III Die Toteninsel

死の島

Die Toteninsel (1)

銀河帝国では、秋分日が9月21日と定められている。実際の秋分点通過日は各惑星の公転周期によって様々なのだが、広大な宇宙に無数に存在する惑星の事情をいちいち勘案してはいられないので、暦表時と同じく、二至二分も地球に合わせてあるのだ。また、古来よりの風習に従い、秋分日は公休となる。

統帥本部と宇宙艦隊は24時間交代勤務制であり、特定曜日を休日とすることはない。しかし軍務省では、作戦指揮に直接関係のある部署を除き、日曜が休み、土曜が半休だ。人事局も同様である。

軍務省と実戦部隊との間に深浅さまざまな溝があるのは周知のことであるが、こうした勤務体系の違いもまた、その要因の一つとなっている。前線勤務者からすれば、本省の奴らは休んでばかりで肝心なときにいない、ということになる。他方、本省勤務者のほうは、戦闘もなくただ艦艇に乗り組んでいるだけで、日々、乗艦手当を稼ぎ出す前線勤務者を一種の俸給泥棒とみなしている。例えば、帝都とイゼルローン回廊を単純に往復するだけで約80日分の手当が付くのがよい例だ。

一口に軍人と言っても、前線型と後方型とでは思考や行動様式の各方面において相容れない部分が多数にある。異動による人員の入れ替えは頻繁にあっても、軍官僚は前線で大量に味方を殺し、艦隊指揮官は後方で事務仕事を滞らせ、相互不信を高め合うことになるのだった。

 

オーベルシュタインは秋分の公休を利用して、領地に帰省することとなった。妻も伴う。帰省はいつも気が進まない。だが、父の命令であるので、特段の理由なく拒否することもできず、しぶしぶ準備を始めた。

父は辺境に置かれた後方基地で輸送を担当しており、半年に一度の割合で首都星オーディンに戻ってくる。自身も帝都の軍務省に出頭しているのであるから、ファイルヒェン街を訪ねてくればよいものを、父は必ず帝都の屋敷を素通りして領地に帰り、息子を呼び寄せるのである。

領地への帰省は2泊3日の予定で、土曜日の午後に出発し、振替休日となる月曜日に帝都に戻る。

その間、オーベルシュタイン家の執事夫妻には休暇が与えられることとなった。忠実な執事は同行を申し出たのだが、「6月の代休だ」と、主人が許さなかったのだ。

貴族の屋敷に仕える家事使用人には、一般に年に2回、6月の聖霊降臨祭と新年に休暇が与えられる。もしこれが自由惑星同盟であれば、人的資源委員会の下部組織から監査が入るような劣悪な労働条件といえるかもしれない。しかしながら、銀河帝国における貴族と家事使用人との間柄は、労使関係というよりも、むしろ主従関係を基礎とした家族の一員といった性質が強い。両者は恩顧と忠誠によって結ばれているのであって、金銭はそれを視覚化したものにすぎない。家族の一員であるから、毎週休暇を与えるという発想もない。そしてそれが社会的常識であるので、使用者も被用者もそれを搾取とは感じないのである。

この年の6月はオーベルシュタインの婚礼や任官準備で執事夫妻も忙しく、聖霊降臨祭も休みなしであった。そのうえ、帝都のオーベルシュタイン家の屋敷はその規模に比して使用人の数が極端に少ないため、執事夫妻は他家の使用人よりもかなりの重労働である。オーベルシュタインもそのことは承知しており、フランツィスカが嫁いで来るのにあわせて新たに人を雇い入れることを考えたのであるが、当の執事夫妻が必要ないと言うのでそのまま様子を見ている。彼らにとってはすでに10年を過ごした家でもあるし、勝手の分からぬ人間に屋敷内をかき回されるのを嫌ったのかもしれない。

執事夫妻は主人の厚意をよく汲んで、帝都近郊の雲雀の湯レルヒェンバーデンに1泊の保養に行くことにした。フランツィスカは出発の2日前、ヘルガに小遣いを渡したが、これは夫に言われてのことだった。使用人に休暇を与える場合、男性使用人には一家の主人から、女性使用人には女主人から小遣いを渡す慣習である。

「わたくし何も知らなくて、ごめんなさいね」

フランツィスカは身の置き所がないような様子でヘルガに詫びた。ヘルガは礼を述べてフランツィスカの前を辞したものの、後でオーベルシュタインに対しては、「必要のないことでしたのに」と、困ったような顔をした。彼女は若い女主人の自由になるお金が、貴族の夫人としてはささやかなものであることを知っていたし、恥をかかせたような気がして落ち着かなかったのである。

「けじめだ」

家政婦長に対するオーベルシュタインの答えは簡潔であった。彼は立場に応じた責任を果たさないことをひどく嫌う人間である。

オーベルシュタインは執事夫妻を帝都に残すと決めた一方で、犬のアインシュタインについては一緒に連れて行くと告げて、フランツィスカを喜ばせた。

「でもこの子、飛行機は初めてですけれど、大丈夫でしょうか」

犬の背をなでながら、フランツィスカは不安も口にしたが、

「惑星内の移動は検疫が不要であるし、リードにつないでおけば客室に乗せることができる。もちろん、よく訓練された犬であることは最低条件だが、あなたがそばにいれば安心しておとなしくしているだろう」

と言って、さっさと犬の搭乗券も手配してしまった。

オーベルシュタインは、婚礼をすませて帝都に戻って来たときの犬の様子を印象深く覚えている。今でこそ一匹で屋敷内を好きに歩き回っているが、フランツィスカと再会を果たしてからしばらくは、彼女のそばを一時も離れなかったし、わずかでも姿が見えないと鼻を鳴らして必死で探しまわっていた。この犬にとって、彼女と離れることは相当のストレスになるに違いないのだ。

ラーベナルトの見るところ、彼の主人は、夫人に対する気遣いを犬に対するそれによって示すことがよくある。執事はその不器用さがどうにも心配で、何度か妻にこぼしたのだが、ヘルガは、「ほほえましいじゃありませんの。それに、奥様はちゃんとわかってらっしゃいますわ」と笑ったものだった。

そもそも、フランツィスカが婚家へ犬を伴うことに同意するようすすめたのはヘルガである。令嬢と犬を引き離すのもかわいそうであったが、なにより、もし犬がいれば、二人きりで真正面から向き合うより多少は気が楽だろうと思ったのだ。ヘルガの思惑どおり、犬は確かに二人の間を取り持ってくれているようである。

心配性の執事は、主人が一度もクラヴィウス家に赴いていないことも気にかかる。婚礼からしばらく後、彼は夫人に里帰りをすすめた。主人に気兼ねをして実家に帰りたいと言い出せないのではないかと思ったし、主人がクラヴィウス家に挨拶に行くよい機会になると思案してのことだ。だが、フランツィスカはうつむいて小さく首を振っただけだった。オーベルシュタインはその様子にどこか腑に落ちるところがあったようで、儀礼的な手紙を出すにとどめた。

ラーベナルトが主人夫妻の婚姻契約書を目にしたのは、それから何十年も後のことである。

 

帝都を発つ日が近づくにつれて、オーベルシュタインは苛立ちをつのらせ、クライデベルク行を楽しみにしているようなフランツィスカの顔を見るたび、これではいけないと思い直した。

要は、父に顔を見せに行くと思うから嫌な気持ちになるのだ。家族で旅行するのだと思えばいいではないか、とオーベルシュタインは考え、そんなふうに考える自分自身に少々驚いた。妻と犬を家族だと認識していることに気がついたからだ。

