をあげ、彼の理性をからめとってしまった。彼は自分がこの行為そのものを嫌ってはいないことが、不思議でならない。

「実戦に勝るものはない」と言った上級生の言葉は正しい。実際に女を知ると、違う。すぐそばに女の匂いと体温を感じながら、身の内を駆け巡る衝動を抑えるのは難しかった。まして「妻」という間柄の女であれば、それが権利か義務かはともかく、肉体的な交渉を持つことは当然のことなのだろう。

オーベルシュタインはベッドの暗い天蓋を眺めて小さく息を吐き、左手の結婚指輪を右の指でぐるりと回した。

オーベルシュタインとフランツィスカは、当人らと両家の意識はともかく、今のところ事実上の夫婦であるにすぎない。典礼省への届出が受理されていないからだ。貴族の家どうしの婚姻にはいろいろと調整が必要なものであるから、何かしら不都合が起こっているのに違いない。もっとも、こうした事柄の処理は家長たる父の仕事であって、オーベルシュタイン本人がどうこうするべきものでも、また、どうこうできるものでもなかった。中途半端な状態に置かれて気分が悪いというだけだ。

明日からは指輪を外さなければならない。軍人は軍に対して婚姻の報告をする義務があって、軍はそれを元に身辺調査を行い、人事記録として保管する。この報告と調査が遺族年金を支給する根拠となるのだ。婚姻報告がないままに指輪をして出仕するのは具合が悪いのである。

オーベルシュタインは隣で眠る人にわずかに目をやって、背を向けるように寝返りを打った。身体から熱が引くと、焦燥感に似た恐怖にかられてならない。

――この人の身体の中で、まさに我が子が形成されつつあるのかもしれない。

――その子もまた、盲目なのかもしれない。

――彼女はそれを恐れはしないのだろうか。

欲動の正体は幸福感の希求だ。それがオーベルシュタインの理性が導き出した答えである。精を放つその一瞬、彼は確かに満ち足りている。子孫を残すことは喜びであると、人の本能には書き込まれているのだろう。

――だが、私は違う。

と、オーベルシュタインは思う。

子孫を残すのは家門と領民に対する義務である。家門の継続は領地の安定をもたらし、領民の安寧を保障するはずである。父に命じられるままに妻を娶ったのも、それが貴族の家に生まれた者の責務であると信じるからだ。

跡継ぎは、産んでもらわねばならない。しかし子を生すために交わるのだという現実を意識の表層に乗せることが、彼には苦痛であった。自身の遺伝子を受け継ぐ子というのは、想像するだけで不気味で、得体のしれない存在である。まして自分はこの劣悪な遺伝子を伝えようというのだから。

もしフランツィスカが本当に自分の子を宿したら、彼女を憎んでしまうのではないか。そんな気さえした。

――この胸のうちを絶対に気取られはすまい。

オーベルシュタインは固く心に誓った。昼間、エルベ川のほとりで向けられた笑顔が思い出された。彼女はきっと夫婦として生きていこうと努力しているのだろう。その意に反して嫁がされてきたのであろうに、心のつながりのない男にこうして身を委ねているのだ。

罪滅ぼしになるはずもないが、せめて形だけでも大切にしてやりたい。そうしなければならないはずだ、と彼は思った。

 

帝国暦472年7月1日

真新しい黒と銀の軍服に身を包み、オーベルシュタインは玄関ホールに立った。サージ織の夏軍服はラーベナルトの手で丹念にブラシがかけられている。階級章は少尉である。犬が一緒に出かけられるものと勘違いをして喜びまわるものだから、執事は軍服に毛が付きはせぬかと気が気でなかった。ヘルガは犬の首輪をおさえて「旦那様はご出仕なさるのですよ」と言い聞かせている。

「行ってらっしゃいませ」

フランツィスカは夫の長身にすっと寄り添うと、その頬に口づけた。オーベルシュタインは「ああ」とだけ低く答え、軍帽をかぶりなおした。そして犬の頭をひとなですると、玄関に立つ3人と1匹を振り返ることもなく屋敷を後にした。

屋敷を背にどんどん歩いてブルーメン広場の噴水まで来たとき、オーベルシュタインはふいに立ち止まって、右手の甲を左頬に押し当て、何度か瞬きをした。誰かに口づけで送り出されるなど、初めてのことだ。

夏の朝の陽ざしを反射して、噴水の水しぶきが軽やかな音を立てている。

青い空に、木々の緑がまぶしかった。

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Herr, Frau, Hund (4)

