VI Die Mörder sind unter uns

殺人者は我々の中にいる

Die Mörder sind unter uns (1)

帝国暦472年12月26日

雪の降り積もった早暁、明るい窓の外からは鳥の声だけがやけに大きく響いていた。

静かに書斎の扉を開けた執事夫妻は、部屋に満ちる血の臭いに思わず息を止めた。床に横たわる夫人と犬のそばで、主人が座り込んでいる。乾いた血がその顔や手に褐色の模様を描いていた。

「旦那様…」

返事がない。常に感情を宿さぬ目が、やはり感情を宿さぬまま、死せるものたちを見つめている。

「旦那様。カプセルを手配いたしましょうか」

三度目の呼びかけに、オーベルシュタインはようやく顔をあげて、執事夫妻の存在を認識した。二人ともひどく泣き腫らし、夫のほうは頭に包帯を巻いている。今さらのように、自分は人と違うのだとオーベルシュタインは感じた。このような苦痛の中にあっても、彼は涙ひとつこぼすことができない。

「旦那様?」

「ああ。そうしてくれ」

かすれた声でそう答え、オーベルシュタインは自室へ引き取った。執事が妻に目配せして後を追わせる。自害でもしたりはせぬかと恐れたのだ。だが部屋の扉は、彼女の鼻先で重い音を立てて閉められた。廊下には血の臭いと絵画の焦げた臭いが残った。

数時間後、50年ぶりという帝都の大雪に足を取られながら、葬儀屋がやってきた。器材一式をそろえた遺体処理士エンバーマーをともなっている。20年以上使われていない舞踏室バルザールが開かれ、夫人と犬の遺体は1階に降ろされた。葬儀屋たちは、若い娘と犬の死因が銃創だとみて、すぐに何か外聞をはばかる事態が起きたことを察した。貴族の屋敷には数多くの秘密があるものだ。その秘密を下手に漏らしては命にかかわることも、沈黙の対価として十分すぎるほどの報酬が支払われることも、彼らはよく知っていた。

 

すっかり身なりを整えたオーベルシュタインは、居間に運ばれたライ麦パンとスープを機械的に口に運んだ。しばらくぼんやりとしていたが、やがて何かを思い出したように立ち上がった。

書斎は血を吸った絨毯や家具が片づけられていたが、空気にはまだ血の匂いが混じっているようだった。オーベルシュタインはその殺風景な有様を無言で一瞥して机につき、3番目の抽斗から指輪を取り出して指にはめた。そして、たまった請求書を確認しては小切手を切りはじめた。まるで儀式のように、休日の彼の日課を繰り返したのであった。

舞踏室へ足を踏み入れたのは、日が傾く頃である。そこはひんやりとした空気に満たされていた。天井に豪華なシャンデリアがきらめき、美しい寄木細工が床を彩るその部屋は、今や華麗な霊安室に様変わりしていた。かつて無数の紳士淑女が軽やかなステップを踏んだであろう冷たい床を進み、オーベルシュタインは物言わぬ家族らに近づいた。

彼らはそれぞれ、透明なカプセルの中に納められていた。オーベルシュタインはカプセルのそばに置かれた椅子に座り、中をのぞき込んだ。妻は、襟と袖口に美しいレースをあしらったベルベット地のドレスに身を包んで横たわっていた。髪を整え、薄く化粧も施してある。犬のほうも、白い毛を染めていた血の跡はなく、もとの毛並を取り戻していた。遺体処理士の腕をほめるべきだろう。妻の表情からは死の苦しみが消え、ただ深い眠りについているだけのように見える。これがおとぎ話であれば、口付けで目を覚ますに違いないと思えるほどに安らかな姿で、唇は微笑みをかたち取り、頬にはえくぼさえあった。

だが厳然たる現実が生者と死者とを分けている。もう二度とあの美しい青碧の瞳が彼を見つめることはないのだ。オーベルシュタインは冷たいカプセルに頬をあて、現実感のない現実をかみしめるよりほかなかった。

 

その翌日、凍った雪を踏みながら、オーベルシュタイン家とクラヴィウス家の顧問弁護士がそろって屋敷を訪ねてきた。彼らがオーベルシュタイン子爵家の若様と面会するのは、6月の婚礼以来である。弁護士たちは、応接室にあらわれたオーベルシュタインの顔を見て、恐怖映画のただなかにいるような心地がした。わずか半年前には少年の面影を残していたが彼が、まるで墓場からよみがえった亡霊のような面持ちに代わっている。頬の肉が削げ落ち、青白い顔の中で目の下の濃いくまがいやに目立っていた。

「オーベルシュタイン子爵からご連絡がございました。若奥様は…」

「今となっては、若奥様という呼称はいかがでしょうな、ラインスドルフさん」

オーベルシュタインは二人の弁護士のやりとりに絶対零度の視線を向けた。

「実は若様。ご逝去にともなう手続きしようとしたところ、令嬢には戸籍がなかったことが発覚いたしました」

「…何を言うか。フラ…」

名を呼ぶのが苦しい。

「彼女は、典礼省の発行した身分証明書を持っていた」

「はい。典礼省の電子データには確かに戸籍情報があり、データから生成される謄本にもその記録が反映されております。ただ、紙の原本である帝国貴族系譜簿には記載がないのでございます。貴族戸籍法により、両者に相違のある場合は原本が電子データに優先する旨が定められております。したがって法的には、令嬢が亡きクラヴィウス子爵の嫡出子であったことは認められません」

クラヴィウス家の弁護士が後を受けた。

「10年ほど前、クラヴィウス家にお移りになるにあたっての入籍手続きは私が行ったのですが、その際に典礼省において何らかの手違いがあったものと存じます。ご存知かどうか、令嬢は父君の出奔中にご誕生になられましたので、平民戸籍もございません。ご生母のフェザーンの戸籍にも入っていないようです」

銀河帝国は戸籍制度がよく整備されてた国家である。広大な版図であまねく徴兵、徴税を行うため、戸籍は絶対不可欠のものであるし、監視社会を維持するのにも役立つ。にもかかわらず、法的に彼女が存在したことを示す証拠がどこにもないというのであった。

「これがお二人の婚姻届が受理されなかった原因と思われます。我々に貴族系譜簿の原簿を閲覧する権限はありませんので、写しに原簿と相違なしとの記載があれば、それを信ずるよりほかございません。典礼省の役人は陰に陽に袖の下を要求しておりました。おそらくはこのあたりの事情を餌に、金を引き出す魂胆であったかと」

オーベルシュタインは肘掛についた手に額を乗せてよりかかった。ずきずきと頭痛がした。彼はずっと、不受理の理由が彼の障害のためだと考えていたのだ。

「若様。司法省に就籍申請を出してはいかがでしょう。つまり、二親の知れぬ子と同様、新たに戸籍を作成し、その上で死亡届を出す、という手続を取るのです」

「どうかそのようにご処理いただきたい。オーベルシュタイン子爵の主張なさるところでは、令嬢はその言辞より共和主義者であることが明らかであり、犬をけしかけて子爵に危害を加えようとしたので已む無く射殺した、ということです。ことが共和主義者となりますと、クラヴィウス家といたしましても、いかんともしがたく」

