Pre-Episode -4

プレエピソード-4

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    プレエピソード-4

帝国暦472年2月16日

「呼び立ててすまなかったね。卿が帝都に滞在中でよかった」

樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの主は、小ぶりのグラスを取り出し、繊細なカッティングがほどこされたデキャンターから琥珀色の液体を注ぐと、客にすすめつつ自らも一口なめた。

客――帝国軍中佐・オーベルシュタイン子爵は、節度ある愛想の良さでもって老人の世間話に応じながら、警戒を怠ってはならぬと胸の内で確認した。この老人は巨大な重力を持つ星である。ひとたびその重力圏に捕らわれると、人は離脱する意思を失い、その周回軌道を回り続けることを自らに課してしまう。オーベルシュタイン中佐も、その23年の軍歴を通じて、いや軍歴が始まる前から、ただ慣性に従って周回を続けている。その間、いずれはこの星の吹き出すフレアによって焼滅させられるのではないか、という、確信めいた予感が消えたことはなかった。

「卿には目の悪い息子がおったろう」

「は。幼年学校入学の折りにはお口添えいただき、ありがとうございました」

オーベルシュタイン中佐の嫡子は生来の盲目である。幼年学校は本来、障害者の入学など許されないのであるが、老人が当時の教育総監に対し、「戦傷によって失明した者であっても義眼で視力を補い軍務を続けている」と強弁して特例を認めさせたのであった。

「いくつになったかな」

「まもなく二十歳はたちです」

「では7月には任官だな。結構、結構。今日、卿に来てもらったのはな――」

満足気にうなずいた老人の口から出た話に、オーベルシュタイン中佐はグラスを口に運びかけたまま静止した。

「愚息に縁談、ですか…」

「私の姪孫てっそんの義理の娘になるのだがね」

相手はクラヴィウス子爵家の長女で、16歳ということだった。

これは過怠であった、とオーベルシュタイン中佐は思った。確かに彼の息子はもう結婚を考えるべき年齢なのである。オーベルシュタイン家の相続人が息子ただ一人であり、息子がまもなく軍人となる以上、結婚させ跡継ぎを得ることは喫緊事といえた。

悪い話ではなかった。だがオーベルシュタイン中佐には、老人の思惑がどこにあるのかが気にかかる。天下に無料の昼食はない、というではないか。

劣悪遺伝子の保有者は子孫を残すべきではない。それは、劣悪遺伝子排除法が有名無実化した今も、この国の常識といってよい。中佐の意識が息子の結婚という大事に向けられなかったのは、おそらくそのためである。義眼の息子が仮に妻を迎えたとしても、公然と世間に披露できる話ではなかろう。それを承知で縁を取り持とうというのだから、何か裏の事情があるに違いないのだ。

「嫉妬だな」

与えられた回答は、ひどく俗なものだった。

「実はその娘というのは、クラヴィウス子爵が若い頃、フェザーン出身の女優に産ませた娘なのだが――」

オーベルシュタイン中佐の眉間にわずかにしわが寄った。

「いや、嫡出子として入籍されておるはずだから、子爵家の令嬢には違いない。しかもクラヴィウス家はオトフリート4世陛下の血統を受け継いだ家系だ。母親がどうであれ、帝室の子孫の一人には違いあるまいよ」

老人は恭しく三代前の皇帝の名を出し、オーベルシュタイン中佐も慇懃に耳を傾けた。だが、強精帝オトフリート4世の子孫という血筋は、別段珍重するほどのものではない。帝国貴族の主だった家門のほとんどが、この皇帝の残した庶出子を通じて帝室の血統を受け継いでいる。いわば貴族社会全体が血族のようなものである。

「ただ私の姪孫てっそんにとっては、なさぬ仲の子であるから、いろいろと難しいことも多いようなのだ。どうやらその娘が夫婦の不仲の原因になっておって、不幸の種を生むばかりなのだな。それならばいっそ家から出すほうが当人のためでもあろう、というわけだ。そういう事情ゆえ、クラヴィウス家のほうでも、この縁談に関してあまり大袈裟なことは望んでおらん」