士官学校卒業後、軍務省人事局人事課に配属されたオーベルシュタインが最初に命じられたのは、9月1日に発刊される現役将官録の原稿校正という極めて散文的な仕事であった。と言っても、彼に別段の不満があったわけではない。後方勤務というのは本来そうしたもので、血沸き肉躍るような仕事がそうそうあろうはずもない。前線と後方とでは求められる適性が著しく異なり、それゆえ対立が発生しやすいのは、軍務省の特徴であろう。オーベルシュタインにとっては、主だった将官の経歴、配属先を確認できると思えば、それなりに意味のある作業のようでもあった。

 

帝国暦472年7月17日

配属から半月ほどが過ぎたこの日、人事課では7月1日付発令の異動者と新入省員の歓迎会が開かれた。オーベルシュタインはもとより宴席を得手とするほうではない。「すまじきものは宮仕え」とは、よく言ったものだ。散々に飲まされ、上官に絡まれ、酒場の女にからかわれて、顔にこそ出さなかったが不機嫌の絶頂であった。

酒精をまとわりつかせたまま最終の路面電車を降り、人気ひとけのないブルーメン広場を通って屋敷へと歩く。時刻はすでに深夜1時を回っているはずだ。髪や制服に染み付いた酒と煙草の臭いが、噴水の水音と混ざって夜の闇に消えていく。

ファイルヒェン街24号のオーベルシュタイン家の屋敷は築250年ほどの古い建物で、地上3階地下1階にかなりの間数を有している。1、2階部分には縦長の半円窓が整然と並び、切妻の屋根裏にあたる3階部分には大きなドーマー窓をいくつも配して明かり取りとしてある。調和の取れた対象美を呈する外観である。

植物の蔓をモチーフにした曲線的なデザインの門扉を抜け、広い前庭を通って玄関へと至る。オーベルシュタイン家の紋章が刻みこまれた重い扉を開けて静まり返った邸内に入ると、足元灯の小さな明かりの中で、思いがけなく犬の歓迎を受けた。夜の間、この犬は2階のフランツィスカの自室で囲いに入れられているはずだ。寝転がって腹を見せる犬を適当になで、オーベルシュタインは軍帽と手袋を取りながら、スタッコの彫刻が施されたホールを進んだ。

犬が彼の横を通り過ぎ、一度振り返ってホールを左に折れて行った。階上へ向かおうとしていた足を停め、オーベルシュタインが犬を追って視線をやった先に、暗い廊下へ淡く細長い光を伸ばす部屋があった。図書室だ。

犬は暗がりに白い毛をぼんやりと浮かべて廊下の奥へ入っていき、わずかに開いた扉の隙間に体をねじ込むようにして、明かりの漏れる部屋に消えていった。

オーベルシュタインは腰に手をやってブラスターのありかを確かめた。部屋にはおそらく、フランツィスカがいるのだろう。だが、あれは気のいい犬であるから、強盗にも愛嬌を振りまきかねない。

廊下の絨毯を踏みしめて、音も立てず図書室に前に立ち、ゆっくりと扉を開く。

図書室は壁面のすべてが書棚で覆われている。天井まで作り付けられた書棚は、ところどころに梯子が掛けられ、大小、厚薄さまざまな書籍が圧倒的な物量感を持って四方を黒く埋めている。部屋の中央には古い樫材の対面机があって、書物で形作られた水槽の底に沈められたかのように、静かに鎮座している。

卓上ランプの発する色温度の低い光の中、フランツィスカは机に上体を預けて眠っていた。ベッドから抜け出してきたような姿だ。丈の長い白い寝室着の肩に、空色のショールと灰色がかった黒い巻き毛がかかっている。

犬は眠れる人の膝に前足を乗せて鼻先でつついていた。オーベルシュタインは小さく溜息を吐いて机に近づき、床に鞄を置いてそれに軍帽を乗せると、腰の後ろで手を組んで犬と妻を眺めた。こめかみがずきりと痛み、眉間に深い皺が寄った。

「ん…」

フランツィスカは薄く目を開けてぼんやりと犬の肩をなでた。彼女の待ち人を無事ここまで案内してきた犬は、得意顔で誉められるのを待っている。オーベルシュタインに気づいたフランツィスカは、喜びと羞恥とをないまぜにして夫を見上げた。

「おかえりあそばせ。こちらにいれば、玄関の音が聞こえると思ったのですけれど…」

立ち上がると同時に肩のショールが身体の線に沿って落ちるのを、冷たい義眼が追った。

 

