IV Der Wille zum Glück

幸福への意思

Der Wille zum Glück (1)

帝国暦472年10月14日

音もなく振り子を揺らすホール時計の足元で眠っていた犬が、扉のほうへ耳をそばだたせ、がばりと起き上った。空気の匂いを嗅ぐような仕草をし、サーキュラー階段の上に向かって1回大きく吠えて、よく磨かれた床を爪音でカチカチ鳴らしながら玄関へ向かった。時計の文字盤は、19時の近いことを告げている。

フランツィスカは数式処理システムの内容を保存し、椅子の背によりかかってぐっと伸びをした。鏡で少し髪をなおし、書斎を出てファサードの2階からファイルヒェン街のほうをのぞくと、門灯の明かりの中に夫の長身が姿を現したところだった。

犬の声を合図に、ラーベナル卜は食卓のカトラリーの配置をもう一度確認して玄関へ向かい、ヘルガはスープ鍋をコンロに乗せる。

主人の帰宅を告げる犬の行動は、いつも正確だった。ラーベナルトによれば、アインシュタインは旦那様がブルーメン広場を通り抜けるのが聞こえているようだ、ということで、確かに犬が吠えてからちょうどそれくらいの時間が経った頃に、玄関のベルが鳴るのだった。

 

二階の居室に食後のお茶を運んで退室した執事は、小さく溜息をついた。

クライデベルクの城へ行って以来、主人夫妻の関係には大きな変化があったようだ。主人は何かふっきれたような落ち着いた表情を見せ、夫人はその年頃にふさわしい明るい笑顔で笑う。親しい間柄でのみ用いられる二人称を使うようになり、ともに過ごす時間も、会話の量も増えた。この間などは、幼年学校に入ってからは決して他人に触れさせなかった義眼の交換を、夫人に手伝わせていたようだ。何があったのかは聞かされていないが、二人の間に心の絆というべきものができたのであろう。愛情と言ってもよい。身辺に仕えていれば当然分かるものであるが、房事のことも増えたようだ。仲睦まじいことは、歓迎すべきことである。

だが、執事の溜息には理由があった。城から戻った主人は、何と彼に避妊薬を用意するよう命じたのだ。狼狽して諌めようとした執事に、主人は「フランツィスカとも話したのだ。好きにさせてくれ」と迷いのない調子で語り、彼がそれでも食い下がると、「ならば自分で買い求める」と、きっぱりと言い切った。

ラーベナルトは代々オーベルシュタイン子爵家に仕えてきた家系の出である。主家の繁栄を願う気持ちは当然強い。その一方で、幼い頃から養育してきた主人が子供を持つことへの深い葛藤を抱えながら妻を迎えたことも、うすうす感じていた。主人の心情を思うと、執事は引き下がるよりなかった。常に義務と責任を優先する主人が、自身の感情に従って決めたものだと分かったからだ。

「お二人ともまだお若いのだし、いずれお気持ちが変わるかもしれませんよ」

ヘルガはそう言ったが、ラーベナルトは気が焦る。軍に身を置く以上、そんな悠長なことは言っていられまい。だがその一方で、主人の心を受け止めてくれたフランツィスカには、心からありがたいとも思うのだった。

 

オーベルシュタインは口を付けかけたカップを皿ごとテーブルに戻し、向かいのソファに座る妻を正視した。

「すまないが、もう一度言ってくれ」

「上官の奥様にご挨拶に伺ったほうがよろしいでしょうか、と」

「挨拶」

「ええ。ヘルガに聞いたのですけれど、よその家の奥様方は互いのお屋敷を訪問したり、一緒にお出かけになったりして交流を深められるそうですわ。上官の夫人と懇意にすることが、夫君の出世の一助となるのだとか」

「出世」

妻の唐突な発言に驚いたオーベルシュタインは、芸もなくその言葉の一部を切り取って返事を返した。いつも浮世離れした高等数学の世界で楽しげにしているフランツィスカが、えらく俗なことを言う。

「それで、わたくしも、そのようにするべきかと思って」

「そうしたいのか?」

フランツィスカは首をかしげて宙を見て、よく分からないと答えた。

「ならば無用だ。そこまでして出世する必要もない」

「そう、ですか…」

「ああ。それに、私は上官の奥方に愛嬌を振りまくのはごめんだな」

青碧の瞳にわずかな失望がみえた。意気地のない男と思ったか、と、多少気にかかったが、出世に寸毫すんごうの関心もないのは事実である。

「なぜ、急にそんなことを言いだすのだ」

「それは…」

フランツィスカは犬の頭をなでた。

「この家で、わたくしだけが働かずに暮らしていますでしょう?」

オーベルシュタインは彼女の言うことがよく理解できない。貴族の夫人など、みなそうしたものだろう。

「わたくしも、何かパウル様のお役に立つことがしたいと思って、他の家の奥様は何をなさっているのか、ヘルガに尋ねたのです」

「それで、奥方連中との交際か?」

「はい」

オーベルシュタインは心の中で、いらぬことを吹き込んだヘルガを毒づいた。彼は大いなる偏見をもって、上流階級の夫人の社交など砂糖をまぶした毒薬のようなものだと認識している。彼自身、たまに付き合いで酒席に出れば、人事の噂と同僚の悪口ばかりを聞かされて辟易しているのだ。下手に相槌も打てない。夫人同士の交遊も似たようなものであろう。いわれのない誹謗中傷を受けることもあろうし、フランツィスカの出自も、オーベルシュタインの目のことも恰好の噂のタネとなるに違いない。そのようなところに足を踏み入れて、彼女が傷つくことになってはかわいそうだと思う。

「夫人と使用人とは違う。働こうなどと思う必要はない」

「そう、なのでしょうか?」

第一、妻に労働をさせるなど、男の矜持にかかわることだ。

「それに、君には向かぬだろう」

「そう、ですね…」

犬の頭を行ったり来たりするフランツィスカの手を見つめながら、オーベルシュタインは胸をつかれる思いがした。自身が妻を愛玩物のように扱っているのではないかと思ったのだ。子も持たぬと決めてしまった以上、彼女はこの家での自分の存在意義に疑問を感じたのかもしれない。

確かに、少しは外に出たほうがよいと思う。だが、彼女には一般常識が怪しいところがあって、それが非常に不安であるのも事実だ。皇帝の顔を知らぬのにも驚いたが、先日は図書室から見つけてきた古い三文恋愛小説を読んで「貴族は4、5人の愛妾を持つのが当然というのは本当か」と尋ね、オーベルシュタインを唖然とさせたばかりだし、エルベ河畔のインビスでカリーブルストを買ってやると「こんなに美味しいものは初めて食べました」とヘルガが聞いたら嘆くようなことを言ったりもした。

オーベルシュタインとて彼女を閉じ込めておきたいわけではないのだ。友人が犬だけというのも、よいことだとは思わない。

先日もヘルガに、たまには観劇や舞踏会に連れて行ってはどうか 、と言われたばかりである。「フランツィスカが望んでいるのか」と問うと、家政婦長は呆れ果てたように主人を見返した。

「お若い方が日がな一日算数ばかりやって過ごすなんて、どうかしています。奥様は今月、17歳におなりですのよ? 十七といえば、世間のご令嬢は社交界デビューの準備で忙しくなさってますわ」

「算数ではない。数理だ」

ヘルガの小言にわざととぼけて彼女を怒らせておきながら、オーベルシュタインはヘルガの言うことももっともだと思っていた。観劇だの舞踏会だのには、彼自身が行きたくないだけなのだ。

オーベルシュタインは腕を組んで黙り込んだ。眉間にしわが寄っている。フランツィスカはテーブルを回ってオーベルシュタインの隣に座り、夫のこめかみに口づけ、髪に頬を寄せた。

「おかしなことを言って、すみません。困らせるつもりはなかったんです」

「いや…」

オーベルシュタインは腕をほどいて妻の背に回した。何と言えばよいのか、分からない。家に帰ってフランツィスカの顔を見るとほっとする。彼女がいてくれてよかったと、本当に思っているのだ。だが、それを口にするのは女々しいように思えたし、彼女の聞きたい言葉でもないような気がした。

 

土曜の午後、オーベルシュタインは書斎机の三番目の抽斗ひきだしを開け、ビロードの指輪ケースを取り出した。週末だけ指輪をつける習慣を、彼は律儀に守っている。自分自身に対するけじめのようなものである。

同じ抽斗から帝国銀行ライヒスバンクの小切手帳を机上に移し、この一週間の間に届いた請求書に手を伸ばす。彼の右前方では、フランツィスカが人差し指の背を唇にあてて数式処理システムをにらんでいる。集中して考えているときの彼女の癖だ。その足元では犬が野生など微塵も感じさせない仰向けの姿勢でだらりと眠っていた。

燃料費と通信費の請求書を片付けたところで、小切手帳の残りがなくなった。新しい小切手帳を探してまた三番目の抽斗を開けた時、下の方に懐かしいものがあるのに気がついた。婚礼の前に交換した、フランツィスカの写真帖と身上書だ。一度写真を見たきり、この抽斗にしまい込んだままになっていたのである。

