V Der Weg zum Friedhof

墓場への道

Der Weg zum Friedhof (1)

帝国暦472年12月5日

「ジューサー マイ ドゥ クヴェル デス レーベンス、ビスト ゾー ジューサー ブルーメン フォル…」

久しぶりの温かい陽光が降り注ぐ庭に、澄んだ歌声が響く。春を寿ことほいにしえの歌である。

 

“麗しき五月よ 命の泉

君は麗し 万花ばんかのあいだ

愛はいたずらに求めはすまじ

花冠を編むべきひとを”

 

食堂から続くテラスの前の庭で、フランツィスカは花壇に水をやっていた。ラーベナルトに頼んで作ってもらったこの花壇に、彼女は2日前、市場で買ってきた球根を植えたばかりだ。芝生を切りながら何を植えるのかと尋ねる執事に、フランツィスカは5月に咲く花だと答え、

「でも、パウル様には内緒にしてね」

と、声をひそめた。

テラスの陽だまりでは犬が自らの前脚を枕に眠っている。オーベルシュタインの出張中に、帝都の季節はすっかり冬へと移り変わった。木枯らしに吹かれて落ちる庭木の葉は、掃けども掃けども尽きることがないように見える。

フランツィスカが手をかざして黄色っぽい太陽を見上げたとき、ヘルガが大きな足音を立ててフランス窓に姿を現した。驚いた犬は跳ね起きる。

「奥様! 旦那様がお帰りになりますわ! 今、軍港からご連絡があって!」

 

地上車が車寄せに入ってくる音を聞きつけ、アインシュタインは玄関ホールを縦横に走り回って大きな声で吠え続けた。執事が扉を開けるや、オーベルシュタインに飛びついり離れたりを繰り返して、歓迎の意を示した。帰宅した主は行儀の悪い犬を叱りもせずに、頭や顎をさすってやった。

フランツィスカは溢れる感情を抑えるように両手を胸にあてる。やっと日常が戻ってきたのだと感じた。オーベルシュタインは軍帽を取って彼女の瞳をとらえた。小さく首をかしげ、口の端にほんのわずかに照れたような微笑みが浮かんでいる。

「今、帰った」

「おかえりあそばせ」

フランツィスカは待ちわびた人の胸に飛び込み、その首に両腕を回した。背丈の差のぶん足が宙に浮き、オーベルシュタインはその勢いを逃すように彼女を抱きとめたままくると回った。

3週間ぶりの再会である。

 

2階のオーベルシュタインの私室で主人のトランクを開けた執事は、甘い匂いがふわりと香るのに気が付いた。見れば無造作につっこまれた花束とケーキの箱がある。花は若干傷んでいるし、ケーキの箱は角が少しつぶれていたが、ラーベナルトは嬉しそうに目を細めて、着替え中の主人に問うた。

「旦那様、こちらは奥様へのお土産でございましょう?」

「違う。上官に付き合って買っただけだ。お前たちで食べるとよい」

今朝方オーディンの軍港に到着し、迎えの地上車の待つ乗り場へ向かおうとしたところ、ハウプト大佐にそっちではないと言われ、花屋とケーキ屋を連れまわされた。軍港には帰還する将兵を当て込んだ店が多い。父親に買ってもらったばかりの玩具を握りしめる子供もいたし、宝飾店には真剣な表情で指輪を選ぶ青年がいた。不思議なことに、ハウプト大佐はオーベルシュタインには当然、花やケーキを持ち帰る相手がいると考えていたようだ。自分には不要だと抵抗したのだか、結局、卿はこれにしろ、と、半ば強引に買わされてしまった。

「奥様へのお土産でございますよね?」

執事は有無を言わせぬ調子で、着替え終わったオーベルシュタインの手の中に花とケーキを押し込み、隣室へ続く扉を開けて主人の背を押した。

フランツィスカが待っている。

「ん…、これ」

「まあ。ありがとうございます、あなた」

情感も何もなく差し出された花とケーキを、フランツィスカは頬にえくぼを浮かべて受け取った。

「いや、実は上官…」

「よろしゅうございましたね、奥様」

茶の支度を始めた執事が、割り込むように声をかける。

「ええ、お花をいただくなんて初めて」

「それはスノーフレークでございましょう? 花言葉は確か『汚れなき心』でしたね」

「詳しいのね、ラーベナルト」

犬が花に顔を近づけて匂いをかぎ、一つ大きなくしゃみをした。

「そちらのクーダムのショコラーデトルテは、帝都で一番のケーキでございますよ。旦那様も分かっておいでですな」

オーベルシュタインのすねたような顔を見てみぬふりをして、執事は続けた。

「お夕食のデザートにでも、お出ししましょうか?」

「ええ、お願い。パウル様、ラーベナルトとヘルガにも分けてやってよろしいでしょう?」

「ああ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えましてご相伴に預かります」

オーベルシュタインは嬉しそうな妻を前に、事実を告げないでおくことにした。ここはハウプト大佐に感謝するべきなのだろう。このお節介な執事にも。

ラーベナルトが退室したのを見送って、オーベルシュタインはフランツィスカの手を取りソファ腰掛けた。頬に手をあててゆっくりと接吻をする。

「変わりなかったか?」

フランツィスカの心には一瞬母のことがよぎったが、夫の胸に顔をうずめて表情を隠し、「心細かった」とだけつぶやいた。彼女の細い指がその存在を確かめるようにオーベルシュタインの背をつたう。

「少し、お痩せになったみたい」

「艦内食は口に合わぬのだ」

「ヘルガが美味しいものをたくさん作ってくれますわ」

「そうだな」

彼女の首筋から香る匂いが、オーベルシュタインの鼻腔をくすぐる。懐かしい香りだった。たまらず耳の下に口づけ、舌を這わせる。フランツィスカがもらした吐息に誘われるように腰を引き寄せ、角度を変えながら唇を深く奪った。彼の手にはわずかに物足りない胸のふくらみに手を這わせると、その頂が堅くしこるのが布の上からも感じられた。フランツィスカの呼吸が切迫する。

「ワン!」

だが、二人の時間はアインシュタインの大きな声によって突然停止させられた。犬は絨毯に背中をこすりつけ、ぐねぐねと体をよじりながら恨みがましい目つきで二人を見ている。フランツィスカの頬が見る間に紅潮した。

オーベルシュタインは右手の人差し指を立て、犬の注意を引いた。

「アインシュタイン、そう妬くものではない。お前はこの3週間、ずっとフランツィスカと一緒にいたのだろう」

「ふふふ、違いますわ、パウル様。アインシュタインはわたくしがパウル様を独り占めにするのに怒っているのです。ね、アインシュタイン」

犬はフンと鼻を鳴らした。オーベルシュタインはフランツィスカの顔をしばし眺めて、彼女の身体を拘束する腕を離し、犬の名を呼んで自らの膝を叩いた。犬は身をひるがえしてオーベルシュタインの膝に飛び乗った。この頃老け込んだように見えた犬は、オーベルシュタインの帰宅ですっかり元気を取り戻したようだ。