「先にやすまれるようにと、言ったはずだが」

フランツィスカは身を固くして俯き、か細い声で答えた。

「…はい。申し訳ありません」

胸の下で組んだ手がきゅうと握りこまれる。

「言いつけは、守っていただきたいものだ」

と、言い終わらぬうちから、オーベルシュタインは後悔していた。いらだちの成分で構成された声は、彼が酒席で蓄積した不愉快な感情を、言葉の矢に変えて放ったあかしである。

フランツィスカはますます俯いて、先ほどより更に細い声で謝罪を繰り返した。

オーベルシュタインは後悔の度合いを深めた。 頭ごなしに服従を迫る自身の姿が、あの父と重なった。

「いや…。何事か生じたか」

「いえ、その…、寝もうとしたのですけれど、やはり旦那様のお顔を見てからと思って。それにアインシュタインが…」

足元で伏せた犬が、顔をあげてフランツィスカを見つめる。

「アインシュタインが、旦那様を探しに行きたいと言うものですから、それなら一緒にお待ちしましょうよって…」

「……」

オーベルシュタインのたいして感度のよくない受信機は、それをユーモアに類するものとして認識したようだった。一人と一匹が顔を寄せて相談するさまを想像すると、なんともおかしい。人を陽気にさせる酒の効能が、いまさら現れたのかもしれない。彼は胸中の不快が霧散するのを自覚し、その理由にもならぬ理由で納得するつもりになった。

緩んだ口元を隠すように身をかがめ、ショールを拾って肩に掛けてやると、彼には珍しく自分から身を寄せて妻の頬に口づけた。おそらくは、配慮の足りなかった言葉への謝罪を込めて。

「おかえりあそばせ」

「うむ」

妻の髪と首筋から、ふわりとよい香りがした。ふいに体奥から湧き上った強烈な渇望感にあらがって体を引きはがしたとき、彼は今しがた口づけたばかりの妻の頬に、妙なものを見つけ、いぶかしげに目を細めた。

頬を親指で軽くこすると、それは黒いもやとなってすべらかな皮膚に広がった。鉛筆のだ。フランツィスカの肩越しに見える机には、糸綴じノートが広げたままになっている。顔を押し付けて寝ていたのだろう。義眼への負荷を感じながら、オーベルシュタインはノートに焦点を合わせた。

そこには、記号と数字とで組み上げられた世界が広がっていた。ノートを手に取って、卓上ランプの明かりにかざしつつ机の反対側の椅子に腰かける。技術的に多少拙いところも見られるが、美しい数式が丁寧に書き連ねてあった。

「亜空間の高次元方程式…」

「…はい」

フランツィスカは少し頬を染めてうなずいた。

それは現代数理の最先端分野である。亜空間の座標を得るための標準モデルを作ることは、数理学者の悲願だ。亜空間座標の発見によって、人類の生存範囲は、全銀河系はもちろん他の銀河へも拡大するだろうと言われている。むろん、理論構築に成功した者は、人類の発展史にその名を刻むはずである。

跳躍ワープ技術が実現されてからすでに1200年が経つが、その進歩はこの700年ばかり足踏みが続いている。跳躍とは、亜空間を媒介として通常空間どうしをつなぐものだ。だが、通常空間から影響を及ぼすことのできる亜空間領域には限界があることが知られており、その限界を突破することができないために、跳躍距離が伸びないのである。

この問題を根本的に解決すると考えられているのが、亜空間座標だ。亜空間の高次方程式の解法を確立し、その座標を求めることができるようになれば、亜空間から亜空間への跳躍が可能になる。そうすることで跳躍距離を伸ばそうというのである。

かつては独立した学問であった数学と物理とは、今やその境界が非常に曖昧なものとなり、両者をまとめて「数理」と呼ばれることも多い。亜空間は、まさにそうした数物連携の主戦場であった。

しかしながら、この分野を研究対象とする学者には一定の覚悟も必要である。一生涯をささげても、何一つ成果を生み出せない可能性が高いからだ。多少なりとも出世欲と名誉欲がある者であれば、敬して遠ざけたいのが本音かもしれない。