写真帖のフランツィスカは、日陰の植物のような風情で心細げに立っていた。この頃は見なくなった表情だ。執事が「奥様は笑顔が増えましたな」と言っていたが、そのとおりだと思う。

身上書は無愛想なほど簡潔だった。

 

フランツィスカ・フォン・クラヴィウス

帝国暦455年10月23日生まれ 満16歳

父 ステファン・フォン・クラヴィウス(帝国子爵)

 

母親の名はない。

略歴の代わりか、大学入学資格アビトゥーア試験の成績表が同封されていることに、オーベルシュタインはこのとき初めて気がついた。

彼はしばらくそれに無言で目を通し、机の向こうで思考中のフランツィスカに目をやって、卓上の端末を引き寄せた。

フランツィスカが冷めたお茶を一口飲んだところで、オーベルシュタインは妻に声をかけ、手招きでそばへ呼んた。フランツィスカは夫が手にした自身のアビトゥーアの成績表に驚いたようだった。

「それ、どうなさったのです?」

「君の写真と一緒にもらっていたらしい。いつ、受験したのだ?」

去年の暮れのことである。フランツィスカは家庭教師のケラーに言われて、わけの分からぬまま試験に臨んだのだった。帝都から遠く離れた屋敷まで、わざわざ試験監督官がやってきたのだが、試験を受けたことすらすっかり忘れていた。年明けから彼女の人生を左右するような出来事が重なって、それどころではなかったからだ。結果を見たのも初めてである。

「君は優秀だな」

数学と物理は抜群に秀でている。それに比して歴史と政治は何とか上位3%に入れるという程度だが、それでもかなりの成績と言ってよい。

「フランツィスカ。君は、大学へ行ってはどうだ? これなら帝国大学の理学部に十分入れるぞ」

オーベルシュタインが指し示した端末の画面には、各大学・学部のボーダーラインが表示されていた。

「大学、ですか?」

「君の家庭教師は、そのつもりでアビトゥーアを受験させたのではないのか?」

フランツィスカは机から離れ、ソファにすとんと腰を下ろした。

大学へやるというのは、我ながらよい考えだと、オーベルシュタインは思った。奥方連中との下らぬ社交に時間を費やすよりも、よほど有意義である。彼は、フランツィスカには数理の才能があると感じている。ともに数式を検討していると、彼女の発想と構想力に驚かされることがたびたびあった。

しかし、フランツィスカはぼんやりと座ったまま、さほど嬉しそうではない。

「気が進まぬか?」

「いえ、そうではなくて、よく分からないのです。考えたこともなかったので」

フランツィスカは一度も学校へ行ったことがない。同じ年頃の女学生たちが制服姿でブルーメン広場を歩くのを見かけると、学校というのはどんなところだろう、と思うこともある。夫が話してくれる士官学校や幼年学校の様子を聞くのも楽しい。だが、それだけである。自分が実際に学校へ行くことを想像すると、何かとても怖いことのように感じた。

「…パウル様が一緒に行って下さるなら、いいのですけれど」

オーベルシュタインは自嘲気味に笑った。大学進学は、彼が決して叶わぬことだと知りながら、心のどこかで望んでいたことだからだ。だからこそ、フランツィスカに大学に行ってほしいのかもしれなかった。

「私は、無理だ」

「なぜですの?」

士官学校を卒業した者には、軍で必ず奉職するべき服務期間が定められている。この期間においては、現役復帰が不能な戦傷または大病をせぬ限り、退役することはできない。新任士官の服務期間は年々伸びる傾向にあって、今では15年だ。大量の戦死者を出すものだから、損益分岐点がどんどん高くなり、最低これくらいは働かせないと財務上は赤字となるし、陣容の維持もできないのだ。

「15年も」

「そうだ。そして15年も軍にいると、もう軍の外では使い物にならない人間になるらしい」

「そんなこと」

軍がどんなところか、フランツィスカは具体的に知っているわけではない。しかし夫はきっと軍の外でも能力を発揮するはずだ。彼女がそう言えば、オーベルシュタインは買いかぶりだと静かに笑った。

「学資は私が出す。君が希望するなら、博士号まで面倒をみよう」

フランツィスカの顔に微笑みが浮かんだ。冗談だと思ったのだ。

「願書の受付は来年の春のようだ。まだ時間がある。少し考えてみてはどうだ」

「…はい。そういたします」

それだけ言って、オーベルシュタインはまた一家の主としての仕事に戻って行った。

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Der Wille zum Glück (2)

帝国暦472年10月26日

「森林公園。大人2人、犬1匹」

「7マルク半です」

オーベルシュタインはポケットから小銭を取り出して車賃を払った。隣に座るフランツィスカが夫と車掌とのやりとりを興味深げに眺めている。

帝都の西郊へ向かう路面電車である。運転は無人だが、車掌が乗務して乗客への案内と運賃徴収を行っている。

この編成の車掌は中年に差し掛かった婦人であった。幼い頃に比して、職業婦人をよく見かけるようになったとオーベルシュタインは感じる。戦争で減った男手の代わりとして外に働きに出る婦人が増えているのだ。それらの多くは、遺族年金だけでは生活できぬ戦争寡婦や、男女比の不均衡を原因とする未婚女性である。

路面電車はちりんとベルを鳴らして動き出した。

「犬は大人の半分ですの?」

「子供運賃と同じだ」

オーベルシュタインは膝の上に大きなバスケットを乗せている。気候がよいうちにどこかへ出かけようか、という話になって、ならば一度路面電車に乗ってみたいと、フランツィスカが望んだのだ。行き先は終点の森林公園である。

フランツィスカはまた両手を目の前にかざして、小さな微笑みを浮かべた。手には新しい手袋がはまっている。焦げ茶色にベージュの糸でステッチが入った革製である。先週の彼女の誕生日に夫が贈ってくれたものだ。犬の散歩にちょうどよかろう、と彼は言った。オーベルシュタインはその様子を横目で見て、犬の背をなでた。執事から問われるまで、彼はフランツィスカの誕生日の贈り物ことなどまるで考えていなかった。初めは両親へ贈る場合と同じく執事に用意させようとしたが、やはり自分で見に行くべきだろうと思い直して、仕事帰りに百貨店に寄ったのだった。慣れぬ買い物を親切過剰な店員に助けてもらい、ひどく消耗してようやく購入した手袋だ。

フランツィスカはこの23日で17歳になった。

これほど幸せな誕生日は何年ぶりだろう、と、彼女は思った。大切な人が祝ってくれて、素敵な贈り物をもらった。夕食にはヘルガが腕を振るった料理が並び、未成年にもかかわらず、ワインをグラスに半分だけ飲ませてくれた。特別な1本を出してきてくれたようだった。

夫はワインを嗜む。屋敷の地下の貯蔵庫にはたくさんのワインボトルが並んでいるし、執事にワインの銘柄を指示しているところをみると、とても詳しいようだ。そう聞いてみると、

「統帥本部で従卒をしていたときの上官が酒飲みで、必死で覚えたのだ」

と返された。

従卒は十四、五才の少年が勤めるものである。未成年だ。

「銘柄と味を?」

と、問うと、

「誘導尋問か?」

と嫌な顔をするのがおかしかった。

路面電車は走っては停まり、停まっては走るを繰り返しながら、ゆっくりと進んだ。日曜の午前だ。道行く人はまばらである。空は雲一つない快晴で、秋色に染まり始めた街路樹が陽に明るく照らされている。

白と黄色の車体を川面に反射させながら、路面電車はエルベ川を渡った。川の向こうは庶民の暮らす街だ。家々の間口がとたんに狭くなり、混み合ったような印象を呈する。

ずっと外を見ていたフランツィスカは、車窓を遠ざかった景色にくぎ付けになった。

「どうかしたか?」

「何か懐かしい気がして…。わたくしは幼い頃、あのあたりに住んでいたのかもしれません」

かどのパン屋。川へ向かって傾いた長屋造りの家。白い漆喰の壁、オレンジ色の切妻屋根。路地の石畳はでこぼこで、いつも悪臭のする水がたまっている。

フランツィスカが幼少期を過ごしたのは、そんな場所だった。

 

フランツィスカの父、シュテファン・フォン・クラヴィウス子爵は鳥類の分類学者だった。しかし、彼女が家族三人で暮らしていた頃の父は、まだ子爵でも学者でもなく、学業を半ばで放棄して駆け落ちし、貧しい下町に身の置き所を得た若者に過ぎなかった。

遡ること数年、クラヴィウスはある夜、帝国劇場の舞台で見たフランツィースカ・フォンヴィージナなる女優に恋をした。求愛を繰り返し、ようやくその美しい人の心を得て、彼女を妻に迎えることを願った。しかしながら、そのような貴賤結婚が周囲に認められるはずもない。当時帝国の貴族社会は、緊張のただなかにあった。オトフリート五世の二人の皇子、リヒャルト皇太子殿下とクレメンツ大公殿下とが帝位をめぐって激しく争っていたのだ。どちらの派閥に属するか、どの家と婚姻関係を結ぶか。それは貴族たちにとって家門の凋落に直結する重大問題であった。クラヴィウス子爵家の法定推定相続人であったフランツィスカの父は、そのような混乱に背を向けて家を捨てたのである。