壁際に侍立するラーベナルトは、怒りをこめて二人の弁護士を睨んだ。愛する人を失ったばかりの人間にこうも冷淡に今後の処理を提案する弁護士という人種に対し、反感を覚えずにはいられなかった。そもそも共和主義者であったなど虚言である。子爵はただ激昂して若奥様を手をかけたにすぎない。

「どうなさいますか、若様」

「就籍は不要だ」

「しかし、一人の人間が生きたことを示す公的証拠が何も残らぬのは、あまりに…」

オーベルシュタインは無言で外を眺めた。いつの間にか日が暮れた暗い窓に彼の義眼が反射して、また異様な光を放った。彼女はこの目が好きだと言った。この視線の先には自分の居場所があるとも言った。まさか戸籍すら持たぬとは。本当にこの世のどこにも居場所のない人だったのだ。

「よい」

――私が知っている。それでいい。

 

突然の離別から三日目の夜半、一人の老人がオーベルシュタインの屋敷を訪れた。フランツィスカの家庭教師であったケラーである。彼はフランツィスカ付きであった他の使用人と同様、すでにクラヴィウス家から暇を出された身であった。

「父君と…あまり似ておられませんな」

応接室に通されたケラーは、オーベルシュタインの顔をちらと見て意外な感想を述べた。

「父をご存じなのですか?」

「さよう、もう30年ほど前になりますかな、軍務省で一度。父君が共和主義者を誅殺なさった直後だった」

共和主義者を誅殺、という言葉に、オーベルシュタインの心臓が大きな音を立てて跳ねた。胸にわいた数々の疑問を抑えつけて、最も答えが得やすいであろう質問を投げかけた。

「先生は、軍に?」

「防諜研究所ですな」

老人は自らの膝を何度かなでた。痛むのかもしれない。

「お嬢様は、共和主義者として処断されたのだとか」

クラヴィウス家の顧問弁護士は、令嬢のそば近くに仕えていた3人には彼女の死を知らせたのであったが、その死の理由に彼らは恐怖した。共和主義者とかかわりがあったなどと知れれば、どのような不利益をこうむるか分かったものではない。

特にケラーは冷静ではいられなかった。固く封印した過去があったからだ。

「…言いがかりだ」

確かにフランツィスカは共和主義的な思想に抵抗を持たぬ人ではあったが、オーベルシュタインは彼女が共和主義者であったとは思わない。

「さよう」

ケラーはそう答えたきり黙り込んだ。

オーベルシュタインは執事に命じ老人を舞踏室に案内させる一方で、自身は書斎へ上がり、フランツィスカの数式処理システムに残ったデータを紙に打ち出してきた。

「先生、これを」

「亜空間高次方程式…」

「大学で研究したいと言っていた」

数式を見つめる老教師の目からぽろぽろと涙が落ちて、しわの多い顔を流れ、白い髭を濡らした。半年前からは想像もできぬほど、高度な数式であった。ケラーも理解が及ばぬ内容が数多く含まれている。老人は、冷たい目をしたこの若者がどれほどフランツィスカの才能を愛していたかを知ったのであった。

「先生は素数を専門になさっていたと聞いている」

「さよう。軍には暗号の研究員として呼ばれたのですな。自分で言うのも何だが、私は実に巧みな暗号を作り上げた。だがそれが、共和主義者に利用されたのです」

老人は決してオーベルシュタインと目を合わせようとしない。

「私は一味と疑われ、身の潔白を証明するよう迫られた。それで共和主義者の首魁と目されていた人物に会いに行ったのです。大規模な人事異動の発表がある日で、省内はひどく混乱していた。いやあれは、私のために引き起こされた混乱であったのでしょうなあ」

ケラーはそれだけ言うと、カプセルの中のフランツィスカを見たまま、長い間沈黙していた。

彼は嘘をついている。事実彼は、ジークマイスターが作り上げた反帝国組織の一員であった。素数暗号を駆使して同盟に情報を流していた。だが保身のために、ミヒャールゼン提督を裏切る決意をした。死ぬのが怖かったのだ。ミヒャールゼンの死後は軍を退き、貴族の子弟の家庭教師としていくつかの家を転々とした。貴族の屋敷にいれば、監視もゆるくなる。共和主義からの転向者であると悟られるわけにはいかなかった。

フランツィスカは彼が教えた中で最も優秀な生徒であった。また、父母に棄てられた哀れな娘であった。下働きの者さえ露骨に彼女を見下した。ケラーは自分がフランツィスカに共和主義的な思想を教え込んだとは思わない。たが同時に、ルドルフ大帝とその王朝を称えるような書物も一切与えなかった。

彼には後悔してやまぬ言葉がある。広い屋敷の薄暗いの一角に閉じ込められ、犬の首を抱いて泣いていた少女に、ケラーは言ったのだ。

「人は誰しも生まれながらにして幸福になる権利を持っています。人の価値を決めるのは血筋や身分ではありませんぞ」

その言葉を聞いたフランツィスカの目には、真実を見出したかのような光があった。貴族の子というものは、幼児教育が終わる頃にはすでに貴族の悪徳を身に付けているものである。肥大化した自尊心を押さえることができない。しかし彼女は違った。下町で育った彼女は、強者を優遇し弱者を酷遇するこの帝国の現実を、身をもって知っていたのだろう。

あれは間違いなく、共和主義者として発した言葉であったと、ケラーは思う。フランツィスカが共和主義者として殺されたのならば、あの娘を死に至らしめたのは、きっと師である自分に違いない。その思いが老人の爪先をオーベルシュタイン家に向けさせたのである。

「あなた様は、樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの引力に捕らわれませぬように」

そう言い残し、老人はオーベルシュタイン邸を辞去した

 

同12月30日

フランツィスカとアインシュタインは遺体保存カプセルから棺に移され、ヴェスターヴァルト恩賜公園に葬られた。帝都西郊の森林墓地である。ここに墓地を買うよう指示を受けて、執事は心底驚いた。クライデベルクのオーベルシュタイン家の墓地に葬ることはできぬとしても、森林墓地は平民が埋葬される場所である。貴族が眠るにふさわしい場所ではない。しかも彼の主は、3人分の墓区を準備するよう命じた。いずれ、自らもここに眠るつもりなのだ。