「うまくいきそうかな?」

そうした背景を知りつつ発せられたオーベルシュタインの声には、少しからかうような響きがあって、室内に溜まった気まずい空気が劇的に入れ替わった。

「いいえ、意味をなさない解ばかり出てきますの」

フランツィスカは努めて明るい声で答えた。

「ふむ…」

長い指が数式の一点を指す。

「ここ。繰り込んでみてはどうだ?」

そう言うと、オーベルシュタインは鉛筆を取って先の尖った角度を確かめ、数式を書き込んでいった。式が伸びるに合わせて、フランツィスカの青碧の瞳に次々と星が生まれる。

「これならば、次のセクションの問題をうまく回避できますわね。解も出るでしょうか?」

今度は、努力など要さず自然と声が弾んだ。

「おそらく駄目だろう。もう何百年もろくに前進がない分野だ。この程度のことはとっくに誰かが考えて、失敗もしているはずだ」

「そう、ですか…?」

彼女の表情は、それでも試してみたいと告げていた。

「明日になさってはどうか」

「…はい」

名残惜しそうにノートが閉じられた。

オーベルシュタインは口元にこぶしをあてて欠伸をこらえると、立ち上って軍帽を脇に挟み、鞄を手にした。

フランツィスカは卓上ランプの明かりを落とし、勢力を増した闇から逃れるように、夫の差し出した腕に手をからめた。犬が二人を先導して扉に向かう。

2階へと続くサーキュラー階段を昇りながら、オーベルシュタインが低い声で問うた。

「数学は、どなたに?」

「家庭教師の先生です。お若い頃、素数の研究をなさっていたとか」

「素数か…」

いまどき、珍しい専門である。すでにその全容が解明されて久しいと聞く。

「旦那様の書斎には、位相幾何学トポロジーのご本がたくさんございますわね」

「ん? ああ」

ひと月ほど前、書斎へ呼んだ彼女が興味深けに書棚を眺めていたのを、オーベルシュタインは思い出した。

「わたくしは、位相幾何学がどういうものか、よく知らないのですけれど」

「ならば少し学ばれるとよい。系統的な思索を深めるのにも有効な方法だ」

もともとは純粋数学であった位相幾何学は、今や世の中のあらゆる場面に広く応用されている分野である。基礎理論が構築されてからすでに1500年、いまだ発展の活力を失っていない。

ちなみに、オーベルシュタインの士官学校の卒業論文は、「位相幾何学的情報処理に基づく戦略分析手法の確立の試み」という題名であった。戦略論を専門とし軍籍を持つ主査の教官は途中で審査をあきらめてしまったが、他大学からの出向で教養科目の数学を担当する副査の教官からは大絶賛を受けた代物だった。その教官は、「軍人になどならずに、大学に編入するべきだ」と、到底実現不可能なことをたびたび言ったものである。

寝室の扉の前まで来て、オーベルシュタインは急に立ち止まり眉根に力を入れた。目の奥がきりきりと痛んだ。薄暗闇で無理に光を取り込もうとしすぎたためか、義眼が悲鳴を上げ始めたのだ。明滅する視界の中、フランツィスカが息を飲んでこちらを見つめ、その手が軍服の袖をぎゅうと握るのが分かった。

 

翌朝、主人を起こすため寝室に入ったラーベナルトは、ぎょっとして立ち止まった。この時間、いつもはすでに自室で身支度を始めている夫人が、一人、寝台の上で両膝を抱えていた。寝具を使った形跡がない。「婚礼からわずかひと月で外泊か」という思いが、執事の頭をよぎった。

「旦那様は…お帰りにならなかったのですか?」

おそるおそる尋ねる執事に、フランツィスカは青白い顔を小さく横にふった。頬に涙の跡がある。

「お部屋にいらっしゃると思うわ」

「…さようでしたか」

「待って、ラーベナルト」

自身の早とちりを恥じつつ主人の居室に向かおうとしたラーベナルトを呼び止めて、フランツィスカは昨夜のことを話した。

闇の中、彼女の夫の両目は異様な光を放った。夫は宙を掻くようにして照明のスイッチを探りあて、黙って背を向けて自室に入って行った。その横顔は苦痛にゆがんでいるように見えた。

「わたくし、驚いてしまって。とてもお辛そうだったのに、何もして差し上げられなかったの」

執事は、夫人の表情が気遣いだけで構成されているのを見てとって、ひそかに胸をなでおろした。主人が辛かったのだとしたら、それは目の痛みからではあるまいと思った。そして、義眼の発光は機器の調子が悪いときに起こる不具合であることや、精密機械であるから故障が多く、寿命も短いことなどを簡単に説明した。

