VII Neue Reich im Jahre Null

新帝国零年

Neue Reich im Jahre Null (1)

新帝国暦元年7月

ラインハルト・フォン・ローエングラムの登極にともない、新帝国開闢の功臣たるパウル・フォン・オーベルシュタインは元帥に位階をすすめ、軍務尚書ミリテアカンツラーに任じられた。

軍務尚書は銀河帝国正規軍約7500万を束ねる軍部の最高位である。オーベルシュタインの尚書就任は、彼を忌避する諸提督にとっても、不愉快ながら異論のないところであった。彼にはそれだけの功績があるし、軍政に明るいことはローエングラム元帥府ですでに証明している。前王朝の時代から、オーベルシュタインはどこの部署においても上官・僚友を問わず一様に嫌われたものだが、軍官僚としては重宝された。官僚の第一の仕事は予算取りだ。彼は予算を取るのが抜群にうまい男であったのだ。

ゴールデンバウム王朝は施政面において数多の失政があったとはいえ、財務状況だけは健全性を保持していたと言ってよい。有史以来、ある国家の終焉が財政の悪化に起因する例には事欠かないが、前王朝は違う。広大な版図を有し、人民に施すところ少なく、不公正な搾取体制が永く続いた王朝である。その結実として、王朝末期に至っても、中央省庁には十分な予算があった。そうは言っても、もちろん無制限というわけではない。官庁街の官僚たちは限られたパイを奪い合い、省益最大化をはかるのにしのぎを削ったものである。

予算取りはまず、各省から財務省に対して予算要求を出すところから始まる。財務省でそれらを審査し、一定程度の減額をさせるのが慣習である。そのため、各省では予め査定減額分を予想して必要以上の予算を要求しておく。 そうすることで、財務省は削減目標を達成したという面目を保ち、各省は必要な予算を確保することができる。露店の値段交渉と似たようなものだ。落としどころは最初から双方の腹の内にあるのだ。

この予算交渉の進め方は、新王朝が樹立された後も同様あった。ローエングラム王朝はいわばゴールデンバウム王朝の国家組織をそっくり乗っ取ってしまったのであるから、それも当然のことであろう。

しかしながら新任の軍務尚書は、軍官僚にこうした虚虚実実の予算交渉を一切やめさせた。必要額をありのままに要求するようにしたのである。旧軍務省の経理課にいた頃から、オーベルシュタインは財務省にとって手ごわい交渉相手であった。かつて軍官僚の多くは、軍の力を背景に財務省を抑えつけたものであるが、彼は違う。徹頭徹尾、理詰めである。一分のすきもないデータを示し、一分のすきもない弁舌をもって悉く予算要求を通した。財務省の主計官はそれを心中忌々しく思わないではなかったが、オーベルシュタインの持ってくる資料と理屈があれば上役を容易に説得できるため、彼が交渉相手であれば、ある種の安心感もあったようだ。いわば、話の通じる相手だったわけである。

そんなオーベルシュタインを興味深く観察しているのが、自他ともに軍務尚書の腹心と認めるフェルナー准将だ。ただし、それを軍務尚書その人に認められているかどうかは定かでない。フェルナーにとって、めったに感情を示すことのないオーベルシュタインの反応を引き出すことが、目下の楽しみの一つである。刻薄な人柄だと聞いていたが、実際はそんなこともない。と言っても、高潔な人間でもない。きたないことも厭わぬことは周知のとおりだ。しかし部下になってみると、意外に仕えやすい相手である。評価は公正であるし、職務を越えて不条理なことを要求することもなかった。

オーベルシュタイン家は代々子爵の爵位を持つ貴族であった。軍務尚書の父親が軍部における何らかの疑獄に巻き込まれて自害、奪爵された。それで彼は城と領地を失い帝国騎士に身を落とした。フェルナーはそう伝聞している。

詳しく知るわけではないが、その暮らしぶりは実に貴族的である。寒門の出の皇帝にどこか貧乏性の抜けぬところがあるのとは違い、基本的に何事にも鷹揚だ。ただしそれは、優しいとか甘いとか言ったものとは程遠い。身体障害者であるから、同じ境遇の者たちに同情心があるかと思えば、まったくそのようなことはない。あらゆるものを平然と突き放す無情さがある。フェルナーは当初、それがオーベルシュタインが貴族階級出身ゆえの限界かと思っていた。しかしながら、やがてそうではないのだと知った。軍務尚書はどんなものとも一定の距離を保とうとする。それは天の高みから地上を見下ろすような無情さに近い。蟻の群れを見るとき、人はその個性を尊重するだろうか。蟻には蟻の事情があろうが、そんなことをいちいち意識しはすまい。つまりはそういうことだ。

軍務尚書の目指すものは、おそらく、最大多数の最大幸福。これであろう。それがオーベルシュタインを最も側近くで見ているフェルナーが、暫定的に出した結論である。

 