実際、フランツィスカとの生活を、何とか続けていけるように思い始めているのも事実であった。

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Die Toteninsel (2)

オーベルシュタイン子爵家の領地は、名をクライデベルクという。帝都からみると惑星オーディンの裏側にあたる東半球の北緯60度線付近に位置し、夏は清涼であるが、冬は極めて寒冷である。石灰質の痩せた土壌に覆われた地域であり、農作物といえばライ麦やジャガイモ、豆類といったものが収穫できる程度だ。経済の中心はオーベルシュタイン家の所有する石灰石鉱山で、8000人ほどの領民のほとんどがこの鉱山に関連する仕事に従事している。

鉱山から産出される石灰石の粉末は、宇宙船内の濾過装置の原料として安定した需要がある。とくに、辺境の叛徒鎮圧のため消耗品のように戦艦が建造されるようになってからは、軍需品としての取引が増大し、かなりの富をオーベルシュタイン家にもたらした。また、わずかながら結晶質石灰岩の鉱床もあって、ここから切り出された大理石は高級建築資材として多くが帝都に運ばれていた。質の劣る石灰岩は領民の住居に使われており、その白い家並は白亜の街クライデシュタットの美称で呼ばれている。

帝都からオーベルシュタイン家の居城までは、約5時間の旅程である。帝都の民用空港からクライデシュタットまで惑星内旅客機で2時間、そこから地上車で更に3時間ほどだ。惑星内旅客機とは、西暦の時代に極超音速旅客機と呼ばれていたもので、地表から一気に高度3万メートルの成層圏まで上昇し、オーディン程度の惑星であれば4時間半で一周することができる。宇宙空間を航行する船とは比べものにならぬほど遅足だが、頻繁に離着陸を繰り返す必要上、これ以上速度を上げるとかえって不合理が多いらしい。

 

帝都から12時間の時差を超えてたどり着いたクライデベルクは、すでに濃厚な秋の気配に支配されていた。犬のために薄く開けてやった地上車の窓から、冷たく清々しい朝の空気が入り込んでくる。

地上車がカーブを切ると、急に視界が開けた。フランツィスカは犬の背をなでる手を止め、息を呑んで窓の外を見つめた。城を取り囲む白樺の紅葉を湖から立ち上る霧が薄いベールで覆い、二つの円塔を持つ大理石の城が朝日を照り返して黄金色に輝いている。荘厳で幻想的な光景であった。

城の執事はオーベルシュタインを慇懃に出迎え、フランツィスカとリードの先の犬を不躾に眺めた。母はまだ就寝中で、父は2日前から泊りがけで狩猟に出かけているという。ここから800キロほど北へ行くと北極圏に入り、偶蹄目の大型動物が生息している。10月に入れば雪が降るので、本格的な冬が訪れる前の最後の狩りということだろう。父が戻るのは夕方で、19時から晩餐の予定だと告げられた。

広い城内は廊下のいたるところにオーベルシュタイン一族の肖像画が掛けられている。夫の腕を取って廊下を進みながら、フランツィスカはその一枚一枚に視線を走らせた。黒っぽい髪と薄い唇はオーベルシュタイン家の血筋の特徴であろう。中には夫と驚くほどよく似た人がいる。

一方、オーベルシュタインはそれらの肖像を視界に入れぬよう、まっすぐ前を見て歩いた。一族の肖像画は、彼にその身を流れる血の因果を想起させる。

彼の先祖は、父方をたどっても、母方をたどっても、同じ人物に行き着く。銀河帝国の貴族社会は縦横無尽に張り巡らされた姻戚関係に依って立つところ大であるが、それでも血の近い者どうしが婚姻を結ぶことは稀である。遺伝子上の禁忌を恐れるがゆえだ。しかしオーベルシュタイン家では、なぜか本家筋に女子しか生まれぬことが多く、分家や近しい親族から養子を迎えては代を重ねてきた。500年に渡る一族の家系図は閉じたり開いたりを繰り返し、今またオーベルシュタインの一身に収斂している。彼はオーベルシュタイン家にとって、四代ぶりに生まれた男子である。両親も、その当時まだ健在であった祖父も、彼の誕生をそれは喜んだという。その目に障害があることが分かるまでは。

障害を補うため眼窩に埋め込まれた光コンピューター内蔵の義眼で、オーベルシュタインは廊下の突き当たりの陶磁器をじろりと見やった。ついで階段下のブロンズ像の前でごくわずかに首の角度を変え、2階と3階の間の踊り場でコンソールテーブルの天板をすっとなでた。

「どうかなさいましたの?」

「ずいぶんと見知らぬものが増えたようだ」

スーツケースを提げて最後尾に従っていた使用人は、自身が荷物の重量以上の汗をかいているのを自覚した。おそるおそる先導の執事に目をやって、返ってきた視線に首をすくめる。

オーベルシュタイン子爵家の年若い後継者は、執事に冷たい視線を浴びせ、無言のうちに説明を求めた。

「多少、配置替えをしたのでございます」

「…そうか」

執事の言葉に納得したのかどうか、オーベルシュタインはそれ以上の追及をしなかった。

 

仮眠から目覚め、城のメイドに身支度を手伝わせながら、フランツィスカの胸の内では不安が芽吹き、急速に枝葉を広げつつあった。義理の両親との面会はやはり緊張するものであるが、それだけではない。彼女は鏡台に映った隣の部屋の様子が気がかりでならない。鏡の中では、既に支度を終えた夫がテーブルに頬杖をついて窓の外を見ていた。アインシュタインが床にあごをつけて、上目使いにその様子を見ている。あまり感情を表に出さない人であるが、それでも極めて機嫌の悪いことがはっきりと見て取れた。

「旦那様」

食堂に続く前室で、フランツィスカは自分でも何を話したいのかよく分からぬまま夫に呼びかけた。この夜、彼女はすらりと長い肢体をつややかなダマスクパターンのドレスで包み、髪を優雅に結い上げて薄く化粧も施している。瑠璃色の生地は、この5月にクラヴィウス家を訪れたヘルガが、「お嬢様に一番お似合いの色」と言って選んでくれたものだ。流行のトランペット・スリーブに仕立て、スカートにはパニエを入れて膨らませ、細い腰を強調してある。若々しい美しさが際立つ姿であった。だが、今、この瑠璃色は彼女の青ざめた顔を更に青く見せている。

「あの…」

やはり続ける言葉を見つけられず、彼女は細い指を伸ばして夫の前髪をよけた。ヘルガに整えてもらったばかりの髪は、耳に掛けるのにわずかに足りていない。彼女にとって、これほど人を寄せ付けぬ雰囲気をまとった夫は初めてである。髪に触れるのを許したのが不思議なほどだ。フランツィスカは不安な心に覆いをかけ、口の端に笑みを乗せて夫の目を見つめた。

その様子を注視する人があった。ちょうど前室に入ろうとしていたオーベルシュタインの母である。夫人は毅然とした姿勢を保ったまま、しばらくその場を動かなかった。

やがて当主の子爵が現れ、晩餐は子爵の熱心かつ空疎な演説の中、白々しく進んだ。

晩餐会用の長い食卓は、空白が多すぎてアンバランスな印象を受ける絵画のようだ。背後に居並ぶ召使たちも、光を拡散するシャンデリアも、過剰で場違いな華やかさを演出している。食堂には子爵の声と、食器が触れあう音だけが響いた。