とはいえ、苦労知らずの貴族の若様に世間は甘くない。当初は装身具を売ったりなどして急場をしのいだが、それも長くは続かなかった。クラヴィウスは職を探し歩き、生まれて初めて平民に頭をさげて、ようやくある出版社から鳥類図鑑の解説を書く仕事を得ることができた。その仕事は、実はクラヴィウスの母が密かに援助したものであったのだが、当人は母の死の直前までその事実を知ることはなかった。

やがて娘が生まれた。母親と同じ美しい色の瞳を持ったその子は、母にちなんで同じ名を与えられた。二人はその娘を「小さなフランツィスカ」と呼び、慈しんだ。

三人が暮らしたのは長屋造りの建物の3階であった。傾いた狭い階段を3回折れて上った先の、二間ふたまだけの小さな空間だ。切妻の屋根裏にあたるその部屋は、天井の梁がむき出しになっており、採光といえば、西向きの小さなドーマー窓が一つあるだけであった。

その頃の暮らしを、フランツィスカはいつも愛おしく思い出す。

貧しくて、食事といえば、いつも固くて酸っぱい黒パンと、野菜くずの中に肉のかけらがわずかに浮いたスープだった。服だって誰かのお古で大きさが合っていなかった。だが、優しい両親がいつもそばにいてくれて、寂しいと思ったことなど一度もなかった。

父はよく、美しい鳥の絵の入った本を見せてくれた。軒下に巣を掛けた渡り鳥を一緒に観察した。母は歌が上手で、いろいろな歌を教えてくれた。滅多に怒ったりはしなかったが、言葉づかいにだけは厳しく、近所の子供たちのまねをして話すと、きつく叱られたものだった。

そんなある日、立派な身なりをした見知らぬ人が、祖父と叔父の訃報を持ってやってきた。祖父が彼の支持していた皇太子廃嫡の中で失意のうちに逝去し、その直後に父の弟が戦死して、クラヴィウス子爵家の相続人が父1人になったというのだった。そのショックで祖母は危篤状態にあるという。

「すぐに帰ってくるからね」

父は母の頬に口づけ、フランツィスカの頭を大きな手でなでて出かけて行った。そしてそのまま半年たっても帰ってこなかった。生活は途端に困窮し、母は近所の洗濯屋に働きに出るようになった。絶対に部屋から出てはいけない、と、きつく言いつけられて、フランツィスカは毎日一人歌をうたいながら、ドーマー窓から外を眺めて日が西に傾くのを待った。

父の使いだという弁護士がやってきたのは、フランツィスカの6歳の誕生日のことだ。その人は小花柄のテーブルクロスがかかった食卓の上に大小様々な形の箱を並べ、リボンをほどいてみせた。箱の中には新しい服や靴、帽子などが入っていた。フランツィスカが初めて見る、滑らかな肌触りの生地だった。

だが何より彼女を夢中にさせたのは、バスケットから顔をのぞかせた子犬である。ふわふわした真っ白な毛に覆われ、背中と耳の先だけが黒い。子犬は少し眠そうな目でフランツィスカを見て、彼女の口をぺろりと舐めた。

いつもより早い時間に帰って来た母は、後から思えば蒼白であったように思う。しかし、目の前の夢のような出来事に心奪われたフランツィスカが、それに気づくことはなかった。

「お母様! おかえりなさいませ」

フランツィスカは母の首にとりすがって頬に口づけると、おぼつかない足取りで後ろをついてきた子犬を抱き上げた。

「お母様、お父様がお誕生日のプレゼントを届けてくださったの。新しいおうちで一緒に暮らしましょうって! ねえ、この子、飼ってもよろしいでしょう?」

母は食卓の上の贈り物に視線をやって、訪問者に会釈した。

「…フランツィスカ、あちらのお部屋で少し遊んでいて」

そこで何が話し合われたのか、フランツィスカは知らない。

弁護士が帰った後、母は斜めに軋んだ床にひざまずき、荒れた手を娘の頬にあてた。窓から入ってきた西日が母娘の間に明暗の境界を作っていた。

「お母様、この子の名前はアインシュタインにしようと思うの。昔の偉い科学者の名前よ。前にお父様が教えてくださったわ」

「アインシュタイン。いい名前ね」

「お母様、お父様のところへはいつ行くの?」

「小さなフランツィスカ。あなたは、お父様と一緒に暮らしたい?」

「はい!」

子犬を抱いたフランツィスカはにっこりと笑った。

「そう。そうね、きっとそのほうがいいわね…」

母はフランツィスカを犬ごと抱きしめて、髪や頬に口づけた。

父のところへ行く日の朝、母はフランツィスカの髪を丁寧に梳き、青いリボンを結んでくれた。フランツィスカは父がくれた新しい服を着て、母に言われたとおり、窓辺に立ってくるりと回ってみせた。

「よく似合うわ、フランツィスカ。もうすっかりレディね」

フランツィスカが狭い部屋でスキップをすると、光沢のあるスカートがリズムを合わせてひらひらと舞った。子犬がたどたどしい足取りで後ろを追いかけ、一緒に跳ねる。いつもは階下を気にして足音を立てぬように言う母が、この朝は何も言わなかった。

「お母様、新しいおうちはどんなところかしら? お父様にお目にかかったらお歌を聞いていただくわ。それから、前歯が生え変わったことをお話しするの」

迎えの地上車は路地まで入ってくることができず、坂の上の広い通りで待っていた。川から朝霧が湧き上り、狭い路地を白くをけぶらせる。母と手をつないで路地を上るとき、辻の角にある店の窓ガラスにフランツィスカは自分の姿を見つけた。白いケープのついた紺色のワンピースにエナメルの靴、大きなリボンの帽子をかぶった姿はどこかのお姫様のようで、彼女は嬉しくてならなかった。

路面電車の通る大通りでは、パン屋から焼き立てのパンのいい匂いがしていた。ミルク缶をいくつも載せた台車が音を立てながら通りを横切り、客のまばらな路面電車が通り抜ける合間に、軌道に積もった落ち葉を掃き清める老人が見えた。

「フランツィスカ、よく聞いて」

母は腰を落として娘と視線を合わせた。

「お母様は、一緒には行けないの」

「…どうして?」

突然のことに理解が追いつかぬフランツィスカは、母の顔を見つめ返す。自分と同じ青碧の目に、涙がたまっていた。母は何も答えずにフランツィスカを抱きしめた。

「どうして一緒に行けないの? お父様はきっと待っていらっしゃるわ」

母の腕に力がこめられる。

「小さなフランツィスカ、どうか幸せになって。お母様はいつもあなたの幸せを祈っているわ。そしていつか、あなたの愛する人を幸せにしてあげて」

母はそう言うと、フランツィスカを抱き上げて地上車の後部座席に座らせ、ガシャリとドアを閉めた。

「お母様!」

外に出ようとしたフランツィスカを弁護士が押しとどめ、地上車は静かに発進した。リアウィンドウ越しに見える母の姿は朝もやの中でどんどん小さくなっていった。煉瓦色のショールが肩から半分落ちて、ほつれた髪が風に揺れる。秋の朝の黄みを帯びた太陽が母の涙を照らしていた。

それが母を見た最後である。

 

「わたくしは母を捨てて、父のところへ行ったのです」

路面電車に揺られながら、フランツィスカはぽつりとつぶやいた。

「義母上ははうえは、今、どちらに?」

「分かりません」

「人を使って、探させてもよいが」

フランツィスカはオーベルシュタインの顔を見て何か言いかけたが、うつむいて小さく首を振った。

母には、会うべきではない。母はフェザーンの女優で、自分はもうオーベルシュタイン子爵家の人間だ。幼い自分が気づかなかっただけで、実際の母はクラヴィウス家の人たちが言うように、貴族の子息を騙した悪い女だったのかもしれない。もしそうだったら、きっとオーベルシュタイン家にも迷惑がかかる。

 

父に引き取られて間もなく、フランツィスカはアインシュタインと一緒に屋敷を抜け出した。

クラヴィウス家には知らない女の人がいて、その人を母と呼ぶようにと言われた。父もどこか以前とは違っていた。

本当の母のいる家に帰ろうと思ったのだ。きっと自分を抱きしめて、また歌をうたってくれるはずだから。

だが、ほどなく、フランツィスカは雪の降る森に迷いこんだ。森番の老人が見つけてくれなければ命を落とすところだった。老人の飼う犬が、アインシュタインの鳴き声を聞きつけたのであった。

父は血相を変えて番小屋までフランツィスカを迎えにきた。そして、彼女をおぶって屋敷に帰る道すがら、「本当はね、お父様もお母様に会いたいよ」と寂しそうに言った。

「だがね、フランツィスカ。もう会えないんだ。お父様には義務と責任がたくさんあって、みんながお父様にそれを果たしてほしいと思っている。お父様がお母様と一緒にいると、困る人がたくさんいるんだよ。分かるかな?」

