VIII Die Kluge

賢い女

Die Kluge (1)

フェザーンにおいて軍務省の仮庁舎となる建物は、ちょうど大本営と宇宙港との間に位置している。選定にあたっては、尚書官房の営繕えいぜん課がフェザーンに先乗りして、折衝を行った。新帝国の官庁街は、宮殿・獅子の泉の建設と歩調を合わせて整備される予定であるが、完成は8年後と予定されている。それまでのつなぎとしての、執務場所である。

営繕課がえらんだのは、フェザーン屈指の不動産企業であるフョードロフ不動産プロパティーズの所有する、地上55階、地下5階の巨大なビルであった。もともとは複数の企業が入居するオフィスビルであつたが、昨年ローエングラム公に率いられた帝国軍がフェザーンを占拠して以来、同盟系の企業が一斉に撤退したため、急激に空室率が上昇した。同時に、帝国系、フェザーン本土系の企業からは賃料引下げの圧力が働いた。このビルに限らず、フェザーンの不動産業界全体が不景気のどんぞこに陥ったのだった。

そこへ降ってわいたような大本営の移転である。しかも、「一時的なものにあらず」という皇帝の勅令からみて、やがて全宇宙の中心がフェザーンへ移ることは明らかであった。当然ながら、フェザーンの不動産業界は文字どおりV字回復の基調にある。

軍務尚書のフェザーン到着から3日目、フョードロフ不動産の本社ビルで、軍務省仮庁舎の賃貸借契約が締結されることとなった。

軍務省は今般の仮庁舎借上げにあたり、特にセキュリティの面に関して、かなりの改築・改造を家主であるフョードロフ不動産に要求した。この契約に対するフョードロフ不動産の情熱は相当のもので、軍務省側の要求をすべて承知し、残っていたテナントに補償を与えて退去させつつある。おかげで、軍務省は当初想定していたよりも、かなり有利な条件で借り上げることが可能となった。昨年のフェザーン占領以来、軍務省が接収を続けているホテルからは、年内に移転を完了する見込みである。

夕刻、フョードロフ不動産本社ビル最上階の応接室は、フェザーンの赤い太陽に照らされていた。応接室で彼らを出迎えたユーリー・フョードロフは、まだ少年というべき年齢であった。育ちの良さそうな面立ちである。明るい色の髪に黒に近い青い目を持っている。にこにこと愛想がよく、どこか「かわいい」という形容詞が似合うような幼さが残っていた。

官房からオーベルシュタインに提出された資料によれば、 フョードロフ不動産は3年前、この少年の父である先代のオーナーが病死して以来、彼が形式上の代表者となり、事実上は母親のもとで父の代からの強固な経営陣が支えている、という状況にあるようだ。実際、この日の調印式にも、お目付け役らしい重役が2人出席していた。軍務省からは軍務尚書、官房長、営繕課長が席に着き、秘書官と護衛官が後ろに控えた。

ユーリー・フョードロフを一目見て、オーベルシュタインは無意識に記憶巣の検索を開始していた。どこかで会ったことがあるように感じたのだ。ユーリーは軍務尚書の噂をいろいろ聞いているのだろう。少年らしい興味を隠そうともせずに、オーベルシュタインを見た。笑うと頬に小さなえくぼができる。

双方が無事、契約書に署名した直後のことである。一人の夫人が応接室に現れた。秘書官の位置からは、オーベルシュタインのあごの付け根あたりが、わずかに動いたのが見てとれた。

冷たい義眼が、夫人を見つめる。小柄な、美しい人である。灰色がかった黒い巻き毛。そして何より、彼の故郷の湖と同じ青碧の瞳。

「尚書閣下、ご紹介します。母の、フランツィースカ・ヒョードロワです」

 

――フランツィースカ…。

 

『わたくしの名前は、母と同じですの。両親からは小さなフランツィスカと呼ばれていましたわ』

かつて妻が語った言葉が耳元で響いた。

「ごきげんよう、閣下」

いつも完璧に制御されているオーベルシュタインの感情が小さく波打った。声は、尚更似ている。彼女が年齢を重ねれば、きっとこんなふうであったに違いない。そう思えた。

「ごきげんよう」

オーベルシュタインはゆっくりと近づいて夫人の手をとり、その甲に口づけた。営繕課長と秘書官、護衛官がそろって口をあけて凝視する一方、官房長は無感動を装ったが、その目と口元に隠しようもない笑みがあった。ベーズマンの挨拶は、リップシュタット戦役後、貴族の没落とともに急速に消えつつある儀礼である。尚書は貴族の出身であるし、貴婦人に対する当然のマナーとして振る舞ったのだろうが、却って世慣れない感があるのが可笑しかった。

「お目にかかれて光栄ですわ、閣下。楽しみにしておりましたの」

「ずいぶんと、こちらの要望を容れていただいたようだ」

「貴省だけに一方的に有利というわけではございませんのよ。わたくしどもも、息子が一人前になるまでは確実で安定した経営を、と望んでおります。これだけの規模のビルを一括で借り上げてくださるところは、なかなかございませんから。双方にとっての利益でございますね」

