Pre-Episode -5

プレエピソード-5

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    プレエピソード-5

帝国暦472年2月17日

「妻の頼みをご承知下さったとか、ありがとうございます」

クラヴィウス子爵シュテファンは儀礼上の必要にせまられ、樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの応接室で不本意な礼を述べている。子爵の後見人で妻の大伯父にあたるこの老人が、妻の作った借金を肩代わりしてくれたのである。その借金の理由というのが、権門の公爵夫人への贈り物として骨董のティーカップを購入するためという、子爵にとってはまことに下らないものだった。

「なに、当然のことだよ。親族は互いに助け合うものだ。私も姪孫あれはかわいい。卿とて同様だ。血縁はなくとも親族には違いない」

――それが余計なことなのだ。

恩人と言うべき人に対し、クラヴィウス子爵は心のうちで応じた。

彼は今度こそ破産して身軽になるつもりだった。一切のしがらみを断ち切るよい機会だとさえ思っていたのだ。

シャム猫がクラヴィウス子爵のズボンの裾にすり寄ってきて、何かをねだるような声で鳴いた。子爵は嫌悪が顔に出ぬよう注意しながら、そっと足を引いた。彼は猫が嫌いである。少年の頃、大切にしていた小鳥を猫に殺されてしまったからだ。弟が鳥籠の扉を開けて猫をけしかけたのである。

子爵の心中を察してか、猫は急につれない態度を取って彼から離れると、老人の膝に飛び乗った。

「…それで先日、宮内省から頼まれてな。卿のあの、フェザーンの女が生んだ娘、あれを後宮に迎え入れたいそうだ」

「…は?」

猫に気を取られ、老人の話を右から左へと聞き流していた子爵は、突然耳に入ってきた言葉を瞬時には理解することができなかった。

「ありがたいご恩情だな。クラヴィウス家にとっても名誉なことだ。どこで宮内省の役人の目に留まったかは知らぬが、あれほど美しいご令嬢ならば必ずや陛下のご寵愛を賜ることができましょう、などと言っておったよ」

一から十まで嘘である。だが、この老人の落ち着いた声、穏やかな目線、老いてなお端正な顔立ちには、人を信じさせる魔力のようなものが備わっている。子爵はあっという間に老人の罠に絡め取られた。

――フランツィスカを後宮に、だと?

クラヴィウス子爵は自身の座る椅子が急に浮遊したように感じ、とっさに肘掛をつかんだ。金属的な耳鳴りが周囲の音をかき消し、冷たい汗が背をつたった。

宮廷に伺候しない彼は、皇帝を直接に拝したことはない。立体TVソリビジョンの報道や紙幣に描かれた肖像で見知っているだけである。五十に届かぬ年齢だというのに疲れ果てた年寄りのような御方。決して口には出せぬが、それが子爵が皇帝に対して抱いてる印象であった。あの皇帝に娘をいいようにされるのかと思うと、生理的な嫌悪感が喉のあたりに絡みついた。

「あ、あれは十六になったばかりですし、その、世間知らずで、陛下のお相手などとても…」

「それは心配無用だ。むしろ陛下におかれては、昨今、特にそうした娘を好まれるようだからな」

子爵は言葉を失い、空気を呑みこんだ。

娘の青く美しい瞳が思い出された。最近とみに母親に似てきた娘は、いつも助けを求めるような視線を父に向け、彼の罪悪感をちりちりと煽るのだった。

彼の娘は半ば軟禁されて暮らしている。ごく少数の者の目にしか触れず、存在を隠されるようにして過ごしている。

 

「継承権欲しさに、わたくしの赤ちゃんを殺すつもりなのよ!」

8年前、生まれたばかりの弟の頭をなでてやろうとしたフランツィスカを見て、妻は悲鳴を上げ、泣き叫んだ。医者は出産直後で情緒不安定になっているのだと言ったが、フランツィスカを見据える妻の目は、獲物を狙う猫のそれと何ら変わるところがなかった。