森林公園の日陰には、まだ雪が残っていた。墓区の周囲からは針葉樹の木々が青い枝を伸ばしている。凍った地中に納められた棺に、土がかぶせられていった。

秋にここを訪れたときは、妻も犬も命があった。今は、彼一人が生きている。

ーーあの棺の方は、いずれ土に帰ってこの森の木を育てるのですね。

あの黄金色の秋の日、 広場の芝生から墓地へ入っていく葬列を見ながら、彼女は言った。そして、あの死の湖と同じ色の瞳でオーベルシュタインを見て、小さく笑った。

――また連れてくると約束したというのに。

このような形で再びここを訪れようとは、誰が想像しえたであろうか。風が吹くたび、樹上で氷結した雪がパラパラと降ってきた。

棺が完全に土におおわれても、オーベルシュタインは長い間、その場に立ち続けた。まだ掘り返されぬ隣の墓区を見るうち、少しだけ心が楽になるように感じた。いずれ自分もここでフランツィスカとともに眠るのである。血を受け継ぐ子を持たなかったためかもしれない。土の下でともに木の養分となることが、自分たちにふさわしい死のように感じられてならなかった。

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Die Mörder sind unter uns (2)

帝国暦473年1月7日

憲兵隊本部に現れたオーベルシュタイン少尉を見て、ハウプト大佐は一瞬言葉を失った。こうして直接顔を合わせるのは1か月ぶりだが、全く印象が変わっている。もともと決して人好きのする男ではない。しかしこのように、人に不吉な印象を抱かせる雰囲気を持っていたたろうか。感情のない薄茶色の瞳がかつてなく不気味に見えた。

「卿は…、どこか具合でも悪いのではないか?」

言葉を選んで発せられたハウプトの問いを、オーベルシュタインは低い声で短く否定しただけだった。

「ああ、まあいい。実はな、まだおおやけになっておらんが、卿の父上が拘禁された」

任地へ戻るため軍港へ赴いたところを、憲兵に同行を求められたのだという。オーベルシュタインは顔色一つ変えなかった。

「容疑は何ですか?」

「輸送船の私的使用だ」

「なるほど」

昨年、叛徒の矯正施設から囚人が大量失踪する事件が起こり、ハウプトとオーベルシュタインが調査に赴いた。調査の結果、その失踪にデリング後方輸送基地の長距離輸送船が使われたらしきことが明らかになったのであるが、そのデリングの責任者が他ならぬオーベルシュタインの父である。

「不審死をとげた被矯正者管理部長がおったろう。彼が死ぬ直前にフェザーンの造船会社と接触を持っていてな。そのフェザーン人は卿の父上とも何度か面会していた。それで奴に便宜を図って軍船を使わせたのではないか。と、いうのが表向きの理由だ」

ハウプトはそこで一度言葉を切って、誰もいない室内にちらと視線をはしらせ声をひそめた。

「父上はサイオキシン麻薬製造への関与を疑われている」

突然飛び出してきた帝国最大の禁制品の名に、オーベルシュタインもさすがにハウプトの目を見返した。

「卿は、シリウス方面のサイオキシン麻薬に関する報告を上げただろう?」

確かにオーベルシュタインは、ある娼婦から聞いた噂を報告した。サイオキシン麻薬は重犯罪である。取るに足らぬ噂であっても、耳にした以上は報告を要するだろうと判断したのだ。

「それに憲兵隊の麻薬取締班が目を付けてな。どうやらシリウス方面で同盟語を話す麻薬中毒者に会ったという噂が複数あるらしい。もっとも噂だけで、中毒者本人に直接会ったという者は見つからんようだが」

「つまりフェザーン人を仲介役としてデリングの輸送船で反徒を運び、サイオキシン麻薬の製造に従事させた、と。麻薬取締班はそう考えているのですな」

「そのとおりだ。奴らがその気になれば、無から有を生じさせることもできる。オーベルシュタイン、父君は危ないぞ」

ハウプト大佐は、好意で父のことを伝えてくれたようであった。二人がそろって会議室を出たところで、よく通る豊かな声が長い廊下の向こうから響いてきた。

「よく考え直されたほうがいい。これは内務尚書の意に背くことですぞ」

声の主は閉まったドアにいくつか悪態をついて、横を通り抜けて行った。あまり背の高くない男である。その声にそぐわぬ、赤子のような顔立ちが人にアンバランスな印象を与える。まだ20代半ばであろうに、すでに頭頂がかなり寂しくなっていた。

「社会治安維持局だ」

ハウプトが男の背中に忌々しげな視線を送りながらオーベルシュタインに告げた。

「鼻のいいやつらだ。サイオキシンの臭いを嗅ぎつけてきたらしい。捜査権限を渡せというのだろう」

「では父の身柄はあちらへ移りますか?」

「いや、容疑者が卿の父上であることも知らぬはずだ。それに奴にそんな力はあるまい。内務尚書の犬のそのまた犬にすぎん。もっとも内務尚書は就任から1年あまり、いまだこれといった業績を上げていない。先だってもカストロプ公を逃したばかりだしな。ここらで一つ、華々しい成果を挙げたいのは事実だろうが」

オーベルシュタインはハウプトに礼を言って憲兵隊本部を後にした。父の身の上になど何の同情心もわかなかった。

 

それから数日後、オーベルシュタインは憲兵隊本部から父を収監した旨の正式な通知を受け取った。同時に、父が面会を希望しているとも知らされた。

父と顔を合わせるのは、あの夜以来である。

彼の妻を無残に殺した男には、多少の憔悴がみられた。とはいえ士官でもあるし、子爵の爵位を持つ貴族でもあるから、それなりの待遇を得ているようだ。強化ガラス越しではなく、収監中の個室に入ることが許された。せいぜい、幽閉と言うべき扱いである。

「どのようなご用でしょう」

オーベルシュタインは父と目を合わそうともせず椅子に座った。軍帽を机に置き、注意深くその位置と角度を調節する。

「私の容疑について、何か聞いているか」

「憲兵は何と?」

「指揮下にある輸送船がフェザーン人の手で俘虜の輸送に使われたそうだ。それで私がフェザーン人から何かしらの利益を得たのではないか、などと抜かしておる。まったくもって事実無根だ!」

父の拳が大きな音を立てて机を打ち、ワインのグラスがわずかに浮いた。息子の目は、軍帽の帯に付けられた双頭の鷲の徽章に注がれたままだ。

「父上。信頼のおける法務士官を弁護人に立てられたほうがよろしいでしょう」

「法務士官だと? 私が起訴されるとでも言うのか。この程度のことで」

「父上の容疑は、サイオキシン麻薬にかかわるものだと聞いています」

「何だと!?」

子爵は一瞬呆気にとられ続いて大声で怒鳴ったが、ようやく事の重大さを悟ったようで、まるでピアノの鍵盤でも叩くように五本の指を机上でばたばたと動かした。そして気を落ち着かせるためワインを口に含み、顔色も目つきも悪い息子の冷静な表情を見ながら飲み下した。