彼女は黙って父の広い肩に頬を押し付けた。

「小さなフランツィスカ。お母様に会いたいときは、鏡を見てごらん。お前は本当にお母様によく似ているから、鏡を見ればお母様に会えるよ」

 

フランツィスカは夫の肩に頬を乗せた。この方もお父様と同じで、義務と責任がたくさんある。そして、ご自身の心との間で苦しんでいらっしゃる。それを思うとき、フランツィスカはいつも悲しくならない。その苦しみを癒やすためなら、何だってしてさしあげたいと思うのだ。

オーベルシュタインはフランツィスカの膝の上の手をにぎって小さく数度揺さぶった。手袋越しにも、暖かい手であった。

 

森林公園は正式名称をヴェスターヴァルト恩賜公園といい、もとは帝室の御用地である。さる皇族の御用邸が置かれていたが、130年ほど前、晴眼帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の帝位継承のごたごたで継承権が宙に浮いた。都心部に近く広大な面積を持つこの土地を欲する者は多かった。その紛争を避けるために晴眼帝の勅令をもって平民に開放したのが、公園の成立由来である。

かつての御用地は今、庶民の憩いの場である。花壇には季節の花が植えられ、池には水鳥が遊び、美しい色の魚が回遊する。旧御用邸の建物ではコンサートや結婚式が開かれ、敷地の大部分を占める森は墓地として整備されている。

芝生はピクニックをする家族でにぎわっていた。子供たちの歓声が響き、ボールを追って走る犬も見える。

よその犬の様子を興奮気味に見つめるアインシュタインをなだめながら、オーベルシュタインとフランツィスカも芝生にシートを広げた。バスケットの中にはヘルガが作ってくれた昼食がぎっしりと詰まっている。クリームチーズと蜂蜜を塗ったライ麦パン、厚切りハムや酢漬けニシンを挟んだサンドイッチ、小ぶりのリンゴ、保温瓶に入ったスープ、お茶の水筒と一緒に白ワインの小瓶もあった。

のんびりとした午後を過ごした。二人の話題はやはり亜空間座標のことである。フランツィスカはオーベルシュタインが演習で体験したという跳躍ワープの様子を興味深く聞いた。そして、跳躍の際に精神だけが亜空間に取り残されるというのがただの怪談話であると知って、残念がった。

「君は極めて合理的な思考をするのに、そういう非科学的な話が好きなのか?」

「そうではありませんの。ただ、もし精神が肉体と分離しても存在し得るなら、亡くなった人の魂はきっと大切な人のそばに留まり続けるだろうと思って」

フランツィスカの視線の先には森へ入って行く葬列がある。棺の後を黒い喪服に身を包んだ人々が続いていく。時折白いハンカチを目にやる様子が、遠くからもよく見えた。

オーベルシュタインはフランツィスカの横顔から目をそらして手の中のりんごを弄んだ。彼は魂の存在など信じない。あるとすれば、それは生ける人の心の中にある死者の残像だ。

「わたくし、何かおかしなことを申しましたでしょうか?」

顔を上げると、フランツィスカが不安げにこちらを見ていた。帽子の影になった青碧の瞳がいっそう色濃い。

「いや、そんなことはない」

小さく笑ってりんごを渡してやる。オーベルシュタインは考えていたのだ。自分は死ぬとき、魂となってもこの人のそばにとどまりたいと願うだろうか、と。初めて、軍人という我が身を儚く思った。

 

ブルーメン広場まで戻ってきた頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。日が暮れると急に気温がさがる。少し肌寒い。

「パウル様」

「ん?」

「今日は本当に楽しゅうございました。また、連れて行ってくださいね」

フランツィスカが何かをねだるなど、とても珍しことだ。

「そうだな。また行こう」

「約束ですよ」

「ああ」

立ち止まった二人を見上げ、お腹を空かせた犬が早く帰ろうと急かした。

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Der Wille zum Glück (3)

帝国暦472年11月12日

夕食の席上、オーベルシュタイは出張の予定を告げた。出発は4日後とのことである。

「どちらへいらっしゃいますの?」

「軍機に属することは一切話せない」

「…何をしに行かれるのですか?」

「それも軍機だ」

「……お帰りは」

「フランツィスカ」

オーベルシュタインは低く妻の名を呼び、それ以上の質問を受け付けぬという意思を示した。

 

オーベルシュタインの今回の出張は憲兵隊本部の要請によるものだ。規定上は軍機であるものの、作戦行動には無関係であるから、実際はそれほどの情報秘匿を必要とするものではない。8月の終わりに人事課へ訴えがあり、オーベルシュタイン自身が聞き取りをした、被矯正者の消失にかかわる事件の現地調査が目的である。彼の提出した報告が憲兵隊の調査部に回され、さらに詳しい調査を経て、複数の矯正施設から数百名単位で人が消えていることが判明したのであった。

憲兵隊調査局の担当官は、人事課からも人を出せ、それも叛徒共の言語に堪能なのを、と言ってきた。 かくして、オーベルシュタインが本案の発端であったこともあり、 彼に出張命令が下されたわけである。人事課の先輩の見立てでは、会計年度末を来月にひかえて憲兵隊の出張旅費科目予算が不足しているのだろう、ということだ。逆に人事課では余っており、彼の出張はちょうどよい予算消化の理由となるわけである。

 

翌日、屋敷の裏のサンルームで、フランツィスカはアインシュタインにブラッシングをしてやっていた。全身を覆うスモッグドレスは、犬の毛が付きにくい生地でヘルガが作ってくれたものだ。犬は台の上に横になって気持ちよさそうに目を閉じている。

フランツィスカは今日何度目かの溜息をついた。隣で洗濯物を干す家政婦長がまた音を外したためではない。ヘルガが家事をしながら音程の不確かな歌をうたうのはいつものことで、フランツィスカはすっかり慣れている。

彼女が浮かない顔をしているのはオーベルシュタインの出張が原因だ。日曜日の朝から出発だというのも、大切な楽しみを奪われたようで残念でならない。

「奥様。旦那様はお仕事なのですから、そんなお顔をなさるものじゃありませんわ」

ヘルガは手際よく靴下を吊るしながら優しく言った。

「だって…」

「軍人というのは家を空けることが多い職業でございますよ」

「でも、いつお帰りになるかも分からないなんて」

フランツィスカの手が止まると、アインシュタインが立ち上がって全身をぶるぶると震わせた。台から飛び降りるのを躊躇する様子を見て、フランツィスカが手を貸して降ろしてやる。犬はまた少し歳をとったようで、そのこともフランツィスカの表情を曇らせた。

「あらまあ、子供のようなことをおっしゃって。笑顔で送り出して差し上げませ。武人の妻とはそうしたものでございますよ」

「…そう、なの?」

フランツィスカはこの頃、自分がどうやら「世間の常識」にうといことに気が付いて、気にしている。

「女学校で習った『銃後婦女心得じゅうごふじょこころえ』にはそう書いてありましたけどねぇ。お読みになったこと、ございませんか?」

フランツィスカは、犬の毛を始末しながら「ない」と答え、その本をまだ持っているかとヘルガに問うた。

 

出発の前夜、オーベルシュタインは厳粛な面持ちで妻をソファの横に座らせた。

「フランツィスカ、今回の出張はそう危険なこともないと思うが、いつ何時なにが起こるとも限らない。軍人の妻として覚悟はしておいてほしい」

青碧の瞳が膨らんで、何か言いかけた唇がきつく結ばれる。

「弁護士のラインスドルフを知っているな? 私に何かあったときは、諸事、彼と相談するように。君が困らぬようにはしてあるから、安心してよい」

フランツィスカはヘルガが引っ張り出してきた「銃後婦女心得」の一説を思い出した。

『銃後の婦女の心得は、出征将兵をして後顧の憂いを断たしめ、ひたすらに皇帝陛下のご聖恩に報い奉らしめることこそ肝要なり。涕泣ていきゅうをもって将兵を見送るがごときは、男子の本懐を遂ぐるを妨げ、その壮志を挫くものなり。厳に慎むべし』

軍人の妻女がみなそうして夫を送り出すならば、自分もそうあるべきだと思った。

「…はい、あなたマイン・リーバー」

妻が落ち着いた表情で微笑むのを見て、オーベルシュタインは少々拍子抜けし、同時に安堵した。きっと泣かれるに違いないと、覚悟していたのである。

「それから、もし私の…」

しかし、握った手の指先がひどく冷たいことに驚き、オーベルシュタインは言いかけた言葉を呑み込んだ。彼女が無理をしているのだと察したのだ。

――もし私の死後に、君を心から愛してくれる人が現れて、君もその人を大切に思うなら、幸せになることを躊躇してはならない。

彼はそう言うつもりだった。この数日ずっと考えてきた台詞である。

フランツィスカは少し首をかしげて、彼の言葉を待っている。

「いや、よいのだ」

フランツィスカのえくぼに親指をあてて、オーベルシュタインも彼にしては精一杯の笑顔を作った。

もし本当にその日が来たら、彼女はこの青碧の瞳でその男を愛しげに見つめ、その男との間にできた子を腕に抱いて幸福そうに微笑むことだろう。

苦い想像であった。

いつかは言わねばならぬだろうが、今はまだ、言わずにおきたかった。

フランツィスカは頬を包む夫の大きな手に指を絡めた。

「戦争は、いつ終わるのでしょうね…」

それは今この銀河に生きる誰もが一度は持つ疑問であろう。戦争は巨大な消費だ。膨大な人命と財貨を無限に損なう。黒字になることなどない。であるのに、人はなぜそれをやめることができないのか。

