Pre-Episode -3
    プレエピソード-3

帝国暦472年2月15日

この日、帝都郊外の樫之木館アイヒェンバウム・ハオスを訪れたクラヴィウス子爵夫人は、館の主ににこやかに迎えられた。

主は子爵夫人の大伯父にあたる人で、七十を過ぎた老人である。帝国軍の士官として要職を歴任し、最終階級は大将であった。若い頃に夫人を亡くしてから再婚することがなかったため、子供がない。そのせいか、一族の子供たちの面倒を何くれとなくみてくれる。

暖炉の前の心地よいソファで、子爵夫人は挨拶もそこそこに借金取りの卑劣さをなじり、息子の将来を案じ、不甲斐ない夫をけなし、自分にどれほどの正当性があるかを長々と語った。

老人は膝に乗せたシャム猫の耳の後ろをなでながら、黙って話を聞いてやった。やっと又姪が本題に入り、期待と不安に満ちた目で借金を申し出ると、

「クラヴィウスの娘はいくつになるかね」

と、のんびりとした口調で無関係なことを聞いた。

子爵夫人は一気に表情をこわばらせた。今にも歯ぎしりの音が聞こえてきそうな形相である。老人はそれに一向に気づかぬように、娘の外貌はどうか、と、重ねて問うた。

クラヴィウス家の娘―フランツィスカは、常に子爵夫人の精神を苛立たせる存在である。

10年前、彼女とクラヴィウス子爵との縁談が持ち上がったとき、彼は市井に暮らす娘を嫡出子として引き取らせてくれるなら結婚してもよい、と条件を付けたのだ。当人らの意思とは関係のない、周囲の思惑による縁談ではあったが、貴族令嬢を前にして卑しい身分の女が生んだ子を嫡出子にとは、あまりの侮辱ではないか。自分が子爵の子を産まなければ、その娘がクラヴィウス家を継ぐというのか。彼女の自尊心は大いに傷つけられた。

――そう、あの時も大伯父様に頼みに来たのだったわ…。

回想の淵から浮かび上がり、この館を訪れた目的を思い出した夫人は、表情と声を整えて大伯父の問いに答えたが、その言葉からにじみ出る嫌悪感は消しようもなかった。

「年は確か十六です。顔はまあ、人並み以上と言ってもようございますわ。やせっぽちの陰気な子ですけれど」

老人は全く意に介した様子はない。「結構、結構」と機嫌よく笑った。

「後宮に入れてはどうかな。お前の借金には足りぬだろうが、支度金も出るよ」

前年、ベーネミュンデ子爵の令嬢が後宮におさめられ、皇帝の寵愛を一身に受ける身となったのは、帝国貴族の誰もが知るところである。先ごろ懐妊の発表とともに、侯爵夫人の称号を賜ったとも伝えられた。じきに皇子か皇女が誕生するであろう。

また、ベーネミュンデ侯爵夫人を寵愛するようになってから、皇帝の嗜好が一変したとも、もっぱらの評判である。宮内省は若く可憐な乙女を見い出そうと、貴族社会を走り回っている。老人のもとにも、「どなたか相応しいご令嬢があればぜひご推挙を」と宮内省の官吏が訪れていた。

「私としても、陛下のお側近くに縁者がいれば何かと助かるのだがね」

老人がかつて後見人となって後宮に入れた遠縁の娘は、一昨年に皇帝の子を死産し、娘自身も命を落としてしまった。それ以来、宮中との糸が途切れがちである。侯爵夫人が懐妊中で皇帝の相手を務められない今こそ、新たな娘を送り込む絶好の機会であった。

――後宮ですって?

子爵夫人は思案を巡らせた。

あの娘が後宮に入れば二度と顔を見ずにすむだろう。もし陛下のご寵愛を受けることとなれば、息子ジークベルトのよい後ろ盾となるはずだ。だが本当にそうなれば、夫人は継子の下風に立たねばならなくなる。何につけても、あの娘の下に置かれるのだ。

――それだけは許せない!

「大伯父様! あんな下賎な娘が寵姫だなんて有り得ないことですわ! あの娘のせいでわたくしがどれほど辛い思いをしているか、大伯父様はお分かりですの? クラヴィウスがあの娘を見るときの目つきときたら、身震いがいたします。思い出しているんですのよ、あの娘の母親を! 後継ぎの男子を産んだのはわたくしだというのに!」

子爵夫人は急に立ち上がり、芝居がかった調子で叫んだ。怒りと屈辱感で、借金を申し入れに来たことなど忘れ去っている。猫が驚いて老人の膝から飛び降り、どこかへ走り去った。

「だいたいあの娘は貴族どころか、平民以下ではありませんか! 陛下にお仕えするなんて、そんなことが許されるはずがありません!」

又姪が発した言葉の重要な部分だけ聞き取って、老人はうなずいた。

ーー確かに、後宮は難しいか。

老人のほうとて、何がなんでも、というわけではないのだ。

宮内省の官吏が訪ねてきたのと同時期に、老人はワイツという内務省の官吏の訪問を受けていた。自他ともに認める内務尚書リヒテンラーデ侯の腹心は、型通りの時候の挨拶をひとしきり述べると、「宮中からは、しばらく距離を置かれるがよろしいでしょう。陛下の女婿であらせられる両公が、昨今何かというと寵姫を目の敵にされておるようでございますので…」などと親切ごかしなことを言った。宮廷をかきまわす要素が増えては困るのであろう。

リヒテンラーデ侯の腹は読めている。「そろそろ名実ともにご隠居なさい」という警告である。とっくに退役した老人が、今も軍に対する強い影響力を維持していることを疎ましく思っているのだ。

ここは引いてやってもよい、と老人は考えた。最近とみに力を増している内務尚書と、敢えて事を構える必要性はない。

 

老人は又姪を宥め、借金のことは心配せぬよう言って帰した。

心情を発露するものは操りやすい。ときには不合理な心情を優先してやることも必要だ、と老人は思っている。

クラヴィウス家は老人の死んだ妻の実家である。投資に失敗してクラヴィウス家の今日の窮状の原因を作ったのは、妻の弟であった。そうした縁で、当代のクラヴィウス子爵の後見人となり、会計士を派遣して財務を管理させてきた。又姪を嫁にやったのとて、老人がクラヴィウス家から手を引かぬことを示し、他の債権者たちを安心させるためである。

クラヴィウス子爵は「破産すればいい」などと簡単に考えているようだが、そうはいかぬ。財産上の痛手も大きいが、何より老人の名誉が傷つくことになる。その損害は愚かな又姪の作った借金の比ではない。

とはいえ、クラヴィウスをただで助けてやるのは癪であった。これまでの迷惑料と合わせて、少々灸をすえてやらねばなるまい。

老人は執事に命じて、最新の名刺ファイルを持ってこさせた。この1月、新年を祝うパーティーのためこの館に集った者、いわば彼の追従者たちの名刺である。

ゆっくりと名刺を繰るしわがれた手が止まった。

『帝国軍中佐 オーベルシュタイン子爵』

いつの間にか膝に戻ってきた猫が、老人を見上げてにゃあと鳴いた。

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