「冤罪だ」

オーベルシュタインは黙って軍帽の徽章を見つめ続けた。衝動的に息子の妻を殺し、共和主義者だと言い募った父が、冤罪などという言葉を口にするとは噴飯ものである。

確かに士官には、社会不安の要因となる可能性がある者に対し予防検束を行う権利が与えられている。だが、無抵抗の者をその場で射殺してよいわけではない。

そう言ってやりたかった。しかし彼は沈黙を保った。父に余計な口をきかぬのは、幼少期から培われた自己防衛であったかもしれない。自身の無抵抗主義的態度が妻を死に至らしめたのだと、彼はよく分かっている。にもかかわらず、やはり父に対して何も言い返せないのである。

「樫之木館アイヒェンバウム・ハオスに赴き、ホーエンローエ退役大将にご助力を願え」

「…はい」

立ち上がった息子を父が呼び止めた。

「パウル、すまなかったな。クラヴィウスの娘をお前の嫁にしたは、私の誤りであった。案ずるな、次は必ずよい娘を見つけてやる」

オーベルシュタインは全身の毛穴がぞわりと粟立つのを感じた。怒りと憎しみが吹き出してきたかのようだった。返事もせずに退室し、両の拳を握り込んで憲兵隊本部の暗い廊下を早足で進む。軍靴がカツカツと高い音を立てた。

もし彼の姿を見る人があったなら、軍帽の影に光る義眼にさえはっきりと浮かんだ殺意を容易に読み取ることができたであろう。

 

樫之木館アイヒェンバウム・ハオスは山荘風のこぢんまりとした家であった。格子と斜交はすかいが組み合わさった木組みの外観には数学的な美しさがある。何より人目を引くのは、館の入口にそびえ立つ樫の巨木だ。冬も葉を落とさぬ樫は、冷気を全身に浴びながらもなお瑞々みずみずしくあった。

オーベルシュタインは館を凝視し、腹から白い息を吐き出すと、呼び鈴を鳴らして案内を乞うた。

応接室は暖炉に火が入れられ、木の燃える音と香りが心地好く部屋を満たしていた。棚には趣味のよい磁器が何点か並んでいる。オーベルシュタインは空気に乗って流れる細かな煤に何度か目をしばたかせた。

「よくきたね」

「突然の訪問にもかかわらずお時間を頂戴し恐縮です、ホーエンローエ閣下」

「なに、年寄りは暇だから」

老人・ホーエンローエ退役大将は優しげな目つきと声音でオーベルシュタインを迎えた。

「父親にあまり似ておらんね。卿の奥方のことは聞いたよ。若いのに残念だ」

「痛み入ります」

オーベルシュタインは慇懃に答える。

「それで、今日はどうしたかな?」

「はい。実は、父が憲兵隊に拘禁されました。容疑は輸送船の私的使用です」

ホーエンローエはオーベルシュタインの説明を聞き終わると、サイドテーブルの茶を一口飲んだ。

「その程度ならば心配あるまい。卿の父君は爵位を持つ貴族でもある。憲兵隊も分かっておろう」

地位と権力があれば特別な扱いがなされて当然であると疑いもしない。オーベルシュタインはおそらく生まれて初めて、そのことに強い反感を持った。そのような不平等が、この国では当たり前に許されるのだ。

「しかし閣下。内々に聞き及ぶところでは、父が拘禁されたのには他の理由があるようなのです」

チリンと鈴の音がして、どこからともなく現れたシャム猫が老人の足元にすり寄る。

「憲兵隊は父の口から閣下の名を聞きたいのではないかと」

ホーエンローエは探るような目でオーベルシュタインを見たが、その義眼からは何も読みとることができなかった。

「それが事実なら困ったことだ。だが構わんよ、私は無関係だ」

「父の真の容疑がサイオキシン麻薬にかかわるものであってもですか?」

オーベルシュタインの言葉は、鋭いやいばとなってホーエンローエに切りかかった。

「閣下。閣下はサイオキシン麻薬の疑獄に引きずり込まれようとしておりますぞ」

サイオキシン麻薬。それは銀河帝国最大の禁忌である。ひとたびサイオキシン麻薬に関する容疑をかけられては、絞首刑への階段に一歩足がかかったに等しい。憲兵隊はあらゆる手段を用いて目の前の青年の父親に自白を迫るだろう。

「ほお」

ホーエンローエの皺だらけの指が猫の耳裏をなでるたび、猫は機嫌よさげに喉を鳴らした。

「父は昨年、サイオキシン麻薬から得た利益の一部を閣下に上納しておりますな」

「それこそ身に覚えのないことだ」

「お忘れですか? 閣下は父から180万帝国マルクを受け取られたはずです」

「オーベルシュタイン、卿はどうかしたのか。あれはクラヴィウスの娘…」

「そのような者が存在したことを示す証拠はどこにもありません、閣下」

オーベルシュタインの低く乾いた声が老人の言葉をさえぎった。「証拠はない」と自らの意思で口にしたにも関わらず、彼はまた胸の内の空洞が広がったように感じた。

強い風が窓をかたかたと鳴らし、猫が窓の方へ顔を向けて抗議するような声を上げた。ホーエンローエは若者から目を反らし、宥めるように猫の背をなでた。亡きクラヴィウス子爵の娘を帝国貴族系譜簿へ記載させなかったのは、彼自身である。素性に知れぬ女の生んだ娘をクラヴィウス子爵家の相続人にするわけにはいかぬ。又姪をクラヴィウスに嫁がせるにあたり、彼はそう考えた。典礼省の役人に金をやり、電子情報のみを操作させたのだ。

そしてホーエンローエは、昨年初めに宮内省の官吏が寵姫を求めてこの館を訪れるまで、そのことをすっかり忘却していた。さすがに戸籍も持たぬ娘を後宮に上げるわけにはいかない。そこそこの貴族の家ならば、戸籍の不備など金でいくらでも解決するだろうと思い、このオーベルシュタイン家とクラヴィウス家との婚姻を取り持ったが、かたや劣悪遺伝子の保有者、かたや無戸籍者、と、典礼省の小役人には金のなる木に見えたものとみえる。あれこれと理由をつけては届出を受理せず、そうこうするうちに娘が死んでしまった。いや、この若者の父親が殺したのだ。

「あの金がサイオキシン麻薬の上納金であることを隠すために架空の貴族令嬢を作り上げ、婚資の名目で金員の授受を行った。クラヴィウス子爵はそれを知って抗議したゆえにエルベ川へ突き落された。我が父は、内実を承知している身元の知れぬ女の口を封じようとこれを殺害した。そういうことでございましょう」

暖炉の火に反射するオーベルシュタインの義眼が恐ろしい光を放っている。

「なるほど、よくできた脚本シナリオだ。私がすべての黒幕ということか。作者は卿かね? 父に似ず明敏な質のようだな」

若者は薄く笑ったように見えた。

「だが考えてもみよ、卿の父の供述だけで私に類が及ぶとも思えぬ。私が彼をかばって下手に口を出せば、かえって疑いを招くだけであろうよ」

「閣下。閣下は何か勘違いをなさっておられる。私は父を助けていただきたくて、ここへ参ったのではありません。ただ閣下におかれてはそろそろ、名実ともにご隠居なさってはいかがか、と」