夫人はいかにもフェザーン人が言いそうなことを言って、にこりと笑った。人を引き付けてやまない華やかさがある。彼のフランツィスカが日陰の植物を思わせる人であったのとは対照的だ。

「オーディンからお移りになる方が増えれば、一般住居も必要になりましょうね?」

「そちらは内務省が主管することになりましょう」

「閣下もいずれ、ご家族をお呼びになりますの?」

「家族はありません。使用人と犬だけです」

「それはお寂しゅうございますわね。いかがでしょう、閣下。落ち着かれたら、一度食事にご招待したく思いますけれども」

オーベルシュタインの心臓がぎゅうと握り込まれた。フランツィスカと同じ青碧の瞳が、案ずるようにこちらを見ている。

「…残念ですが、利害関係者の饗応を受けるわけにはいきません」

そう答えるのがやっとだった。

 

数日後、フェルナーがフョードロワ夫人の調査結果を携えて尚書執務室にやってきた。

「フランツィースカ・フョードロワ。旧姓フォンヴィージナ。姓名から考えると、おそらく帝国からの亡命貴族の末裔でしょう。ですが、フォン・ヴィーゼンという姓を持つ家は旧典礼省の系譜簿に存在しません。抹消されたものと思われます。帝国歴435年生まれ、現在53歳。いや、二十くらいさばを読んでも通用しますな」

オーベルシュタインの義眼から絶対零度の冷気が発せられた。

「失礼しました。出身はフェザーン。若い頃は古典劇の女優だったようです。それが帝国本土・オーディンへ公演に行った際、クラヴィウス子爵家の御曹司と知り合い、駆け落ち。娘がいたようですが、その娘は子爵の死後、行方不明になっています」

「クラヴィウス?」

オーベルシュタインは顔をあげて官房長の目を見据えた。もちろん、その情報が彼にとって新鮮であったからではない。この喰えぬ男が、そ知らぬふりを決め込んでいるのではないかと疑ったのだ。

「はい、あのクラヴィウス子爵です。リップシュタット戦役の直後、ちょっと変わった若様が閣下を訪ねて来たでしょう? あの人の父上ですな。つまりその行方不明の娘とあの若様とは、異母姉弟ということになります。閣下のほうがよくご存じなのでは?」

フェルナーの直接的な探りに、オーベルシュタインはそっけなく「知らぬ」と答えた。彼はフランツィスカの父に会ったことはない。娘はそれでも父を愛していたようだが、彼の知りうる限り、亡きクラヴィウス子爵というのは、責任感の欠如した、臆病な男である。一度は愛した女性を捨て、娘を引き取りながらなかば養育を放棄し、脅しに屈して嫁がせた。少なくとも、オーベルシュタインの主観においてはそうである。

「フョードロワ夫人は、子爵が正妻を迎えるにあたり、あっけなく捨てられた。よくある話です。フェザーンに戻った後は下町で歌や踊りを教えていたようですが、その一帯の再開発事業が持ち上がり、事業主であった亡きフョードロフ氏に出会って玉の輿に乗った、と。これが18年前ですな」

「フョードロフというのはどのような男か」

「フョードロフ氏は、一代で業界2位の不動産会社を築き上げた、まあ、傑物と言ってよいのでしょう。8年前の自治領主選挙の際は、ルビンスキーの対立候補として推されています。三年前に心臓発作により死亡。持病があったようで、不審な点はありません。あのかわいらしい坊やは実の息子です。四十を過ぎてからの子供で、ずいぶんと可愛がっていたとか」

「帝国に近づく目的は?」

「自治領主選に敗れ、ルビンスキーが権力を握ったフェザーンでは、やりにくいことが多かったのでしょう。そこへ帝国軍が来てルビンスキーを駆逐した。あるいはそれが、帝国へ近づく動機の一つかもしれません。もう一つは先日夫人が言ったように、跡取息子がまだ16歳ですから、一人前になるまで手堅い会社経営をしたい、ということかと思われます。軍務省に貸しておけば、あと十年程度は着実に賃料報酬が見込めますからな。それ以上のことはないと、小官は考えますが、何かお気にかかることがございますか、閣下」

「いや、そうだな。あまりに我らに有利な条件を出すゆえ慎重を期したまでだ。卿がそう判断するならそれでよい」

フェルナーが手元の資料を一枚めくる。

「ああ、あの行方不明の娘についてですが、当てにならない情報が一つあがってきています。お聞きになりますか」

「…うむ」

「教育係だったという老婆によれば、父子爵の死後、継母の手で身障者に売られたとか、嫁ぎ先で殺されたとかいう話だそうです。嫁ぎ先はアインシュタイン家だと証言したようですが、それらしい家は見つかっていません。なにせ今年九十三になる老婆ですから、記憶がずいぶん混乱しているようで」

老婆は事実を述べている。アインシュタインが彼女の犬の名であることをのぞけば、記憶は確かだ。

「夫人に監視を付けますか?」

「いや、よい。娘のことも捨て置け」

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Die Kluge (2)

新帝国暦元年12月25日

伸ばした左手が冷たいシーツの上で幾度か空を切り、オーベルシュタインは目を覚ました。上半身を起こして肺から空気を押し出し、左手を見る。軍務省が借り上げたホテルの一室である。静かな部屋に、窓の外で鳴く鳥の声がいやに大きく響いている。夢を見ていたようだ。夢の内容は目覚めた瞬間に消え去ったしまったが、冷たく悲しい風に吹かれていた気がした。