目上の人の前で不機嫌な様子を見せてはならない。フランツィスカの教育係グヴェルナンテはそう言ったものである。しかし彼女は、この場の自分がその教えを実践できているかどうか自信がなかった。そっと隣の席をうかがうと、夫は刺だらけの甲冑で全身を覆っていた。

向かいに座る義理の母の顔には、神経質そうな表情が永遠に張り付いているかに見える。その固く引き結ばれた薄い唇から声が発せられるのを、フランツィスカはまだ聞いたことがない。先ほど挨拶をしたときも無言でうなずいただけだった。ヘルガは、昔は朗らかでおしゃれが好きなお嬢さんフロイラインだったと言っていたのだが、今、目の前に座る貴婦人は喪服と見まがうような地味な装いで、痩せた青白い頬と眉間に刻まれた皺は、何かの苦痛に耐えているようにも見えた。

父は息子に軍務省の様子を尋ね、皇帝陛下の御為に身命を賭して尽くすよう命じ、猖獗しょうけつを極める共和主義者どもと戦い、その身の程知らずな野心を撃滅して陛下の御宸襟を安んじ奉らねばならぬ、などと滔々と説いた。息子にとっては、幼年学校、士官学校と10年にわたって散々聞かされてきたことそのままである。逆説的ながら、この教条主義を捨てぬ限り帝国の勝利はあるまい、と彼は思っている。

主菜としてヘラジカ肉のソテーが運ばれてきたころ、子爵の話題はプラウエン提督の戦死へと移っていた。プラウエン提督は、先月イゼルローン回廊出口宙域で発生した戦闘において、自軍の敗北が必至であることを悟るや、麾下の全艦船を率いて敵軍に突撃し玉砕して果てたのである。

「たたうべきかな、提督は鮮烈なる散華を遂げられた。一死をもって陛下のご厚恩に報いたのだ。帝国の武人たる者、かくあらねばならぬな」

子爵は酒精が手伝ってますます饒舌になっている。

――くだらぬ…。無駄死にではないか。

オーベルシュタインは心中でつぶやき、皿の肉をギリギリと切った。彼は半ば耳を閉ざして食事をすすめている。

子爵の青みがかった灰色の目が食卓を見回し、フランツィスカの姿をとらえた。この嫁だけが、彼の話に関心を持って耳を傾けているようである。

「どうかなフランツィスカ殿、そうは思われぬか」

「はい…。ですが、あの、わたくしは、提督には他の方法もあったように存じます。提督ご自身を含め、将兵と艦船が健在ならば、今一度陛下のお役に立つことも…」

「控えぬか」

すべて言い終わらないうちに、フランツィスカの言葉は夫の低くするどい声にさえぎられた。子爵の顔がみるみる青黒く変わっていく。父が異なる価値観を認められない人間であることを、息子は誰よりもよく知っていた。

「父上、一介の婦女子が帝国軍人精神の精華をかいするはずもございません。無礼の段はご容赦くださいますよう」

「ふん、そのようだな」

子爵は憎々しげに応じて赤ワインを口に含むと、小さく震えながら謝罪を述べたフランツィスカを一顧だにせず、急に矛先を変えて息子の甲冑をぐさりと貫いた。

「それで、どうなのだパウル。今日は懐妊の報告が聞けるかと楽しみにしていたのだが?」

「…残念ながら」

いきなり真正面から突き刺されては避けようもない。オーベルシュタインは奥歯をかみしめ、どうにか声を絞り出した。

「ほお、実に遺憾なことだ。フランツィスカ殿、よもやこのパウルが劣悪遺伝子の保有者だからとて、ねやこばんでおられはせんでしょうな」

フランツィスカは何か答えねばと思ったが、言葉にならぬ声が喉をひっかいただけだった。

「あなたを当家にお迎えしたのは、樫之木館アイヒェンバウム・ハオスのご老体がご媒酌くださったからこそなのだ。さもなければ、180万帝国ライヒスマルクなどという、馬鹿げた婚資を払う者がいようか。必ず跡継ぎを生んでもらいますぞ」

オーベルシュタインは小さく深呼吸をし、膝の上でこぶしを握りしめた。

「あなたの父君はこのパウルの劣悪遺伝子を知って、こちらの足元を見たのであろう。だが、たとえそうであっても180万マルクとは欲をかきすぎだ。婚約が調ったその夜に他界なさったのも、因果応報よ。それをクラヴィウス子爵夫人とくれば、当家と縁戚になるのを恥じての自害だの何だのと愚にもつかぬことを言いたておって。非礼極まる。大金を得たうえに継娘と縁切りができたのだ。願ったり叶ったりであろうに」

食事を続ける者は、もはや子爵一人である。陪席の3名の皿の料理はどんどん冷めていった。

「これが劣悪遺伝子を持って生まれてこなければ、女優などという下賤な女を母親に持つような娘を、しかも高い金を払って迎えずともすんだのだ。典礼省の役人どもに贈るまいないも馬鹿にはならぬ。あれこれ言い掛かりをつけては、婚姻の受理を拒みおって」

子爵は椅子の背もたれに体を預け、酒精の回った目でフランツィスカをなでまわした。

「ふむ。だが、その女優の血のおかげで、あなたは美しい容姿に恵まれたようだ。寝所でせいぜいこの朴念仁をその気にさせてやってくれ。それもあなたのつとめですぞ。いや、あなたはきっとお得意であろうな。下賎な母親がクラヴィウス子爵を誑かした例に倣えばよろしいのだ」

オーベルシュタインが椅子を蹴り、机に両手を付いて身を乗り出したのは、子爵が口をぬぐって立ち上がったのとほぼ同時であった。椅子と食器があげた悲鳴は、子爵の声にかき消された。

「ではフランツィスカ殿、よろしく頼みますぞ。早く孫の顔が見たいものだな」

子爵は人好きのする快活な笑い方で食堂を満たすと、デザートはいかがなさいますか、との執事の問いに手振りで不要の意思を示し、ふらつく体を従者に支えられながら自室へ引き取って行った。

後には何か言いかけて静止したオーベルシュタインと、俯いて夫の上着の裾を握るフランツィスカ、そして神経質な表情のまま二人を見つめる子爵夫人が残された。

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Die Toteninsel (3)

彫像のように居並ぶ使用人たちの様々に感情のこもった視線に送られ、オーベルシュタインとフランツィスカは食堂を後にした。

4階の居室では、ただ一つ灯された卓上ランプがブランデー色の淡い光を放ち、暗い部屋に丸いかさをかけていた。寝室に続く扉の向こう側で犬が悲痛な声で鳴き、爪でかりかりと扉を掻いた。オーベルシュタインは犬を出してやるようにと無言のまま扉を指差すと、自身はその場に立ち止まって何度か瞬きをし、小さく舌を打った。義眼の暗順応に時間がかかりすぎている。

開かれた扉から飛び出してきた犬は、かわるがわる二人にすり寄り、鼻先を押し付けた。犬というのは、率直に感情を表すことを躊躇しない生き物だ。今のオーベルシュタインには、それが煩わしくてならない。

「あの…、申し訳ありませんでした」

「あなたが謝るようなことは何もない。…私が、間違っていたのだ」

その唐突な言いように、フランツィスカは犬をなでる手を止めて彼を見上げた。視線がからまろうとする直前に、感情のこもらぬ目がすっと彼女からそらされる。

「お疲れだろう。早く休まれるとよい」

オーベルシュタインは、片手で扉のハンドルを握り、もう一方の手をフランツィスカの背に当てて寝室に入るよう促した。犬が何度か彼のほうを振り仰ぎながら、後をついて行った。