しばらく後、犬はソファに横たわるオーベルシュタインの胸に寝そべって満足そうに腹を上下させていた。そのオーベルシュタインの頭はフランツィスカの膝の上にある。

「重い…。きっと君より重い」

「そんなことはありません」

笑い声とともに降りてきた手がオーベルシュタインの髪をふわりとなでる。

「あら、白髪がありますわ」

「そうか」

自身でも気づいていたのだろうか。何でもないような口ぶりだった。やはりご苦労が多いからかしら、と、フランツィスカは思う。毎日たくさんの人と一緒に仕事をしたり、宇宙を何日も航海したりなど、ほとんどの時間を家の中で過ごす自分には想像もつかない。

「あなたマイン リーバー」

「ん?」

低く眠そうな声が単音節の相槌を打つ。

「お手紙をありがとうございました」

「ああ。どうだった?」

彼が書いて寄越した数式のことだ。

「いけないようでした」

「そうか」

「きっと、全く新しい理論が必要なのですわ。今あるものを一度すべて捨てて、新しいものを作らなくてはならないんです」

「うむ」

「わたくしそれを、大学で探したいと思います。そうしてもよろしいでしょうか?」

冷たい義眼が青碧の瞳をのぞきこむ。日頃は怠惰なオーベルシュタインの表情筋が、今日はよく仕事をし、口元を緩ませた。

「ああ、もちろんだ」

「あなたの分もきっと一生懸命学びますから、わたくしが怠けたり、あきらめたりしないように、ちゃんと見張っていてくださいね」

オーベルシュタインは手を伸ばして指の背でフランツィスカの頬に触れた。

「案ずるな。目を離すと、寂しがる人がいるからな」

「もう」

彼女の笑い声を聞いていると、オーベルシュタインの心身を支配していた緊張がすっとほぐれていく。帰ってきたのだと実感した。

 

遠くで小鳥の啼く声が聞こえる。伸ばした指先に固く薄い感触があって、チリと軽い金属音がした。正体を確かめようと薄目を開けてみれば挿入薬の包装シートであった。1錠だけ残っている。数が合わないような気がしたが、記憶が定かでない。オーベルシュタインはそれをナイトテーブルへ投げ、何度か瞬きをした。カーテン越しに明るい光が入ってくる。もうずいぶんが高いとみえた。

隣ではフランツィスカがぐったりと横たわっている。はだけた胸元に花びらを散らしたように蹂躙の痕が見える。夢中でむさぼった。彼女がかすれた声でもうだめだと訴えても、渇望を抑えられなかった。初めて「愛している」という言葉を口にしたとき、彼を受け入れる身体に強くしめつけられた。

オーベルシュタインの脳裏に突然、遠い宇宙で出会ったあの娼婦の言葉がよみがえった。

――子供がいたら、きっと生きるのが辛くはなかった。

女はそう言った。

ーーフランツィスカは、本当はどう思っているのだろう。自分が死んだ後、子供があればよかったと、彼女も思うだろうか。

哀しみとも苦しみともつかぬ感情に支配され、彼は目を閉ざした。ほどなく、頬に暖かい指先を感じた。親指が目の下の柔らかな皮膚の上をすべり、まなじりをたどって頬全体が包みこまれる。

再び目を開けると、青碧の瞳がまぶしげにこちらを見ていた。

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Der Weg zum Friedhof (2)

帝国暦472年12月13日

「奥様、写真ができてまいりましたよ」

遠慮がちにかけられた執事の声に、フランツィスカははじかれたように振り向いた。彼女の後ろでは数式処理システムが高度で複雑な抽象世界を描き出している。意識が現実世界に戻ってくるまで数瞬を要した。

差し出された写真を見て、フランツィスカの顔がほころぶ。昔ながらの平面写真である。オーベルシュタインが出張から帰宅した翌日に、この部屋で撮ったものだ。ライティングビューローの前に座るフランツィスカ、その椅子の背に手をかけて立つオーベルシュタイン、二人の足元では犬が伏せている。机の上のガラスの花瓶には、夫が出張帰りに求めてきたスノーフレークが活けてあった。

写真を撮った日、帝都を不在にした間にたまった請求書を片付けるオーベルシュタインの横で、フランツィスカはにこにこと花を眺め続けた。白く可憐な花と繊細な緑の茎が、草木の枯れる冬のこの時期に小さな喜びを与えてくれるようだった。何より、夫が贈ってくれた花だというのが嬉しい。「このままずっと枯れなければよいのに」とつぶやいた声を、お茶を運んできたラーベナルトが聞きとめて、カメラを取り出してきたのである。

「花だけでは味気ないでしょう」

執事は逆らいがたい迫力で、主人夫妻に一緒に収まるようにすすめた。二人で写真を撮るのは初めてである。なぜか婚礼のおりの写真もない。誰一人、そこへ気が回らなかったのだ。どうやら執事はそれを悔やんでいたようだった。

それから数日後に花は枯れてしまったが、書斎で撮ったこの一枚には幸せな記憶と姿が閉じ込められた。

「ありがとう、ラーベナルト」

フランツィスカは写真を額に入れて、ライティングビューローの机上に置いた。普段は写真を嫌うオーベルシュタインであるが、それを見ても何も言わなかった。

 

オーベルシュタインは数日来、深夜の帰宅が続いている。月初に戦端が開かれた叛徒との戦闘が終結し、人事局が急激に忙しくなったためだ。ひとたび戦闘が終われば、論功行賞、昇進・降格、異動、戦死公報の発行、兵員の補充、戦没者の遺族及び戦傷病者への恩給の支給など、業務が山積みとなる。人事局に属する人事課・厚生課の二つの課では、前線の戦闘終結をもって戦闘が開始するようなところかあった。

課員への負担もさりながら、人事局を真に苦しめたのは予算不足である。行政とは、予算の裏付けがあって初めて動かすことができるものだ。軍政とて同様である。軍務省の各局各課では戦闘終結が翌年になると見越し、12月末の会計年度末に向けて予算を使い切ろうとしていた。そんなところへ大量の業務が湧いて出たものだから、予備費だけでは到底追いつかず、急遽補正予算を組む羽目になった。時期が時期だけに、財務省も渋い。だが結局、財務省は、「官僚主義をもって軍の行動を制約するは、国家への反逆である」という使い古された恫喝に屈し、軍務省の思うままに金を出した。

そういうわけで、フランツィスカはこのところずっと一人で夕食を取っている。今日も土曜日だというのに、夫は遅くなると言って出かけて行った。イライラとして何もする気にならず、台所の作業台でヘルガと向かい合わせに座り、彼女が芋の皮を剥くのを見ているところだ。