「面白いことを言うね」

「社会秩序維持局が父の身柄を引き渡すよう求めております。内務尚書リヒテンラーデ侯は、我が父を餌に、閣下を釣り上げる腹ではないか、と」

「ほお。卿はその脚本を奴らに売るつもりか」

沈黙の中、暖炉の火が天井にゆらゆらと模様を描き続ける。オーベルシュタインは義眼を刺激する細かな煤の不快に耐えた。

「もう人の人生を弄ぶのはおやめいただきたい。それだけです」

この老人の仲立ちで、フランツィスカは彼のもとに嫁いできた。そして彼らは二人とも、この老人から与えられた人生を大切にしようとしていた。操り糸に繋がれていることに気づかぬマリオネットのようなものだ。悲しく、愚かだ。

「オーベルシュタイン、私は今の生活をとても気に入っているのだよ。誰かに頼られ、力になってやれるというのは、孤独な老人には数少ない喜びだ」

「力になる、ですか。閣下はそう言ってミヒャールゼン中将を暗殺させたのですか?」

それはオーベルシュタインが突き立てた第二のやいばであった。

「閣下、ケラー氏をご存じですな?」

シャム猫が老人の膝の上から飛び降りて走り去った。

「防諜研究所で暗号開発をしていた男です。ミヒァールゼン中将の暗殺にかかわる証人として、私が確保しています」

 

元日の当番出勤日に、オーベルシュタインは過去の将官録を閲覧した。ミヒャールゼン中将が軍務省内で殺された当時、このホーエンローエ老人は中将の階級にあり、人事局の次長であった。

ガランとした課室で、彼は考えた。

軍内で、ミヒァールゼンが叛徒への内通者ではないかと疑われていたが、証拠は掴めなかった。ホーエンローエはまず従卒の幼年学校生を通じてミヒャールゼンを監視させた。帝国の正義を信じ、共和主義者を憎む、狂信的なまでの体制信奉者の少年だ。一方で、共和主義にシンパシーを感じているらしい軍人が防諜研究所に在籍していることを突き止めた。ケラーである。彼は内通の共犯ではないことを証明するため、ミヒャールゼンを殺さねばならなかった。

その日、ホーエンローエは故意に誤った人事異動を発表して省内に混乱を引き起こした。それに乗じてケラーにミヒャールゼンを殺させる計画である。だが、ケラーがミヒャールゼン提督の執務室で発見したのは、ブラスターを握りしめた従卒と机に倒れ込んだ提督であった。もちろんその従卒とはオーベルシュタインの父だ。ミヒャールゼンに帝国と皇帝に不敬の言があったのかもしれない。

「何の証拠もない。卿の妄想にすぎぬ」

「確かに。ですが人は、あらゆる仮説の中から一番もっともらしいものを選び、それを信じるものです。憲兵隊は信じるでしょう。社会秩序維持局はさらに尾ひれをつけることでしょうな」

ホーエンローエは冷たくなった茶を飲みほした。

「父親の件はどうするつもりかね?」

「父のことは私にお任せくださって結構。私とてサイオキシン麻薬などのために連座するのは不本意ですので」

暖炉で暖められた空気が凍りつくような、冷たい声であった。

「親の心、子知らず、とはよく言ったものだな。彼はあれほど卿を愛しているというのに」

「逆もまたしかりです、閣下。父は私の心など知ろうともしませんでした」

「卿の心?」

「私が妻を愛おしく思っていた、ということです」

言葉とは裏腹に、その義眼は何の感情も映しておらず、声も冷たく渇いたままだった。ホーエンローエは無言のまま燃え盛る火を見つめた。内心、激しく動揺していた。

――この男も大切なものを奪われたか。その憤怒を胸に生きるか。

彼にも若くして命を落とした妻があった。半身をもがれた喪失感は50年が経った今も消えることはない。その寂寥が彼を動かす原動力であったのだろう。彼を頼り、周囲に集まる者たちによってその寂寥を埋めてきたのである。

「よかろう。私はオーディンを離れることにしよう」

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Die Mörder sind unter uns (3)

帝国暦473年1月20日

オーベルシュタインは収監中の父に面会するため、憲兵隊本部を訪れた。父は身ぎれいにこそしていたが、疲労の色は隠せなかった。藁色の髪に交じる白髪がまた増えたようである。

「ホーエンローエ閣下は、助けることは叶わぬと仰せでした、父上」

「何だと?」

「社会秩序維持局がホーエンローエ閣下を引きずり出そうとしています。閣下は、本件にかかわるお心づもりはないようです」

「私にありもせぬ罪を認めよというか。もう一度行ってこい、パウル。閣下は大切なことをお忘れではないか、と」

父のいう「大切なこと」とは、ミヒャールゼン中将殺害の一件であろう。ホーエンローエと対峙したとき、オーベルシュタインに確証があったわけではない。表面に現れた事象をつなぎ合わせて、彼が最も確からしい真実を構成したに過ぎない。だが、ホーエンローエが引き下がったことで、それは確信に変わった。

ミヒャールゼン中将を殺したのは、当時従卒を務めていた父である。父とホーエンローエはその秘密を共有した。ホーエンローエはおそらく、当時の軍上層部の意向を受けてミヒャールゼン殺害を企てたのだ。しかしながら、父がブラスターの引き金を引いたことは計算外であったに違いない。ケラーを切って一件落着するはずが、ホーエンローエは父を庇護せねばならなくなった。父は、軍人としては無能な男であるにもかかわらず、旨味が多く、危険の少ない部署で昇進を重ね、何の武勲もあげずに中佐の階級を得ている。

オーベルシュタインを幼年学校に入れる際には、父が秘密を利用してホーエンローエの助力を得た。クラヴィウス家との縁組にあたっては、婚資という名の金を引き出すため、ホーエンローエのほうが父を利用した。180万帝国マルクなど、彼の目の障害を差し引いてもあまりに法外な額である。おそらく金が必要であったのだ。あるいは帝国の貴族社会を巻き込んだ骨董バブルがその一因であったのかもしれない。

「父上。閣下は私を殺すおつもりなのです」

オーベルシュタインは膝に置いた手を見つめた。

「何を言う。お前は関係なかろう」

「シリウス方面におけるサイオキシン麻薬に関する疑惑を報告したのは私です。事実、そのような噂を耳にしましたので」

「何?」

「父上が罪を認められぬ場合は、私が虚偽の報告により閣下を陥れようとしたことになりましょう。もはや致し方ありません。父上が死ぬか、私が死ぬか、どちらかです」

「おのれ、老人め…」

机に両肘をつき額を預けた子爵の前に、小瓶が置かれた。中身が毒であることは明らかだった。

「どうなさいますか、父上。私は構いませんが」

オーベルシュタインにとって、人生で初めての命をかけた賭けであった。父に死ねと命じられれば死ぬつもりである。だが、ホーエンローエの言うように父に息子への愛があるならば、父は自ら死を選ぶであろう。