ばたりと扉を閉ざして彼らを視界から消すと、オーベルシュタインはジュストコールとクラバットを椅子の背に投げ、水差しの水をタンブラーグラスに移して一気に飲み下した。胸にたまった空気を吐き出しても、重苦しいわだかまりは存在感を増すばかりであった。

 

婚礼の夜と同じように、オーベルシュタインは窓辺のカウチに寝そべって湖を眺めている。星明りの下、湖面は深い群青色を呈していた。湖を渡ってくる強い西風を受けて、ガラス窓がかたかたと音を立てる。近くの梢から時折、梟の鳴く声が聞こえた。

――180万帝国ライヒスマルク…。

どうかしている。尋常な額ではない。

劣悪遺伝子の保有者など所詮生きるに値しない命だ。それが無理をして世間との釣り合いを取ろうとした。180万帝国マルクという大金は、その対価として支払われたのだ。

彼女は、すべて承知で嫁いできたのだろう。聞くに堪えぬ父の嘲罵を受容するふうであった。そうまでして守らなければならないほど、この家や血が尊いか。

――父は、私に妻を買い与えたのだ。

オーベルシュタインは両の手のひらを目に強く押しあてた。義眼とコネクターとががっちりと噛み合うのが感じられ、それ以上は奥へ進むことのできない人工物が手のほうへ無機質な抵抗を返してきた。

分かっていたことではないか。劣悪遺伝子保有者のもとに望んで嫁ぐ者などいるはずもない。まして、その子を産めと言われて苦痛を覚えぬことがあろうか。

彼女は拒まなかった。いや違う、拒めなかっただけだ。私は、金の力で彼女を組み敷いてきたのだ。

自己嫌悪、彼女への哀み、そして、騙されたのだという腹立ちが、オーベルシュタインの中で複雑なモザイク模様を描いた。

女優の娘、か。父が案ずるまでもない。実に見事な演技だった。愚かにも、私はその気にさせられたのだ。

父が余計なことを言わなければ、虚構の中でそれなりに暮らせたかもしれぬのに。

――もう、終わりだな。

典礼省が未だ婚姻届を受理していないのは幸いである。ここへ来るための航空券も、フォン・クラヴィウスの名で手配したのだ。彼女はただの同居人に過ぎない。

帝都へ戻ったらどこか身を落ち着けることのできる場所を探してやって、彼女を解放しよう。生活に困らぬだけのことはしてやらねばなるまい。

いずれ相応しい男が現れて、彼女を幸福にしてくれるはずだ。それがせめてもの償いになればよいが。

オーベルシュタインは自身の心を満たした感情の名を探し、やがて「失望」という言葉を見い出して、自嘲に唇をゆがめた。

 

高緯度地帯にあるクライデベルクは、冬の訪れが早い。9月の下旬ともなると、すでに夜間は暖房が必要なほどで、部屋の隅に置かれた背の高い陶器ストーブにも火が入れられている。輻射熱がじんわりと部屋を暖めるにつれ、外気との温度差で窓ガラスが曇っていった。

柱時計が鐘を一つ打った。果たして正時であったか、半時であったか、定かでない。時差の影響も手伝って、オーベルシュタインは眠ることができず、風が窓を打つ音を聞きながら左手の指輪をぐるりぐるりと回していた。

また梟の声が低く響いたとき、こつこつと扉を叩く音が聞こえた。ついで上履きがぺたりぺたりと床を踏んで近づいてきて、衣擦れがカウチの足元でとまった。

オーベルシュタインは窓を見たまま振り返ろうとはしなかった。とても顔を合わせられなかった。

ほどなくして、フランツィスカの喉から嗚咽が漏れはじめた。彼女が息を吸い込むたび、曇った窓ガラスに映った白いきぬがゆらゆらと揺れた。俯いたあごの先から落ちる水滴が、胸の下で握りしめた手にあたっては、ぽたぽたと音を立てる。

オーベルシュタインは大きく息をはいた。身を起こしてカウチに腰掛けると、膝に肘をつき、両手を組んで額を預けた。ひどく頭が重い。

「どうして欲しいのだ」

かすれた、刺のある声だった。

「涙で何かを要求するのはやめてもらいたい」

彼にとって、涙とは不可解なものだ。悲しみや喜びといった感情の高ぶりに応じて人が涙を流すのだということは、もちろん知っている。ただ、彼には実感がないのだ。義眼は、じっくりと観察しなければ、それが人口眼球であると分からない程度には精巧にできている。しかし、感情に連動して涙を流す機能は持たない。目の表面を潤すための水分を保持することができるだけだ。それゆえ彼は、人の流す涙に当惑もすれば、苛立ちもした。

フランツィスカは両手を重ねてナイトガウンの胸を押さえ、整わぬ息の合間に切なく訴えた。

「わたくしを、ちゃんと、見て、ください」

オーベルシュタインの体をざっと怒りが駆け廻った。なお自分を傷つけたらぬ女に対する加虐心が胸中に渦巻いた。

細い手首を乱暴に引っ張ってカウチに座らせ、その襟元をつかんで彼女の目をきっと見据える。こうすることで他人が脅えることを、彼は経験として知っていた。

「これで満足か? この作り物の目を、それほど見たいか」

だが、脅えることになったのは、オーベルシュタインのほうであった。彼を苦しめる女は、オーベルシュタインの目を見つめて、こくりとうなずいたのだ。涙にぬれた青碧の瞳に、冷たく無機質な義眼が映り込んでいる。

フランツィスカは震える手を伸ばして彼の両頬を包み、小さなえくぼを浮かべて、安堵したように微笑んだ。婚礼の夜の床で見せたのと同じ微笑みだった。

「わたくしは、旦那様の目がとても好きですのに」

頬にあてたフランツィスカの手に、オーベルシュタインがぐっと奥歯をかみしめたのが感じられた。

「旦那様の目は、数理の法則と同じですもの。何に対しても等距離で、公平な目」

冷たい指先で義眼にかかった髪の毛をそっとかきあげる。

「この視線の先になら、わたくしにもちゃんと居場所があると、そう思えるのです」

嫌悪も、侮蔑も、憐憫もない。フランツィスカにとってオーベルシュタインの目は、ただありのままに自分を見てくれる優しい目だった。

「ですからどうか、目をそらさないでください」

青碧の瞳から、また涙がこぼれ落ちた。

「わたくしは、あなたを失うのが怖い」

オーベルシュタインは呼吸を停めてフランツィスカを見つめ、細く息をはいてその手に頬を預けた。 眉間に深いしわが寄った。

思えばこの3か月半の間、彼女は一度としてオーベルシュタインの義眼に恐怖の色を見せたことはない。いつもあの美しい瞳でまっすぐに彼の目を見て、微笑みかけた。

――もしこの目が義眼ではなかったら、このような婚姻でなかったら、私は何の屈託もなくこの人を愛し、子を持ちたいと願ったのだろうか。

我ながら、栓の無い仮定であった。

己もまた、彼女を失うことを恐怖しているのだと、彼は気がついたのだった。

オーベルシュタインはフランツィスカの体を引き寄せ、髪を梳くように指をからめて、その首筋に顔をうずめた。何かは知らぬ花の、さわやかな甘い香りがした。

――この目は、見る者の感情を映す鏡に過ぎない。あなたは自分の見たいものを見ているだけだ。私は、あなたに値しないというのに。

彼はその言葉を飲み込んで、かわりに細い身体を抱く腕に力を込めた。もしかすると、虚構から醒めて、また新たな虚構に落ち込んだだけかもしれない。だが、それでもよい、と思った。