さて、フェルナーの観察対象たるオーベルシュタインは、この日、新王朝が始まって初めての休暇を取ることができた。皇帝が即位からわずか1週間で暗殺されかけるなど、新王朝は波乱の幕開けである。軍務尚書たる彼は仕事が湧き出る泉のそばにいるかのように、尽きることのない政務に明け暮れている。そんに中で、自宅で敷ゆっくりと過ごすことのできる時間は貴重であった。

午後になって、書斎にコーヒーを運んできたラーベナルトは、帳簿をめくる主人に遠慮がちに声をかけた。

「何か」

「そろそろ、お考えになってもよろしいのではありませんか」

「何をだ」

「後添えをお迎えになることです」

忠実な執事は、この頃自身の老いをことさらに感じている。ローエングラム公が帝国宰相に就任してから推し進められた、上からの強力な改革と啓蒙によって、劣悪遺伝子をむやみに忌む風潮は薄れつつある。何より、今のオーベルシュタインは帝国元帥であり、軍務尚書の顕職にある。彼が望みさえすれば相手には事欠くまい。すでに若くない自分たち夫婦が屋敷を退いたのち、もしも主人のそばに彼を大切に想ってくれる人があればどれほど安心か、と、ラーベナルトは思うのである。

オーベルシュタインは執事の肩越しにライティングビューローへ視線をやり、冷たい視線をすべらせて床の一点を見つめた。

「その話は二度と聞きたくない」

「しかし旦那様…」

「下がれ」

その声には珍しく感情の色彩があった。退出しようとするラーベナルトの視界に、ライティングビューローに置かれた写真立てが入ってきた。わずかな劣化が見られる写真には、若いオーベルシュタイン夫妻と毛むくじゃらの犬が幸せそうにおさまっている。あの日以来、オーベルシュタインはフランツィスカのことを一切口にしない。彼女が使っていた部屋の鍵もヘルガに預けたまま、自身は中へ入ろうともしなかった。

台所に戻ったラーベナルトは、妻に向かって小さく首を振ってみせた。ヘルガはやはりそうか、というようにうなずいて、じゃがいもの皮を剥き続けた。そうしていると、作業台の向こうの空の椅子が自然と目に入る。フランツィスカは台所に立つヘルガを見るのが好きだと言っては、よくそこへ座っていた。

ヘルガは自分だけに聞こえるように、小さくため息をついた。いつの頃からか、彼女には一人悔やんでいることがある。亡くなられた奥様はご懐妊なさっていたのではないか、という考えが消えないのだ。逝去されてしばらくは何も考えられなかったが、後から思えば、月のものも遅れていたし、食事も取れず、酸味のあるものを好んで食すなど、つわりとも思える症状が出ていた。あの日どうあっても医者に来てもらっていれば、奥様が命を落とすことはなかったのではないか。大旦那様とて、奥様のことがどれほど気に障ったとしも、オーベルシュタイン家の跡取りを宿した嫁を撃ち殺したりはしなかったろうに。ヘルガはその思いを夫にすら話すことはなかった。罪悪感を増幅させるだけだと知っていたからだ。

執事夫妻は夫人の死にひどく責任を感じてきた。そばについていながら守ることができなかったという事実は、彼らにとっても生涯の傷である。オーベルシュタインは彼らの責任を問うことはなかった。それは幼い頃からそば近くに仕えた者たちを失いたくなかったためか、フランツィスカの記憶を共有する存在を留めて置きたかったためか、執事夫妻にも物言わぬ主人の胸中を推し量ることは困難であった。

執事が出て行った後、オーベルシュタインの冷たい義眼は書斎の床の一点を見つめ続けた。彼は二日前、皇帝に対して皇妃を娶るよう進言したばかりである。まさか自身が執事から同じことを言われるとは思いもよらないことであった。あの雪の日、彼女はその場所で自らの血を敷布にして横たわっていた。書棚の一番下に重石がわりに入れてあるルドルフ大帝伝全10巻には、飛び散った血が染みついたままである。

オーベルシュタインは亡き妻の思い出に高圧をかけて極小の金属塊に圧縮し、心の海深くに沈めた。小さく圧縮されたぶんだけ密度と比重を増したそれは、深く深く沈み、もはや彼自身も掬い上げるのが困難なほど、遠いところにあるように感じる。だが、その存在を消し去ることも忘れ去ることもできない。冷たく固い金属は鋭いとげをいくつも持っており、彼の心の柔らかな部分をちくちくと刺し続けるからだ。

精神的な要因であろうか、彼は妻を失って以来、一度として性的な興奮を得たことがない。しかしオーベルシュタインには、それが当然のことのように思える。なぜ世の男は、何人もの女と関係を持つことができるのか不思議にさえ感じる。

オーベルシュタインはデスクの3番目の抽斗から指輪を取り出し、長く細い指先で弄んだ。彼は愚かであった。自分が彼女を残して逝くことがあっても、彼女を失って一人生きる未来など想像すらしなかった。もしフランツィスカが生きていたら、今頃、どうしていたろうか。きっとラインハルトのもとに参じたりはしなかった。この動乱に身を投ずることなく、数式を相手に静かな日々を送っていたかもしれない。