この日、オーベルシュタインは皇帝が同盟領に向けて進発して以来、初めての休暇をとった。前線の状況が緊迫している。ひとたび戦端が開かれれば、軍務省も不眠不休となろう。オーベルシュタインは朝の遅い時間までベッドヘッドに身体を預け、対面の壁に掛かる絵を見ていた。

今日は、彼女を永遠に失った日である。

 

リップシュタイン戦役が終結した直後のことだ。若い貴族がローエングラム元帥府にオーベルシュタインを訪ねてきた。この時期に軍高官に面会を乞う貴族の用向きなど知れている。懇請だ。一度は追い返したが、その青年、ジークベルト・フォン・クラヴィウス子爵は、守衛室の老兵に気に入られたものか、オーベルシュタインの退勤まで門のそばで彼を待っていた。それで仕方なく、面談の時間を取ってやったのだ。

ジークベルトは貴族的な顔立ちをした、背の高い若者であったが、オーベルシュタインは、子爵という肩書とはちぐはぐな印象を受けた。ずいぶんと日に焼けている。

「ええと、その、母に言われてお訪ねしたのです。母が申しますには、当家とオーベルシュタイン家とは、かつていささかご縁があったそうで、それで、当家の苦境をお話し、ご助力を請うように、と」

「さて、縁とは?」

「さぁ…。すみません、詳しくは聞いてないのです。ただ、当家はその、正義派貴族軍、あ、いや、賊軍ですか、それには参加しておりませんし、ローエングラム公に敵対したわけでもありません。今般の戦役の間も、私はただ辺境星域の無人惑星で発掘をしていただけですから。それが帝都に戻ってきたらこんな状況になっていて、それで、とても困っているんです」

「発掘?」

「あ、はい。私は帝国大学の大学院に在籍しているのですが、ええと、専門は古代海洋生物です。それで教授のお供で化石の発掘に行っていました」

なるほど、いかにも学生じみた話し方をする。もしオーベルシュタインの部下であったら「簡明に話さぬか」と容赦なく叱責されたであろう。

「ならば今後は、学究をかてとし、俸給の許す範囲で生活なさることだ」

「私には無理ですよ、研究者なんて 。単に化石が好きだというだけで、才能がないことくらい自分でも分かります」

「表だってローエングラム公に対立されなかったのであれば、家財の一部保留が認められ、一時金が支払われる。平民であれば一生を暮らすに十分な額だ」

「でも母がなんというか…」

「母君を説得されよ。そうですな、オーベルシュタインが、ご子息のために良い縁組をお世話してもよいと言っていた、とでもお伝えになってはいかがか」

「え? なぜそれで母を説得できるんです? いや、それ以前に、縁談は困ります。本当に、困るんです。僕、あ、いえ、私には心に決めた人がいますから」

オーベルシュタインは小さく溜息をついてみせた。かつてこの若者の母親は、継娘を追い出すようオーベルシュタインに嫁がせ、大金をせしめた。オーベルシュタインの取り持つ縁談など、恐ろしくて受けられぬだろう。彼とて本当に世話をするつもりはない。

「ならば家財を処分されよ」

「売れますかね…」

売れはすまい。戦役後、没落していく貴族の屋敷があちらこちらで売りに出され、値崩れが著しい。一方で、贅を極めた屋敷を丸ごと買い上げることのできる資産家も少ない。文化的価値があると認められれば、国の保護を受けられるかもしれないが、そうでない場合は家財を切り売りするほかにないだろう。

だが、ジークベルトの心配はその点ではないようだった。

「実は、うちの屋敷は出るんですよ」

「出る、とは?」

「幽霊です。父が逝去し、襲爵したばかりの頃に見たんです。屋敷の一角に薄暗い、誰も近づかない場所があるんですが、喪服姿の若い女が白っぽい大きな犬と一緒に、その廊下の先をすっと横切ったんですよ」

「……今も、出ますかな?」

「いえ、それきり見たことはありません」

「それは残念だ。今も出るなら私が買ってもよかったのだが」

「え? お好きなんですか? 幽霊が?」

ジークベルトは、幽霊の同族のような顔をした軍人をまじまじと見つめた。だが、オーベルシュタインは過不足のない挨拶をして席を立つと、振り返りもせず出て行ってしまった。

後にはあっけにとられた青年貴族が、一人残された。

しばらく後、やはりクラヴィウス家の家財は売りに出された。オーベルシュタインは身元を隠し、人を介して1枚の絵を購入した。かつてフランツィスカが彼に話して聞かせたことのある、死の島の絵だ。小舟に棺を乗せて、フードの男が島へと渡っていく。この絵を見るたび、彼は遠い故郷の湖と、湖水と同じ色をした彼女の瞳を思い出した。

その絵が今は、フェザーンのホテルの一室に掛けられているのだった。

 