 

オーベルシュタインのシャツの背中を固く握りしめていた手が、赤子をあやすように優しくリズムを刻んだ。その手の動きに合わせて、少し低めの心地よい声が彼の耳元で歌う。

 

緑の森の小さな雛は 高い梢の暖かいおうち

楽しい夢を見てすやすや眠る

優しいお母様の羽の下

風も雷も怖くない 狐も狼も怖くない

 

初めて聞く歌だった。

とても懐かしく、切ない歌だった。

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Die Toteninsel (4)

フランツィスカが「劣悪遺伝子」という正体不明の言葉を初めて聞いたのは、つい半年ほど前である。

クラヴィウス家の屋敷のある高原でも寒さがわずかにゆるんだ3月のはじめ、継母が突然侍女も連れずに彼女の部屋を訪れて、憔悴しきった顔で彼女の婚約が調ったと告げたときのことだ。

――婚約……。

やはりお父様はもうこの世にはいないのだ、とフランツィスカは思った。彼女は遺体と対面することも、葬儀に参列することも、埋葬に立ち会うことも許されなかった。父の死に対して実感がない。もともと家を空けることの多い父であったから、逝去など何かの間違いで、また急に帰ってくるのではないか。フランツィスカはどこかでそう思わずにはいられなかった。エルベ川に転落したという日の朝、父は3か月半遅れの誕生日プレゼントを持ってきて、「明日帰るよ」と言い残し、帝都に出かけて行ったのだ。

「勘違いしないでちょうだいね。あなたの結婚をお決めになったのはお父君ですよ」

フランツィスカは指先が冷たくなっていくのを感じた。一瞬、父もとうとう自分が邪魔になったのではないか、という思いが頭をよぎった。

「お相手が劣悪遺伝子の保有者だからといって、恨んではなりません。あなたの生母の出自を考えれば、ちょうどよい釣り合いとも言えるのですからね」

継母は、クラヴィウス家にとっては恥辱だが、と続けたが、フランツィスカの耳には入っていなかった。

彼女はただ、いつも痛ましそうに、それでいて懐かしそうに自分を見ていた父の目を思い出して、

「わかりました」

と、細い声で答えた。

 

それから数日、フランツィスカは張り出し窓の窓座に腰掛け、雪の残る外の景色を眺めてばかりいる。父を喪った悲しみが胸に迫って、何をしても涙があふれた。抱きしめた犬の白い毛が黒い喪服にいくすじも貼りついていた。

廊下の先の作業部屋から、教育係グヴェルナンテと小間使いの話し声が響いてくる。二人とも少し耳が遠くなっていて、いつも大きな声で話すのだ。

「やれやれ、私のこの十年はいったい何だったのかと思うわね。いっぱしの貴婦人にお育てしようと骨身を削ってきたというのに、よりにもよって劣悪遺伝子だなんて。女の価値というのはね、結局のところ、どんな殿方に嫁ぐかで決まるものですよ。それが、こんな情けない思いをするとは思わなかった」

「あんたはお嬢様を嫌ってたじゃないか。旦那様を誑かした女の娘だってさ」

「それとこれとは別ですよ」

教育係は若い時分、逝去したフランツィスカの父の世話係であった。大事な若様が家を出る原因となったフランツィスカの母をとことん憎んでいる。彼女にとってフランツィスカは、終始、フェザーンの性悪女の娘であった。

「どうせ結納金をたんまり受け取ったんだろうよ。奥様は金遣いが荒いって話だからね。お嬢様は売られたのさ。それで、嫁ぎ先はどこの家だって?」

「それは…、知らないままにしておきなさいな。劣悪遺伝子の家系と縁戚だなんて、クラヴィウス家の名誉にかかわりますよ」

「そもそも、そんなのが嫁を取ろうってのがずうずうしいんだよ」

「平民とは違いますからね、お家の事情というのがあるのよ。やれやれ、寝所のこともご指南しないとねえ」

「劣悪遺伝子ってったって、男は男だろうに。目をつぶって横になってりゃすぐに終わるさ」

「そんなわけにはいかないでしょう。ちょっと、お嬢様の前でそんなはしたない言い方をしないでちょうだいよ」

「はいはい。でもさ、考えてみりゃかわいそうだよね。どんな子供が生まれるか分からないしさ」

「そうねえ…」

最後のほうは二人が何を話しているのか、フランツィスカにはあまり理解ができなかった。ただ、繰り返される「劣悪遺伝子」という言葉が耳に残った。

 

「この停留値はどうやって求めますかな?」

家庭教師の老人は白板に汎関数を1つ書くと、沈んだ表情を見せる教え子に問いかけた。

「オイラー=ラグランジュ方程式で」

「よろしい。では始めてください」

老教師はいつものごとく安楽椅子に身を沈め、居眠りをはじめた。フランツィスカは計算を数行すすめたところで手を止めた。

「ケラー先生」

「ん? できましたかな?」

「いえ…あの…」

ケラーは白いふさふさとした眉の下から、フランツィスカの喪服にちらりと視線を走らせた。この老人は誰とも目を合わせようとしない。

「先生、劣悪遺伝子とは何ですか?」

老教師は白いあごひげに手を触れて首をかしげた。

「わたくし、オーベルシュタイン子爵の御子息のところへ嫁ぐことになったようですの。それで、その夫となる方は、劣悪遺伝子の保有者、というのだそうです」

「オーベルシュタイン子爵?」

「ええ。ご存じですか?」

ケラーは知らぬと言って、計算の進捗を尋ねた。

「先生、計算はまだ…。あの、劣悪遺伝子のことなのですけれど…」

「ん? ああ、劣悪遺伝子ですな」

ぎしりぎしりと安楽椅子が軋んだ。

「ふむ…。簡単に言えば、『塩基配列の違い』ということでしょうな」

「塩基配列?」

ゴールデンバウム王朝の開祖ルドルフは、弱者を憎んだ。身体障碍者や貧困者、劣等者を劣悪な遺伝子の保有者と断じ、社会を衰弱させ、疲弊させる危険な因子とみなした。その強烈な信念を具現化して制定されたのが「劣悪遺伝子排除法」である。

皇帝や皇族、貴族などは自ずから優良な遺伝子の保有者であるから、国家を統治する正当な権利を有する。他方、劣悪遺伝子の保有者に対しては、帝国に害悪を及ぼさぬよう断種を強制する。そのような時代が三百年以上続き、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の時代になってようやく、「劣悪遺伝子排除法」は有名無実化された。

しかしながら、劣悪遺伝子を忌避する風土は帝国臣民に深く根付いたままだ。

ケラーはゴールデンバウム王朝と劣悪遺伝子の歴史を語って聞かせた。フランツィスカには初めて聞く話ばかりである。

「しかしお嬢様。遺伝子に優劣などないと、わしは思いますな。この世には一人として同じ人間はいないのですから」

「塩基が少し違うだけ…」

「さよう。ほれ、その犬…」

フランツィスカは「アインシュタイン」だと口を挟んだ。急に名前を呼ばれた犬は、何事かと期待のこもった目でフランツィスカを見上げた。

「ああ、アインシュタイン。例えば、お嬢様とアインシュタインの遺伝子は95パーセントほどが一致しておる。人と犬とでさえ、その程度の違いなのです。まして人間同士の違いなど、ほんの些細なものにすぎぬでしょう」