父は白髪の多い髪の毛をかきあげて、何の装飾もない天井を見上げた。

「よかろう。明日、また来い」

「はい」

扉を開けようとする息子を、父が呼び止めた。

「母上に顔を見せに帰れ」

「…はい」

それからしばらく、オーベルシュタイン子爵は息子の去って行った扉から目を離さなかった。昔から何を考えているか分からぬ子供であった。目つきが悪く、常に淡々として、可愛げがない。むやみに感情を表さないのは貴族として讃えられるべきことであるが、親に向かって笑いかけたことすらないのだ。

なぜ自身が劣悪遺伝子保有者の息子など持ってしまったのか。貴族は優良な遺伝子を持っているはずである。彼自身も、帝室を重んじ、その藩屏たらんとして生きてきた。それにもかかわらず、あのような子が生まれた。息子の存在は彼の矜持を傷つけるものであったし、銀河帝国と皇帝陛下に対する忠誠心を損なわせるものに感じられた。消し去りたかった。

息子が生まれたとき、非常に徹するべきであったのだ。しかし、赤子を隠すように胸に抱いて、ぽろぽろと涙をこぼした妻を目の前にして、彼は情に流された。子供を生かしたことで、どれほど多くのものを失ったことか。実家のオッフェンバッハ家とも疎遠になり、社交界とも切れた。いや、彼のほうから身を引いたのだ。

子爵は息子を恥じる心をどうしても消すことができない。学校でいくらよい成績を修めようと、今後どれほど出世しようと、息子が劣悪遺伝子保有者であることには変わりない。どうしても、認めることができなかった。

しかしあの娘は、クラヴィウスの娘は何と言ったか。遺伝子がすべてを決めるなど誤りだと、この国の定法を公然と否定した。二十年にわたって子爵を苦しめてきたものを、あの娘は簡単に受け入れたのだ。

息子の書斎に置かれた写真の中で、我が子は子爵が見たことのない穏やかな表情をしていた。口元には笑みさえ浮かべていた。子爵が抑えきれぬ憤怒を胸に屋敷を出ようとしたとき、妻の名を叫ぶ息子の悲痛な声が屋敷内に響き渡った。

――共和主義者め。

彼の息子はあの娘に取り込まれたのだ。

ホーエンローエの仲立ちにより決まった縁談は、クラヴィウス子爵が急逝したことで、一度は白紙になりかけた。だが、彼は遠いクライデベルクで夫を責め続ける妻に、オーベルシュタイン家の跡継ぎを見せてやりたいと思った。残る命が少なくなりつつある妻への、罪滅ぼしのつもりであったのかもしれない。そうだ、妻はもう長くない。妻は何も言わないが、彼は知っている。

所詮、この国に劣悪遺伝子保有者の生きる場所などないのである。果たして息子はどのような一生を送ることになるのか。息子が生まれて20年にして初めて、子爵はそれを気がかりに思い、そのような自分自身が滑稽でならなかった。

 

オーベルシュタインが父の遺体を引き取ったのは、その翌日のことである。

それから3日後、オーベルシュタインは執事夫妻と父の棺を伴ってクライデベルクに帰郷した。真冬の故郷は、地上すべてが雪と氷に覆われ、北国の太陽が低い位置で銅貨のようなにぶい光を放っていた。

城の使用人たちは子爵の突然の死に驚いた。わずか1か月ほど前、共和主義者であったらしい若奥様が処断されたばかりである。そして今、城では子爵夫人の病状が悪化して昏睡状態にあった。帝都の若君に連絡をしようかどうかと、話し合っていたところだったのだ。

オーベルシュタインは父の埋葬を先送りして、母の部屋を訪れた。母は医者も薬も一切拒否しているのだという。この20年の間、オーベルシュタインが生まれてからずっとそうなのだと、侍女が泣きながら話して聞かせた。母の体調がすぐれぬことに気づかぬではなかったが、死期が迫っているなどとは思いもしなかった。

床に伏せる母は、ひどい顔色であった。頬がこけ、目がくぼみ、髪も潤いを失っている。一目見て、「もう、死ぬな」と思った。そう思うと、胸に迫るものがあった。母は、やはり母なのだろう。

母は夜中に一度、意識を取り戻した。

「母上」

寝台の脇から声をかけた息子の姿を認め、彼女の目に不思議なものを見たような色が浮かんだ。

「母上。帝都へお移りになりませんか」

夫人は瞳を閉ざし、ぼんやりとする頭で、もしかすると月日が遡ったのではないかと思った。そして、そんなはずはないと、瞳を閉ざした。

 

これがもし、あの日であったらどれほどよかったか。先月24日の夜、以前、子爵夫人の侍女であったヘルガ・ラーベナルトが突然連絡を寄越した。ヘルガはこれまでも手紙で息子の様子を知らせてくることはあったが、直接ヴィジフォンを入れるなど初めてのことだ。どうやら屋敷ではなく、出先の郵便電話局のブースからのようで、画面の下のほうで犬の頭らしき白いものがうろうろとしていた。フランツィスカの犬であろう。

「若奥様が、お城の奥様と旦那様を帝都のお屋敷にお招きしたいとお願いなさって、若様がご承知なさったようですの。今晩、若様がお帰りになったらお城へご連絡なさるおつもりだそうですわ。どうか奥様、ぜひともご承知になって、帝都にお出ましくださいまし」

哀願するようなヘルガの声にもかかわらず、子爵夫人は何の承諾も与えなかった。この頃、体がどんどん弱っており、帝都に行けるかどうか分からなかったからだ。だが、少々の無理をしても、行ってみたいような気もした。きっと息子を優しい眼差しで見つめていたあの嫁が、夫と義父母の仲を案じてくれたに違いないと思ったのである。このような前向きな気持ちになったのはいつぶりだろうか、と、夫人は思った。

だが、待てども待てども、息子からの連絡はなかった。そして、惑星内旅客機の欠航で予定より1日遅れで帰宅した夫から、驚愕するべき事実を告げられた。

「パウルの嫁は手打ちにした。あれは共和主義者だ。パウルのそばに置いておいて害になる。まったく、とんでもない娘を押し付けられたものだ」

夫人は言葉にならぬ声を発して失神し、そのまま寝付いてしまった。もう枯れ果てたかと思っていた涙が、後から後からあふれた。秋にサロンでともにお茶を飲んだときのことが思い出された。彼女の息子はミルクポットを取って妻に渡してやっていた。その何気ない姿から、彼らの間に確かな信頼と思いやりがあることを夫人は感じたのだ。それは、自分たち夫婦が無くして久しいものであった。

 

「母上、どうか帝都で治療をお受けになってください」

彼女の追想は息子の言葉によって中断された。言葉とは裏腹に冷たい義眼が、無表情に彼女を見ていた。遺伝子がすべてを決めるなど誤りだと、あの娘は夫にそう言ったのだという。そうだったのだ。なぜそんな当たり前の道理が、わたくしには分からなかったのか。もしこの子にそう言ってやっていれば…。