午後になり、オーベルシュタインはフェザーンの街へ出た。書店で同盟領の数学者の手になる書籍を求め、外へ出ようとしたところで、「閣下」と呼び掛けられた。ユーリー・フョードロフ。軍務省仮庁舎ビルのオーナーで、亡き妻の弟である。ユーリーは少年の顔に母親譲りのえくぼを浮かべて立っていた。利害関係者であることを理由に、誘われたコーヒーを辞すと、では運河沿いを歩きましょう、と、ユーリーまた笑顔を見せた。乾燥の激しい惑星フェザーンの都市部では、運河が縦横にめぐらせてある。

困ったのはユーリーのほうだ。冷厳冷徹と評判の軍務尚書を寒風の中に誘っておいて、彼は何の話題も用意していなかった。軍服を着ていない軍人というのは、かえって緊張を強いられる。オーベルシュタインは色の入った丸眼鏡に、つば広のフェルト帽を頭に乗せていた。ユーリーは知る由もないが、これは義眼を保護するためのものだ。そもそも義眼の色には、太陽光をはじめとする外部環境の影響を受けにくい色が選ばれている。そうであっても、フェザーンの太陽の元素組成と長年住み慣れたヴァルハラのそれとが異なるため、白昼の外出はやはり義眼への負荷が大きいのである。カスタマイズされた新しい義眼が届くまでは、こうしてしのぐほかない。

「あの、もうすぐ戦端が開かれるという話ですね」

「軍機に属することはお話できない」

「あ、はい、もちろんです。すみません。ええと…、そうだ、この前アビトゥーアの審査が終わって、僕、オヒギンズ商科大学に入ることになりそうです」

ユーリーは結局、彼の個人的なことを話題に乗せた。

「お祝い申し上げる。優秀でいらっしゃるな」

「ありがとうございます」

少年の声音には、わずかな影のようなものがあった。

「不本意なのかね?」

「いえ…。でも何だか、流されているようで」

冷たい冬の運河を、鴛鴦おしどりのつがいが前後に連れ立って泳いでいる。上空から細かな雪がちらちらと落ちてきた。

「軍には、16歳から志願できるのでしょう?」

「まさか、志願したいのかね?」

「いえ、そういうわけではないのです。僕は戦争なんて恐いですし。ただ、僕と同年代の人達が、皇帝カイザーに従って歴史を作りつつあるのを目の当たりにすると、何だか自分が不甲斐なく思えるんです」

「卿は、いくつであられたか」

「十六です」

姉の死後に生まれたのか、とオーベルシュタインは思った。考えてみれば、彼自身にこれくらいの子供がいてもおかしくはないのである。時の過ぎるのの何と速いことか。

「閣下はなぜ軍人になられたのですか?」

「父の命だった」

「他になりたいものはなかったのですか?」

「ふむ…、どうであったかな」

オーベルシュタインは脇に挟んだ書籍の包みを抱え直した。

「ヘル・ヒョードロフは?」

「小さい頃は航宙士に憧れていました」

「あきらめたのかね?」

「というより、それほどの情熱がないのです。気概がないっていうんでしょうかね。母の期待にも応えたいし、会社を存続させて、従業員やその家族の生活を守りたいとも思います。必要としてくれる人を裏切りたくない、というか…」

「与えられた境遇の中で最善を尽くす生き方もある。何も卑下することはない」

「そうでしょうか?」

「ああ」

「もっとも僕は数学や物理が大の苦手で、航宙士なんて絶対無理なんですけど」

オーベルシュタインは、帽子の庇の影から少年を見つめた。

「…意外だな」

「え?」

「ん、いや、フェザーン人はみな数字に強いのかと」

我ながら下手な言い訳だと、オーベルシュタインは思った。

「はは、そんなことはないですよ」

困ったように笑う顔が姉によく似ている。あごから耳にかけての輪郭など、同じ型から射出成型したようだ。

オーベルシュタインは彼女の二人の弟のことを考えた。ジークベルト・フォン・クラヴィウスとユーリー・フョードロフ。フョードロフのほうにより関心が向くのは、この少年の中に垣間見えるフランツィスカの面影に、心を揺さぶられるからだろうか。遺伝子を憎んで生きてきたはずが、遺伝子の見せる事象に振り回されている。血のつながりとは、かくも人の心をとらえて離さぬものなのか。

 

「それで、どんなお話しをしたの?」

その日の夕食時、そう母に問われ、ユーリーは鶏肉のソテーにナイフを入れかけたまま、上目遣いに天井を見上げた。

「それは…、秘密です。でも、軍務尚書閣下は世間で言われているような冷酷な方ではないような気がしました。とても誠実な方だと思うんです」

「そう。あなたも、そう思うの…」

母は懐かしさと悲しさが入り混じったような表情をした。それは母が、亡き父のことを話すときにいつも見せるのと同じ顔であった。

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Die Kluge (3)

新帝国暦2年4月12日

工部尚書シルヴァーベルヒは、同じく新帝国の閣僚である軍務尚書に機嫌よく挨拶をした。オーベルシュタインは無言のまま目礼を返したのみであったが、シルヴァーベルヒはその冷淡な応対に挫けることなく、言葉を継いだ。

「今日、獅子の泉の模型が届きましてね。素晴らしい宮殿になりそうです。軍務省のほうも、もうすぐ初歩設計があがります。完成が楽しみですな。建築というのは、いわば自分の子供のようなものですよ。私が死んでも、私の一部が受け継がれていく…」