フランツィスカはケラーの言葉にうなずき、犬の頭をそっとなでて、手元の計算に戻ろうとした。

「しかしお嬢様、そのオーベルシュタイン家との縁組はどこから出た話なのです?」

「存じません。お父様が帝都に行かれた日にお決めになったようですけれど…」

「帝都…。さては樫之木館アイヒェンバウム・ハオスか…」

ケラーはそうつぶやいたきり両目を閉ざして、ゆっくりと安楽椅子を揺らしていた。

 

オーベルシュタイン子爵の居城の西側には、水滴の形をした広い湖がある。城から湖へは白樺の森を抜ける細い道が切り通してあるが、行き来する者はまれである。

オーベルシュタインは小道の入り口で拾った落ち枝を体の前で上下に振り、クモの巣を払いながら湖へと向かった。後ろをフランツィスカがついて行く。

夜来の風で、季節がまた少し進んだようだった。口を丸くして息を吐くと瞬時に凝固し、白く漂っては霧散する。散ったばかりの落ち葉が色とりどりに石畳を覆い、朝露に濡れて色鮮やかさを増していた。

リードをはずしてもらった犬はいつになくはしゃいだ。初めての道だというのに先導をかってでて、時折振り返っては、のろまな人類二名が脱落せずについてきているかを確認している。

湖畔に出ると視界が大きく開けた。薄青の空に黄灰色の雲が薄くたなびき、寄せては返す波が音を立てる。二羽の鶺鴒せきれいが鋭い声をあげながら、朝日に輝く湖上を波打つように飛んでいった。

フランツィスカは湖に突き出た桟橋の先のガゼボに立って、湖と同じ色の瞳で水を覗き込んだ。緑がかった青い湖水はどこまでも透明である。泳ぐ魚の影が湖底に沈む倒木に映るのがはっきりと見えた。

この水は地下の石灰層からの涌き水で、常に一定の温度を保っている。外気が氷点下30度に達する真冬でも湖面に薄く氷が張るだけなのだ、と、オーベルシュタインは説明した。湖水は川となってクライデシュタットまで流れていく。

雲が日を覆い、ガゼボの周囲が薄暗くなった。

「あそこに、オーベルシュタイン家代々の墓所がある」

オーベルシュタインの長い指が対岸を指し示す。

湖の反対側は、石灰岩が白く迫る崖であった。一族の誰かが死ねば、この桟橋から棺を乗せた船を出して向こう岸まで運ぶのだという。墓所があるというあたりは、常緑樹の大木が林を形成しているようだ。

――この方も、わたくしも、いつかあそこへ葬られるのかしら。

寂しい景色だ、と、フランツィスカは思った。

クラヴィウス家の屋敷にあった絵によく似ている。確か「死の島トーテンインゼル」という表題だった。暗い水に棺を乗せた小舟を浮かべ、白いフードをかぶった長身の男が墓のある島へと向かう絵だ。絵の中の死の島は、日の光を斜めから浴びて不気味に輝いていた。

ちょうど目の前の、雲間の朝日を受ける対岸の岩壁と同じように。

オーベルシュタインの目は白壁を見つめ続けた。

「幼い頃からいつも、早く向こう岸に行きたいと思っていた」

恥ずべき遺伝子を持って生まれながら、こうして生かされてしまった。もしルドルフ大帝の御代のように生まれてすぐに処分されていれば、誰も不幸にはならなかったはずだ。物心ついたときには、オーベルシュタインはすでにそう考えていたように思う。

だが母が、彼の幼年学校入学に反対して言ったのだ。「軍人になって命を縮めることはない」と。

――母上は、私に死んでほしくないのか。

10歳のオーベルシュタインは、衝撃のあまり身動きすることができなかった。父に打たれる母を見ながら、母がそう言うのなら生きねばならないような気がした。今でこそ、あれは幼い自分が望んだ錯覚だったのだと確信しているが、それでもこの十年の間、彼はこの湖畔を訪れるたびに母の言葉を思い出した。

湖の美しい青碧は、彼と冥府とを隔てる色である。

フランツィスカは思わずオーベルシュタインの手を取った。体温の低い、大きな手だった。夫のこの表情を、彼女はよく知っている。彼が彼女を抱いて眠りにつく前に見せる、哀しい顔だ。

オーベルシュタインは一度妻を振り返り、湖と同じ色の瞳を確かめると、また対岸の墓所を見つめてフランツィスカの手を強く握り返した。

「私は…遺伝子が怖いのだ。この遺伝子が受け継がれていくなど、怖くてたまらない」

血の滴るような声だった。

「とても、子供など持てない…」

フランツィスカは夫の心にある深い悲しみの正体を初めて知った。この方も、この世のどこにも居場所がないのかもしれない。塩基配列のわずかな違いが、これほど深く人の心を傷つけるものなのだろうか。

オーベルシュタインは一度深くうつむき唇を噛んで、意を決したようにフランツィスカを見つめた。

「あなたはそれでも、私とともに生きてくれるだろうか」

今更のような求婚であった。人工の目は何の情熱も宿してはおらず、その声はむしろ赦しを乞うかのようであった。

オーベルシュタインは自身の身勝手さをよく承知している。だが、彼が心から誰かを愛するには、どうしても遺伝子の鎖から解き放たれなければならなかった。

「はい」

愛おしい冷たい目を見つめ、フランツィスカははっきりと答えた。フランツィスカにとっては、十分であったのだ。自分を必要としてくれる人がいるということが、彼女には何よりも貴重なことであったから。

幸せだと思った。そして、この方に幸せになってほしいという切実な思いが胸にあふれた。

朝の冷たい風が二人の髪をなぶっていく。いつのまにかそばに戻ってきた犬も、風に毛をなびかせて朝の空気の匂いをかいだ。

オーベルシュタインは妻の頬に手をあてて、もう一度その瞳を見た。心の命ずるままに口づけ、腕のうちにしっかりと抱きしめる。

青碧はもはや彼を彼岸へと誘う色ではない。彼が此岸しがんに留まる理由だった。

 Vorherige Nächste

Die Toteninsel (5)

湖から城へ戻る小道である。冬に向かって力を失いつつある北国の太陽が白樺の紅葉を照らしている。

前をいくアインシュタインが急に静止し、片方の前足を上げて真剣な表情をした。小道をリスが横切ったのだ。犬は本能に従って獲物を追いかけようとしたものの、機敏な小動物はとっくに木の上である。フランツィスカが樹上を指差して教えてやったが、犬の目ではとらえることができず、アインシュタインは漠然と一声吠えて、地面の臭いを嗅ぎながら先へと進んだ。自慢の鼻で探索を続けることにしたようだ。

オーベルシュタインの心はかつてなく平穏であった。つい先ほど、悲壮な覚悟とともにこの道を下ったのが信じられぬくらいだ。彼は初めて、心を委ね、感情を共有したいと思う人を得たのである。

「フランツィスカ」

振り返ったフランツィスカがにこりと笑いかける。オーベルシュタインは道の脇に自生するベリーの木からよく熟れた実を取ると、きれいなのをいくつかを選んで彼女の手に乗せてやった。フランツィスカが礼を言って口に運ぶのを見て、自分も一つ口に入れる。悪くはないが、旬の時期に比べてやや水っぽいようだった。