「ヘルガはいいわね。いつもラーベナルトと一緒ですもの」

「どうでございましょうねえ。夫婦がいつもべったりというのも善し悪しでございますよ」

「そうなの?」

「長い間夫婦をやっていますと、それはいろいろございますからね」

ヘルガは手際よく芋を剥き終わり、豌豆の鞘を取り始めた。

フランツィスカはヘルガから料理を習いたいとオーベルシュタインに頼んだことがある。夫は調理技術の習得自体には反対しなかったが、いくつか条件をつけた。

「ヘルガの仕事に君に料理を教えることは含まれていない。習うならば、ヘルガにではなく外に習いに行くように。それから、君が料理をするのは趣味であって仕事ではないのだから、ヘルガの職分を犯してはならない」

フランツィスカは結局、料理はやめにした。彼女の夫は食に対して非常に保守的な人で、外で食べるものはたいてい口に合わないのだ。ヘルガと同じように作れないのなら、自分が料理を覚える甲斐がないと、フランツィスカは思った。彼女がそう言って、「愛する人を逃さない秘訣は胃袋を捕まえておくことだそうですわ」と、小説で得た知識を披瀝すれば、オーベルシュタインは、「お前の主人はあの手の本を読んでは、実にくだらぬことばかり覚えるな」と機嫌よく犬に同意を求めた。

 

翌、日曜日。

給仕に立つラーベナルトは、オーベルシュタインの目の下にできた濃いくまにいたわしげな視線を走らせた。主人は今日も軍服を身にまとっている。

「旦那様、クライデベルクのお城から年末のご帰郷はいつになるか、と、聞いてきておりますが」

毎日帰りが遅いため、このようなことも朝食時に聞くしかなかった。

「今年はオーディンで過ごす」

「お帰りにならないのですか?」

「ああ。31日、1日、2日と出勤だ」

軍務書は今年、26日から2日までが年末年始休暇と定められた。だが、前線は不休であるし、年が開ければ宮中で新年祝賀の行事が続いて軍の高官も多数出席するため、省内各局に人を置いておく必要があるのだ。この休日出勤の当番はオーベルシュタインの出張中、彼に何の相談もなく決められたものである。新人の務めと黙って従う以外の選択肢はない。

「では、30日までにこちらに戻れるような日程を組まれてはいかがでしょう」

「クライデベルクなどへ行っては時差でろくに休むこともできないではないか。お前たちには例年どおり休暇を与える。食事や家のことはどうとでもなろう」

「はあ…」

ラーベナルトは少しばかり心外である。彼は自身の休暇を心配してこのような進言をしているのではない。確かに主人はこのところ仕事続きである。今日とて日曜だというのに出勤だ。執事としても、ゆっくり休んでいただきたいとは思っている。だが帰省しないとなると、またお城の父君のお怒りを買いはしないか、と、彼はそれを怖れるのだ。

主人の後ろから食後のコーヒーを差し出しながら、執事は助けを請うようにフランツィスカを見た。

「あの、パウル様。わたくしはまた、オーロラを見とうございますわ」

オーベルシュタインはあからさまに嫌な顔をした。フランツィスカの視線の動きから、執事の意を受けた発言だと気付いたからだ。

「オーロラは極地であればどこででも見られるのだ。わざわざ惑星の裏側まで行く必要はない」

「それは、そうですけれども…」

「そうだな、出かけるなら、どこか暖かいところへでも旅行するか?」

フランツィスカには分かっていた。夫が帰省を避けようとするのはきっと義父から彼女を守るために違いない。

「職場では避寒地がよく話題に上っている」

「避寒、ですか?」

「海浜でくつろいだりするようだな」

「海…」

彼女はまだ海というものを見たことがない。心を誘われないことはなかったが、そうした場所は太陽光線が強いはずだ。きっと夫の目によくない影響があるだろう。だから、あまり暑いところはアインシュタインが心配だと、気乗りしないふりをした。

それは結局裏目に出て、

「それならば、なおさらオーディンに留まるべきだ」

と、結局オーディンに滞在することになってしまった。

 

午後になって、フランツィスカのドレスが仕立てあがってきた。クライデベルクでは当然晩餐があるだろうからと、ヘルガに言われてあつらえたものだ。

フランツィスカは当初、服はもうたくさんあるから必要ないと思った。だが、オーベルシュタインは経済というものに対して異なる考え方を持っているようで、ある日、彼女のために作ってやった別口座に残高が増える一方であるのを見て、

「浪費は固く戒めるべきだが、極端に吝嗇というのもいかぬ。懐に余裕のある者が金を使わねば、余裕のない者のところへ金が回らぬからな」

と、もう少し金を使うよう意見した。

そんなこともあって、ドレスは少し贅沢なものになった。濃紺のビロード生地をたっぷりと使い、襟ぐりや袖口に手作業の繊細なレースをあしらってある。手触りもよいし、光沢も美しい。

「どこか気になるところはございませんか?」

「少し胸がきつい気がするわ」

「あら、仮縫いのときは問題なさそうでしたのに。お針子の腕が落ちたのかしら。脇幅を少し出しましょうか」

「ええ、お願い。でも急がなくても大丈夫。お城には行かないことになったのだし」

「こんなにお似合いですのに、残念ですわねえ」

フランツィスカは曖昧に笑って、虫ピンを止めるヘルガの邪魔にならぬようじっとしていた。この家政婦長はおしゃれにこだわりのある人で、暇さえあれば服飾雑誌を眺めている。オーベルシュタインもフランツィスカも、流行だとかコーディネートだとかいうことはろくに分からぬから、服のことはヘルガに任せ切りである。

ヘルガは若い頃、服飾学校で縫製を学んでいた。デザイナーになりたかったのだが、父を亡くして働く必要に迫られ、オーベルシュタインの母の衣装係になったのだ。彼女の主は、帝都の学校に通うために領地から出てきたばかりの13歳の子爵令嬢であった。明るく、おしゃべり好きで、少しわがままな、いかにも貴族の令嬢らしい方であった。

「せっかくですから、これをお召しになって観劇にでもいらしてはいかがですか? お城のお母君が十七、八歳の頃は、よく劇場へお出ましでしたわ。それはもう、ドレスをとっかえひっかえして」

芝居を見ることが目的ではない。社交界にデビューした貴族令嬢にとって、劇場は異性との出会いの場である。ヘルガも付き添って出かけることが多かった。

「観劇…。オフィーリアが見られるかしら?」

「確か、『ハムレット』でございますね。古典劇に関心がおありですの?」

「そういうわけではないの。ただ…」

フランツィスカは鏡台の上の香水瓶をちらと眺め、懐かし気な表情をした。

「わたくしの父はね、母の演じたオフィーリアを見て恋をしてしまったのですって」

「まあ、すてき。奥様のお母君もさぞお美しい方なんでございましょうねえ」

オーベルシュタインの両親が出会ったのも劇場であった。もっともこちらは、舞台と客席ではなく、幕間のサロンであった。オーベルシュタインの父は、貴族の若様にありがちなきかん気なところはあったが、陽気で快活な青年将校であった。男爵家の生まれながら勤勉なところを当時のオーベルシュタイン子爵に気に入られ、養子となったのである。令嬢の結婚を機に、ヘルガはお屋敷を下がった。子爵の従者であったラーベナルトと結婚したからだ。