歓送迎会は、主賓の一人であるワーレン上級大将が到着せぬため、開始が遅れていた。オーベルシュタインは早々に席に着き、周囲の喧騒を遮断するかのように瞑目した。たった今、シルヴァーベルヒが言った言葉が気にかかった。自分も、新王朝や軍務省にオーベルシュタインの一部というべきものを残すことになるのだろうか、と。

そのとき、鼓膜の許容量を超えるような轟音とともに、爆風におそわれ、オーベルシュタインは椅子ごと吹き飛ばされた。薄れゆく意識の中、人々の怒号と悲鳴とが聞こえた。

 

それから3日。

報告のため病室を訪れたワーレンを見送った後、オーベルシュタインはまた浅い眠りに落ちていた。

彼は白いフードで全身を被い、湖畔に立っている。眼前に広がる青碧の波が、寄せては返し彼の足首を濡らす。もやいの先には小舟が繋いである。っているのは彼の棺だ。彼は対岸の墓所へ行かねばならない。

そう思ったとき、鈴蘭の香りに世界が満たされ、懐かしい感触が彼の手に触れた。

『どうか、長生きしてください』

オーベルシュタインは薄く瞳を開き、下唇を噛んでfrと発声しかけたが、一瞬苦痛に耐えるような表情を見せ、また視界を遮断した。

「閣下?」

再び開いた義眼に映し出されたのは、フランツィースカ・ヒョードロワであった。見舞いに訪れる予定だと、秘書官から聞かされていたのを、オーベルシュタインは思い出した。

今、彼は何と言うつもりであったのか。フランツィスカと言おうとしたのか、夫人フラウと言おうとしたのか、自身でも分からなかった。

「ごきげんよう、閣下。お加減はいかがですか?」

オーベルシュタインは小さく頷き、夫人の手をそっと払った。複数の人命が失われた爆発テロの中、彼は幸いにして死を免れた。ただ、擦傷のみとはいえ、いまだ鎮痛剤を滴下されており、完全な覚醒状態にあるとはいえない。多少、発熱もあるのかもしれなかった。

「よい香りですわね。鈴蘭」

「部下が持ってきたのです。物を知らぬ男だ」

夫人は、まあ、と言ってにこりと笑った。

鈴蘭の鉢植えは軍務省官房長のフェルナーが持ってきたものである。フェルナーは新緑の頃、オーディンにあるオーベルシュタインの屋敷を訪れたことがあった。その際、庭先の鈴蘭の群落がさわやかな甘い香りを漂わせていたことを記憶しており、勝手にオーベルシュタインの好きな花だと断じたようだ。しかしながら、鈴蘭は、毒を持つ、香りの強い植物だ。決して見舞いにふさわしい花ではない。だがあの如才ないフェルナーのことだ。それを承知で持ってきたのだろうから、オーベルシュタインも彼の非常識を指摘することなく黙って受け取った。

「亡くなられた方には申し訳ないのですけれども、閣下がご無事で、なによりでしたわ」

「夫人フラウ、職務でお聞きするわけではないが、今回の件、フェザーン人はどう見ているのだろうか。背後にルビンスキーの存在を疑うむきもあるようだが」

「確かにそういう噂はございますけれど、証拠はありませんし、わたくしの口からは何とも申し上げられません。ルビンスキーさんの悪口を言っていると思われても困りますもの」

「お知り合いなのですかな、前自治領主ランデス・ヘルと」

「面識があるというだけです。亡くなった夫がルビンスキーさんと自治領主の座を争ったものですから」

「ああ」

オーベルシュタインは納得したように一度目を閉ざした。

「わたくしの夫と元自治領主のワレンコフさんとは、仲の良いお友達でしたの。今、軍務省の仮庁舎が入っているビルも、もともとはワレンコフさんが所有されていたものですのよ。生前、よくうちにいらしては、ルビンスキーさんのことを『あの坊主どもめ』なんて、話しておいででしたわ」

「坊主?」

夫人は少し気まずそうな表情をつくった。

「ほらあの方、髪が…」

「…ああ」

ルビンスキーは禿頭である。世俗にまみれた生臭い男であるが、僧形に見えぬこともない。

「あら、これも悪口ですわね」

夫人は、 笑うと実年齢よりかなり若く見えた。頬に小さなえくぼが浮かぶ。オーベルシュタインはつられるように、唇の端をかすかに動かした。

「そういえば、先ほど、病院の入り口でワーレン閣下をお見かけしました。確か、地球教の討伐に行かれたそうですね」

オーベルシュタインがうなずくのを見て、彼女は「閣下は地球教の信徒に会ったことがあるか」と、問うた。何度か間接的な接点はあったが、オーベルシュタイン自身は、直接信徒と話したことはなかった。

「以前はフェザーンのあちこちで見かけたものですけれど、昨年、陛下がフェザーンに軍を進められてからは見かけなくなりましたわね」

「うむ…」

――地球教…、ルビンスキー…、坊主…、信徒…、地球教…、坊主ども…。

霞がかかった脳裏に複数の単語が浮かび上がっては消えた。夫人は黙り込んだオーベルシュタインに辞去の意を告げて立ち上がった。夫人が出て行ったドアを見ながら、どれほど似ていてもやはり彼のフランツィスカとは違うのだ、と、オーベルシュタイン思った。彼のフランツィスカは存在感の希薄な、日陰の植物のような人だった。