皇帝は近々、遷都の勅令渙発かんぱつをするだろう。

――会いに行こうか。フェザーンに移る前に。

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Neue Reich im Jahre Null (2)

軍務尚書オーベルシュタイン元帥は、執務室にハウプト中将の訪問を受けている。彼ら二人は、オーベルシュタインが任官から半年に満たぬ新米少尉であった頃、ともに辺境の捕虜矯正施設へ調査に行ってからの付き合いである。ハウプトはまもなく軍を退き故郷の惑星へ帰るというので、挨拶に訪れたのであった。

尚書秘書官のシュルツは、意外な思いで二人の面談を設定した。軍務尚書という人は、こうした実の伴わぬ儀礼的な付き合いをにべもなく断るのが常である。

「彼らも中将のように、潔く自らの進退を決めてもらえるとありがたいのだがな」

ハウプトがひととおり別離の辞を述べたのち、オーベルシュタインは低くよく通る声でつぶやいた。尚書の言う「彼ら」が軍務省の抱える余剰の高級士官のことであると、ハウプトはすぐに了解した。人事局長まで務めた男である。人を切ることの難しさはよく承知している。

3週間ほど前に至尊の冠を戴いたばかりの皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムは、とかく無能者に厳しい。前王朝で独裁体制を敷いた後、佐官以上の人事を一新し、不要とみなした者をすべて尚書官房付き・出仕無用の扱いとしてして、事実上、軍から放逐した。官房付きは本来、次の役職が定まるまでの待命ポストであるが、この場合は、無役・無期限の自宅待機である。軍務省内に執務机すらない。

この若い独裁者は、年齢の高い者たちをひとまとめにして役立たずと断じる傾向がある。オーベルシュタインから見れば無能なら無能なりに使い道もあろうと思うのだが、皇帝はそうした迂遠なことを厭い、即位後直ちにこれら官房付きの軍人を予備役に編入してしまった。今後は召集に応える義務も負わない。彼らの多くは、自ら望んで軍籍を離れていった。高齢の士官らのほうにも、長年ゴールデンバウム王朝の禄を食んできたという自負があり、今さら年若い提督たちの下につくことをよしとしなかったのだ。

だがそれでも、残った士官は数個大隊に及ぶ人数である。退役するにはまだ若く、かといって今の帝国軍では必要とされない一群であった。軍人とはつぶしがきかない職業だ。下手に野に出して地方反乱だとか宇宙海賊だとかを指揮されても困る。国家財政が潤沢である今、それなりの金銭補償を与えて一気に整理をすすめたいというのが、軍務尚書の希望するところだ。

「そうですな。せいぜい私のほうで焚き付けて共に去らせることにしましょう。ローエングラム王朝に仕えたとて、どうせ厄介者よばわりされるだけなのだ」

ハウプトは自らの境遇をあっさりと受け入れた様子であった。オーベルシュタインはその言葉に小さくうなずいてコーヒーをすすった。この男ならば彼らをうまく説得できるだろう。ハウプトは話題が豊富で、話しぶりも上手い。誰にどんな内容を話すか、何をどう言えば自らの思いどおりに人を動かすことができるか、ちゃんと計算ができる男である。

自身もかつてハウプトの言葉に乗せられたことがある、と、オーベルシュタインは自覚している。今となっては、オーベルシュタインを捕虜矯正施設の調査に同行させたのも、あの樫之木館アイヒェンバウム・ハオスの老人を釣り上げるためだったのではないか、という気さえする。あるいはハウプトは、リヒテンラーデ侯の意を受けて動いていたのかもしれぬ、と。

皇帝はハウプト中将を評価していないようだが、オーベルシュタインは違った。彼は時折、奇妙な人事をした。ビッテンフェルトを皇帝の艦隊に付けたり、メックリンガーを参謀に据えたり、といったのがそれである。明らかに、皇帝の役に立ちそうな人間を選んでは傍らに送り込んだ節があった。

 

オーベルシュタインがラインハルトの名を聞いたのも、やはりハウプトの口からであった。5年ほど前であったか、またしても上官との折り合いが悪く、役を解かれたオーベルシュタインが、当時人事局長であったハウプト中将と面会した折のことだ。

「卿はまた官房に戻ってきたのか」

「自ら求めてのことではありません」

「愛嬌が足りんのだ。昔は卿にも可愛げがあったがなぁ」

「三十を過ぎた男にそのようなものがあっても仕方がないでしょう」

オーベルシュタインは一切顔色を変えずに、ハウプトの冗談口を受け流した。

「次は憲兵隊にでも行ってみるか?」

「空きがあればどこへでも」

「やれやれ。その態度がいかんというのだ」

王朝の打倒を決意したあの日以来、オーベルシュタインはこの国に変革をもたらしうる人間を探し続けた。彼が生涯をかけて仕えるに値する覇者を求め、有力者の会合にはすすんで出席したし、士官用の酒場にも出入りした。だが、見つからない。異動でまた他の人材を見る機会が得られるならば、それでよいのだ。