「義眼のことはすべてご自身でなさいますから、奥様の手助けはご無用かと存じます」

「そう…。ラーベナルト、旦那様は怒っていらっしゃるかしら?」

「そのような心配はございますまい。昨夜のことには触れず、いつもどおりになさっていればよろしゅうございますよ」

ラーベナルトは礼儀正しく、そそくさと退室した。寝室着の夫人と二人きりでいるのは使用人の分を越えているように思え、何とも居心地が悪かった。

彼の主人は、ソファから長い足をはみ出させて眠っていた。

吊り下げられた制服にきっちりとブラシが掛けられているところは、さすがに軍人らしい。軍隊とは服装容儀にうるさいところだ。貴族の子弟であっても、ブラシ掛けから、アイロン掛け、靴磨きと、徹底的に叩き込まれるものである。

ラーベナルトがカーテンを開けると、オーベルシュタインはのそりと起き上って首のあたりをさすった。ソファの脇で寝ていた犬が、大きなあくびをしながら前足と後ろ足でそれぞれ伸びをして、ラーベナルトの入ってきた扉から出て行った。

「けんかでもなさいましたか?」

「うん?」

「たとえけんかをなさっても、寝室を別になさるのは感心しませんな」

執事は陶器のたらいに湯を注ぎ入れ、どうぞ、と声をかけた。

「…けんかなどしていない」

「今日は何か、甘いものでも求めてお帰りなってはいかがですか? ご自分が悪くないと思っても謝るのが、男の度量というものでございますよ」

「けんかなど、していない」

オーベルシュタインは伸ばした手に掛けられたタオルで顔を拭きながら、不機嫌に繰り返した。

そして、シャツの袖にのろのろと手をとおし、カフスをいじりながら独り言のようにぼそりとつぶやいた。

「何か、言っていたか」

「ご心配でいらっしゃいました」

執事の返答は枝葉末節をバッサリと切り落としたものであった。

「…そうか」

オーベルシュタインは、もはや、その目のことを誰に何と言われようが矜持を傷つけられることなど皆無であったが、フランツィスカに対してのみは、心の奥底でさざ波が立つことを認めざるを得ない。

後ろめたいのだ。

「仲直りは早いに越したことはございませんよ。先延ばしにすればするほど、こじれるものです」

結婚23年の執事が、主人の軍服の釦を留めつつ先輩風を吹かす。

オーベルシュタインはすねた子供のように口を結び、

「だから、けんかなど、していない」

と、一語ずつはっきりとした口調で繰り返した。

 

フランツィスカは執事の言葉に従っていつもどおり夫を送り出したものの、鬱々とした一日を過ごした。昨夜、夫が書いてくれた数式を検討する気にもならなかった。アインシュタインは彼女の気を引こうとあれこれ努力したが、ついに甲斐のないことを悟って、ぷいとどこかへ行ってしまった。邸内では、ラーベナルトが人夫を入れて家具の配置換えをさせており、犬は執事とともにそれを監督したようだった。

その夜、常より2時間も遅く帰宅したオーベルシュタインが提げていたのは、ケーキでもチョコレートでもなく、コンピュータ端末を収めた箱だった。フランツィスカが先に食事を始めていると知ると、終わったら書斎に来るようにと告げて、自身はさっさと2階へ上がって行った。

フランツィスカは細い首の上に蒼白な顔を乗せて、書斎に現れた。目の下にくまができている。入り口から見て左手に見慣れぬライティング・ビューローが置かれていた。屋敷内のどこかから移動させてきたのだろう。木目の美しい古風な机である。軍服の上衣をソファの背に投げ、ズボン吊り姿の夫がその机上の端末と向き合っている。

「旦那様?」

「ああ、こちらへ」

椅子を引いてフランツィスカを座らせ、オーベルシュタインは横から手を伸ばして端末を操作した。青っぽい画面にカーソルが点滅し、複雑な数式がばらばらと出現した。

「あ…!」

昨夜、フランツィスカがノートに書き連ねていた、あの数式である。

「数式処理システムだ。機械が新しいアイデアを出してくれることはないが、すでに知れたところを手計算でやっていては埒があくまい。自由に使われるとよい」

オーベルシュタインは腕組みをして、ライティング・ビューローによりかかった。

「よろしいのですか?」

「そう言った」

「ありがとうございます」

フランツィスカの頬にふわりと赤みが差す。

たどたどしく端末を操作するフランツィスカを助けてやりながら、オーベルシュタインはいつになく饒舌であった。昨夜来、それぞれの胸にあった重い鉛が溶けていった。

「旦那様は、本当に数学がお好きですのね」

「数理の法則はこの世を支配する真理だ。貴賤貧富、有機無機を問わず、万物に平等に作用する」

フランツィスカは顔をあげて夫の目をじっと見つめた。

「何か…?」

「おっしゃるとおりだと、そう、思ったのです」

そう言って、小さなえくぼを浮かべ、幸福そうに微笑んだ。

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Herr, Frau, Hund(5)