「ねえヘルガ。お義母さまはなぜ、何もお話しにならないのかしら」

「さあ、なぜでございましょうか」

ヘルガはそう答えたが、彼女の心の中には一つの答えがある。きっと罰していらっしゃるのだ。夫君と自分自身を。

オーベルシュタイン子爵家の若い夫婦は、結婚から4年ほどは、仲睦まじく暮らしていた。その間、ラーベナルト夫妻には娘が一人生まれ、その子が2歳になったばかりで悪性の流感によりあっけなく喪ってしまった。夫人が懐胎したのは、ちょうどその頃である。泣き暮らす日々であったヘルガは、夫人に請われ、今度は侍女として身辺に仕えることとなった。我が子を亡くして間もない彼女は、複雑な思いを抱えながら、次第にお腹の大きくなる夫人を世話した。

そして、待望の御子の誕生とともにすべてが変わってしまった。養子の旦那様は、息子の障害を妻の遺伝のせいであると責めた。そればかりか、二つ身となったばかりの妻の枕元で、生まれた子を処分するべきだと主張した。その時の光景を思い出すと、ヘルガは今でも胸がつまる。夫人は生まれたばかりの我が子をしっかりと抱きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしていた。彼女はそのとき初めて、貴族も平民も変わらないのだと身を持って知ったのだった。

 

「大奥様のお心のうちは存じませんけれども、若様を大事に思っていらっしゃることだけは、間違いございませんわ」

フランツィスカはヘルガの目を見て、こくりとうなずいた。

ちょうどそのとき、隣の寝室からラーベナルトの哀願するような声が聞こえてきて、二人は顔を見合わせたままくすりと笑った。犬がまたベッドに上がって寝ているようだ。

アインシュタインはこの家における自分の地位を、オーベルシュタイン、フランツィスカに続く3番目だと決めている。彼の次がヘルガで、最後がラーベナルトだ。そのため、犬はラーベナルトの言うことをあまり聞かない。

主人のペットの身分が使用人より上という考え方はあるだろう。だが、なぜ自分が妻のヘルガより下なのか皆目分からぬ。執事はそう言って嘆いる。

けれども、フランツィスカには何となく分かるような気がした。ラーベナルトは優しい人で、妻が小言らしきことを言っても黙って聞いてやるのが常である。子供がなくとも、助け合ってともに生きている執事夫妻は、フランツィスカにとって幸福な夫婦の見本のように見えた。

「アインシュタインはだんだん頑固になるわね。やっぱり年のせいかしら?」

着替えを終えたフランツィスカは、寂しげにこぼして寝室へ続く扉へ向かった。

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Der Weg zum Friedhof (3)

帝国暦472年12月21日

オーベルシュタインは約2週間ぶりに丸一日の休養を取ることができた。もとより彼には、寝間着のままごろごろ過ごすような怠惰な習慣はなく、自宅ではまず家長としての責任を果たさなければならなかった。帳簿を確認し、請求書を処理し、得体の知れぬ招待状にすべて欠席の返事をして、ようやく一息つく。

午後、フランツィスカに乞われて、犬の散歩がてらブルーメン広場のヴァイナハツマルクトへやってきた。ヴァイナハテンの由来はとうの昔に忘れ去られてしまったが、毎年、年の暮れに広場に出される市場は人々の変わらぬ楽しみである。好天に恵まれた日曜日だ。広場には子供たちのはしゃぎまわる声が響き、食欲を誘う食べ物の匂いが満ちている。移動式遊園地キルメスが設営され、軽快な音楽とともに回転木馬が回る。

とても、平和に見えた。

そう見えるだけである。

オーベルシュタインは出張から戻ってこの方、来る日も来る日も戦死公報の発行手続をし続けた。前線から届く報告に基づき、戦死した将兵の戸籍地へ公式の死亡通知を送るのである。戦死公報がなければ遺族年金の受給資格を得ることができないため、銃後の家族にとって、それは凶報であると同時に、今後の生活を支える重要な書類である。

戦況の詳報はオーベルシュタインのレベルまで降りてきていないが、どうやら一方的な敗北を喫したらしく、死者は70万人に上っていた。しかしながら、軍の広報課がこの事実を広く人民に知らしめることはない。戦死傷者数をありのままに公表すれば、その膨大な犠牲が民衆の厭戦感を引き起こすと考えられているからだ。たとえ甚大な被害をこうむったとしても「我が軍の損害僅少たり」と曖昧な表現に終始し、敵軍が勝利の凱歌をあげながら引き揚げたとしても「賊徒をイゼルローン回廊外に駆逐し得たり」と結ぶのが常である。

この十日あまりの期間に、オーベルシュタインのデスクの上を圧倒的な物量の死が通り過ぎて行った。彼とて幼年学校から10年にわたり軍人としての教育を受けてきた士官である。戦争により政治的目的を達成することが絶対悪だとは思わぬし、その途上で将兵の死があるのは当然であろうと思う。だが、これらのおびただしい死には何の意味などなかったように見えて、オーベルシュタインはそれが気に入らない。軍上層部は叛徒との戦争に終止符を打つ気があるのか。ただ漫然と戦争を続けているだけではないのか。そう思うのだ。

戦死公報の処理を始めたころ、オーベルシュタインは気が滅入って仕方がなかった。戦死者一人ひとりに人生や家族があったのだという当たり前のことを、極力考えぬよう努めた。上官は「卿はまだ、死に慣れていないだけだ」と、彼の未熟を笑ったが、果たしてそのとおりであった。数日もせぬうちに、彼もまた慣れた。個々の死が積み重なって構成されたはずの70万という戦死者数が、全体として一つの事象のようにしか見えなくなる。軍人など、まともな神経の持ち主が選ぶ職業ではない。彼はそう自嘲した。

仕事にかかわる感情を家に持ち込むのは正しくないことだと、オーベルシュタインは思っている。彼は普段どおりに過ごしているつもりであったが、ふと気が付くと青碧の瞳が心配そうにこちらを見ていることがあった。何も話さずとも、フランツィスカには何か察するところがあるのだろう。黙って優しい口付けを落とし、そっと寄り添うだけである。そのぬくもりがオーベルシュタインには貴重であった。彼女のそばにいれば、腐臭を放つ自身の精神が浄化されていくような気がした。

 

ヴァイナハツマルクトに設けられ屋台の一つで、レンズ豆とヴルストのスープを食べ終えたばかりのウルリッヒ・ケスラー少尉は、横を通り過ぎたよく見知ったような男の後ろ姿を目で追った。

――オーベルシュタイン、か?