老人が酒を一口飲み、つられるように中佐も飲んだ。

「それとも卿の息子は、もう誰か心に決めた娘でもいるかな」

「いえ、あれは…」

無理だろう、とオーベルシュタイン中佐は胸中で断じた。

息子は幼い頃から可愛げのない子供だった。父親の目から見ても実に陰気くさく、まるで愛嬌というものがない。劣悪遺伝子のせいに違いない、と彼は思ったものである。その可愛げのない子供は、現在、可愛げのない大人になりつつある。貴族社会の社交にも関心を示さないし、あれでは男女を問わず、まともな交遊関係など築けまい。

「どうやら、ありがたいお話のようですな」

「双方にとって、またとない良縁だ」

老人はいかにも仲人口が言いそうなことをひとしきり述べた。

そしてクラヴィウス家の家計が厳しいことを嘆き、婚資を多めに入れてほしいのだがどうだろうか、と、手元の紙に金額を書いて寄越した。

「…ご冗談を」

どんなものにも適価というものがある。老人が示したのは尋常ならざる額であった。オーベルシュタイン中佐の息子は子爵家の法定推定相続人であるし、本人も帝国軍の士官となる身だ。劣悪遺伝子の保有者であることを差し引いても、そこまでの婚資を積まねばならぬ理由にはなり得ない。

「クラヴィウス家はそれほどお困りですか」

「一時しのぎだ。この程度の額でどうにかなるものでもない」

「母親の出自が低いですな」

「重要なのは家格の釣り合いだよ」

「…愚息を使って、私の口封じですか?」

「おや、卿の口は何か話したがっているのかね?」

老人は心の底から興味深そうな顔をして、三十も年下の客を見やった。拙い駆け引きは、老人の精神に何の動揺ももたらさなかったようだった。

「私はこれまで卿の力になってきたつもりだよ。卿の息子が幼年学校に入るときもそうだったろう。義眼となれば何かと苦労が多かろうし、今後も力になってやりたいと、そう思っているのだがね」

目障りな継子をひそかに嫁に出し、多額の婚資を要求できる先として、劣悪遺伝子保有者がふさわしかった。要はそういう話である。つまり足元をみられたわけで、人を馬鹿にした話ではあった。

「どうするね?」

決断を促す声音だった。

沈黙が部屋を支配し、暖炉の燃える音が急に大きく響いた。

オーベルシュタイン中佐は老人から視線をそらし、精緻なデキャンターが炎を乱反射して描き出す複雑な模様を視界に入れた。

この期を逃しては、貴族令嬢との縁談などあるかどうかわからない。あったとしても、同じく高い婚資を要求されるのは目に見えている。何より時間がない。前線に出る前に跡継ぎを儲けさせること、これこそが重要なのだ。

――この金でパウルに、妻とこの老人の庇護を買ってやるか。

そう思えば、それほど高い買い物でもないような気がした。娘の出自は気に入らないが、若く健康だというのだから、すぐにも懐妊するだろう。

逡巡の末、オーベルシュタイン中佐は一つ息をつき、

「すべて閣下におまかせしましょう」

と答えて、乱れてもいない藁色の髪をなでつけた。髪色のおかげで目立たないが、年の割に白髪が多い。

「ただ、愚息に早死にされては困りますな」

それが条件だった。

老人は「心配いらんよ」と、いとも簡単に請け合った。

10年以上前に退役した老人がいまだ軍の人事に干渉できることに、オーベルシュタイン中佐は苛立ちを感じた。この縁談を受けたことで、彼の息子は安全な後方の、それなりの部署へ配属されるだろう。もし断っていたらどうなったのか。あるいは最前線に送り込まれたかもしれない。

「だが卿も知っていようが、あまり長く後方にいると出世に響く。早く跡継ぎができるよう発破をかけるのだね」

「そちらのご令嬢次第、ではありませんかな」

オーベルシュタイン中佐は苛立ちのままに嫌味らしきことを言ったが、老人に対して何の作用を生じさせることもできなかった。

「なかなかの美形のようだよ。卿の息子が気に入るといいが」

老人はにこやかに笑って、空になった二つのグラスに酒を継ぎ足した。

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