「私たちは、二人称を改めるべきかな」

フランツィスカは数瞬のあいだ戸惑いの表情を浮かべ、その言葉の意味を理解するや、青碧の瞳に喜びをきらめかせた。敬称ではなく親称で呼び合おう、というのだ。フランツィスカにとってそれは、家族になることと同義である。彼女を親称で呼ぶ人は両親だけであったし、父を亡くしてからは誰一人いなくなった。

「ええ、パウルさま」

手の中の青い実をつまんで、フランツィスカは夫の口元に差し出した。オーベルシュタインは右手を首の後ろにやってしばしその実を凝視し、やがて観念したように口を開けた。季節はずれのベリーはやはり水っぽかったが、心をくすぐるような甘みがあった。

――この方は、本当はとても表情の豊かな方なのだわ。

フランツィスカはそう思う。

「目は口ほどにものをいう」というが、夫の目は決してその心のうちを映すことはない。常に平静を保ち、この世のあらゆる事物を超然と見据えている。心の内を察することが難しい人であるけれど、彼にもちゃんと感情があって、それがほんの小さな仕草に現れる。フランツィスカは、そうした瞬間がとても好きであった。

西塔の下まで戻ったとき、遠くを走る地上車の走行音が聞こえた。子爵を空港まで送って行った車が戻ってきたのだ。父がもう城にいないというだけで、オーベルシュタインはずいぶんと気が楽になった。

彼はその身に纏わり付く責任の一つを放擲することを決めてしまった。貴族の家系にとって後嗣の不在がどれほどの重大事かは、オーベルシュタインとて承知している。いつかはあの父と、真正面から向き合わねばならぬのだろう。

オーベルシュタインは父のことをよく知らない。知りたいとも思わない。ただ、父が貴族らしかず、労働を苦にしない人であるのは確かなようだ。もともとオッフェンバッハ男爵家の三男で、幼年学校、士官学校と進んで軍人となり、母と出会ってオーベルシュタイン子爵家の婿となった。子爵家の経済は当主自らが働かずとも何ら困るようなことはないはずだが、父は何が面白いのか軍務に精励している。もっとも、この戦時下で四十を過ぎても中佐あたりにとどまっているところからみて、決して優秀な軍人とは言えぬ。そろそろ予備役編入の話が出てくるはずだ。いわゆる無能な働き者という類いで、周囲に面倒事の種を撒き散らしているのに違いない。

子爵家の領地経営に父は一切関与しない。先代の当主であるオーベルシュタインの祖父が、それを許さなかったのだという。理由は定かでないが、あるいは父の人柄や能力を見切っていたのかもしれない。

やはり養子であった祖父は、オーベルシュタインが3歳の頃に他界している。小雪の舞う中、白い布をかけた棺を積んだ小舟が湖を渡って行ったのを、オーベルシュタインはよく覚えている。帝都の屋敷で生まれた彼が、繰り返し義眼の手術を受けて、この城に移ってからすぐのことだった。そのとき初めて、彼は死というものの存在を知った。

祖父は幼い孫を膝に乗せ、いろいろな話を聞かせてくれたようだ。だが、オーベルシュタインの記憶に残るのは一つだけである。

彼が目に深刻な障害を負って生まれたことが分かったときのことだ。いまだ産褥の床にあった母の枕元で、父と祖父による話し合いが持たれた。劣悪遺伝子保有者である赤子をいかに扱うか、についてだ。父は旧来の国法に則り処分するべきだと主張した。それが家の名誉を守り、国家に報いる正しき道であると。他方、祖父は、オーベルシュタイン家に久々に誕生した男子を貴重に思った。いずれ次の子も生まれようから、それまでは保険のつもりで嫡子として育てるがよかろう。そう申し渡した。

生後数日のオーベルシュタインもその場で大人たちの話を聞いていたというが、もちろん彼にその日の記憶はない。しかしながら、彼はその様子をありありと想像することができる。母が、二人の会話をどのように聞いていたかを除いては。

そうして、オーベルシュタインは言わば祖父によって命を救われたわけであるが、そのことを祖父に感謝しているのかどうかは、彼にもよく分からない。

「いずれは、お前を廃嫡することになる」

幼い彼に、祖父は繰り返し言い聞かせたものだ。その日が来るのを心待ちにして、祖父は死んでいったようであった。だが願いむなしく、オーベルシュタインは独子として育った。

 

午後、オーベルシュタインとフランツィスカは城の図書室にいた。面白そうな本があれば帝都の屋敷に持ち帰るつもりである。時差のせいもあって、二人とも眠くてしかたがない。オーベルシュタインが「だから、クライデベルクに戻るのは嫌なのだ」とこぼしながら、本に積もった埃を吹いたとき、子爵夫人の侍女があらわれた。

「奥様がご一緒にお茶を、との仰せです」

オーベルシュタイン子爵夫人は、日当たりのよいサロンに端座して二人を待っていた。明るい場所で見てもなお、顔色が悪い。「犬もどうぞ」との言葉にしたがって、アインシュタインも一緒である。フランツィスカが膝を曲げて挨拶をする横を犬はすいすい歩いて夫人に近づき、そのドレスの裾のあたりで一回りして腰を下ろした。夫人は嫌そうな顔もせず犬を見て、手振りで息子夫婦を招き入れた。

誰も何も話さない。

オーベルシュタインは母が使い終わったミルクポットを取って、フランツィスカの手の届くところへ置いてやった。

オーベルシュタインにとって、母とこうして茶を飲むなど初めてのことである。母と空間を共有することは、父の前に出るのとはまた違った緊張を強いられた。父のことは教官か上官だと思って対応すればよい。だが母に対しては、息子として振る舞わなければならない。どうすれば息子という役割を上手く演ずることができるのか、オーベルシュタインにはそれよく分からない。

彼は幼年学校に入るまで、世の一般的なムッターがどのようなものか、まるで知らなかった。入学式の後、同級生の母親たちは、寮生活を始める息子に微笑みかけ、口づけを落とし、しっかりと抱きしめ、涙さえ浮かべながら名残惜しそうに去って行った。

彼がその両目の障害のために母を失ったのだと気付くまで、そう長い時はかからなかった。彼と級友たちとの違いは、それだけであったから。

サロンでは間の持たない沈黙が続いている。

フランツィスカは自分が何か話したほうがよいのではないかと思ったが、昨晩、不用意なことを言って義父を激怒させたばかりであるので、口を開く勇気を持てなかった。義母は気難しそうな印象の人である。けれども、先ほど彼女が夫に礼を言ってミルクポットに手を伸ばしたとき、優しい目でこちらを見たようにも思った。

茶請けに出されたキルシェトルテがなくなった頃、侍女が来客を告げた。鳥打帽を脇に挟んでサロンに入ってきたのは、背中が少し丸くなった小柄な男であった。オーベルシュタインは何度か会ったことがある。彼はオーベルシュタイン家の保有する石灰岩鉱山の責任者で、名をハンケという。

サロンに入ってきたハンケは、子爵夫人と同席する若い男女を見て驚いたようだった。記憶を探るような表情で二人を眺め、オーベルシュタインの顔で視線を固定すると、

「あぁ、若様でいらっしゃいますな。これは、ご立派になられて」

と、懐かしそうな声をあげた。若い娘のほうは誰も紹介しようとしなかったので、ハンケは小さく会釈した。娘は「ごきげんよう」と応じ、ハンケが突然足元に現れた巨大な犬に驚いて飛びのいたのを見て、「ナイン、アインシュタイン」と、犬を叱った。犬は来訪者の詮議を終えて、また夫人のそばに寝そべった。