「しかしまあ、今の帝国軍で最も可愛げがない男といえば、ミューゼル少将をおいて他にあるまいな」

「ミューゼル少将?」

「知らんか? 先ごろ若干18歳で少将に叙せられた坊やだ。顔はそれなりだが、とにかく可愛げがない」

「十八で少将とは驚きますな。なぜそのような人事が可能なのです?」

「うむ。奴は陛下の御寵愛を受けるグリューネワルト伯爵夫人の弟だ」

「貴顕の後ろ盾がある、と」

オーベルシュタインのひんやりとした口調に若干の嘲笑が混じる。

「いや、あれはそうではあるまい。実際にかなりの武勲を立てている。伯爵夫人からは何も言ってこない」

「そうは申しても、武勲一つに一階級の昇進がついてきては、我が軍は元帥だらけになりましょう」

「確かにな。つまるところは卿と同じで、上官に厄介払いされておるのさ」

「その割には、私の階級は一向に上がる気配がありませんが」

ハウプトは声を立てて笑った。

「そのミューゼル少将だがな、先日、自身の副官を昇進させぬとは何事か、と、ねじ込んできた」

「副官?」

「それが幼年学校に入る前からの親友だそうだ。任官以来、ずっとミューゼル少将の副官を務めている。こちらは正真正銘、伯爵夫人の介入人事だ」

「なるほど。それで、昇進させておやりになった?」

「まさか。そんなおかしな人事ができるか。昇進させるなら卿の副官の任を解く、と言ったさ」

「ミューゼル少将は、なんと?」

「あきらめたようだな」

「ほう…」

――あきらめた、か。

どうやらその親友がミューゼル少将とやらの泣き所のようだ。一度会ってみるのもよいか、と、オーベルシュタインは思った。

それが実現したのは数年後、ローエングラム侯の元帥叙任式においてである。

 

コーヒーの最後の一口を飲み干したハウプトは、軍務尚書に辞去の意を告げたが、立ち上がろうと浮かせかけた腰をもう一度椅子に落ち着けると、

「ときに閣下、あの花とケーキはどうなさいましたかな?」

と、唐突に問うた。

オーベルシュタインはコーヒーカップの取っ手にいくどか親指をすべらせた。ハウプトと出張に行って戻った軍港で、彼はこの男に言われ、強引に花とケーキを買わされたのだ。そのことであろう。

「家の者に渡した。喜んだようだ」

ハウプトは意外そうな顔をして、それは結構ですな、と答えた。

「私のほうこそ、中将に聞きたいと思っていたのだ。なぜあのように強く購入をすすめたのか、と」

「鈴蘭の香水がしたものですから」

「鈴蘭…」

ハウプトは、オーベルシュタインの義眼にぼやりと感情めいたものが浮かぶのを見たように思った。

「出立の朝、軍務省差し回しの地上車がまず閣下のご自宅へ寄り、それから小官の官舎に回りましたな。あの車に乗り込んだとき、わずかに鈴蘭の香水が香ったのです。若い娘がつける香水だ。それで、この若者は誰かを抱きしめて別れを惜しんだのだろう、と、そう思ったのです。どうです? 私の観察眼もなかなかのものではありませんかな?」

オーベルシュタインは何も答えなかった。

鈴蘭の香水。

彼は今もまだ、その残り香の中で生きている。

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Neue Reich im Jahre Null (3)

決裁書類を軍務尚書の執務室に運ぼうとしたシュルツは、立ち上がった途端「あれ」と声を出して動きを止めた。壁には軍務尚書の在室を示す緑ランプと来客中を示す赤ランプが同時に点灯している。たった今、赤ランプが消えたばかりだというのに、入れ違いで誰かが入っていったらしい。秘書官である自分を通さずにいきなり尚書の予定に割り込むとは、腹立たしいことである。尚書決裁が必要な書類がたまりつつあるのも、気がかりであった。

ノックとともに秘書官室に入ってきたフェルナー准将は、表情のコントロールに失敗したような顔で、コーヒーメーカーに向かった。

「准将」

壁のランプを指差したシュルツに、フェルナーは、

「ラング」

と一言答え、窓から軍務省の中庭を見下ろしながらコーヒーを飲み始めた。

ラングが軍務尚書の片腕のような顔をして執務室に出入りすることが、フェルナーには面白くない。内国安全保障局はそもそも内務省の管轄であって、その長官が軍務尚書のもとを足しげく訪れること自体が筋違いの話なのだ。軍務尚書とてあの男を信頼して使っているわけではないだろう。いや、そもそも軍務尚書が誰かを信頼するなどということがあるのだろうか。