帝国暦472年8月23日

ヒョウヒョウと悲壮な叫びをあげる風が、窓をガタガタと鳴らしている。彼岸へと続く、あの青碧の湖を渡る風が――。

腕に感じていた温もりを突然に失って、オーベルシュタインは目を覚ました。薄暗闇の中、衣擦れに目を凝らすと、ベッドを降りようとするフランツィスカの白いガウンが目に入った。ナイトテーブルの時計は午前5時を過ぎたばかりである。

「暗い…」

低くかすれた声がいまいましげにつぶやいた。すでに日が昇っているはずの時間だ。義眼の光量調整が狂っているのかもしれないと思った。

「ああ、申し訳ありません、起こしてしまって」

彼の不快を癒やそうとするかのように、柔らかな手が額をなでる。

「いや。どうかされたか?」

「雷が…」

フランツィスカの声に重なって、地を這うような遠雷が響く。彼女はいたわしげに自室につながる扉を見やった。

「アインシュタインは雷が苦手なのです」

耳を澄ますと、犬が悲しげに鼻を鳴らず音が聞こえてきた。先ほど夢うつつで風の哭く声だと思ったのは、これだったのかもしれない。

「こちらに入れてやるとよい」

「はい」

フランツィスカの背中を見送りながら、オーベルシュタインは寝台の端に腰掛けて伸びをした。

雷がまた低く唸った。徐々にこちらに近づきつつある。

早足で駆け込んできた犬は、落ち着かぬ様子で寝室中を歩き回った。舌を出して細かな荒い息をし、時折大きなあくびをする。フランツィスカがかけてやる声も耳に入らぬらしく、そわそわと安心できる場所を探し求めた。

雨音がバチバチと窓を打ち始め、カーテンの隙間から一瞬の閃光が射すや、これまでにない大きな雷鳴がずんと空気を切り裂いた。犬はくぅと鳴いて硬直した。

 

約1時間後、主人の起床時間どおり寝室にやってきたラーベナルトは、「ひどい嵐でございますね」という一言を喉元で急停止させた。

寝台に腰掛けた主人の膝の上に毛むくじゃらの塊が乗っている。犬は大きな体を丸め、主人の肩に両腕を預けてぶるぶると震えていた。夫人が隣に座って犬の頭をなでてやっている。

「お、おはようございます。どうかなさったのですか?」

オーベルシュタインは無言で苦笑を返した。

「おはよう、ラーベナルト。雷が恐いのよ」

犬の矜持を気遣ってか、フランツィスカはささやくような声で事態を説明した。

ラーベナルトがカーテンを開けると、雨音が音量を増して部屋に流れ込み、犬はまた鼻を鳴らした。オーベルシュタインの大きな手が犬の背を上下にすべる。

「アインシュタイン、旦那様はお支度があるの。もう降りなさい」

落ち着いた色の壁紙が一瞬白く照らされ、しばらくして雷鳴が後を追った。

「ほら、もう3キロくらい離れていったわ」

フランツィスカが人差し指で窓を指し示す。犬は両耳を動かして、確認するようなしぐさをみせたが、膝から降りるそぶりはなかった。

「そうだ、アインシュタイン、下に降りてミルクをもらいましょうか?」

「アインシュタイン、ミルクだそうだ」

「ミルクよ。ね?」

説得を受け入れたものか、自身の空腹を思い出したか、犬はのそのそと膝から降り、扉の前で物言いだけにフランツィスカを振り返った。なぜついて来ないのか、というのである。ついさっきまで醜態を晒していたというのに、もう態度が大きい。

二人はどちらともなく顔を見合わせた。一人は可笑しさを抑えきれぬという目で、もう一人は口角をわずかにあげて。

しびれを切らした犬が催促の声をあげる。フランツィスカは、はいはいと返事をし、薄く髭が伸びた夫の頬に口づけて寝室を出て行った。

遠ざかる雷鳴を追うように、ラーベナルトは窓の外を眺めた。分厚い雲に覆われた空とは逆に、執事の心は明るい。彼は近い未来を幻視した。幼いオーベルシュタイン家の後継者があの膝に乗って泣くのを、若い両親がなだめる姿だ。このお屋敷もにぎやかになるだろう、と、その日が楽しみでならなかった。

 