ふいに、フランツィスカの父のことが思い出された。面識を持つことのなかった彼の義父にあたる人は、娘の中にその母親の姿を見ただろうか。そして二度と会えぬ人を想い、寂寥を募らせたろうか。

義父は、エルベ川で溺死したのだという。遺体に金目のものがなかったことから、暴漢に襲われ殺されたのだろうと言われていたが、やはり自殺だったのではないか、とオーベルシュタインは思う。現に義父は、オーベルシュタインとフランツィスカとの婚約が決まった夜に命を落としたのだ。

夫人が「暇つぶしになりますかどうか」、と置いていった封筒には、同盟領の数学会誌が入っていた。どこで知ったのだろうか。オーベルシュタインは、彼が数学を趣味とすることを誰かに話したことなどない。数か月前、書店で偶然会った彼女の息子が、彼の買った本に気づいたのかもしれなかった。

夫人は何も言わなかったが、間違いなく知っている。今は亡き彼女の娘とオーベルシュタインとが、どのような関係にあったかを。それだけは確信できた。

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Die Kluge (4)

新帝国暦2年5月23日

その5日前、ヤン・ウェンリー率いるイゼルローン占拠軍との戦闘が、唐突に終焉を迎えた。帝国軍の陣営では、戦いが終結した安堵と多くの戦友を失った哀惜との中で、敵将を迎える準備がすすんでいる。

ミッターマイヤーは自身の旗艦・べイオウルフの艦長室で、嫌々ながら軍務省との回線を開いた。宇宙艦隊司令長官として、どうしてもフェザーンの軍務尚書と連絡を取る必要があったのだ。オーディンを経由した不明瞭な映像を通して見てもなお、不愉快な顔がそこにあった。

ヤン・ウェンリーを帝国陣営へ誘い出した後、これを討って後顧の憂いを断つべし。この男は、先日、皇帝にそう具申した。よくもまあ、そのような恥知らずな献策ができるものだとミッターマイヤーは思う。その一方で、ヤンをおびき寄せる餌として、自らがイゼルローンへ人質として赴いてもよい、などと平然と言ってのける。もし皇帝がそうせよと命じれば、この男は顔色一つ変えずイゼルローンへ向かうのであろう。そこがまたミッターマイヤーの鼻についた。

「卿の無私の精神には、相変わらず頭が下がるな」

軍務尚書への要請事項を事務的に伝えた後、ミッターマイヤーはオーベルシュタインの策をそう評した。無論これは嫌味である。

「そうでありながら、大事な会戦前に皇帝陛下のご宸襟を騒がせ奉り、国家の元勲たるロイエンタール元帥の名誉を傷つけるとは、軍務尚書の忠誠心はいったいどこへ向かっているのかと、理解に苦しむところだ」

この3月、猛進する帝国軍の足を止めた1通の報告書があった。内国安全保障局のラングが司法尚書ブルックドルフを騙すように動かして、ロイエンタールを弾劾させた一件である。ロイエンタールが私邸にリヒテンラーデ侯の縁に連なる女を置いていた、という事実が露見したのだ。

「異なことを。私はむしろ、今般のことはロイエンタール元帥の名誉を守ることになったと思うが」

何千光年も彼方から、冷徹な義眼が射すくめるようにミッターマイヤーを見た。

「名誉だと? 大逆の罪を仕立てて統帥本部長を誣告しておきながら、名誉というか」

「数か月前、私は自らコールラウシュなる娘に事情聴取を行った。もしこれが軍法を以て裁かれるべき事案であれば、司法尚書による調査は職権踰越の疑いがあるためだ。結果、私は本件は民刑事の範疇にあると判断し、ロイエンタール元帥を強姦罪で訴えるよう娘にすすめたのだ。だが、当人がこれを拒否したため、捜査起訴には至らなかった。強姦は親告罪であるからな」

「ご、強姦?」

数瞬の間、ミッターマイヤーの耳は遥かフェザーンから転送されてきた軍務尚書の声の意味を、理解することができなかった。

「そうだ。ロイエンタール元帥は確かにあの娘に命を狙われたようだが、それならば、捕らえて憲兵隊に引き渡せばすむことではないか。反逆者の縁者だからとて、気の赴くままに凌辱してよいはずはない。未成年者を辱め、子を孕ませ、あげくに知っていれば堕胎させていたなどと、そのような無法な話があるか」

ノイズの多い画面の向こうで、冷徹な軍務尚書は静かに憤っているように見えた。感情らしきものを発露したらしたで、やはりこの男が気に入らないことに変わりはないのだ、と、ミッターマイヤーは目の前の話題から逃避するようなことをぼんやりと思った。