「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物に対して捧げられるもの」。そう言って、自らの忠誠心を宝石に例えてみせたフェルナーである。オーベルシュタインの下で働く時間が長くなるにつれ、この宝石を彼にくれてやるのもそう悪くないような気もしているのだ。別にラングとオーベルシュタインの寵を争うつもりなどないが、やはり気にさわる。

 

「ただいま、ロイエンタールめの周辺を特に念入りに探らせているところでございます」

人の悪そうな顔つきで得意げに告げたラングに対し、オーベルシュタインはさして興味もなさげに軽くうなずいただけであった。

ロイエンタールの女性関係が派手であるのは周知のことだ。そのあたりから探れば必ず尻尾を掴むことができる。ラングはそう確認している。彼とその部下がどれほど有能な存在であるかを熱弁しつつ、ラングは顔の汗をハンカチで拭くまねをしながらオーベルシュタインの表情を伺った。軍務尚書は何の感銘を受けた様子もない。ラングは内心舌打ちをし、彼の価値を分からぬ相手には早めにカードを切っておくがよいと判断した。

「ところで閣下。閣下はかつて、共和主義者の女と婚姻関係にあったとか」

オーベルシュタインの仮面じみた不健康そうな顔が、ゆっくりとラングを見返した。ラングの顔には自らの情報収集能力を誇りたいという過剰な欲望がはっきりあらわれている。

「そのような事実はない」

それは「共和主義者の女」と「婚姻関係」と、どちらを否定したのか定かでなかった。

「いえ、ご心配なく。奴はもうしゃべることはできません」

オーベルシュタインはその言から、かつてクライデベルクの城で働いていた使用人あたりが情報源だと察した。ラングは恩を売ったつもりであろう。

「いらぬ気を回すな。その女はただの同居人だ。当家の籍には入ってはおらぬ。共和主義者と気づいたからこそ、我が父が処断したのだ。いわば国家の厄災を取り除いたのであって、何ら恥じるところはない」

「ならばもっと誇ってもよろしゅうございましょうに」

「徒に自らの功を喧伝するは醜悪なことだとは思わぬか、ラング」

その言葉は明らかにラング自身に向けられたものであった。

「も、もちろんでございます」

ラングの殊勝な返答を、オーベルシュタインはいささかも喜ばなかった。そして唐突に、とある貧困扶助団体の動きはどうか、と尋ねた。それはラングの妻が参加している団体であり、ラングは昨夜、その団体とは縁を切るよう言って、妻と小さないさかいをしたのだ。団体がこの頃急激に共和主義へ傾倒しつつあるとの報告があったからだ。 ラングは背に冷たい汗が流れるのを感じながら、作り笑いのまま退出した。このぶんでは、仲の良かった門閥貴族の子弟に会いたいと子供たちが泣いたことも、当然知っているだろう。下手につつけば藪蛇になる。

いずれは帝国宰相の地位を、と、野心を肥え太らせているラングにとって、オーベルシュタインは早いうちに首根っこを押さえておきたい相手である。だがこの短い会話から、現段階でオーベルシュタインに掣肘を加えることは不可能だと彼は悟った。あの男には失って困るものが何もない。逆にラングは、家族を愛してやまないのである。

 

秘書官室の壁に設置されたランプが緑に変わった。シュルツは今度こそ決裁書類を渡そうと立ち上がったが、またすぐに赤に戻ってしまったのを見て顔をしかめた。今度は軍務尚書自身がランプを操作したらしかった。シュルツは溜息を呑み込み、両腕に抱えた書類を机に戻した。

署名決裁を要する書類はファイルに挟んで回覧される。各ファイルにチップが埋め込まれており、部署を移動するたびにスキャンして、書類が現在、誰の手元にあるかを確認できる仕組みである。軍務尚書のもとに書類がたまりはじめると、尚書決裁へ優先して回してくれと、各部署から秘書官室に言ってくるのだ。そのうえ、定時の18時まであと1時間あまりしかない。勤務時間外の書類は一切受け付けない慣例であるから、18時前になると駆け込みで届けられるファイルが増える。軍務尚書はそれら全部を決裁した後に退省するため、帰宅が遅くなることも多い。

 

隣室のシュルツの気も知らず、オーベルシュタインは執務室内の洗面室にいた。尚書執務室内の洗面室には一番奥に隠し扉があって、壁内に設けられた通路を使って建物の外に出ることができるようになっている。テロ対策である。だが尚書の執務室にまで攻め込まれるようでは、たとえ脱出できたとしても生き延びられる可能性は低い、というのが大勢の見方だ。現に前王朝最後の軍務尚書であったエーレンベルクは、ビッテンフェルトを前に、すんなりと抵抗をあきらめている。

ラングはよき家庭人であるという。定時を過ぎて呼び出そうとすると、すでに帰宅していることが多いそうだ。「あの仁は子供たちの顔が見たいから残業はしない、と言って憚らぬそうですよ」とは、フェルナーの言である。