雷が通り過ぎた後も、雨は降り続けた。 オーベルシュタインは軍帽に雨覆いをし、雨外套のフードをかぶせて屋敷を出ていった。軍の服飾規定で傘をさすことは認められていない。鞄と傘とで両手がふさがっていると、もしもの時に対応できないから、というのが理由である。

始業前の人事課の課室は、未明からの雷雨の話題でもちきりであった。帝都郊外では、被雷したり、火災が起こったりした場所があったらしい。

「あやうく遅刻するところでしたよ。娘が抱き着いたまま離れてくれなくて」

「俺もだ。うちの女房ときたら、雷が遠くにあるうちから大騒ぎでな。一向に朝飯ができないものだから、冷たいパンをかじって出てくるはめになった」

「ははは。ですが少佐、平然と雷を眺めるような女性も可愛げがないでしょう」

同意を示す複数の笑いがおこった。

服や鞄の水滴を拭いながら、聞くともなしに同僚の話を聞いていたオーベルシュタインは、一瞬、平然と雷を眺める女性を擁護したいような気になったが、結局何も言わずに端末のスイッチを入れた。彼はすでに無口で愛想のない新任士官として認識されはじめている。

端末の画面には面会申込みを示すランプがともっていた。

オーベルシュタインはこの時期、現役将官名簿の校正という無聊な仕事を片付けて、人事関連の相談を受け付ける窓口を担当するようになっていた。全軍からの実名・匿名の手紙や通報を処理する業務であるが、ありていに言えば密告を受け付けるのが仕事であった。彼のもとへは、不正、暴力、いじめ、昇進・降格への不満など様々な訴えが集まってきた。中には恨みつらみに根ざす捏造や事実誤認などがあり、訴えの真実性からして疑わしいことも多い。人事課が調整に乗り出すと、かえって問題を複雑化してしまうことがあるのが難儀であった。

面会を申し込んで来たのはヘルマンという准尉で、オーベルシュタインとは幼年学校時代の同期である。急なことであるが、この日人事課に辞令を受けに行くついでがあるので、話を聞いてもらいたいという。オーベルシュタインはヘルマンと特に親しかったわけではないが、その名は記憶に残っていた。彼は幼年学校を卒業後すぐに任官したので、会うのは4年ぶりとなる。

 

「お久しぶりです、少尉殿。本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」

軍隊において階級の上下は厳格に区別されなければならない。かつての同期であっても、ヘルマンはすでにオーベルシュタインの下位者であった。

ヘルマン准尉は先月末まで軍務局被矯正者管理部に所属し、矯正施設管理の任務についていた。被矯正者とは、通称で元叛徒と呼ばれ、非公式には同盟の俘虜と呼ばれる者たちである。帝国臣民としての再教育のためと称して、辺境惑星で強制労役を課されている。

ヘルマンの訴えは、彼が担当していた矯正施設から囚人が消えた、というものであった。

「囚人の総数は1万8千名です。巡回は半年に一度で、その際に地表に降りて点呼と指紋照合をするのですが、先月の点呼で前回点呼より600名近く減っていることが分かりました」

「原因は?」

「囚人たちの証言では、坑内作業中に大規模な落盤事故が起こり、地中に取り残されたということです。遺体は確認できませんでした」

「ふむ」

オーベルシュタインは指先を少し動かして続きを促した。

「小官がおかしいと思うのは、その600名の中に士官が多数含まれていることです。士官は坑外で作業を監督するものでしょう? 坑道奥深くの落盤事故に巻き込まれたりしますか?」

「死者が出た場合、通常はどう処理するのか?」

「規則では囚人側に報告義務があって、死体の確認後に焼却処分することになっています」

オーベルシュタインの眉がわずかによる。

「火葬」

「え? ああ、そう言うんですか?」

帝国では土葬が一般的であり、遺体を燃やすことは死者への冒涜と認識されている。矯正施設の囚人を「焼却処分」をするのは、礼節をもって葬る必要を認めないという意思表示であろう。

「同盟人、いや、囚人の中には、その、火葬ですか? それを喜ぶ者もいるようですが、やはりそのまま埋めてやりたいと思うのが人情でしょう。それで囚人たちは報告を怠って、勝手に埋葬してしまうことが多いのです。実は、管理部のほうでも黙認しています。後から掘り起こして焼くのも嫌ですから」

相談者は心底気味悪そうな表情を作った。

「上へ報告したか?」

「もちろんです。しかし、落盤事故でないなら病気だろう、と。去年は冬が厳しかったようですし。疫病となれば収容者全員が処分対象になるかもしれませんから、それを恐れて隠しているのではないか、と、こうおっしゃるのです」