子爵夫人はハンケの差し出した帳簿に目をとおし、それを手を伸ばしかけたハンケには返さずに、息子に渡した。オーベルシュタインはここへきてようやく、茶会に呼ばれた理由を理解することができた。すでに成人したのであるから、領地経営を学べというのだろう。母の目的が親子としての時間を過ごすためではなかったと分かって、彼は肩から力が抜けるように感じた。それならば、まだ対応のしようがある。

とはいえ、急に帳簿を渡されても見方など皆目分からぬから、素直に目の前の専門家に教えを請うた。ハンケは、まずは原価、産量、卸値に目を配ることだと答えた。

「それから奥様。現在の採掘場所は岩盤が薄くなっておりまして、然るべき対策を取らねば崩落をおこしかねません。本年の採掘は今月で終了し、坑道の補強工事をしたいと存じます。今年の生産目標は達成できなくなりますが…」

クライデベルクには露天掘りをするほどの平地がないため、また、地表の自然環境への影響を考慮して、地下深くに採掘坑を設けている。もろい石灰岩は崩落の危険と常に隣り合わせだ。

子爵夫人が息子のほうへわずかに顔を傾けた。彼に答えよというのであろう。

崩落という言葉が、辺境の矯正施設で地中に埋まったという叛徒の囚人のことを思い起こさせたのかもしれない。オーベルシュタインはハンケの提案を是とした。

「このまま採掘を続けるのと、補強工事をするのと、どちらが最終的に利益を生むのかを考えれば自明のことだ」

経済的なこともあるが、これはオーベルシュタイン子爵家の領民がすべて平民であることを考慮したものでもある。平民とは銀河帝国臣民としての戸籍を有する者のことだ。彼らは平民としての権利を持つと同時に、帝国の徴税、徴兵の対象である。これをむやみに損なえば、皇帝の権益を冒すことにつながる。もしもオーベルシュタイン家を讒訴するものがあれば、格好の攻撃材料になるだろう。

戦争が長期化するにつれ、兵役を逃れんとした平民がすすんで農奴となる例が増えている。兵役忌避は死罪を最高刑とする重罪であるが、貴族の荘園に逃げ込めば農奴、つまりは貴族の私有財産として公的な保護を受けることが可能だ。

逃亡して農奴となった者は、兵役忌避の過去を貴族に握られる。彼らの手に生殺与奪を委ねることになり、その子孫も農奴の身分を引き継ぐことになる。だが、それでも戦争で無意味に殺されるよりもましだと考えるのであろう。力を持たぬ者の切羽詰まった抵抗である。その結果、昨今帝国では正規兵の徴兵に支障をきたし、逆に貴族の私兵が増加しつつある。早晩社会の分裂を深める大問題となりそうな情勢であった。

平民と農奴と間の反目もまた著しい。平民は戸籍も持たぬ農奴を一人前の人間とは認めず、家畜も同然にみなしている。農奴のほうは、経済的には貴族と平民の両方から搾取を受ける存在であるものの、主人の権勢を笠にきて平民に対するというようなところがある。

平民と農奴の不満と憎悪は国中に満ち満ちているのだ。それが支配階級である貴族に直接向かうことがないのは、彼ら同士で激しく憎み合っているからであった。

オーベルシュタインの祖父は、家督を継承するや、領地内の農奴をすべて放逐したのだという。彼は農奴を資産ではなく負債だと考えていたようだ。領地経営に及ぼす不安定要素が利益を上回るとみたのだろう。その点、オーベルシュタインも同感であった。

石灰岩鉱山の責任者は、若い後継者の回答に感銘を受けたようで、破顔して何度もうなずいた。

「それから奥様、来月の第三日曜日にクライデシュタットで秋祭りが行われます。今年はお出ましになりますか?」

子爵夫人は黙って首を振った。ハンケはその答えを予想していたようであるが、それでもがっかりし様子をみせた。

母は幼い頃、祖父に連れられて領民の暮らすクライデシュタットに行くことも多く、領民たちとも交流があったと聞く。領主と領民との間に心理的紐帯というべきものがあったのだ。一方、次期当主であるオーベルシュタインは、領民との交渉が皆無である。城の使用人にも土地の者は一人もいない。素朴な平民ほど何の疑いもなく劣悪遺伝子を忌むものだ。正当な統治権を具備しないとみなす者があっても不思議ではない。オーベルシュタインの父が跡継ぎの誕生にあれほどこだわるのも、息子を飛ばして孫に子爵家を継承させようとしているからかもしれなかった。

ハンケは領民の冠婚葬祭をいくつか報告したのち、陽気にいとまを乞うた。

「それでは皆様、グリュック・アオフ、ご無事で」

オーベルシュタインは口の端を少しあげて、グリュック・アオフと返した。聞き慣れぬ言葉にフランツィスカが不思議そうな顔をして夫を見る。

「鉱夫の挨拶だ。無事に地上に上がって来られるように」

ハンケは可愛らしいお嬢さんが、「グリュック・アオフ。ごきげんよう」と挨拶を返してくれたことを単純に喜んで退出していった。もし彼に少しばかりの観察力があったなら、オーベルシュタインとフランツィスカの左手にはめられた指輪に気づいたであろうが、ハンケはとうとう二人の関係を察し得なかった。

 

真夜中、オーベルシュタインとフランツィスカが空港に向かうため城を出たところで、突然アインシュタインが空に向かって激しく吠え立てた。何事かと二人と運転手が首をあげると、雲のない天の一点から瞬時に巨大な紗幕が広がった。

オーロラ爆発だ。

オーロラは、視界に入りきらぬほどの規模と、影ができるほどの明るさで、緑から赤へと連続的に色を変えながら空を覆い尽くしている。典雅な音曲が聞こえてきそうなほどの、神秘的な光景であった。

フランツィスカは目を見開いて、じっと空を見上げた。オーロラを見たのは初めてだ。

「あれは、ワルキューレの鎧冑がいちゅうが発する光だと言われている」

珍しく詩的なことを言う夫の義眼が、オーロラの冷たい光を取り込んで不思議な煌めきをみせていた。

勇者の魂を天上ヴァルハラへと導く女神・ワルキューレ。銀河帝国の軍人には、ワルキューレを信奉する者が多いと聞く。

フランツィスカは寒さと恐れに身を震わせた。 ワルキューレに連れられてヴァルハラの門をくぐる夫を幻想したのだ。

「何だか、恐いようですわね」

「だたの…電磁気だ」

――慰めてくださったのかしら?

手のひらを返したように現実的なことを言うのが少しおかしい。フランツィスカは夫の腕に手を回し、その肩に首を預けた。二人の吐く息が交互に白い靄を作る。

「それなら、少しも恐くありませんわ」

オーロラは地上車がクライデシュタットの空港に着くまで輝き続けた。フランツィスカが城の方角を振り返ったとき、湖に覆いかぶさるようなオーロラの光を湖水が反射し、その向こうに二つの円塔を持つ城の影がぼんやりと浮かんでいた。

――パウル様の故郷ふるさと。

いずれ自分にとっても、故郷と呼べる場所になるのだろう。ここは彼女の新しい人生が始まった土地でもある。

フランツィスカはふいに、あの城の窓の一つからオーベルシュタイン子爵夫人がこちらを見送っているのではないかと感じた。この美しい空の下を遠ざかる地上車のライトをどんな思いでご覧になっているかと気にかかった。そして、ずっと昔、母と分かれた日の朝のことを哀しく思い出した。

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