家庭。オーベルシュタインにとってそれは、亜空間と似た存在だ。実空間と重なり合うようにあるのに、決して触れることができない。

――共和主義者の女…。ただの同居人…。

鏡の中の義眼が異様な光を放って反射した。血色の悪い陰気な男がこちらを見ている。胸の空洞を冷たい風が音をたてて吹き抜けていった。

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Neue Reich im Jahre Null (4)

新帝国暦元年8月

帝都・オーディンの高級士官専用クラブ「海鷲」では、ローエングラム朝の元勲たる面々が打ちそろい、酒宴に興じていた。先ごろ大本営をフェザーンに移す旨の布告が発せられ、宇宙艦隊総司令官ミッターマイヤー元帥が帝都を進発するまであとわずかである。一部の提督は帝国本土に残ることもあり、今後しばらくはこうして皆が顔をそろえるのも容易ではない。別離を惜しむための宴であった。

一足遅れてやってきた憲兵総監ケスラー上級大将は、すでにかなり杯を重ねたらしい僚友らを見回して何とも形容しがたい表情を浮かべた。

「なんだ、ケスラー」

「ん? いや、今日ばかりはオーベルシュタインがいるかと思ったのだがな。誰も誘わなかったのか?」

素面とは思えぬケスラーの言葉に、帝国軍の重鎮たちは一様にあきれ果てた。

「正気か、貴様! 奴がいたら、奴の悪口を言いつつ飲む楽しみがなくなるだろうが!」

「ビッテンフェルト提督…」

至近距離からの大声に片眉をしかめつつ、ミュラーが一応は諌めるような声をあげる。

「そういえば卿は同期だったな。あのオーベルシュタインと」

「ええ、まあ」

士官学校の寮において、ケスラーの部屋はオーベルシュタインの斜め向かいだった。無口で表情の乏しい男ではあったが、今のような陰険さはなかったと、彼は記憶している。むしろ、繊細で恥ずかしがり屋の貴族の若様、という印象が強い。人付き合いもそれなりだったと思う。敵性攻略研究会なる猥雑ビデオ観賞の集まりで顔を見たこともあるくらいだ。二段ベッドの上段でつまらなそうに頬肘をついていた姿が思い出された。

「どんな男だったのだ?」

メックリンガーが尋ねる。好奇心を押し殺した顔つきだ。この男はいずれ回顧録でも出すつもりなのか、僚友に関するあれやこれやを書き溜めていると聞く。若き日のオーベルシュタインに対する興味をそそられたものと見えた。

「成績は良かったな、三席で卒業している」

「ほう…それはそれは」

端正な顔の左右の目に、色の異なる侮蔑が浮かんだ。

「何でもそれなりにできたが、数学は抜群だった。ワープアウト先の座標をあっという間に出したりしてな」

「計算高いってことだ!」

「ビッテンフェルト提督…」

オーベルシュタインは宇宙物理の科目は常にトップであったが、ケスラーが特によく記憶しているのは主計実務演習において見せた、艦船運航諸元計算の手際の良さである。兵員の手配、衣糧の補充、給与の計算、物資の補給といった後方勤務は、彼がもっとも得手とする分野に見えた。何かと謀略家の面ばかりが強調されるオーベルシュタインであるが、皇帝ラインハルトはむしろ彼のそのようなところをこそ評価して、軍務尚書の要職につけたのであろう、と、ケスラーは思う。事実、オーベルシュタインが後方を一手に引き受けるようになって以来、帝国軍の軍政は高効率で運営されている。

「士官が座標計算などできてもさして自慢にはならん。何のために航宙士がいるのだ」

「そんな細かい奴だからいい歳して結婚もできないのだ」

「それは少々酷だろう。彼の目のことを考えてみれば」

「ではやはり、浮いた噂は皆無ですか」

自身のことに関しては決して口を開かぬミュラーが、他人の色恋沙汰へは興味を隠さない。

「やめておけ。憲兵総監のもとへは僚友の公私にわたる様々な情報が入ってくるものだ。それを他の者に漏らすようでは憲兵総監は務まらぬし、我らとて心安らかではいられまい?」

ミッターマイヤーの言に、一同がうなずく。とはいえ、ミッターマイヤーには、憲兵に知られて困るようなことは皆無であろう。自他共に認める清廉潔白な男である。どうやらこれは、遠回しに親友をかばったのものとみえた。親友が私邸においているという女のことが、頭をよぎったのである。

僚友たちが声高に語る軍務尚書への罵詈を聞き流しながら、ケスラーは不意に、 オーベルシュタインと一緒にいた少女のことを思い出した。任官1年目の冬のことだ。ブルーメン広場の噴水の前で、「ごきげんよう」と彼に優しい笑顔を見せた美しい娘。彼女は何者だったのだろう。現在のオーベルシュタインの周りにそのような女の気配はない。また、あれほどの美貌にもかかわらず、ついぞ社交界で話題になったこともないようだ。