「ふむ」

「ですが600名ですよ? 収容所は鉱山地帯にあって土壌のある場所などわずかですし、わずかな土壌も囚人たちが勝手に作った墓でいっぱいで、埋葬地が欲しいと要望が出ていたくらいです」

囚人自治組織の代表であった技術士官も消えていた。ヘルマンに遠い故郷の夜空を彩る星座の話をしてくれたことがあったという。

これはリマ症候群というやつだな、とオーベルシュタインは断じた。収監者が被収監者に同情や共感を抱く現象である。ヘルマンはどうやら、囚人らの行方を案じているようだ。

「脱走の可能性は?」

「それはないと思います」

矯正所はいくつかの惑星に分散して設置されており、そのすべてを常時監視しているわけではない。だが、投下物資がなければ生活もおぼつかない未開発の惑星ばかりであるから、囚人は惑星外どころか収容所の外に出ることもできぬはずだ。外部からの手助けがなければ脱出など不可能なのである。

「それで卿は、彼らがどこに消えたと考えているのだ?」

ヘルマンは周囲をはばかるような仕草をして、どこかの貴族が連れ去ったのではないか、と答えた。

――ありえなくはないか…。

長引く戦争で若い男が次々と戦死するなか、貴族の経営する企業は常に人員不足に悩まされているという。高等教育を受けた優秀な人材がこぞって軍関係に就職するため、特に技術者が足りていない。士官を連行する動機にならぬともいえなかった。

オーベルシュタインはヘルマンから聴取した状況を報告書にまとめ、「情報部の処理を要する」という意見をつけて人事課長に提出した。課長はのろまな男ではないが、その鋭敏さは軍内部の人事異動や勢力バランスのみにおいて発揮され、組織運営の勘はにぶい。面倒な仕事はどんどん他の部局に回し、それをもって自らの仕事を完了したことにする傾向がある。おそらくこの報告もどこかに回されることだろう。

 

土曜日は半日勤務である。

どしゃぶりの雨にさらされた帝都は、昼前にすっかり乾いた地表を取り戻していた。雷雲が去った後の空に輝く太陽は、いつにも増して明るい。

午後1時頃、ブルーメン広場に差し掛かったオーベルシュタインは、聞き覚えのあるような犬の声を聞いた。視線を向けると、噴水の向こうのプラタナスの木陰に、つば広の帽子をかぶったフランツィスカが犬を連れて立っているのが見えた。ほっそりとした身体を包む夏らしい色のドレスの裾が、風に揺れている。オーベルシュタインは視線を固定したままその場で歩みを止めた。

それが目の障害に起因するものか、生来の資質によるものかは定かでないが、彼は視覚的に感知される美醜に極めて冷淡であった。世の人がこぞって讃えるような風景や絵画といったものに心を動かされたためしがない。だが彼はこのとき、緑陰の中に佇むフランツィスカを見て、美しいと、確かに感じたのだった。

犬がせわしなく足踏みをしてオーベルシュタインを呼ぶ。

「おかえりなさいませ」

「ああ。…お出かけか?」

フランツィスカは一瞬言葉に詰まって、ナインと答え、楽しそうに笑った。

犬は腹を見せてなでてくれとねだった。オーベルシュタインがすぐ横のベンチに掛けて相手をしてやると、犬は土のついた足をオーベルシュタインの膝にかけようとして、フランツィスカに叱られた。それでなくともラーベナルトは軍服に犬の毛が一筋も残らぬよう、日々心を砕いているのだ。足跡までつけては申し訳ない、と彼女は言った。

「アインシュタインは、いくつかな」

犬に向けて発せられたようにも聞こえる問いかけであったが、人語を操れぬ犬に代わって人が答えた。

「11歳です。人でいえば、もう70歳を超えたおじいさんだそうですわ」

「七十…」

「今朝のような様子を見ると子供のようでしょう? でもこの頃少し目が見えにくくなってきたようで、心配していますの」

「そうか」

隣に視線を走らせると、寂しげな横顔が目に入った。犬の寿命は15年もないと聞くから、近いうちにこの犬を看取ることになるのだろう。この人はきっとひどく悲しむな、とオーベルシュタインは思った。

プラタナスの葉の間からこぼれ落ちる光が、不規則な形の影を作って揺れている。オーベルシュタインは軍帽を取って髪をなでつけ、またかぶりなおして立ち上がった。

「空腹だ」

「お昼はマウルタッシェンだそうです」

夏の盛りを過ぎた午後の、短く穏やかな家路であった。

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