ケスラーは急いで紙ナプキンで口をぬぐい、軍帽と手袋をつかんであとを追いかけた。声をかけてみれば、やはり同期のオーベルシュタインであった。

「…ケスラー」

「おお。ひさしぶりだ」

ケスラーは習慣のままに敬礼しようとした手を、ごまかすように軍帽のつばにやった。オーベルシュタインがフェルト帽を軽く持ち上げて挨拶をしたからだ。思えば、彼がオーベルシュタインの私服姿を見るのは初めてのことである。士官学校ではあまり意識しなかったが、こうして見ると、フォン・オーベルシュタインは、いかにも貴族的な雰囲気を持つ男であった。

その貴族の腕を取る若い娘を見て、ケスラーの耳の先が赤く染まる。吸い込まれそうな美しい瞳がこちらを見ていた。

――すごい美人だ。

年は十六、七であろうか。すらりと背が高い。ケスラーの身長は180センチを少し超えた程度だが、彼女と目の高さがほとんど変わらなかった。いくぶんの期待をこめてオーベルシュタインのほうを見たが、この無口で無愛想な同期は、同行者を紹介する気など皆無のようであったし、ケスラーを紹介しようともしなかった。

「ごきげんよう」

娘はオーベルシュタインの非社交的な態度を意に介したふうもなく、にこやかに挨拶をした。その話し方から、ケスラーは瞬時に、この娘が貴族の令嬢フロイラインであることを察した。彼は辺境の生まれで、帝都に来てから故郷のなまりを矯正するのに大変な苦労をしたものだから、発音や話しぶりを観察するだけで相手のバックボーンを知ることができるという特技を身に着けている。娘は佇まいそのものからして、「エレガント」と名のついた型で成型したかのように美しかった。平民にとっては少々鼻につくところもあるが、美しいものはやはり美しい。

「これはどうも。大きな犬ですな」

腰を落としてごしごしと犬のあごをさすると、犬はケスラーの手についた食べ物の匂いが気になるようで、くんくんと鼻を鳴らした。

「おや、お前。尻尾はどうした?」

「そういう種類だ」

質問に答えたのは、低く乾いた男の声であった。

「なんだ、卿の犬だったのか?」

令嬢がリードを持っているので、てっきり彼女の犬かと思ったのである。オーベルシュタインは喉の奥から是とも否ともとれるような曖昧な音を発して、話題を転じた。

「珍しいところで会うな、ケスラー。卿はどこへ配属されたのだったか」

「辺境警備だ。一昨日、上官に従って帝都に戻ってきた。今日はそこまで書類を届けにな」

ケスラーの親指が独身将校官舎の方角に向けられる。

「卿は?」

「本省の人事課だ」

「内勤か。成績優秀者がもったいない。まあ俺も宇宙艦隊とはいっても、たいがい『世はすべてこともなし』の日々だが」

ケスラーは口惜しそうな表情を浮かべ、同意を求めるようにオーベルシュタインを見た。前線で活躍の場を得られないことを歯がゆく感じているのだ。

「そういえば、この間の戦闘…」

オーベルシュタインの右手が静かにケスラーの言葉をさえぎる。彼の視線を受けた令嬢が犬に声をかけて二人のそばを離れていった。彼女の首にまとわりつくゆるやかな巻き毛がふわりと揺れたとき、ケスラーはその耳の下あたりに明らかに接吻の痕と分かる赤い染みを認めた。思わずオーベルシュタインを凝視する。

――こいつ、意外にやるものだなぁ。

「何だ? 民間人に聞かせる話ではないと思うが」

「ん? ああ、そうだな」

民間人とはえらく他人行儀な言い方ではないか。そう言ってやりたいのを我慢して、ケスラーは先日の戦闘で戦死した同期のことを話題にあげた。久しぶりに会ったのでつい親しげな態度を取ってしまったが、彼はそもそもオーベルシュタインと冗談を言い合うような仲ではない。もっとも、オーベルシュタインに気安く冗談を言う人間の心当たりなど、ケスラーにはなかった。

人事課にいるだけあって、 オーベルシュタインは28名の同期の戦死をすでに承知していた。任官からわずか半年、いずれも二十歳そこらの若者である。彼はまた、ケスラーと同室であった三期上の先輩の名をあげて、その死も伝えた。

ケスラーはしばらくの間、陽気な音楽を奏でる回転木馬を眺めていた。そして、唐突にオーベルシュタインの年末の予定を聞いた。

「こちらで過ごすつもりだが」

「帝都にいる同期を誘って酒宴を開く予定だ。美味いケルシュを出す店を見つけてある。卿も来ないか」

「ああ」

「日時は後で連絡をする。あの美しいご令嬢フロイラインのことは、そのときじっくりと聞かせてもらうとしよう」

オーベルシュタインの口の両端にきっと力が入ったのを見て、ケスラーはにやりと笑った。これは意地でも話さぬ気だな、と思った。

軍服の左袖を少しまくって時計を見る。

「おっと、もう戻らねば。じゃあな」

「では、また」

ケスラーが公園の入り口で振り返ると、無愛想な同期と美しい令嬢が並んでベンチに座り、何かを話しているのが見えた。

 

「パウル様のお友達に初めてお目にかかりました」

「ああ。酒の約束をした」

「友達」ではないと思ったが、オーベルシュタインは訂正しなかった。

ケスラーは士官学校時代に比べ皮膚の色が白くなり、宇宙艦隊勤務の軍人らしくなっていた。前線が合っているようには見えなかったが、本人はそれを希望しているようだ。父に命じられるままに軍人になったオーベルシュタインとは違って、彼は軍に自身の未来を託しているものと見えた。

ケスラーはフランツィスカをお嬢さんフロイラインと呼んだ。夫婦には見えなかったのだ。世間には一目でそれと分かる夫婦もいるのに、その違いがどこにあるのか、オーベルシュタインには不思議であった。

「アインシュタイン、歩けそうか?」

散歩の時間が少し長すぎたようで、犬は座り込んで休んでいる。

オーベルシュタインが出張から帰ると、犬は目に見えて老いていた。耳が遠くなったようであったし、毛づやも悪くなっている。人間より寿命が短いぶん、老い始めると速い。痴呆が疑われる様子をみせることすらある。昨晩など、真夜中に悲しげな声で鳴き続け、フランツィスカは謝りどおしであった。

「すみません、お休みを妨げて」

「寂しいのだろう。こちらに入れてやるとよい」

「でも…」

「かまわぬ」

寝室に入ってきた犬は、フランツィスカの指差した敷物を無視して寝台に上がろうとした。

「いけませんよ、アインシュタイン」

「好きにさせてやれ」

「けじめがつきませんわ」

「よい。来い、アインシュタイン」

犬は寝台に上がるとすぐに丸くなって目を閉じた。二人の気配がすぐそばにあれば、安心できるらしい。

「ありがとうございます、あなた」

フランツィスカはオーベルシュタインの胸に顔を埋めた。優しい人が夫で、本当に良かったと思った。

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Der Weg zum Friedhof (4)