子爵は怖れた。いずれこの妻は、娘を傷つけるのではないか。そう考えて、妻が娘を広大な屋敷の一隅に閉じ込めてしまっても、何も言わなかった。小鳥は籠の中に入れておくべきなのだ。籠の中にいれば猫の爪が届くことはないのだから。

――後宮という籠はあの子を守ってくれるのだろうか…。いや違う、違う。あれは猫の棲む籠だ。逃げることの叶わぬ籠の中で面白半分に弄ばれるに決まっている。

子爵はかぶりを振って、一瞬心に浮かんだ恐ろしい考えを振り払った。

「嫌かね?」

「い、嫌と申しますか…、その、心配です…」

「そうか、そうだろうな。断るかね?」

「断れますか?!」

クラヴィウス子爵は勢い込んで聞き返し、すがるような目で老人を見た。宮内省からの打診ということは、皇帝の命に等しい。下手に拒絶すれば大逆の罪に問われかねない。

「できぬこともない。ただ名分が必要だ」

「名分」

老人の示した「断る名分」もまた、子爵を戸惑わせるものであった。宮内省の申し入れはまだ内々のことであるから、急ぎ他家に嫁がせるとよかろう、というのである。

「しかし、嫁がせるとおっしゃられても、そんな急には…」

「当てがないわけでもないのだ。ちょうど世話してくれと言ってきておる家があってな」

老人は、オーベルシュタイン子爵家、という家名を告げた。クラヴィウス子爵は聞いたことがない。彼はそれを自身が貴族社会と切れた生活をしているためだと思ったが、実のところ、オーベルシュタイン家のほうも彼と同様に貴族社会とは切れている。

「今年、士官学校を卒業するというから、年回りもちょうどよかろう」

「軍人…ですか」

子爵は目の前の老人もまた退役軍人であることもはばからず、重く沈んだ声を発した。

帝国のほとんどの成年男子とは異なり、クラヴィウス子爵には従軍の経験がない。子爵家の嫡子として徴兵を免除されたためである。ただ、軍人というのは、何かというと威圧的で、高圧的で、強圧的な人種である、というのが、彼の消し難い印象であった。

「他に良い思案がなければ、宮内省に対し受託する旨を返答申し上げるよりなかろう」

クラヴィウス子爵は額に手をやってうなだれた。

軍人は死と隣り合わせの職業だ。彼が師範大学で教える学生にも、徴兵されて戦地へ行ったまま帰らぬ者が多い。

――だが、後宮よりはまだ良いかもしれない。

140年にわたる戦時下にあって、軍には自然と優秀な人材が集中する。将来有望な士官というのは、この国の少女たちの憧れであるのも事実である。

クラヴィウス子爵は長い沈思の末、実に消極的に心を決めて、娘の縁談を承知した。

「卿らの縁組の手伝いができて、私も嬉しい。卿の娘にも幸せになるよう伝えてくれ」

 

老人は子爵の署名した婚約証書を受け取ると、空欄となっていた婚資の額を「180万ライヒスマルク」と記入した。

――180万……!?

わずかに血色を取り戻していたクラヴィウス子爵は、再び色を失って老人を凝視した。妻の借金と同額である。偶然ではあるまい。

「あ、あの……」

――まさか私は、ティーカップのために娘を売ったのか。

「ああ、言い忘れていたが、オーベルシュタイン子爵の嫡子というのは生来の盲目でな、義眼を装着しているそうだ。不具であるから、そのぶんの慰籍料が婚資に上乗せされておるよ」

老人はクラヴィウス子爵の肩を軽く叩くと、ゆったりとした足取りで応接室を出て行った。老人の後を追うシャム猫が、一度子爵のほうをちらりと振り返って物言いたげな顔を見せ、また老人の後を追いかけた。

 

樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの外は夕闇がせまり、樫の巨木が館に覆いかぶさるように長く暗い影を伸ばしていた。クラヴィウス子爵は胸のうちに溜まった重い空気を力なく吐き出し、帽子をかぶった。

――義眼……劣悪遺伝子……。

「私は、どこで間違えたのだろう……」

娘と、愛しい人と、貧しい下町で身を寄せ合うように暮らした日々が、ひどく懐かしかった。

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