「同盟の人たちの国では…」

「叛徒の根拠地」

「叛徒の根拠地では、民衆から選ばれた人が政治をするのでしょう?」

「そのようだな」

「叛徒たちは戦争が好きなのでしょうか」

「どうであろう。陛下の臣民たるを喜ばぬことは確かだが」

共和主義者は人がみな平等だと考えるらしい。彼らにとって、それはどうやら命を賭すほどの価値があるもののようだ。

「この国のことは、皇帝の資質で…」

「陛下のご器量」

「陛下のご器量で決まるのでございましょう? では、陛下は戦争がお好きなのでしょうか」

「むやみにご叡慮えいりょ忖度そんたくしてはならぬ」

「はい」

「陛下といえどすべてのことを思いどおりに動かすのは難しかろう」

皇帝がいかに絶対的な権力を持つとしても、やはり思い通りにならぬことはあるはずだ。過去には臣下の傀儡と化した皇帝さえいる。今このとき皇帝が停戦を宣言したとして、それで戦争が完全に終わるとは、オーベルシュタインには到底思えなかった。

オーベルシュタインも同時代を生きるすべての人々と同じく、戦争のない時代というものを知らない。この国はすでに戦争が続くことを前提として再構築されている。戦争が終結してそこから何が始まるのか。この宇宙に、その青写真を描いている者が果たしているだろうか。

「わたくし、ずっと考えているのですけれど、叛徒を攻撃…」

「膺懲ようちょう」

「膺懲する目的は何なのでしょう?」

銀河帝国が戦争を遂行する目的は、全人類を一つの政体に統一することである。統一がなれば、強固で安定した政治のもとで国力、民力が増進する。社会の発展が促される。戦争で死ぬ者もいなくなる。より多くの者が幸せを得られる。

国はそう説明してきた。民はそう信じさせられている。

「つまり、将来の多数の幸福のために、現在の少数の不幸は致し方ないということなのですね」

「どちらにせよ犠牲を出さねばならぬなら、一番犠牲の少ない方法を選ぶべきであろう」

オーベルシュタインはそう言いながら、今の帝国は少数の幸福を守るために多数の犠牲を強いる体制ではないか、という思いを禁じ得ない。そして自分も、貴族の一員としてその体制に加担している自覚が彼にはある。

「でもわたくしは、パウル様にその少数の犠牲に加わっていただきたくないと思いますわ」

その声は、高ぶる感情を必至に抑え込もうとしたもののように響いた。

「フランツィスカ。我ら士官は、戦術戦略上の目的を達成するため兵に命令を下す立場にあるのだ。命令一下、何万という兵を死地に送らねばならぬ。その士官の妻がそんなことを言っては、兵に対して示しがつかない」

オーベルシュタインは、口ではそう叱責しながら、静かに妻を抱き寄せた。彼女の目からいよいよ涙がこぼれそうで、それを見たくなかったのだ。

「どうか、長生きしてください」

胸に落ちてきた言葉が、オーベルシュタインにはひどく重い。「きっと武勲をお立てください」などという浅薄な言葉ならば、冗談の中に消し去ってしまうこともできようが、これには返す言葉がない。できぬ約束をしてはなるまいと思う。彼は妻の薄い肩をなでてしばし沈黙し、まったく別のことを言った。

「フランツィスカ」

「はい」

「こうした話は、決して私以外の者としてはならぬ。ラーベナルトたちともだ。よいな?」

夫の真剣な顔を見て、フランツィスカはまた自分が世間の常識の範疇からはずれてしまったのだと知った。皇帝の意思が奈辺にあるのか、叛徒は何を思って生きているのか、なぜ戦争をやめることができぬのか、という疑問、そして愛する人だけには生き残ってほしいと願うこと。それらはすべて、胸のうちにとどめおくべきことなのだろう。

「申し訳ありません」

「謝ることはないのだ。…ああ、私は君に小言ばかり言っているような気がするな」

「あら、わたくしは好きですわ、パウル様のお小言」

「は?」

「あなたがわたくしを心配して下さっているのが、分かりますもの」

夫の求めに応じて、フランツィスカは歌をうたった。クライデベルクの城で歌ったあの歌だ。「私も覚えようと思う」と言って、オーベルシュタインも合わせて歌ったが、何度も音程をはずすものだから、フランツィスカはついに笑い出してしまった。

「なんだ」

「ふふふ、だってパウル様、ふふ」

オーベルシュタインの眉間に皺がよって、口がへの字に結ばれる。

「お小さい頃、ヘルガがよく歌をうたってくれたでしょう?」

「ヘルガ? さあ、あまり覚えていないが…」

「ふふ、きっとそうです」

フランツィスカは笑いが収まらぬまま、夫の額に口づけた。夫の体に中に蓄積された愛情の一端を見たようで、それが嬉しかった。

 

出張調査の目的地・アルタイル方面へは、5日の航程である。この調査チームを率いる憲兵隊の担当官はハウプト大佐という人で、士官は彼とオーベルシュタインの2名のみであった。やる気があるのかないのか判然としない雰囲気を持つ人だが、何かというと同行者に話し掛け、コミュニケーションを取ろういう意思だけは明瞭に示した。

「卿は卒業席次が三席だそうだな。文武両道、結構だ。白兵戦もいけるのだろう? 頼もしいことだ」

「どうでしょうか。スポーツとしてはともかく、実践では役に立つまいと存じます」

士官学校で行う白兵戦の訓練は、所詮、命のやり取りをするわけではない。相手の作戦と心理を読み、最善の受けと返しを選んでポイントを挙げればよいのだ。生きるか死ぬかの戦場で、そんな悠長なことはやっていられまい。

オーベルシュタインがそう答えると、ハウプトは、

「それは困った。叛徒の囚人どもが襲ってきたらどうする」

と、あまり深刻そうな様子もなく、困ったように見える表情をみせた。

出航3日目、ハウプトは財務尚書が法の網から逃げおおせた、という帝都の最新情報を披歴した。

「財務尚書…カストロプ公ですな?」

カストロプ公オイゲンは、ここ数年、帝国を襲った骨董バブルを影で操った張本人として弾劾されたのであった。

「骨董?」

「卿は貴族の出身だろう。お屋敷の秘蔵品を売ってくれ、と、骨董商が来たことはないか?」

「さて。そうしたことは執事が応対しているので…」

そう答えつつ、オーベルシュタインはクライデベルクの城から見慣れた品々が消えていたのを思い出した。城の執事は「模様替え」だと言ったが、主人の目が届かぬのをいいことに勝手に売り払ったのかもしれない。

ハウプトの説明によれば、ことの顛末はこうだ。

3年前、財務尚書に就任したカストロプ公は、自らを骨董愛好者として盛んに宣伝した。公は帝室と縁戚にある大貴族であるし、国家の財政を握る財務尚書である。彼のもとにはあらゆる名目で骨董品が届けられたようだ。実はそれらの品のほとんどは、裏でカストロプ公の庇護を受けた骨董商が相場以上の高値で売り付けたものであった。公爵の懐にはほどほどの価値の骨董と、骨董商から献納された巨額の売上金とが入る構図であったらしい。

しかしながら、その全容が明らかになっても、カストロプ公が罪を得ることはなかった。骨董商をトカゲの尻尾にすることに成功したからである。同時に、骨董バブルがはじけた。値上がりを見込んで骨董を買い込んでいた者には寒い冬が待ち受けている。

「内務尚書はさぞ悔しがっておられような」

「リヒテンラーデ侯がですか? なぜです?」

「これは政局だからさ」

宮廷だの貴族社会だのからはできるだけ離れていたいオーベルシュタインにも、ハウプトの話は興味深いものだった。

また目的地に到着する前日、士官室ウォードルームでハウプトの酒に付き合っていると、その口から思いがけぬ名が飛び出した。

「卿は樫之木館アイヒェンバウム・ハオス
のご老体と昵懇じっこんだそうではないか」

「私は別段…。父がお世話になっているというだけです」

オーベルシュタインは会ったこともないこの老人に対し、得体の知れない不気味さを感じている。どうやら彼の人生は、知らぬうちにこの老人の影響を強く受けているようなのだ。幼年学校への入学もフランツィスカとの婚姻も、この老人の口利きであった。こうしてハウプトが持ち出してきたからには、人事課への配属にも一枚かんでいるに違いない。

「どういうお方なのですか、そのご老体は。なぜ退役して十年以上も軍に影響力を持ち続けられるのか、私にはよく分かりませんが」

ハウプトは琥珀色の液体を嘗めて、天井を見上げた。

「あの御仁は、面倒見がよいのだな。頼めば何くれとなく力を貸してくれる。軍人としても優秀だった。前線で武勲を立てることもできるし、後方で軍官僚として事務を差配することもできる人だ」