帝国暦472年12月24日

この夜、北西の強い風が吹き荒れ、帝都は強い寒気団の支配下におさめられた。

小さな明かりを残した寝室で一人、フランツィスカは寝台のヘッドボードに身を預けて本を読んでいる。風が窓をがたがたと鳴らし、庭木の梢がざわざわと揺れる。オーベルシュタインは今日も帰宅が遅く、時計はとうに子夜しやを回っていた。

帰りが遅い日は先にやすむようにと言われている。起きて待っていると機嫌を悪くするから、いつもは横になって寝たふりをしている。深夜に帰宅したオーベルシュタインは、物音を立てぬよう静かにベッドに入ってきてそっと彼女の額に口づけて身を横たえる。彼女が眠っていないことには気づいているのだろう。フランツィスカが手を伸ばすと大きな手が握り返してくることもあれば、そのまま腕を引かれて抱き寄せられることもあった。

鳴り止まぬ風の音の間から、遠くに玄関の扉が閉まる音が聞こえたようだった。執事夫妻は先に休ませているから、オーベルシュタインは階下の食堂で一人食事を温めて食し、二階に上がって身の回りのことをすませる。

隣の部屋にいる犬がそわそわと動き回りはじめてからしばらくして、しゃぼんのよい香りがふわりとただよい、湯上りの湿しめった空気をまとわりつかせたオーベルシュタインが寝室へ入ってきた。

寝台に座るフランツィスカを見て、彼は小さく首を振る。

「まだ起きておいでか、フラウ・フォン・オーベルシュタイン」

「あ…、風の音で眠れなかっただけですわ。お帰りあそばせ」

オーベルシュタインは呆れたようにため息をつき、妻の伸ばした両腕に身を沈めて口づけた。

一段と強い風がまた窓を打った。

「数式のことならまたにしてくれ。頭がまわらない」

眠気を含んだ低い声とともに、細く長い指がフランツィスカの巻き毛にからまる。

「え?」

「話があるのではないのか」

「はい…」

フランツィスカはしばらく言いよどんで、オーベルシュタインの頬に手をあてた。

「本当に、クライデベルクにお帰りになりませんの?」

「そう言ったではないか」

明日、いやすでに今日になるか、25日は官庁の仕事納めだ。休みに入ってすぐに出立すれば、数日はクライデベルクで過ごせるはずである。年末に帰郷しないなど、幼年学校に進んで以来初めてのことだと、ラーベナルトは言っていた。執事は、主人親子の仲を心から案じている様子であった。

「ですが、お義父様もお義母様もパウル様のお顔を見たいと思っていらっしゃるのではありませんか」

「どうであろうか」

「もしわたくしのことをご心配下さっているなら、こちらに一人残っても…」

「そうではない」

今の季節、クライデベルクは気温が氷点下数十度まで下がる日々が続く。年末から当番出勤もある。同期と酒の約束もしている。犬も具合がよくないようだ。オーベルシュタインはそんな理由をぶつぶつと述べた。

「それならば、お二人を帝都にお招きしてはいかがでしょう?」

オーディンならばクライデベルクよりずっと暖かいし、オーベルシュタインの仕事に大きな影響もない。もし望まれるならば、春まで過ごしていただくこともできる。

ずっと考えていたのだろう。フランツィスカの口から彼を説得しようとする言葉が次から次へと紡ぎ出された。オーベルシュタインは眉間に深い皺が寄せ、ため息まじりに相槌を打った。

「お義父様にお会いなりたくありませんの?」

「あたりまえだ」

「でもお義父様はきっと…」

「私の家のことに余計な口を挟まないでくれ、フランツィスカ。君には関係のないことだ」

寝返りを打って反対側を向いた夫の背中に、フランツィスカは額を押し当てた。かつてなく冷たい拒絶であった。

義父は恐ろしい人だ。自分が歓迎されていないことは承知している。それでも義父が法外な婚資を積んでまで彼女を息子に妻に迎えたのは、我が子の幸せを願ってのことに違いないと、フランツィスカは思うのだ。心を尽くして話せばきっと、夫との間のわだかまりも消えるはずである。

「お義母様にも、お会いになりたくありませんの? パウル様」

返事はなかった。ただ、身体に巻きつけらたフランツィスカの細い腕にオーベルシュタインの腕が重ねられた。

 

翌朝、朝の食卓でニシンの酢漬けを口に入れようとしたフランツィスカは、わずかに眉をひそめてナイフとフォークを置いてしまった。

「どうかしたか」

「いえ。何だかあまり食欲がないみたいで」

「お粥グリュッツェでも作らせましょうか、奥様」

フランツィスカは喉元に手をやって少し考え、カモミールティーが欲しいと答えた。

「風邪でもひいたのではないか」

夜更かしをするからだと、オーベルシュタインの目が軽く妻を睨む。

「急に寒くなりましたからね。今夜は大雪になるそうでございますよ」

ラーベナルトがフランス窓に目を向けたのにつられるように、オーベルシュタインとフランツィスカも窓の外を見た。葉を散らした庭木が灰色の空に向かって細い腕を伸ばしている。

「雪ですってよ、アインシュタイン」

足元でだらりと伸びていた犬は、気だるげにフランツィスカを見上げた。

「アインシュタインは雪が好きかな?」

「ええ。小さい頃はよく一緒に遊びましたわ」

フランツィスカとアインシュタインは互いにたった一人の友達どうしであったから、いつも何をするときも一緒であった。積もったばかりの真っ白な雪の上を、人と犬の足跡がてんてんと連なるのを見るのは楽しかった。明日は3人で雪の上を歩けるかもしれない。そう思うと、フランツィスカは少し愉快に感じられた。足跡が一人分増えるだけのことが、とても嬉しい。

 

玄関でフランツィスカの頬に口づけたオーベルシュタインは、軍帽を受け取ろうとした手を宙で停止させ、もう一度妻に身を寄せて今度は唇を額に触れた。

「少し熱っぽいのではないか」

「そうですか?」

フランツィスカが額に手をやる。

「ヘルガ、医者を呼んでやれ」

「大丈夫ですわ。今日はゆっくり横になっています」

「…。無理はせぬように」

「はい。お早くお帰りあそばせ」

オーベルシュタインは執事の手から鞄と軍帽を受け取ると、いつものように犬の頭をなでて、冷たい空気の中へ出かけて行った。

 

昼前になってフランツィスカの部屋にやってきたヘルガは、ベッドのそばの椅子に座りフランツィスカに声をかけた。顔色がよくない。前髪の下に手を差し入れると、やはり少し熱があるようだった。