オーベルシュタインは貴族階級の出身で、帝国軍の士官である。もとは爵位も持っていた、いわゆる由緒正しき家柄だ。それなりに縁談があってもおかしくはない。平民は兵役後に結婚する者がほとんどたが、貴族は早くに家庭を持つ者が多い。それは一刻もはやく後継ぎを儲けるためであり、閨閥を形成するためでもある。ケスラーは、オーベルシュタインも大方その口であろうと思っていた。あの日約束した同期との酒宴に、オーベルシュタインは結局、無断で姿を見せなかった。再会したのは15年後、ローエングラム元帥府においてである。ケスラーはそのとき、ずいぶんと面変わりした同期の姿に驚いたものだ。

つい先頃まで、この国は貴族があらゆる場面で優位に立つ、息のつまるような社会であった。ケスラーも平民の一人として、歯がゆさと諦めを感じて育った。だが実際に貴族と交流を持つようになってみれば、彼らとてさほど幸せそうには見えなかった。何もかもが固定化され、序列化された社会の息苦しさは、貴族とて同様なのだ。視覚障害とともに生きてきたオーベルシュタインにとっても、決して生きやすい社会ではなかったはずである。

おそらくケスラーは、他の僚友たちほどオーベルシュタインを嫌ってはいない。時折、出処が不明な、かつ、放置することもできない情報が憲兵隊のほうへ流れてくることがあって、それにどうやらオーベルシュタインの配下が一枚かんでいると思しきことが、何となく面白くない程度である。

オーベルシュタインは少なくとも謙抑的に権力を行使している。自身の言動に完全に責任を負い、何の弁明もしない潔さがある。憲兵隊に入ってくる話では、彼は従卒を勤める幼年学校生に対しては、軍政で見せるような酷薄さがまるでないのだという。たとえ前線に立たずとも、武人らしさを失わぬことはできるのだ。ケスラーは艦隊司令の職務に対する未練を捨てきれないでいる。後方に置かれることに、忸怩たる思いがある。そこがオーベルシュタインと自身との埋めようのない差なのであろう、と、彼は感じるのだった。

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Neue Reich im Jahre Null (5)

ナイトハルト・ミュラー上級大将は、早朝の旧市場アルトマルクトにいた。エルベ川南岸の歓楽街で、僚友のビッテンフェルト上級大将に明け方まで付き合わされ、ブルーメン広場の独身将校宿舎に戻る途中である。市場で何か、朝食兼昼食になるようなものを買い求めるつもりであった。

ショーウィンドー越しにミュラーの相手をしていた肉屋の老店主は、前の通路を馴染み客が通り過ぎるのを認め、軽く会釈を送った。つられるように振り返ったミュラーは、視線の先の人物に顔をこわばらせた。

――軍務尚書…! あの犬!!

オーベルシュタインはのそのそと歩く犬の歩調に合わせるように、ゆっくりと歩いている。喪服姿だ。青白い顔に黒い装いが気味悪いほど似合っている。死神もかくやという姿であった。オーベルシュタインはミュラーの敬礼に対し、黒い帽子の影から目礼を返して通り過ぎて行った。

「親爺さんは、長い付き合いなのかい?」

オーベルシュタインの姿勢の良い後ろ姿を見送りながらな、ミュラーは肉屋に問うた。

「ええ。お屋敷の家政婦さんがね、いつもうちで買って下さるんで。15年…いやもう20年になるかな、犬好きの奥様がいらして、ご贔屓にしてもらったものですよ」

「へえ」

――軍務尚書の母上なんて想像できないな。

ミュラーは肉屋のいう「奥様」が何者かを勝手に勘違いしたまま市場を出た。何気なくヘルリヒカイト街のほうを見やると、路面電車の停留所にたたずむ軍務尚書の姿があった。朝の明るい日差しの中で、軍務尚書の周囲だけ気温が低いように感じられる。まだ暑い日が続いているというのに、礼服をすきなく着込み、老犬を連れた彼は、帝国軍務省内で恐れられる冷厳な軍人というより、リップシュタット戦役で没落した貴族に見えた。先ほどは気が付かなかったが、手に花束を持っている。市場の花屋で求めたのであろう。

白と黄色で塗装された路面電車が停車し、また発車すると、オーベルシュタインの姿はもうそこになかった。現役の閣僚が護衛も連れずに路面電車に乗るとは、いかにも不用心である。ミュラーは携帯ヴィジフォンを取り出して、憲兵隊本部に連絡しようとしたが、路面電車の後方ランプを目で追って、ヴィジフォンをまた制服のポケットにしまった。きっと森林公園墓地に向かうのだろうと思ったのだ。誰にとて人に踏み込まれたくない領域というのはある。私服で外出する以上は公務ではないのだし、部外者が不用意に立ち入るべきではない。ただ、貴族出身のオーベルシュタインに森林公園に眠る縁者があるのを、ミュラーは意外に感じた。

あの肉屋からオーベルシュタインの犬の話を聞き、僚友に噂話として広めたのはミュラーである。彼はこの肉屋のハムが気に入って、たびたび出入りしていたのだが、その中でミュラーとオーベルシュタインが同じローエングラム元帥府に属すると知った店主が、犬のことを話して聞かせたのであった。