「ミッターマイヤー元帥は戦場における綱紀にことのほか厳格であると聞くが、ことが親友にかかわるとみれば、善悪を測る物差しを替えるようだな」

「なっ」

ミッターマイヤーには返す言葉がない。異なる物差し。確かにそのとおりだ。もし今回のことをこの男が引き起こしたとしたら、自分は彼のために弁明してやることはなかっただろう。むしろ、弾劾の先頭に立ったかもしれぬ。何もかも、この忌ま忌ましい男の言うとおりである。ミッターマイヤーは女がロイエンタールを陥れたのだと信じて疑わないが、女の立場からはまた違った真実があるのかもしれない。

「ほう…。軍務尚書はずいぶんとその女にお優しいようだ。木石と噂の卿の気をひくほどの、いい女だったのかな?」

ミッターマイヤーらしからぬ言いようであった。親友のために何も言い返してやれなかった腹いせである。

「…まだ、子供だった」

ミッターマイヤーは今度こそ完全に言葉を失った。オーベルシュタインの振り下ろした冷たい刃が、胸に深く突き刺さっていた。

「ミッターマイヤー元帥、要請の趣旨は承知した。速やかに手配させる」

オーベルシュタインは、無言のままのミッターマイヤーにそれだけ言って、何の未練も見せることなく、ぶつりとヴィジフォンを遮断した。

 

ミッターマイヤーが消えた灰色の通信画面を見ながら、オーベルシュタインはあの娘との対面を思い出していた。

司法省の仮事務所が入ったホテルの一室である。化粧もせず、髪も結わずに現れた女は、報告書に添付された写真よりずっと幼かった。膨らんだ腹を守るように手をやって、凄味のある目つきでオーベルシュタインを見た。だがその風情はどこか、庇護者を失った哀れな少女にも見えた。事情聴取の結果、軍法の及ぶところではないことは明らかであった。娘の身柄は社会福祉局に移送されるべきである。そこならば、妊婦として最低限の保護を受けることができよう。

司法省の役人の非友好的な視線に見送られ、仮事務所を出たオーベルシュタインの背中にフェルナーが問いかけた。

「少々甘いのではありませんか」

幾分、挑発するような口振りである。ドライアイスの剣と怖れられる軍務尚書も女子供相手には刃が鈍るのかと、面白い物を見たように思ったのだ。

「小官はあの女を然るべき場所に拘禁するべきと考えます。腹の子はリヒテンラーデ侯とロイエンタール元帥の血をひいて生まれてくるのです。後々、ローエングラム王朝へ弓を引かぬとも限りません」

エレベーター内で、オーベルシュタインは急速に近づいてくる地上の景色を見つめていた。

「卿は、まだ生まれもしない赤子に対する予防検束の根拠を、血筋に求めるか」

「は…、あの」

「遺伝子がすべてを決めるなど誤りだと、私も思う」

その言葉は、可聴域ぎりぎりの声でつぶやかれた。フェルナーはにわかに何の反応も返すことができず、地階に到着したエレベータにしばらく一人取り残された。我にかえったとき、オーベルシュタインは既に車寄せで待つ秘書官に敬礼を返しているところだった。慌てて走り寄り、同乗する。

「申し訳ありません。小官の浅慮でした」

「習以成俗しゅういせいぞくとは、そういうものだ」

オーベルシュタインはシュルツが差し出した書類から顔も上げずに、いつもと変わらぬ調子で淡々と答えた。シュルツが何事かと二人の上官に交互に視線を走らせる。

フェルナーは自身の浅はかな言葉を悔いた。軍務尚書は彼に失望したことだろう。習慣はいずれ習俗となる。ゴールデンバウム王朝で生まれ育った人間は、人の行動の原理を遺伝子に求める思考が抜けない。

――遺伝子がすべてを決めるなど誤りだと、わたし『も』思う、か。

それがこの人の、生きる道標のようなものか。フェルナーは初めて、オーベルシュタインの剥き出しの心を見たように思った。

その娘、エルフリーデ・フォン・コールラウシュが、生まれてひと月に満たない赤子とともに姿を消したとの報告が入ったのは、ヤン・ウェンリーの訃報が宇宙を駆け巡った直後のことであった。

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Die Kluge (5)

新帝国暦2年7月

宇宙は、ほぼ統一がなった。

遷都令が発せられ、フェザーンは急速に銀河の中心へと姿を変えつつある。

オーベルシュタインは執務室に隣接する会議室で、官房長のフェルナー、秘書官のシュルツ、そして従卒の幼年学校生と昼食を摂っている。この4名が揃って食事の席に着くのは、ほぼ2か月に一度、軍務尚書の従卒が交替するたびの恒例行事だ。オーベルシュタインは相変わらず、食物を淡々と口に入れる。彼の場合、美味だとか不味いだとか、そうしたことも一切表情に表れぬから、飲食とは栄養摂取の別名に他ならぬように見える。オーベルシュタインの斜め向かいに座る従卒は、それがまるで食事を運んできた自分の責任であるかのように恐縮していた。そんなとき、場を和ませるのは、いつもフェルナーの役割である。この真面目なようでいて妙に調子のよい男は、この日、一段と突飛な話題を俎上に乗せた。