フランツィスカが億劫そうに瞼をあげた。

「ご気分はいかがですか?」

首が左右に振られる。髪の生え際にうっすらと汗が浮かんでいるのを見て、ヘルガは「少しスチームを小さくしましょうか」と言いながら、壁際のラジエーターに向かった。この家では暖房はもっぱらスチームに頼っており、暖炉はただの飾りである。細かな煤が出る暖炉は、義眼に悪い影響を与えるからだ。

「お腹は?」

「痛いわ」

「やっぱりお医者様をお呼びしましょう」

「ううん、いいの。また薬の副作用かもしれないもの」

3か月ほど前、着床抑制剤を飲み始めてからしばらく、フランツィスカは今と同じように体調が悪かった。吐き気がし、微熱も出た。

――おかわいそうに。

ヘルガは家事で荒れた手が当たらぬように、指の背でフランツィスカの顔にかかった髪をよけた。この若いフラウは夫のために子を持たぬことを決めたのであろう。だが、一人の女として、愛する人の子を産みたいと思うのは当然ではないか、とヘルガは思う。世話係としてオーベルシュタインを幼い頃から育ててきたヘルガは、もちろん主人の気持ちを痛いほどよく分かっている。だが、このことに関してだけは、主人を恨めしく思う気持ちがあった。

「少しでも何かお上がりになったほうがよろしゅうございますわ」

「でも気持ちが悪くて」

「お飲物はいかがです?」

「…レモネードなら」

「かしこまりました。すぐにお持ちしましょうね」

立ち上がろうとしたヘルガを、フランツィスカが呼び止める。

「あのねヘルガ。昨日パウル様にお願いをしたの」

「お願い?」

「明日からのお休みの間、お義父様とお義母様をこちらにお招きしてほしいって」

ヘルガは驚いて口を開け、それから期待に目を輝かせた。

「旦那様は何と?」

「今日お帰りになったら、クライデベルクにヴィジフォンを入れてくださるそうよ」

「まあ!」

「ヘルガ。お義母様は、来て下さると思う?」

「そうでございますねえ」

心もとない返事をしながら、ヘルガは部屋を見回した 。ここは以前、オーベルシュタインの母が使っていたものである。オーベルシュタインが生まれたのも、まさにこの部屋であった。義眼の手術が一段落してオーベルシュタインとクライデベルクに帰ってから、お城の奥様は一度として領地を出ていない。城から出ることさえない。

「もしお義母様に聞かれたら、ヘルガからもお勧めしてね」

「もちろんでございますわ」

家政婦長はにっこりと微笑んだ。この心優しい方の願いを、何とか叶えて差し上げたいものだと思った。執事夫妻がオーベルシュタインと両親とのことでどんなに気を揉んでも、所詮は使用人である。だが、フランツィスカは家族だ。よい方向にすすめることができるかもしれない。

「奥様、雪が降らないうちに市場へ行ってまいりますわ。アインシュタインも一緒に連れて行こうと存じますけれど」

「ありがとう。この子、この頃すぐに疲れてしまうの。もし途中で休みたいと言ったら、急かさずに待ってやって」

「かしこまりました」

スチームのそばで眠る犬に散歩だと声をかけると、アインシュタインは急に若返ったように飛び起きた。寝台に前足をかけてフランツィスカを起こそうと顔をなめる。彼女がヘルガと行くよう言うと、何度も振り返りながら出かけて行った。

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Der Weg zum Friedhof (5)

帝国暦472年12月25日

夕方から降り始めた雪はどんどん激しさを増し、見る間に帝都を白く塗りつぶした。比較的温暖な帝都でこのような雪が降るなど滅多にないことだ。初めは珍しさに喜んだ人々も、やがてその尋常ならざる様子に不安を覚えた。雪が帝都の交通に重大な影響を来たしはじめたからである。

軍務省に刻々と入ってくる情報によれば、各所で事故が発生しているとのことであった。地上交通管制局は無人運転の地上車をすべて最寄の車庫に強制誘導した。タクシーの空車は全くない。民用空港も軍港もすべて閉鎖された。最後まで動いていた路面電車も、先ほど運行を停止したとの連絡が入ったところである。

仕事納めのこの日、 官庁街のかなりの官僚が仮眠室やタンクベッドで夜を明かすことになりそうであった。

軍務省でも帰宅を諦めた者が多い。

「オーベルシュタイン、卿はどうする?」

課室から見える外の景色は、一面白くけぶっている。

「私は歩いて帰ろうと思います」

「家が近いのは結構だな」

オーベルシュタインの自宅までは3.5キロほどの道だ。雪があっても1時間ほどかければ帰り着けるはずである。今朝方フランツィスカの具合が悪そうであったのが気にかかっていた。クライデベルクに連絡を入れると約束もしたことだ。きっと帰りを待っているだろう。

 

その頃、ファイルヒェン街24号のオーベルシュタイン家は、思いがけぬ客を迎えていた。オーベルシュタイン家の当主である子爵その人である。慌てふためく執事夫妻は、少々酒が入った子爵に大声で叱責を受け、息子の不在を理不尽にとがめられた。

子爵はこの日の午後、任地から戻ったその足でクライデベルク行きの便に搭乗するはずであったのが、雪で運航中止になったため空港から引き返してきたというのであった。

「今夜はこちらにお泊りになりますか?」

「いや、ブルーメン広場ホテルに部屋を空けさせた。先ほど城の執事に聞いたが、パウルは正月に戻らんそうだな」

「はい。年末年始と当番出勤に当たられたそうで、日程が…」

オーベルシュタイン子爵は応接室に案内しようとした執事を無視して、二階の書斎に上がった。彼がこの家で暮らしていた当時、帰宅後はまず書斎で些事を片付けたものである。

書斎に入った子爵は見慣れぬライティングビューローに視線をやって、その机上に置かれた息子夫婦の写真をぎろりと睨んだ。

「フランツィスカ殿はどうした。出迎えもせんとは無礼な」

「本日はお体の具合が宜しくないご様子でございまして…」

「呼んで来い」

「は、はい」

ヘルガは、気だるげに寝台に横たわっていたフランツィスカを起こし、身支度を手伝った。

「大事ございませんか、奥様」

「ええ、大丈夫」

フランツィスカは鏡台に向かって一度、にっこりと微笑みかけた。口では大事ないと言うが無理をしているのは明らかだ。頬と唇に紅を差してもなお顔色がよくない。ヘルガはフランツィスカを支えるようにして書斎へ向かった。犬が後ろをついてくる。

「ようこそお越し下さいました、お義父様」

書斎机の向こうに座る軍服姿の義父は、そばへ寄ろうとした犬を邪険に追い払った。組んだ手に顎を乗せて上から下までなでまわすように嫁を見る。襟と肩の階級章が中佐を示すものだと、フランツィスカは最近覚えたばかりである。