――もう、何もかも遅い。

「パウル」

細くかすれた声が、ゆっくりと息子の名を呼んだ。

「はい」

「フランツィスカ殿は、あなたを愛してくれたのですね?」

「…はい」

「あなたも、そうだったの?」

オーベルシュタインは黙ってうつむいた。

「そう。ひどいお父様ね…」

悲しげに微笑んだように見えた母は、それきりまた昏睡状態におちいった。母が彼の心に寄り添うような言葉をかけたのは、このときが最初で最後であった。父を非難するその声音にも、やはりいくぶんか、父に対する愛情のようなものが含まれているように息子の耳に響いた。このまま父の死を知らずに逝かせることが母のためであろうと、彼は思った。

そして母は、高緯度地帯の遅い夜明けが来る頃、静かに息を引き取った。

後には、母からの手紙が遺されていた。

 

“パウル

母は、後悔のうちに死にます。

傷つくのを恐れるあまり言葉を惜しんで生きてきた、その後悔が母を死なせるのです。

わたくしは、あなたとフランツィスカ殿が互いを想い、幸福な日々を過ごしていることを知っていました。あなたが家庭の中に安らぎの場を得たことがとても嬉しかった。

オーベルシュタイン家のことは、あなたの自由になさい。ただ、領民たちの暮らしが立つようにしてやってください。

それだけです。”

 

もし子爵夫人がこれを直接語ったならば、彼はどれほど救われたろうか。オーベルシュタインは何と母らしいことかと思った。最後まで言葉を惜しんだ方だった。いや、それはオーベルシュタインも同様である。彼とて、自ら母に話しかけたことなど一度もなかった。母と子の間には、常に緊張の粒子でできた濃い霧があって、互いをはっきりと見ることはできなかったのである。

 

オーベルシュタインは二つの棺を乗せた小舟とともに、青白く輝く湖を渡った。舟の舳先へさきが湖面を覆う薄氷を砕くたび、きしむような音がこだました。彼は毛裏のついた黒いコートを身にまとい、頭にフードを深くかぶせて小舟に立っている。湖の周囲には雪が降り積もり、オーベルシュタインの見つめる対岸の墓所も、白い石灰岩がなおさら白く見えた。その白い世界に、葬列の人々が黒い染みを作っている。

棺に従う者たちのすすり泣く声が湖面を渡る。ただオーベルシュタインのみが超然とした姿勢を崩すことがなかった。彼は自身の義務と責任を黙って果たすだけであった。

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Die Mörder sind unter uns (4)

帝国暦473年1月31日

両親の埋葬を終えると、オーベルシュタインはすぐさま帝都から顧問弁護士と顧問会計士を呼び寄せ、泊りがけで帳簿を詳査させた。かつてオーベルシュタインが疑念を抱いたとおり、子爵家の家財のうち相当数において現物と帳簿との不一致が見られた。骨董や銀食器の類は使用人たちの手によって売り払われたものと容易に想像がつくが、確たる証拠があるわけではない。ただ、子爵家の財産に対する管理不行届は明らかであった。

オーベルシュタインによって広間に集められた使用人たちは、後ろ暗いところがあるのだろう、一様に青い顔をしてそわそわと落ち着かなかった。

「オーベルシュタイン子爵家は我が父の代で終わった」

オーベルシュタインは、彼が襲爵を辞退すること、城は買い手が見つかり次第売却すること、そして領地は墓所をのぞいてすべて帝室へ献納することを通達した。使用人の間にざわめきが波のように広がった。突然の解雇である。

ラインスドルフ弁護士が深刻な表情で告げた。若奥様が共和主義者であるとして処断され、子爵は軍内部のごたごたに巻き込まれて自害なさった。一介の使用人とはいえ、社会秩序維持局から何らかの関与を疑われるやもしれない。また、君たちには財物窃取の疑いがある。貴族の財産に対する窃取は、他の場合と比して罪が重いのがこの国の定めだ。追及することもできるが、これまでオーベルシュタイン家に仕えた功績に報いるため罪には問わぬと若様のご温情である。敢えて紹介状は出さぬから、オーベルシュタイン子爵家で働いた経歴を隠し、前職については沈黙を守るとよい。それが最大の自己防衛となるだろう。

数日のうちに、すべての使用人が城を出てほうぼうへと散って行った。社会秩序維持局などとかかわっては命がいくらあっても足りない。自分自身はおろか、一族すべてが投獄されぬとも限らない。その恐怖が彼らに、オーベルシュタイン家との係わりをあっさりと絶たせたのである。

城内のことを片付けるのと同時に、オーベルシュタインは子爵家の所有する石灰石鉱山の始末をすすめた。鉱山の土地と所有権は帝室に納めず、株式会社化して領民たちに経営させることとした。領民の暮らしが立つようにしてやって欲しいという、母の遺志に沿ったつもりである。

鉱山責任者のハンケは、子爵夫妻の突然の死とクライデベルクがやがてオーベルシュタイン家の所領ではなくなることに驚愕し、領民自らが鉱山経営をするよう言われて硬直した。いきなり自活しろと言われてすぐさま適応できないのは、貴族も平民も同じことだ。

会計士から株式会社化の手順が説明された。まず、帳簿から算出した鉱山の現有価値に基づき株式を発行する。城の売却益から領民ひとりあたまいくらと定めて一時金を渡し、そのうちより彼らに持分を引き受さけせる。当面はオーベルシュタインが持分の51%を保有し、5年後から毎年5パーセントの割合で売却をすすめ、15年後に売却が完了する予定とする。持分譲渡が完了するまでしばらくはオーベルシュタインが最大の株主であることに変化はない。この期間に自主経営に慣れさせようという措置だ。

北方石灰石採掘有限会社ノルド・カルクシュタインアプバウ・ゲーエムベーハーは、こうした経緯で設立された。ハンケがどうしてもというので、オーベルシュタインは子爵家の紋章の一部を社章として用いることを許した。

城は意外にも早く売却先が決まった。売価は内部の家財を含めて1200万帝国マルクである。買手はある有力な貴族で、愛人のために買ってやるのだということだが、帝都からの距離と過酷な気候を嫌い、彼女がここに住むことはなさそうだ、というのが周囲の一致した見方であるらしい。城は、ただ朽ちていくだけの運命にあるようだ。

オーベルシュタインはこれらすべての案件を一切の滞りなく、想像しうる限り最大限の効率性を維持して片付けてしまった。ラインスドルフ弁護士がその処理能力の高さに舌を巻いたほどてある。彼の見るところ、オーベルシュタインは必要なものを瞬時に選び取り、問題のありかを探りあて、それを解決する道筋をほとんど直感的に見つけてしまう。そして、解決方法をこれと決めれば、周囲への顧慮など微塵もなく、ただ答えの見えた方程式を解くように、淡々と、かつ、着実に実行していくのであった。