「なあシュルツ。卿は運命というのを信じるか?」

「運命、ですか? そうですねえ、家内に出会ったときは、運命のような気がしましたかね」

「こんな感じか?」

フェルナーは中指の背を使って、ココココンと机を打った。「運命はかくのごとく扉を叩く」。ベートーベンの「運命」の冒頭のリズムだ。意外に教養のある男なのである。

「まあ、そんなところです。しかしどうなさったんです? 突然、運命だなんて」

「それがなぁ、結婚を迫られているんだ」

「わあ、おめでとうございます! 准将」

純粋な目で祝福を送った従卒に、フェルナーは「何がめでたいものか」と返し、オーベルシュタインに向き直った。

「実はですね、小官の付き合っている女が…。あ、いや、交際している女性が」

オーベルシュタインに冷たい視線を浴びせられて、フェルナーは慌てて言いなおした。この上官は軍人の規律だ何だと口うるさく言うタイプではないが、言葉使いには厳しい。

「その女性が、私たちの出会いは運命だ、だから結婚してくれ、と、こう言うのです。しかし私としては、運命を感じないというか、運命と信じて結婚して、そうじゃなかったらどうすればいいのか、と思うわけです」

「卿は思い違いをしている。運命とは、無数にある可能性から選択され収斂した結果として現われるものをいうのだ。後になって運命でなかったというのは主客が転倒している」

三人の部下は思い思いの表情で上官の難解な言説を咀嚼した。何やら詭弁めいているが、妙に説得力があるような気もするのは、発言者が軍務尚書だからだろうか。

「つまり、この世で起こることすべてが運命だ、ということになりますな」

「なるほど」

「…なんだか、人間原理っていうのに似ていますね」

おずおずと会話に加わった従卒に無言でうなずいて、オーベルシュタインは食後のコーヒーに口をつけた。

「しかし良い機会ではないですか、准将。ちょうど会戦も一段落したところですし」

「うぅむ。そうは言ってもなぁ。シュルツは、奥方のどこが気に入ったんだ?」

「そうですね、料理上手なところかな」

「料理、なあ」

「大事ですよ、毎日のことですからね」

オーベルシュタインは、コーヒーカップの陰からちらりとシュルツを見た。彼にはよく理解できない。

妻の料理の技能がなぜそれほど重要なのか。ミッターマイヤーがよく妻女の料理の腕を臆面もなくほめているが、オーベルシュタインにしてみれば、元帥にもなって使用人も雇わぬミッターマイヤーの生活ぶりは不可解極まりない。それだけの地位を得たのならば、妻を家事労働から解放し、世人に雇用機会を提供するのが、夫の甲斐性であり、高所得者の義務であろう。富の再分配という観点からもそうあるべきだ。しかしながら、ミッターマイヤーのそうした暮らしぶりは、平民出身の兵士に好感をもって受け止められているらしい。財を溜め込む大貴族らをあれほど憎んでいた彼らがなぜそのように感じるのか、それもまた不可解である。シュルツとて曲がりなりにも佐官なのであるから、ある程度の余裕はあろうに。

オーベルシュタインはそう思いつつも、やはり常と変わらぬ無表情で部下たちの会話を聞いていた。

「まあ、私のことはともかく」

フェルナーは自分から振った話題をあっさりと打ち切り、

「閣下は『運命』なるものに一家言お持ちのようですが、ご自身にはあったのですか? 運命の出会い」

と、素知らぬふうを装って問うた。恐れを知らぬ男である。他者の目には凍りつくように鋭く映る上官の視線をさらりと受け流し、答えを催促するような表情を作る。

「…あった」

「そっか、閣下も恋をなさったんですね」

従卒は少年らしい無邪気さで、詩人のような感想を口にした。秘書官の背を冷たい汗がつたうのを感じた。

「お前は、恋がどのようなものか知っているのか?」

「え? えーと、自分だけを見てほしいってことでしょうか?」

助けを求めるように見てきた少年を、ことの発端を作った官房長は「さあ」と突き放す。

オーベルシュタインの心は一瞬、来し方を見つめていた。自分もそう思っていたのだろうか。よく思い出せないままカップの底の液体を飲み干し、席を立って執務室へ消えた。

後にはにやりと笑う官房長と、汗をぬぐう秘書官、顔面蒼白の従卒が残された。彼らの上官が心に聖域を持つなど、誰に信じられようか。感情の存在さえ疑われているというのに。

「准将、あの、僕…」

「心配するな。別に怒ってはおられない。もともとあんな感じの人なんだ」

「はあ」

「お前も閣下に冗談の一つも言えるようになれ」

「冗談、ですか? 今の、冗談だったんですか?」

「それはさすがに要求が高いでしょう、准将」

「ははは、頑張れよ」

 

翌日の昼休憩後、報告のため軍務尚書執務室を訪れたフェルナーは、緩みそうになる頬の筋肉をなんとか脳の統制下においた。

「閣下、どうなさったんですか、その、髪は」

「庁舎の地下に入った理髪店で切らせたのだ」

フェルナーの目が上官の襟足あたりを行き来する。理髪師の腕が相当拙かったのは、明らかであった。日頃から評判の悪い艦付き理髪師のほうが、まだましである。

「なんだ」

「はやくラーベナルト夫人をお呼びになったほうがよさそうですね…」

「そうか」

オーベルシュタインはまるで興味がなさそうに、手元の資料に視線を落とした。

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