オーベルシュタインはまだ、そんな軍人を見たことがない。

「退役後もたびたび口を出してこられるものだから、排除したがっている連中もいるようだが、これが難しいのだなあ」

「なぜ難しいのです?」

「弱点がないのだ」

「弱点」

「何が望みかよく分からん人なのだよ。もともと伯爵家の生まれであるから、生まれながらにして金も地位も持っている。もっとも爵位のほうは、早くに奥方を亡くされて子供もないからと、ポンと親族に譲ってしまわれたがな。軍人としても、能力はあるのに決してトップに立とうとはせん。常にナンバー2の位置にいる。上司に頼られ、部下に慕われるものだから、自然と権力が集中する。当然、弱みも握られる。そして、そうした部下が今は軍の中枢にいる、というわけだ」

「なるほど…」

「まあ、あまり深入りせんほうがいいぞ」

ハウプトは本心とも冗談ともつかぬ調子で忠告めいたことを言い、グラスの底に残った液体を喉に流し込んだ。

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Der Wille zum Glück (4)

帝国暦472年11月21日

オーディンを離れて6日目、アルタイル方面軍区内に位置する砂だらけの惑星で、憲兵隊のハウプト大佐と軍務省人事課のオーベルシュタイン少尉は、叛徒矯正施設の管理責任者であるバッハマン少佐を尋問していた。

被矯正者、すなわち元叛徒の大量失踪について、バッハマンはあっけらかんとして本省の指示によるものだと証言し、「軍極秘ぐんごくひ」扱いの一通の命令書をしめした。軍極秘電は佐官以上でなければ目にすることができない、相応の機密保持を要する文書である。

「アルタイル方面軍区の各労働矯正施設において服役中の被矯正者のうちより、科学的素養を有する者及び心身ともに屈強なる者を選別せよ」

昨年9月10日付で、はつは本省の被矯正者管理部長であった。

「大佐は元叛徒が失踪したとおっしゃるが、小官はどこかへ移送されたものと認識しております」

ハウプトは左手の中指で眉をなでた。

「移送手段は?」

「知らされておりません。あるいは、デリング後方輸送基地の船ではないかと」

書記を務めるオーベルシュタインの手が、一瞬止まった。

バッハマンによれば、今年初めから囚人惑星のいくつかで監視衛星の故障が続き、配下の者を修理・交換に派遣した。その際、惑星の衛星軌道上で長距離輸送船に遭遇したことがあり、その輸送船が明らかにした所属がデリング後方輸送基地だとの報告があったというのだ。

バッハマンを返した後、ハウプトは、例の命令書を出した本省の被矯正者管理部長が9月初めに死亡しているのだとオーベルシュタインに告げた。死因は服毒で、他殺の疑いもあるという。矯正施設宛に軍極秘電が出ていることを憲兵隊が把握した直後のことだ。

「デリングへは輸送船の運航状況を照会するとして、やはり予定どおり、施設に残った元叛徒から直接事情を聞くしかないな」

オーベルシュタインは机を回ってハウプトの前に立った。

「大佐。私はこの調査への参与を回避するべきものと思われます」

「なぜだ」

「デリング輸送基地の長官を務めるオーベルシュタイン中佐は、小官の父です」

「なに? 本当か?」

ハウプトは口を開けてしばしオーベルシュタインの顔を眺めてから、端末を叩いてデリング輸送基地の人事情報を呼び出した。

「あまり似ておらんなぁ」

任務とは無関係の感想を述べつつモニターに目を走らせていたハウプトは、突然「あ」と大きな声をあげた。

「卿の父君は、オッフェンバッハ男爵家の出か」

「は? ええ、そうですが」

父は確かに、オッフェンバッハ男爵家から養子に入った男である。

「父をご存じなのですか?」

「まあ、我々の世代では少々有名人なのでな」

「有名?」

ハウプトは机上で両手を組んで、オーベルシュタインの長身を見上げた。

「うむ。…卿は、ミヒャールゼン中将の暗殺事件を知っているか?」

聞いたことがあるような気がした。

「…確か、省内で殺害されたのですね?」

「ああ。犯人も目的も不明のまま迷宮入りした事件だ」

「それが、何か?」

「そのときミヒャールゼン中将の従卒を務めていた幼年学校生が、卿の父君だ。生きている提督を最後に見たのもな」

オーベルシュタインは初耳であった。彼は本当に、父のことなど何も知らないのだ。

「私は父君の二期下だが、幼年学校でもずいぶん話題になったものだ」

ハウプトはしばらく考えていたが、結局、オーベルシュタインにそのまま調査に加わるよう命じた。現時点でデリング輸送基地の関与は不明であるし、彼の代わりの人員を確保することもできぬためである。

その晩、オーベルシュタインは父のことを頭から追い出そうと無駄な努力をしていた。宿舎の二重窓の外では、形の異なる二つの月が砂丘を冷たく照らしている。砂漠には虹色に輝く珍しいさそりが生息するという。

目の前の便箋は、まだ白いままである。翌日帝都に向かう軍事郵袋ゆうたいがあるというので、フランツィスカに手紙を書こうと思ったのだ。たがこれが、なかなかに難敵であった。

 

憲兵隊のハウプト大佐が率いる調査チームは、 被矯正者管理部門の人員が定期点呼のため地表に降りるのに同行して、最初の囚人惑星に降り立った。バッハマンに提出させた名簿によれば、 この1年の間に、ここで化石燃料の採掘に従事していた元叛徒のうち約450名が消えている。

ハウプトは残った者から数名を任意に選んで尋問をした。ここの収容者は下士官と兵卒のみである。ほとんどが帝国公用語が不自由で、彼らの話すいわゆる同盟語も士官学校で訓練を受けたものとはかなり違っており、オーベルシュタインは人の声まねをする鳥としゃべっているような心地がした。

「今、逃げた、と言ったか」

「ン」

「どこへ逃げた」

「知ンね」

「手段は」

「てぃぇごくのふにぇ」

「…。帝国の船、か?」

「ン」

ハウプトは狂人を見る眼差しで隣に座るオーベルシュタインを振り返った。

聞き取りにくい彼らの話を総合すると、今年5月頃に名簿を持った帝国軍人がやってきて、長距離輸送船へ乗り込むよう命じたところ、解放されると思った囚人たちが我先に船に押し寄せて大混乱になり、死者まで出たのという。彼らがどこへ向かったは不明である。

約1000名が消えた二つ目の囚人惑星では、彼らは逃亡したのではなく捕虜交換で帰還したのだという証言が得られた。そのような事実はない、と指摘すると、尋問を受ける元叛徒は日焼けした顔を青くした。

「じゃあ、どこへ行ったんです?」

「それを調べているのだ」

「勘弁してくれよ…」

「質問に答えよ。長距離輸送船で降下してきた帝国軍人はどのような男であったか」

「どのようなって」

「人相、階級、なんでもよい」

「ああ、そういや、フェザーン訛りの同盟語を話してましたかね」

ハウプトとオーベルシュタインは顔を見合わせた。フェザーン出身の軍人は極めて珍しい。フェザーンは帝国領とはいえ、徴兵の対象外である。

「ところで、俺たちゃいつ帰れるんでしょうね」

「本官のあずかり知らぬことだ」

すがるような目で見る若者を、ハウプトはあっさりとした口調で突き放した。

三つ目の惑星は、オーベルシュタインの幼年学校時代の同期、ヘルマン准尉が相談に来た、例の矯正施設である。

「何が起こったか話せ」

「岩を、落ちる」

若い元叛徒は下手な帝国公用語で答えた。ここでいったい何を食べているのか、やけに恰幅がいい。ハウプトが眉をしかめてオーベルシュタインの方へ首を動かす。オーベルシュタインは坑内図を取り出し、元叛徒の帝国語よりはかなりまともな彼らの言語で尋ねた。

「崩落地はどこか」

「え、ええっと…ここ、だったと思います」

小さな爪のついた丸っこい指が第六層あたりを差している。

「間違いないか。卿らに掘り返してもらうつもりだが」

「え? いえ、すみません、俺は現場にいなかったんで、詳しくは知らないんです」

次に話を聞いたのは、先ほどとは対照的に痩せぎすの男で、ハウプトが何も聞かぬうちに大声で泣き出した。

「私も帰りたい。何でも話すから帰らせてくれ!」

この痩せた男によれば、今年の6月に現れた長距離輸送船から降りてきたのは同盟の工作員を自称する者で、完璧な同盟語を話していたという。捕虜をひそかに救出する任務を負っているのだと、その工作員は語り、全員を救出するまで捕虜の脱走が明るみに出ないよう、帝国軍を上手くごまかしてくれ、と要請した。

「それで、鉱山の崩落をでっちあげた、というのか?」

「そうだ…。でももう、待てない」

男は精神に支障をきたしたようなギョロギョロとした目から、また大粒の涙をこぼした。

 