肉屋にとって、オーベルシュタインの来店はとても印象深いものだったという。

 

まだ春の浅い日の夜のことだ。

「こりゃあ、どうも…」

オーベルシュタインは、その日最後の客であった。ショーケースの奥の椅子でうとうととしていた老店主は、店先に立った背の高い軍人を不明瞭な挨拶で迎えた。軍人は無言でうなずいたのみである。

――誰だったかな。確かにうちのお客さんなんだが。

店主はこの頃すっかり働きのにぶくなった脳細胞を懸命に活性化させようと試みたが、にわかに思い出すことはかなわなかった。その軍人は、階級章から将官であることが知れた。異様な雰囲気を持っている。軍帽のひさしの影になった青白い顔に無機質な目が光り、春だというのに口から白い息でも吐きそうであった。

軍人は「鳥肉」と言ったあと、「やわらかい部位をくれ」と付け加えた。

「どんな料理になさいますんで? お切りしましょうか?」

「犬にやる」

フントという単語が、肉屋の脳の神経回路をようやく反応した。ああ、ファイルヒェン街のお屋敷の旦那だ。昔、きれいな奥様が大きな犬を連れて、よく羊肉を買いにきてくれた。昨年戦死した彼の孫息子は、あの犬に会うのを楽しみにしていたものだ。どういうわけか、夫人と犬は急にぱったりと姿を見せなくなったのだ。お屋敷の使用人は口の固い女性で、「奥様はどうされたかね」という問いに、無言のまま曖昧に笑っただけだった。

その軍人・オーベルシュタインは、それからもときどきやってきては鳥肉を求めたが、店主はいまだ、夫人の消息を聞けずにいる。とてもそんな個人的なことを聞く雰囲気ではないのだ。ただ、水を向ければ、犬のことだけはぽつりぽつりと話した。

 

帝都西郊へ向う早朝の路面電車は、人もまばらであった。新王朝成立に伴う閣僚名簿発表の際、軍務尚書オーベルシュタイン元帥の名は、写真付きで全宇宙に向けて発信されているのだから、誰か気がつきそうなものなのに、振り返る者もない。オーベルシュタインの膝の上には、市場で求めた季節外れのスズランがある。

犬は退屈そうに電車の床に伏せている。今朝、出かけようとするオーベルシュタインの後ろを、いつも玄関ホールの時計の下で寝ている犬がよろめきながらついてきた。軍服ではないから、どこかに連れて行ってもらえると思ったのかもしれない。犬は屋敷に引き取った当初こそ邸外に散歩に連れ出していたが、この頃は足腰が弱り、庭を一回りするだけで満足するようになっている。珍しいことであった。

オーベルシュタインにとって、3度目の森林公園だ。執事夫妻は時折来ていたようだが、彼が訪れるのは埋葬の日以来初めてのことである。森は何も変わっていないように見えた。いや、樹木が少し大きくなったろうか。初めて来たのは、紅葉の美しい秋だった。次は雪に覆われた冬。今は緑の濃い夏である。小川のせせらぎと鳥のさえずる声とが、共鳴するように響いている。小川の側の、人が踏み固めただけの道をたどって、10分ほど歩く。Kカー区6号。老犬はわずかな距離にも歩き疲れたようで、墓区の端に伏せて頭を前脚に乗せた。

2つの墓石は、一部が薄く苔むしていた。

 

フランツィスカ・フォン・オーベルシュタイン

R.C.455.10.23-R.C.472.12.25

 

アインシュタイン

 

オーベルシュタインは妻と犬の墓石から視線をすべらせて、いずれ自分の柩が納められる地面を見つめた。そこは何とも言い難い魅力をもって彼に迫った。この土の下ならば、常に彼の胸を通り過ぎる冷たい風の音を聞かずともすむに違いない。

人は忘れていくものだという。確かにそうだ。オーベルシュタインも、最初の半年ほどは刻々と彼女のことを思い出した。そのうち一度も思い出さなかったと気付く日が出てきて、そしてそんな日が3日続き、1週間続き、半月、1か月と徐々に伸びた。だが、思い出すたび、彼の心には悲しみと憎しみが積もるようであった。

オーベルシュタインは長い間、墓石の前に立っていた。こういうとき、世の人は何を話すのだろう。地下に納められているのは、ただのむくろだ。彼は魂の存在を信じない。骸にかける言葉など持たなかった。

だが彼女は、魂の存在を願った。そうであれば、死した後も大切な人のそばに留まり続けることができる、と、そう言った。

――今もそばに、いるのだろうか。

「行って来る、フランツィスカ」

結局、彼は、かつて屋敷の玄関で、活ける彼女にかけたのと同じ言葉を口にした。足元の犬が首を上げて、主人の顔を見やった。

 

オーベルシュタインが生まれ育った惑星オーディンを永遠に後にしたのは、新帝国暦元年8月19日のことである。

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