 

城を離れる前夜、オーベルシュタインは自室のカウチに寝そべって外を見ていた。氷の張った湖が星明りの下でぼんやりと輝いている。湖をわたる風が窓を強く鳴らし、彼の胸に開いた穴を吹き抜けていく。私はいつもこの風の音を聞いていたな、と、オーベルシュタインは思った。あの秋の夜、一度は彼女が塞いでくれたこの穴は、今、更に大きく口を開け、通り抜ける風の冷たさに身も心も凍りつくようだ。

「フランツィスカ」

低く乾いた声が、答える者のない名を小さく呼んだ。彼にとって鋭い痛みを伴った、それでも愛おしい名であった。右手が無意識に左薬指を探っている。指輪は彼女を埋葬した日から抽斗にしまいこんだままである。

爵位を継承せぬことは貴族にとっては重い決断だ。爵位を有無はこの国における地位に大きく影響する。特権を失うことでもある。たが彼に後悔はなかった。爵位の継承は血の継承と同義である。むしろ彼は、オーベルシュタイン家の血が途絶えることに安堵さえした。

ふいにオーベルシュタインの耳にこだまする歌があった。かつてこの場所でフランツィスカが歌ってくれた歌だ。

 

緑の森の小さな雛は 高い梢の暖かいおうち

楽しい夢を見てすやすや眠る

優しいお母様の羽の下

風も雷も怖くない 狐も狼も怖くない

 

彼はとうとう正しい音程を覚えられなかった。もう二度と聞くことはない。そう思うと、寂寥がつのった。

誰が彼女を殺したのか。

ブラスターの引き金を引いたのは父である。そばにいながらみすみす死なせたのは執事夫妻である。婚姻を取り持ったのはホーエンローエ退役大将である。

――違う。私自身だ。

何の感情もない相手との結婚を黙って受け入れた。子を生すことを拒み、父と向き合うことから逃げた。あの日あと5分早く帰宅していれば。クライデベルクに帰ると言っていれば。彼女が命を落とさずにすむ分岐点はいくつもあった。彼はそれをことごとく間違えた。為すべきことから目をそらし、言うべきことを口にしなかった結果、大切なものを永遠に失ったのだ。

もし生まれたときに処分されていれば、こんなことにはならなかったはずだ。 劣悪遺伝子を忌避するこの社会で、障害を持つ者が人並みに生きようなどと無理をしたために生じた悲劇である。劣悪遺伝子の保有者にはもとより生きる価値などない。

ならば遺伝子で人の優劣を決めたのは誰か。銀河帝国の開祖・ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムである。オーベルシュタインの生は、その誕生時から、ルドルフの落とす暗い影の中にある。むしろオーベルシュタイン自身がゴールデンバウム王朝の負を抱えた影そのものだ。その影に彼女を取り込み、消し去ってしまった。突き詰めれば、劣悪遺伝子という思想が、フランツィスカの命を奪ったのである。

――しかし彼女は。

遺伝子がすべてを決めるなど誤りだ、と、フランツィスカは言った。この国の価値観から自由な人であった。彼女の存在がオーベルシュタインにはどれほどの救いだったことだろう。

生きることを拒絶される社会は間違っている。どんな生まれであっても、せめて同じ出発点に立てるようにすることが社会の果たすべき責任だ。出自によって生涯をしばってはならない。

その考えに至り、オーベルシュタインは急に視界が晴れるような思いがした。

――そんな単純なことだったのか。

と、オーベルシュタインは思った。なぜ今まで気づかなかったのか、不思議でならなかった。

『あなたの目は、数理の法則と同じ。何に対しても等距離で、公平な目』

あの夜、このカウチで、彼女はそう言ってくれた。フランツィスカが見つけてくれた彼の価値だった。持つ者にも持たざる者にも、この世を支配する数理の法則のように平等な世界が欲しい。いや、そのような世を創りたい。

――この私にできるだろうか。

妻を守ってやることができなかった男だ。父をおとしいれて死に追いやり、母は彼のために薬石を拒否し続けた。家族というべき人は、皆、彼のために命を落とした。

私にその力はないかもしれない。だが、力を持つ者を探し出し、その補佐をすることはできるだろう。この国はもはや手遅れだ。新しい芽を見つけなければならない。それこそが私の生きる道に違いない。

それは、オーベルシュタインが初めて自発的に望んだものだったかもしれない。

 

天と地の境目がうっすらと明るくなり、また新しい一日がやってくる。この朝、城門を固く閉ざして城を出たパウル・フォン・オーベルシュタインは、その長いとはいえぬ生涯において、二度と故郷の地を踏むことはなかった。

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Die Mörder sind unter uns (5)

この春、帝国軍では大規模な人事異動が行われ、上層部の顔ぶれが大幅に入れ替わった。ホーエンローエ退役大将の息がかかった者たちが、そろって閑職に追いやられたからである。オーベルシュタインはといえば、相変わらず人事課で後方勤務に精を出している。この銀河帝国を変革しうる者は、まだ、見いだせない。

憲兵隊はついに、サイオキシン麻薬の製造拠点を摘発することができなかった。この宇宙のどこかにあることは確かであるにもかかわらず、手がかりがつかめない。国の手が伸びつつあることを察して、巧妙に証拠を隠滅したのではないか、というのが憲兵隊本部のハウプト大佐の言であった。

 

帝国暦473年5月5日

この日、パウル・フォン・オーベルシュタインは21回目の誕生日を迎えた。妻の死以来、彼はすっかり感情を失ってしまったように見える。もともと感情表現の豊かな人間ではないが、執事夫妻にさえ心を見せない。

オーベルシュタイン自身、自分がかつて人を愛した日々があったことが信じられぬほどだ。ただ、広すぎる寝台で無意識に彼女のぬくもりを探して目覚めた朝は、ひどく物悲しい気持ちにおそわれた。

この日の朝食後、コーヒーを飲んでいたオーベルシュタインは、執事に言われるままにフランス窓から庭先に目をやった。テラスの先に背丈の低い緑の葉が帯を作り、葉の陰から小さな白い花がいくつものぞいている。

「鈴蘭マイグロックヒェンです、旦那様」

マイグロックヒェン――5月の鈴

「去年の暮れに奥様がお手植えになったものですわ。きっと、旦那様のお誕生日に咲くようにと願われて」

涙声のヘルガがエプロンで顔をおおった。

オーベルシュタインは外に出ると、花のそばに身をかがめ、人差し指で小さな鈴の一つをもてあそんだ。よく知った甘い匂いが漂っている。彼女がいつもつけていた香水の香りだった。心が少しだけ穏やかになるのが分かった。

「少し切って、お部屋にお持ちしましょうか」

「やめておこう。せっかく咲いているのだ、このままでよい」

この花は、君影草きみかげそうという異名を持つのだという。それはいかにも彼女に相応しい名であった。

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