ハウプトとオーベルシュタインの調査は、証言を集めれば集めるほどに謎が深まるようであった。例の長距離輸送船とその乗務員が疑惑の中心であることは確かである。しかしながら、デリング後方輸送基地から転送されてきた直近1年における輸送船の航行データによれば、囚人惑星へ向かった船は皆無であった。

ただ、1隻だけ、元叛徒を積み込んだ時期に重なるようにドック入りしている船がある。ドックはシリウス星系の民間造船所だ。軍直轄の工廠が少ない軍区では、動力や跳躍装置といった基幹部分を除き、補修のかなりを民間に委託しているのだ。

「デリングはシリウスを含む四つの軍区の交差宙域にある。シリウスは言ってみれば最寄りだ。そう不自然なこともなさそうだが」

「はい。しかしながら、この造船所がフェザーン系列というのがいささか気になります」

「フェザーン訛りの帝国軍人、か」

ハウプトのペン尻が報告書をコツコツと叩く。

「仮にこの船が叛徒どもを運んだとしてだ、シリウスはやつらの占拠地とは間逆だぞ」

「確かに」

もし彼らが帰還を目指すならば、航路も定かでない銀河の外縁を大きく迂回せねばならない。

「どうしたものかな」

シリウス方面には、シリウスをはじめ、エプシロン・エリダニ、タウ・セティ、ゾルといった主たる星系と有人無人の多数の惑星がある。根拠の薄い情報をもってこれらすべての星系に元叛徒の行方を追うのは現実的な話ではない。

「言葉もろくに話せぬ者たちが、帝国領内で生きていけるとは思えません。集団でいればなおさら目立つはずです。彼らを庇護する者がいるのは間違いないかと」

銀河帝国は隣人同士が互いに監視し合う密告社会だ。素性の知れぬ者がいればすぐに通報されるはずである。

「あるいは人知れず、革命根拠地でも築いているかな」

ハウプトは笑って見せたものの、その言葉は冗談としては出来の悪いものであった。かつて帝国領内のアルタイル星系から脱出に成功した囚人どもが、今の叛徒の祖先である。

差し当たっては、長距離輸送船に関する更なる調査が必要となりそうであった。

「だが真実デリング基地の輸送船が使われたとなると、卿も心配だな」

「不行届きがあるなら相応の責任を負うべきでしょう」

「何だ、親父殿が嫌いかね?」

オーベルシュタインはむっとした顔をしたのかもしれない。ハウプトは面白そうに笑って、酒でも飲もうと誘った。

この惑星には、歓楽街があるのだ。

 

酒を飲んでいたはずが、オーベルシュタインは、今、とび色の長い髪の女と二人、狭く薄暗い部屋に閉じ込められている。酒場で隣に座った女に手を引かれるままに付いてきてしまったのだ。我ながら脇が甘い。女は露出の高いドレスをまとい、唇と爪を真っ赤に塗り染めている。強すぎる香水のせいで部屋の空気はおかしな味がした。

「すまないが…」

女の人差し指が彼の唇にあてられ、身体をこすりつけるように首に腕が回される。迫りくる唇に、オーベルシュタインは思わず片手を顔の前に突き出し、後ろに身をそらした。入り口の扉に背が当たった。

「あら、恥ずかしいの? 将校さん」

「いくらだ、金は払う」

「…無粋な人ね」

離れていった女は、扇情的な姿勢で堅そうなベッドに寝そべった。

「その気がないなら、何か飲んでお金使ってよ」

赤い爪が棚を指差した。

オーベルシュタインはポケットの中で握った財布を離し、棚から白ビールヴァイツェンの瓶を取り出した。ガタガタと音を立てる机につき、ぎこちなく王冠を開ける。机に伏せてあったグラスを黄色い灯りに透かし見て、また同じ場所に戻すと、瓶口をハンカチで拭ってそのまま飲んだ。知らない銘柄だが、悪くない味だった。

「ふふ、将校さん、お坊ちゃんでしょ?」

と、女は笑った。

「ここまで来て嫌だって言う人には傾向があるのよ。1、潔癖症。2、女を知らない。3、女嫌い、もしくは男好き。4、けち。5、裏切りたくない人がいる。将校さんは、1か…5かしら?」

「誰にでもそう言うのであろう。怒らせる心配がない」

「あら、ばれちゃったわね」

女は誘惑するような視線を送ってくる。

「ねえ、本当にあたしを抱かないの? あたし、頭のいい人好きよ」

オーベルシュタインは黙ってまたヴァイツェンを飲んだ。

「ふぅん、好きな人がいるのね。つまんないわ」

薄い壁の向こうから、淫らな物音と嬌声が漏れ聞こえる。

「だったら、はやくその人と結婚して子供を作るべきよ」

口に運ぼうとした瓶が止まった。

「軍人はあっという間に死んじゃうもの。あたしの亭主も戦争で死んだわ」

「それは…気の毒にな」

娼婦に説教をされるいわれはない、と言ってもよかったが、オーベルシュタインの口からは別の言葉が出た。無能な士官のせいで、と、責められているように感じたのかもしれない。

「子供がいたらよかったって、いつも思うのよ」

「子供がいると、違うか」

「そうね。きっと…生きるのがこれほど、辛くはなかった」

「そうか」

女はけらけらと笑った。

「いやぁねぇ、娼婦の身の上話なんて、話半分以下で聞くものよ」

オーベルシュタインは女の話が嘘だとは思わなかった。彼は、子を持たぬ寡婦は改嫁かいかが容易だと思っていたところがある。たがもし子供がいれば、この女は身を売ることもなかったのではないか。そう思うと哀れであった。

「少尉さんは、何しにこの星に来たの?」

「軍機だ」

「あら、てっきりサイオキシン麻薬のことを調べに来たんじゃないかと思ったのに」

オーベルシュタインは黙って女の表情を伺う。

サイオキシン麻薬は、帝国最大の禁製品である。使用、所持、流通、製造等、それにかかわるすべての行為が死刑に処せられる重犯罪だ。

「先月ね、麻薬中毒で死んだ仲間がいたの。医者は何も言わなかったけど、あれはサイオキシンだってみんな噂してる」

「ここで手に入るのか?」

「さあ、聞いたことはあるけど、見たことはないわ。あ、でもそのはどこだったか、遠くの星から流れてきたばかりたったのよ」

「どこの星だ?」

「忘れちゃった。でも確か、シリウスを経由して来たって言ってたわね」

――また、シリウスか。

「シリウスに注意せよ」という言葉が盛んに唱えられたのは、今から千年ほど前のことであったか。オーベルシュタインは一瞬、人類揺籃の地がたどった歴史に思いを馳せた。

バイツェンがなくなったところで、オーベルシュタインはもう一度値段を聞いた。女が怒ったように眉を上げる。

「授業料だ。ためになる話を聞かせてもらった」

黙って3本立てられた指を見て、オーベルシュタインは300帝国マルクにビール代を机に置いた。女はベッドから立ち上がり、オーベルシュタインの頬を指でなぞるとそこに赤い紅の跡を残した。

「あら、将校さん、義眼なの?」

「ああ」

「気づかなかったわ。すごく優しい目だったから」

そう言って、女は思いがけす清純な微笑みを見せ、ドアを開けてオーベルシュタインを外へ押し出した。

――優しい目…。

閉ざされたドアを肩越しに振り返り、オーベルシュタインはこの目が好きだと言って泣いたフランツィスカを思い出した。誰もがみな、一片の感情も宿さぬ冷徹な目だと言う。だが寂しい心を抱えた者には、むしろ優しささえ感じる目に映るのだろうか。

青碧の瞳が懐かしくてならなかった。

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Der Wille zum Glück (5)

帝国暦472年11月28日

夫が出かけてもう二週間が経とうとしている。ご無事でいらっしゃるか、いつお帰りになるか、と、フランツィスカは不安を胸に、数式を検討しては気を紛らわす毎日である。執事夫妻も心なしか元気がなく、ときおり心配そうに空を見上げたりしている。

だが、この家で主の不在を最も寂しく思っているのは、おそらく犬のアインシュタインであろう。犬には出張などと言っても通じぬから、彼は毎晩オーベルシュタインが帰ると信じて、ホール時計の下で待っている。フランツィスカはアインシュタインがあきらめて二階の寝床に上がるまで、長い時間をかけて説得してやらねばならなかった。

この日、フランツィスカは空模様と同じく重く垂れ込めた心を抱えて、アインシュタインの散歩に出かけた。市場へ寄っていつもの肉屋で羊肉を求め、いつものように屋敷に戻るはずであった。