「体が弱いとは聞いていないが?」

「いつもはお健やかでいらっしゃいます、旦那様」

「黙らんか! 使用人が聞かれもせぬことを答えるな」

「申し訳ございません」

ヘルガは、フランツィスカが自分に向かって小さくうなずくのを見て、数歩下がって控えた。

子爵は書斎机の上に置かれたものをばらばらとめくり、鼻を鳴らした。およそ軍人らしからぬ机である。数学の学会誌が積まれ、数式処理システムから打ち出した計算式の紙がまとめられている。

「これは何だ」

乱暴に投げ出されたのは、大学の募集要項であった。

「パウルは軍を辞めて大学にでも行くつもりなのか?」

「いえ、それは…。それはパウル様がわたくしのために取り寄せてくださったのです」

子爵は冷笑した。

「何を言っておられるのか理解できぬな。あなたは大学に行くつもりなのか」

「はい。パウル様がそうおすすめくださいましたので」

「女が大学とは笑わせる。しかも婚家の金を使って大学に行かせろか。図々しさはクラヴィウスの血だな。いまいましい」

女は大学になど行かぬものだと、フランツィスカは初めて知った。夫は微塵もそんな様子をみせなかった。

「それで、子はできたのか」

フランツィスカは小さく首を振る。

子爵は掌を机に叩きつけた。突然発せられた大きな音に、3人の人間と1匹の犬がびくりと身体を硬直させた。

「跡継ぎを産めと、しかと申しつけたはずだな。忘れたか!」

大声をあげる子爵に向かって、アインシュタインが地を這うような声で低くうなり、歯をむき出して威嚇する。フランツィスカは小さく犬の名前を呼び、手振りで伏せるよう命じた。

子爵は机を回ってフランツィスカの前に立つと、細い顎に指をかけた。

「このようにギスギスに痩せておるから、パウルの食指が動かんのではないか? どうなのだ、ラーベナルト! やることはやっておるのか」

「は、あの、大変仲睦まじくお暮しでございます」

執事は眉をひそめ、フランツィスカを憚りつつ答えた。

「劣悪遺伝子は子もまともに作れんか。医者にかかれ。あなたに問題があるならパウルにめかけを持たせる。異存なかろうな?」

フランツィスカは義父を正視した。妾などパウル様が承知するはずがない。夫を誰かと共有するなど、考えただけでも身の毛がよだつ。義父はなぜ夫の心を分かろうとしないのか。

「何だその目は」

「お義父様。子供のことはどうか、パウル様のお気持ちをよくお聞きになってくだ…」

子爵はいきなり右腕を大きく降って手の甲でフランツィスカを打った。宝石のめ込まれた指輪の爪がフランツィスカの右頬を引っかき、赤い筋を作った。床に伏せていた犬が唸り声をあげて子爵の左手首に喰いつく。ヘルガが走り寄って床に倒れたフランツィスカを抱き起した。

「アインシュタイン、やめなさい!」

子爵は苦痛の叫び声を上げながら、右手を腰のホルスターに伸ばした。

「だ、旦那様、お静まりを」

近づくラーベナルトを銃把じゅうはの角で殴りつけ、子爵は犬に向かって引き金を引いた。

 

オーベルシュタインが軍務省から自宅へ戻る最中も、雪がやむことはなかった。一歩歩くたび、その足跡を消すように天から新たな雪が落ちてくる。黒いコートに白く雪を積もらせて、彼はようやく屋敷にたどり着いた。

屋敷は極めて静かであった。いつも玄関扉の外まで聞こえてける犬の声がしない。ベルを鳴らしても出てくる者がない。ベルは使用人の控室と台所へ届くようになっているはずだ。

自ら扉を押して中へ入り手袋を取っていると、ちょうどホール時計が8時を告げ終わる重々しい音に重なって、何か異音を聞いたように思った。直後、フランツィスカが悲鳴のように犬の名を叫ぶ声が、吹き抜けの天井から降ってきた。書斎であろう。階段の親柱にコートと軍帽を掛け、暗い階上を見上げる。

「遺伝子がすべてを決めるなんて誤りです!」

「何を言うか!」

――父上?!

ホールに妻と父の声が反響する。オーベルシュタインは段を飛ばして階段を駆け上がった。

「遺伝子で人の優劣が決まることはありません! パウル様は…」

「共和主義者か、貴様は!」

オーベルシュタインが階段を登りきり書斎のある廊下へ足を踏み出したとき、2メートルほど先の開いた扉から一条の閃光が伸びて、廊下を隔てた壁にかかる油絵を黒く焦がした。物が倒れる大きな音と、執事夫婦の叫び声がその扉から噴き出してきた。

フランツィスカは胸を焼く熱に一瞬気を失った。再び気がづいたとき、彼女は視線の先に11年にわたる忠実な友が横たわるのを見た。

――アインシュタイン…。

犬は豊かな毛を血に濡らして小さく痙攣している。彼はフランツィスカが伸ばした指の先をぺろりと舐めたが、彼女の腕の上を軍靴が跨いでいった後はもう動かなかった。

オーベルシュタインは書斎の入口に立ちつくした。義眼から送られてくる情報を脳がうまく処理できない。見たくないものを拒絶しようというのか、視界がばちばちと明滅した。彼は肩に手をかけようとした父から身をかわすようにして、よろよろと室内に入った。

妻と犬が転がっている。絨毯にじわじわとどす黒い染みが広がっていく。部屋の奥の方で、額から血を流した執事が立ち上がろうともがいている。家政婦長は床にべたりと座り込んて放心している。

生臭い血の臭いが満ちていく中、廊下を遠ざかる父の軍靴の音がした。

「フランツィスカ」

腕に抱きあげた身体は温もりを失いはじめていた。もはや彼女の魂は死神の手のうちにあるのだと、オーベルシュタインは瞬時に悟った。もう取り戻せない。

「フランツィスカ!」

頬からも唇からも色が抜け落ちて、紙のように白い。こめかみに汗が浮かび、髪がいく筋か張り付いている。浅く切迫した呼吸が繰り返され、弱い脈が細かく打つのが伝わってくる。気道から空気の漏れる音がヒューヒューと鳴った。

「フランツィスカ!!」

名を呼ばれている、とフランツィスカは思った。よく知った胸に抱きかかえられているのを感じる。彼女がこの世で一番安心できる場所である。重いまぶたをこじあけると、薄暗く霞んだ世界の中に夫の目があった。

――ああ。また、そんな悲しそうなお顔をなさって…。

言うことを聞かぬ手をやっと伸ばして、フランツィスカは愛おしい人の頬に触れた。こうすれば彼の心のうちの悲しみがわずかながら癒されることを、彼女は知っている。

「我が、最愛の方マイン・リーベスター……」

生ぬるい血に濡れた優しい手に、オーベルシュタインは自身の手を重ねた。

「…フランツィスカ」

冷たい義眼を見つめ続ける青碧の瞳から、ゆっくりと生気が抜けていった。

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