それが今、彼女は追われるように家路を急いでいる。息がうまく吸い込めず、耳の奥で血管が脈打つ。大きく響く心臓の音が胸に抱いた雑誌に跳ね返された。

ブルーメン広場の噴水の前を早足で駆け抜けたところで、犬が急に足を止めた。犬に引っ張られてフランツィスカも立ち止まる。

「アインシュタイン?」

リードを引いても、犬はその場に座り込んで動こうとしなかった。彼女があまりに急かすものだから疲れてしまったらしい。もう若くはないのだ。

「ごめんなさい。一休みしましょうか?」

フランツィスカは今にも雨粒が落ちてきそうな空を見上げ、そばのベンチに腰掛けた。土曜のお昼にいつも、退省する夫を待つベンチである。

広場には数日前、ヴァイナハツマルクトが設営された。ヴァイナハテンは人類が地球という一惑星で暮らしていた頃からの風習だと言われている。華やかに装飾された間口2メートルほどの屋台が軒を連ね、軽食を出す店もあれば、菓子や小物を売る店もある。

平日の昼間であるから人出は多くない。フランツィスカの目には、母親に手を引かれて歩く女の子の姿が映るだけであった。女の子の首にはハート形の大きなレープクーヘンが、まるでペンダントのようにかかっている。女の子はそれに手を触れてはにこにこと笑い、しきりに母親に話しかけた。

あたりに漂うグリューワインの甘い匂いを吸い込むと、フランツィスカの脳裏に幼い頃のかすかな記憶がよみがえった。確か、父に肩車されて夜のヴァイナハツマルクトに出かけたように思う。電飾がきらきらと輝いて、とてもきれいだった。母は、そのとき母は隣にいたのだったか。

膝の上に置いた雑誌を見つめて、フランツィスカは深呼吸をした。フェザーン自治領の広報誌である。投資の勧誘や企業の誘致、金融商品の紹介など、フェザーンに資金を呼び込むことを目的に発行されているものらしい。

先ほど市場のキオスクで偶然目に入ったものだ。視界の端でとらえた思いがけない既視感に、フランツィスカは心臓をぎゅうと握り込まれたような感覚を得た。一瞬、自分自身の顔を見たのかと思ったのだ。その雑誌の表紙の「自分」は、見知らぬ男性のそばで静かに微笑んでいた。血の気が失せて、数瞬の間、目の前が暗くなった。

――お母様…!

そう直感した。

 

広場の噴水は寒々しい音を絶え間なく広場に響かせる。細かな水しぶきが周囲の気温を押し下げ、吐く息を白く見せている。

手袋をはずし、犬の頭をなでて、フランツィスカは雑誌のページをめくった。フェザーンの不動産開発に関する記事に表紙と同じ写真 があった。フョードロフ不動産プロパティという会社がスラム化した地域の再開発をして、低所得者にも入居可能な住宅を多く建設したのだという。写真の男女には「フョードロフ夫妻」というキャプションが付けられていた。「夫妻」という言葉に、フランツィスカの胸がざわつく。

間違いなく母であった。灰色がかった黒い髪と青碧の瞳を持つその女性は、鏡に映したようにフランツィスカとよく似ている。母の隣の男性は頬から顎にかけて柔らかそうな髭を蓄えた壮年の人で、 灰色の瞳には力強い意志が溢れているようだ。細面で気の優しい顔立ちであった父とは全く共通点がない。フランツィスカはそのことに、安心したような残念なような、複雑な感情を抱いた。

写真の母に憂いの影はない。それはフランツィスカの記憶に残る母とは違う、幸せそうな顔であった。写真の中だけでもその様子を見ることができたことを、フランツィスカは嬉しく思った。

同時に、母の消息を夫には話すまい、と心に決めた。夫はきっと会ってみればよいと言うだろう。だが母はもう生きる世界の違う人なのだ。フランツィスカは母の出自を恥じたことなどないが、もし母と交流を持ったと知れれば、義父はどれほど怒るだろうか。義父と夫との心理的断絶をフランツィスカは案じている。自身が争いのもとになることは避けたかった。

雑誌にぽつぽつと水滴が落ちはじめた。自重に耐えかねた雲がとうとう負荷を放出しはじめたのだ。

「アインシュタイン、歩けそう?」

犬は思いがけず機敏に立ち上がり、屋敷をさして歩き始めた。霞のように細かな雨が大気をけぶらせる。

門扉のところで、傘を手に敷地を出ようとするラーベナルトと出くわした。腕にもう一本傘を掛けている。

「降ってまいりましたね。お帰りが遅いのでお迎えにあがるところでした」

「ありがとう、ラーベナルト」

夫人に傘を差しかけて前庭を戻りながら、執事は気遣わしげな視線を夫人にやった。それほど濡れた様子もないのに、ずいぶんと顔色が悪い。

「奥様。どうぞ早くお着替えをなさいませ」

執事の声には、秘密を打ち明けるような響きがあった。何ごとがとフランツィスカが少し首をかしげて彼を見返すと、ラーベナルトは車寄せで傘の雨を振るいつつ、

「先ほど、旦那様のお手紙が届きましたよ」

と、笑った。フランツィスカの青白く沈んだ頬が、見る間にばら色に変わる。

「本当?」

「お部屋へお持ちいたしましょう。暖かい生姜茶イングヴァー・テーも一緒に」

「ありがとう!」

玄関で犬のリードをはずし、フランツィスカは軽やかに階段をのぼっていったが、億劫そうについてくる犬に気が付いて途中で立ち止まった。

「急がなくていいのよ、アインシュタイン」

そして、犬が追い付くのを待って歩調を合わせてともにのぼった。

 

執事が置いて行った銀盆には、生姜茶のカップとフラウ・フォン・オーベルシュタイン宛の分厚い封筒とが乗せられていた。辛味のあるお茶を一口すすると、身体がほわほわと温まる。

 

“Liebe Franziskaリーベ フランツィスカ

変わりなく過ごしているだろうか。

私は昨日、無事目的地に到着した。心配なきよう。ここは乾燥が激しく、塵埃もひどい。義眼の寿命に影響しそうだ。

さて、この航海の間、前に君が話していた変位虚数解について考えていたのだが、ゲッティンゲン理論を応用してはどうかと思う。計算式を同封するから見てみてほしい。

心を込めて。

Dein Paulダイン パウル”

 

手紙と呼べるのは1枚目の四分の一だけで、残り7枚はすべて数式だった。まるで口数の少ない夫そのものだ。無愛想な軍用便箋に没食子もっしょくしインクの藍黒色が美しく刻みこまれている。やや傾斜の強い生真面目な筆記体を指でたどりながら、フランツィスカはもう一度最初からゆっくりと読み返した。

―― Liebe Franziska愛するフランツィスカへDein君の…、Paulパウル…。

この文字を綴ったあの大きな手を想うと、切なさがじわりと身をいた。犬が手紙の匂いを確かめようと鼻先を突き出す。

「あなたも、会いたい?」

湿気の残る背中をなでると、犬は目を細めて寝転がった。

今回はただの出張だと前置きしつつも、彼女の夫は遺言めいた言葉を残して旅立った。こうして遠く離れてみると、フランツィスカは自身の幸せがどれほど儚いものかを身に染みて感じる。もし一人残されたらどうなるのか。いつかパウル様のことを思い切って、誰か他の人と共に生きるのだろうか。母のように。

――子供がいたら…。

一瞬心をよぎった思いに、フランツィスカは恐怖した。裏切りである。子供は望まない。二人でそう決めたというのに。もしそんな思いを抱いたと知ったら、夫はどれほど傷つくだろう。

ふいに、大学へいこうか、と思った。夫が大学に進むようすすめたのは、彼女に何かのこそうとしたからではないか。そんな気がしたのだ。

フランツィスカは鏡台に目をやった。心細そうな女が映っている。鏡台の上にはいつも、青いリボンを掛けた香水瓶と写真立てが置いてある。香水は父が最後にくれた誕生日の贈り物で、リボンは別離の朝に母が髪に結んでくれたものだ。婚約中にもらった写真には、士官学校の制服に身を包んだ夫が姿勢正しく、かつ、不機嫌そうに立っている。夫は写真嫌いで、積極的に被写体をつとめることはほとんどないと聞いた。義眼が妙な具合に反射することがあるからだろう、とラーベナルトは言う。

写真立ての前には、フェザーンの広報誌を下敷きにしてオーベルシュタインから贈られた手袋が無造作を装って置いてある。執事が目をとめぬようにと思ってのことだ。

「君は何も欲しがらないから、とても困った」

夫はそう言ってあの手袋を贈ってくれた。だが、自分は本当に何も欲しくなさそうに見えるのだろうか、とフランツィスカは思う。この幸せだけは失いたくないと、これほど強く願っているというのに。

不安で息が詰まった。夫の腕に抱きしめてほしかった。今の暮らしのすぐそばにも奈落が口を開けているのかもしれない。母と別れた朝、彼女はあの瞬間まで幸福な未来を信じていたのだ。

「早くお帰りになるといいわね…」

小さなつぶやきは、受けとめるものもなくくうに拡散していった。犬はすっかり寝入っているようだ。

フランツィスカは手紙を胸にあてて窓の外を眺めた。半円窓の形に切り取られた薄暗い空から、深秋の冷たい雨が音もなく降り続いている。

『お母様はいつもあなたの幸せを祈っているわ』

母の声が耳にこだました。

――お母様は今も祈って下さっているのだろうか。

あなたの娘は大切な方に巡り合って幸せに暮らしているのだと、母に知ってもらいたいと思った。

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